哲学の意義の一つの側面は、「当たり前」過ぎて見えなくなったものを見ることにあると思います。空気はあって当たり前なので普段は気にもしていませんが、台風などで体が吹き飛ばされそうになった時、空気の存在に改めて気付くのです。重力もそうですね。
「どう生きるのが正しいか」「人生の意味とは」という問いに、「その答えを求める過程そのものが人生だ」と答えるのが現代風だと思います。昔は確固とした答えをああでもないこうでもないと議論していたのだと思います。「絶対的に正しいものはない」という考え方はごく最近の考え方で、これが構造主義と呼ばれるものだと思います。
「正しく考えるには」という問いに、誰よりも正確に答えられれば、それはとてつもない自信を与えてくれると思います。だって、100対1でも60億対1でも、自分の方が正しいのですから。騒音に対して逆位相の音をぶつけることで騒音を低減させようとする装置があり、高速道路の防音壁への採用が検討されています。自分の持っている偏見を知り、それを意識的に差し引くことで「正しく考える」ことができるのではないかと考えられます。世界を正しく捉えるとは、結局は自らの認知の仕方を知ることと同義ではないかと思います。
なぜ正しく考える必要があるのか。それはこの世界(身近な人間関係や社会情勢から自分自身のことまで全て)に対して効果的に働きかけるためです。正しい認識をしていないと、効果的に働きかけられないからです。心理学も脳科学も人類学も歴史学も、この点では共通の面があると思います。
もしも、もしも私たちがこの“世界”を“ありのまま”に捉えることができたとしましょう。一切の偏見を排除できたとしましょう。そうすると“世界”はどのように私たちの目に映るでしょうか。おそらく、ありのままの世界には“意味”がないでしょう。空気のように無色透明で、重力のように意識されないでしょう。
だったら、“世界をありのままに捉える”という企みは絵にかいた餅です。おそらく「真理」は、ロシア土産のマトリョーシカのような入れ子構造になっていて、真理に近づいたような気にはなるが、決して真理には到達し得ないのでしょう。
私たちは流されています。気付かないうちに、時代の潮流に流されています。人間ならば誰もが持っている「認知の仕方」に流されています。人物像において、暖かい⇔冷たい、やさしい⇔厳しい、細かい⇔おおざっぱ、という線分上で捉える二分法は、どうして三分法や四分法ではないのでしょう。それは、この現実世界には秩序があるからです。私に近い方からA地点、B地点、C地点があれば、A⇒B⇒Cの順に到達します。時間も昨日⇒今日⇒明日の順に流れます。もしも現実世界に時空の歪みが頻出するようなら、もしも人間の性格が激変する事態が頻出するなら、このような二分法で捉えはしないでしょう。
その認知の仕方が正しいかどうかは、世界に対して働きかけるに、効果的かどうかによって検証されるのだと思います。哲学の貢献は、その点にあると思います。
お礼
>哲学の意義の一つの側面は、「当たり前」過ぎて見えなくなったものを見ることにあると思います ”素人の意見は大事だ”に似てますね 要するに哲学そのもだけでの答えはなく、なにか見えなくなったものと抱き合わせで考えるものと思って良いのでしょうね 人間の利益を考えての哲学は、何か的を絞ってその中から見えないものを探し出し追求することで良いのでしょうか? ここで回答も一段落しているので、哲学があらゆる学問・芸術に貢献していることは分かりました。 しかし、宗教的な分野ではどのように役立っているのでしょうか? 人がどうあるべきかということで追求するのでしょうが、その材料となるのが物理や化学などと違い何かがあるという仮定(神など・・)の上でされることも哲学なのでしょうか? なんでもありでは哲学の価値がないようにも思えるのです 誰かこの質問で答えられる方がいましたらお願いします