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山岳信仰などについて
比叡山、鞍馬山に行ったのですが 鞍馬山では 「何か暗い印象で空気が違う。奥の院辺りから、さらに空気が変わる」 比叡山では 「山に入るまで何かいそうな怖い感じ。上ってからは怖いより 神聖な感じ。」 と感じたんですが、これはにどういう事なのでしょうか? 科学で説明はつくのでしょうか? ほかにも霊山に限らず名のない山を見たり車で通ったりしても 同じように何かいそうな怖い感じがします・・・
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感じ方、印象ですね。ただならぬ、という気配は当然充満していると存じます。 それを感じられない人は、相当軽薄な人かも知れませんよ。 私もかな?
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普段、自分の住んでいる所や環境とまったく違う場所に行くと さまざまな違和感にとらわれるものです。 誰でもそうだと思います。 場の雰囲気というか空気というか 確かに目に見えない気配というものはあります。 でも、あまり神経質にならない方がいいと思います。 聖地とか霊山とかいう場所は 行く前からスピリチュアルな先入観をもってしまうものです。 半ば暗示にかかりながら見ているのかもしれませんね。 なにかいそうな感じというのは ほとんどは自分の心が創り出した幻のようなものではないでしょうか。 私も似たような怖い体験がありましたが 実際には何も出てきませんでした。 ただ、信仰の対象となっている場所とかには 沢山の人達の純粋な祈りが込められていると思いますので 礼儀というか、汚すことの無いようにしたいとも思っています。 あまり目に見えないものの存在を考えないほうが良いと思います 魑魅魍魎の世界のことは魑魅魍魎にまかせておいてはいかがですか? もし実際にかかわってきたら別ですが・・・ 万に一つもあるかないかの事だと思いますので心配後無用と思います。 もっとゆったりとした心で 自然の美しさとか、清らかさとか 或いは祈りの尊さとかを感じる・・ そんな感覚で山を見たり、登ってみてはいかがですか。
- kigurumi
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古代、山には神が住んでいると考えられていました。 例えばモーセもアブラハムも山に登って予言を受けているとされ、南は神殿を建ててそこを神の家としましたが、北は山を神の家と捉えていた。 日本も富士山を神の住まいと考えていた時代があったし、山に最初に取れた作物を奉納していた。 そのうち山の麓に祠をたて、そこに供え物をするようになり、やがて、山の麓に神社を建てて神社に奉納することで、山の神に捧げたということにしだした。 山は天候が変りやすく、一瞬にして気温が激変するので、ぞっとしたり、冷気を突然感じたりするので、その変化を「何かいる」と捉えやすいのではないか と。 太陽は山の頂上から見えてくるし、山から春の訪れを告げる風が吹いてくるし。 科学的な説明というか、、、、物音がするがうっそうと茂っていては、音の正体がわからないし、なにか動いても、それが何か判明しずらいし。 森に入れば方向感覚を失いやすいし。 気候が激変したら、何かが作用したからと、神聖な場所にみだりに入ったからそうなったのだ と考えやすいのではないか と。 それに火山の噴火はすさまじいので、神の怒りと捉えやすいでしょうし。 山によって特徴が違うのも、大陸から寒気団がやってきて、山にぶつかりますよね。 かたは南方からの黒潮で暖められた空気も北上して山にぶつかる。 だから気候が変りやすい。 地形によっても違ってくる。 さっきまで晴れていたのに、一瞬にして霧で数歩先も見えなくなるというのも、風に含まれる水蒸気が寒気団に接触して冷やされてなると思えるので、まるで山が生き物のように思えてしまう。 そういった感じで、山によって印象が異なるのではないか と。 山は人間がはいりずらいので、逆にいろんなものが生存できていたりします。 平野を追われた動物も、人間があまり山に入ってこないことで、山になっている食べ物を食べられ、死なずに繁殖できたりする。 何かいそうだというのは、実際いるわけですが、そういう意味ではなく、何かいそうだと感じるのは、空気とかの変化を敏感に感じて、空気(温度差、気圧差、日差しの変化 などなど)を生き物のように感じるのではないかと。 古代 日本には縄文人が住んでいて、大陸から弥生人が入ってきて、縄文人をどんどん平地から山に追いやったそうなんですね。 大陸で戦闘の経験を積んだ弥生人の方が戦いにかけては強いので、どんどん縄文人を追い払った。 縄文人は山に追いやられたわけです。 木がたくさん生い茂っているので、そうそう縄文人は山に入っていかない。 平地の細い木は持っていた器具で切り倒して平地を開拓していったが、山の木は切り倒して開拓しなかった。 縄文人は木を切り倒す道具を持っていないが、生い茂った木にまぎれることで、生存しつづけた。 ところが山は日差しがそう当たらないので、食べ物は豊富ではない。 しいの木などの実は苦くてそのままでは食べられない。 だけど熱を加えることで、苦味が消える。 そうやって調理することで、生き延びたらしいです。 で、山に住むグループは言葉も違うし、格好も違うし、穴に住んでいるので、土蜘蛛とか呼ばれていた。 もののけ姫に登場する蜘蛛。 蜘蛛の形として描かれていますが、実は同じ人間。 追いやられた土蜘蛛 つまり どんどん追いやられていった民族の祟りというか反撃なわけです。 もののけ姫に登場する動物。全部実は人間。 何故山犬が村を襲うのか、何故もののけ姫が襲ってくるのか、人々は理解できない。 言葉が違うってのもあるでしょう。 山を開墾し、山の鉱物をみだりに搾取し、自然破壊を繰り返し、どんどん住む場所を追われてきたグループの生き残りのための戦いなわけです。 かたや鉄の武器で、かたや木や石の武器。 到底勝ち目は無いのですが、住む場所を追われたこれ以上引き下がれないぞとして、命をかけて住む場所を取り上げる人々へ反撃をくらわせているわけです。 で、山によく雨が降り、地下水が浸透圧で湧き上がり、人々が飲める水となり川を作っていくわけですが、その川を汚していたのがタタラバ。 地下資源を掘り起こし自然破壊をし、山に住む人々を追いやり、自然をも陵辱し、神 つまり自然をも支配下に置けると思っているのが、烏帽子 (あれ) エボシなわけで、、、、 で、神の首を取って封じようとし、、、、 って物語なわけです。 山(森)は再生を促すところでもありますが、その場所を汚すと、結局 しっぺがえしは人間にくるわけで、そういうことを古代の人は知っていたのか? まあ 春になると山から吹きおろす風が、何も無かった大地を緑にするので、山は神が住んでいて、山の麓に住む人を養っていると考えたので、取れた作物を山に奉納していたらしいです。 というわけで、山を神聖な場所と考えたようです。 しかもそう考えたのは日本だけではない。 偶然の一致かもしれませんが、、、 閻魔。サンスクリット語のyamaの音訳なのだそうです。
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こんにちは。 鞍馬山の語源は、老杉巨檜が生い茂り峻険で昼なお暗い「暗部(くらぶ)」からくるということです。 鞍馬天狗の伝説などがのこるのは、かつて修験道の山伏たちが 修行の場としていたところからくるのかもしれません。 比叡山もなかなかのミステリースポットです。 比叡山は平安京の東北にあり、鬼門封じのためにつくられました。 比叡山七不思議なる伝説もあります。 (1)麗人の水垢離(みずごり) (2)船坂の靄船(もやぶね) (3)南光坊のなすび婆 (4)総持坊の一つ目小僧 (5)一文字狸 (6)赤池(蛇ヶ池)の妖怪 (7)六道踊り 詳しくは下記サイトを参照してください。 http://homepage2.nifty.com/bu-ra-ri/heiankyoumakai.htm ですから、質問者様の感覚は大変正しい感じ方だと思います。 山とは大自然そのものであり、 その中で人間というのはちっぽけな存在なのだと感じるのは 万人に共通する感覚で それゆえ、神聖だとか、空気が変るとお感じになるのかも。 残念ながら私のセンサーはにぶいようで あまりそういったことは感じないのですが。 余談ですが 鞍馬山の本尊の尊天の一は毘沙門天ですね。 毘沙門天は北方守護の神であるとどうじに 金銀財宝を司る神でもありました。 http://www.geocities.jp/tgbqg409/BishamontenGod.htm また比叡山の七不思議に一つ目小僧の話がありますが 一つ目の神というのは製鉄にかかわる神です。 タタラ製鉄では片目をつぶって炎を見るために 片目を失明することが多かったのだそうです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9B%AE%E4%B8%80%E7%AE%87%E7%A5%9E そういうことから、鞍馬山も比叡山もかつて鉱山資源があり それを神格化して神仏を祀っているのではないかなどと 考えたりもします。
お礼
ありがとうございます。 色々参考になりました。
お礼
ありがとうございました