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あなたは すくわれていますか
質問としましては 題名とは少しちがって 次です。 ○ ひとは なぜ すくわれているのに すくわれているとは言わないか? へりくだり・遠慮・はにかみなどの事由は 別としてください。 民主主義の世界が 理論上 出来あがりました。 人びとは 世界宗教のいくつかや世界の哲学思想のあれそれに 造詣を深くして来ています。 それぞれ 人間と社会とについて 一家言を持つに到っています。 これだけ おのおのが 共生のちからの素を培って来ています。 ▲ (コリント前書4:7) ~~~~~~~~~~~~~~~ あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。 もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ でもありますから なぜ 救いを得たと言うのをためらうのでしょうか? この世間に生きるときには 何か そういうふつうの生活の確立を阻み また その確立を明らかに述べることが憚られるといった要素が 亡霊のごとく 飛び交っているのでしょうか? なぜ すなおでないのでしょう?
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No.55、59です。 > でも サルトルも > ○ アンガージュマン > ☆ を言っていますね。道具存在ではない自己投企のあり方を言っていますね。 > だから 誰が上だとか下だとかを言えるほど 通史的に見ることは出来ませんが > サルトルの実存主義が それほど 蓮っ葉なものだとも思えません。 どうでしょうか?現代の日本でも世界でも、サルトルを評価する声は、もはや無いと思います。 「理想」No.665「特集サルトル・今」では、 「1970年代に入ると、日本においてもサルトルの影響力は急速に後退する」「弁証法的理性批判の企てそのものに、何か根本的な問題があったからだと考えざるを獲ない」「実践的にも、五月革命後のサルトルの活動は専ら極左小集団へと傾斜して行く」(池上明哉) サルトルの投企そのものは、無動機の暗闇での飛躍にすぎない(伊吹浩一) フランスで「サルトルなど流行おくれという反応には慣れていて」(生方淳子) 「サルトルの現象学的存在論は現在あまり評判がよくない」「サルトルの言う自由は、徹底的な価値否定の上に成立つだけに、いかにも無内容であり、責任と表裏だと言われても、何に対する責任なのかが見えにくい」(片山洋之介) 第一線の研究者による、冒頭からの4論文がこの論調です。 > ★ だから「生活の苦難がない=救われている」のだが、『魂・精神の価値が見つからず、生きる意味が無い』ので、救われていると言わない。 / と考えたのです。 > ☆ このとき すなわち > ★ 『実存=魂=精神 の価値』を人々は追求する。 > ☆ わけですから > ○ ひとは すでに かつての《すくわれている》という表明に匹敵する内容としての《価値》を じつは 知っているというふうに捉えたのです。 この<価値>を、現実世界で体感できないのが、現代の課題だと私は考えています。 ハイデガー哲学そのものです。 > このとき あらかじめとしてでも > ○ 《われは 実存している》と 闡明するところから 踏み出していくとよいのはないでしょうか? > ☆ という問いなのです。そうすれば 人びとは 互いに 自由な批判をし合って 向上していくことができる。こう 思うわけです。 > そうしないと つまりは その程度までの公共的な表明をしていないと いつまでも 自己の内面に終始するようにおそれたものですから> 問いました。 > そういう意味では 社会的なコミットメントを意味するアンガージュマンは 自己に 逃れる余地を もう 作らないわけですから 前向きの姿勢であるように考えます。どうでしょう この<実存><アンガージュマン>は、サルトルそのままで、 片山氏の「無内容であり、責任と表裏だと言われても、何に対する責任なのかが見えにくい」との批判に耐えられない、と考えます。
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オコリザルです。 そもそも責任と尊厳ある自己に対して何者が救うなどという過分なはからいをするのか? 大半の人が信仰を表ざたにしても恥じないからには、そのようなはからいがいずこからかまいこむでしょうが、それは神聖な存在の望みなのか、それとも自らの望みなのか、はからいとして受け取るならそれは従うことではないでしょう。ならば救われる事を受けとるのは神の存在を受け入れることですね。その神に要求を突きつけるとりすがりは実際に信仰に隠れて横行しています。 また、正気の人間なら人を救うなど及びもつきません。 私には救われたいという望みはありませんので、救われたが、がわからないんです。交錯する欲望がそのような閉塞を招いています。 ただエスパー化または新人類化した自分自身をもてあましています。
お礼
primeapeさん ご回答をありがとうございます。 まづ あらためて 問いは 次です。 ☆ (No.3お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 単純に考えてください。《すくわれているか 否か》 二つに一つ という選択です。理屈無しで そういう問いかけです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これだけです。 ところが 今回は 次のような事情を表明されました。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 私には救われたいという望みはありませんので、救われたが、がわからないんです。交錯する欲望がそのような閉塞を招いています。 ただエスパー化または新人類化した自分自身をもてあましています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《すくわれている》かどうかは 関係ないというところでしょうか。ただし この《〈すくわれている〉かどうかは 関係ない》というのは ★ 交錯する欲望がそのような閉塞を招いています。 ☆ ということでしたら 《関係するようになる可能性が ある》ということでしょうか。それとも ★ ただエスパー化または新人類化した自分自身をもてあましています。 ☆ ということで やはり 可能性も 見えないのでしょうか。 今回は だからどうしようというのではないですから 分かりました。そのように受け取りましたというお応えまでになります。どうでしょう。
- maimaisus
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maimai.susです。 >思う場合には たぶん そう(=すくわれていると)は言わないと一般に思われるのですが それはなぜですかという問いです。 一般的にはこんなところだと思いますよ。 (1) 単に気付かない。 (2) 救われたいと思っていない。(苦しんだり、助けを求めたりしていない) 個人的には(2)ですかね。本当の意味での強さは欲しいと思いますが。何かに救われたいとは思っていません。 「本当の意味で人の心を救うことが出来るのは自分自身だけ。」 ですから。 弱さは、ある意味「悪」の元です。brageloneさん流に言えば維持向上が善であるなら、それが弱いゆえに出来ない事があるからです。
お礼
maimaisusさん ご回答をありがとうございます。 分かったように思いますが まだ分からない部分があるようにも思います。 まづ ★ (1) 単に気付かない。 ☆ は 捨ててください。そういう場合もあるでしょうが もし《救い》という言葉だけでも聞いたなら 《自分は救われているか》という自問自答は すると思われます。 ★ (2) 救われたいと思っていない。(苦しんだり、助けを求めたりしていない) ☆ これも (1)のいわば変形だと思われ そういう場合もあるとすれば それは捨ててもらって あと 何らかのかたちで 自問自答したときの答えをおしえていただきたいと考えます。 それは ことさら 違ったことを言おうとしているのではなく ★ 「本当の意味で人の心を救うことが出来るのは自分自身だけ。」ですから。 ☆ というのであれば やはり《救い》には すでに 関係しているはづです。その意味は おそらく こうであろうと思われます。つまり誰が救おうと 誰によって何によって救われようと 自分が救われているかどうかは ほんとうのところは 自分がいちばんよく知っている。ただ それを ひとに言うか言わないかは 別である。こうなのではないですか? それなら それで 仕方がないわけです。 問題は いづれにしても すでに宣言してもいいところを 何かに遠慮して 言うことを控えるというのであれば それは おかしい。そのような事態だけは 避けたい。というだけのことなのです。 ですから まとめるなら (あ) すくわれているにしろ いないにしろ よく分からなかったり 自覚し得なかったりするのは なぜか。 (い) 自己分析や自覚ができたなら 宣言すればいいのではないか。しない理由はないはづだ。 ☆ こういったことを 問うています。あらためて どうでしょうか。
私がまさしくそうなんですが、悲観的な見方をしているのかもしれませんね。それで救われているとは感じない。 高校のときに倫理をやって、確か欲求には順番がありその順に求めると言う説をやりましたっけ。 最初は生存、最後は名誉だっけ。 それを見て、人はずっと何かしら求めて、何かについて思い悩む運命なんだなと思いました。 何かが解決しても、目を向けるべき問題や心配事は他にいろいろあるわけです。 救われていないと口で言っている時点で、第一の生存欲は満たせているとも言えるんですけどね。 人それぞれ思い悩むことは当然なので、誰かのせいのようには言わないけど。 また。 100の努力をした。希望は90近くだったが手に入ったのは5だった。 これを5しか手に入らなかったと考えるか、5の結果が現れたと考えるかでも、世の中の見え方が変わってくるかと思います。
お礼
engekiさん ご回答をありがとうございます。 初めのほうの 欲求の段階説 これは たしか 自己実現にまで到るなどなどの順番づけでしたね。 全体として捉えるだとか あるいは ものごとは最後から始めるだとか そういう見方も ほかに あるには あるのですがね。 ★ 悲観的な見方 ☆ に傾きがちということのようですね。たしかに その側面は つねにと言っていいほど ありますし 一時期には 日本人は つねに 自身が どう見られているかが気になり いつでも 自身の粗(あら)を自分から探している民族だとも言われていました。まだ だめか これでも だめだろうかと つねに 悲観のほうに回るというようなことでした。 でも 最後のところで どんでん返しに近い見方も 出しておられますね。そうして 少しは 楽観のほうに 振り子を戻しても まだ 中庸のあたりであるかも知れません。ですから すくわれていると宣言して進んでも いいように思えるのですが どうなんでしょうかねぇ。 ありがとうございました。
- maimaisus
- ベストアンサー率8% (6/75)
maimai.susです。 >○ ひとは なぜ すくわれているのに すくわれているとは言わないか? と言うのが質問ですよね。って事はー(すくわれているとは言わない人)の話ですよね。ですから、分かりやすく言うと、 そう思っていないから。 って言いたかった、訳ですね。 正直、質問での内容では「救われている理由」になりえるとは思えないのですが・・・・。 そもそも、何に、救われているんですか?
お礼
maimaisusさん ご回答をありがとうございます。 ★ 正直、質問での内容では「救われている理由」になりえるとは思えないので〔・・・〕 ★ そう(* つまりは すくわれていると)思っていないから。 / って言いたかった、訳ですね。 ☆ つまりは ○ すくわれていない。 ☆ というお答えでしょうか。それなら それで かまいません。そういうお答えも お受けします。 それでも 次のようにも 問い返してもらっています。 ★ そもそも、何に、救われているんですか? ☆ 何にでも かまいません。自分が すくわれていると思うか思わないかです。 思う場合には たぶん そう(=すくわれていると)は言わないと一般に思われるのですが それはなぜですかという問いです。
おはようございます。 何故か目覚めてしまって、こんな事を。。。汗 自分の質問への返信が遅れていながらの回答はマナー違反と自覚しておりますが、お許し下さい。 >ひとは なぜ すくわれているのに すくわれているとは言わないか? >なぜ 救いを得たと言うのをためらうのでしょうか? 私の勝手な考えとしては、 1)「貨幣経済の目くらまし」 2)「勝ち取る(獲る)」事に対する過度の価値の偏り かなあ。。。と。 (bragelone様の深いお考えには及ばずながら、私も同じ事を疑問に持った事がありまして、今の所、このような仮説になっております。) 1)貨幣経済の目くらまし 常に何か(この場合は貨幣)を「媒介する」事に慣れ、「何かを媒介しないやり取り/行為』に「気付き難くなって」いる。 元々(古代/原始)は、モノも心も「直接のやり取り」だった筈なのに、貨幣経済が生まれ、根付き、身に沁みてしまった現代、「物事は必ず何かを媒介する」と「思い込んでしまっている」事による目くらまし。 或は、常に貨幣と言う「逆方向への流れ」を具体的に目にする事に慣れてしまった事による目くらまし。 物事(心を含む)のやり取りは常に「逆方向への流れを伴う」。 この「逆方向への流れ」とは、経済としては「貨幣」だが、元々は「感謝そのもの」であった筈。 目に見える貨幣と言うモノにくらまされて、目に見えない「感謝(心)」を見る力が弱まっている。 2)「勝ち取る(獲る)」事に対する過度の価値の偏り 競争社会となって久しく(本当かな?)、そのように「意識/理論化」されてしばらく経ち(アダム・スミス辺りから、でしょうか?)、「己の能力に依って勝ち取る」事が意識の主流となってしまった。 本来、同等に価値ある行為と思われる「与えられる」事が、競争社会に於いては無償の行為(そんな筈は無いのだけれど)/気まぐれ行為と過度に軽視される状況にある。 これには、1)の「貨幣経済の目くらまし」も一役買ってしまっていると思われる。 寝惚けた頭のままでの回答となり、言葉足らずの箇所が多いと思いますが、昼間は投稿出来そうに無かったので前倒しになりました。 「穴」のご指摘、お願いします!
お礼
お詫びしつつ 訂正いたします。 ★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 1)「貨幣経済の目くらまし」 2)「勝ち取る(獲る)」事に対する過度の価値の偏り ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このご回答は たしかに 現代社会における一人ひとりの人間の心のあり方が どのように傾いているのかを分析するという微分による手法に感じられますが だからと言って その分析だけを回答内容としているわけではなく そうではなく すでに ★ 目くらまし ☆ と指摘しているからには ○ 自覚の問題 ☆ にも じゅうぶん 触れておられます。花や実だけではなく 幹も根も すべて木の全体を捉えておられます。すなわち それこそ 心の持ちようで すでに すくわれているというその生の享受を ただちに 持ち得るとその分析の先を見据えておられます。 あぁ やっちゃいました。守勢になったからでしょうか そう思ったところからでしょうか。こんな片寄った見方をしてしまいました。 もっと言えば 先の者とあとの者との関係として 眺めてしまっていたからでしょうか。何か恰好をつけて 鼓舞するというような姿勢を持ってしまっていたのでしょうか。 まちがいを侵しました。歳はとりたくないものですね とは言わずに またさらに 若返ります。ので このあやまちを どうか おゆるしくださいませ。お詫び申し上げます。 詫び続けております。どうか ありのままを捉えて その欠陥を憎んでください。徹底的に憎んでください。精進してまいります。
補足
yukkinn66さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 このご投稿をもって yukkinn66さんも この哲学範疇でのご常連になられたのではないでしょうか。もちろん 外れても・外してもいいわけですが 本源的蓄積がお有りのようですね。 ○ 商品化からさらに物象化という社会現象 ○ それと 思考こそが自己の存在であるという信念(?)。もしくは 知は力なり(ベーコンだったか誰だったか)。 ☆ という事態が優勢であるという解釈に わたしの中では なります。 これは 微分であると まづ 直感(感のほうです)しました。その意味は 積分だかどうだか分かりませんが その反面では パスカルではないでしょうが 《賭け》という契機も あるだろうと――つまりは 理屈抜きに えいやっと どちらかに決める判断も あるだろうと――は思いました。 その昔 隣り村から 長老の使いがやって来て 獲物なり勾玉なりを贈り物として 持って来た。感謝の心をもって 受け取り しかも 自尊心からか こちらも それ相応のもの(というより さらにとうといと思われるもの)を 贈り返して 使いを帰らせた。 隣り村の長は 共存共栄を願い 心を込めて 贈り物をしたはづのところ ★ 「逆方向への流れ」 ☆ が かなしいかな すでに 始まっていた。平等・対等という心は 現実に 根づかないのかというところです。 その昔 村の内では 獲物なり もしすでに農耕を始めていたのなら 作物を――いわゆる初穂を―― かみにまつり かみとともに 村人たちは 共食することをとおして 〔けんかをしつつの〕安寧のもとに共生していた。 おそらく 生産力の格差は まだ 祭りの共生のもとに 分かち合われていたのであろう。 やがて 隣りの村が気になる。同じ村の人間であるなら 《わたし》たちは まだ 総体としての村の《わたしたち》の中のそれぞれ《わたし》であった。ところが 隣り村やその人間のことを考えると ひとりの個としてのわたしに 目覚めた人間が出たかも知れない。 この《ひとり》としての己れの存在への目ざめが 贈り物を受けて 心から感謝すると同時に それを上回るようなお返しをする心をも 芽生えさせた。 やがて――端折りますが―― この《わたし》は 村々をたばねて 平面的なムラの《まつり(神との共食をとおしての共同自治)》から 構造的な二階建ての家のようなその第二階から 垂直的に 《まつりごと(政治)》をおこなうという社会と世界を作り出し作り上げた。 ○ 贈り物あるいは 互いに融通を図るモノのやり取りから やがて 貨幣経済へと突入した。 ○ 《わたし》は 経験合理性を使いこなすだけではなく その合理性にもとづく妥当な思惟によって作り上げた観念の城を 自己自身だと思うようになった。 ○ 性も 〔占いやスピリチュアルにおいて〕幸福も不幸も 人びとが 貨幣を媒介として交通するという形態において 商品と化しただけではなく その貨幣媒介ないし商品化という事態に馴れて ★ 「物事は必ず何かを媒介する」と「思い込んでしまっている」 ☆ なる物象化が 起こった。心も愛も性も モノをやり取りする現象と同じ次元の同じ事態であると「思い込んでしまっている」。地獄の沙汰も何とかで 媒介物として先立つものがないのではなぁということのようです。媒介物をとおしてでなければ こころの通わせが出来なくなるだけではなく こころ自体が モノの現象と化す(!?)。 《わたし》の合理的経済人化(その理性の神格化) および 心のモノ化 これらの分析を わざわざ 微分のようだと感じたそのわけは どうでしょう。この現象を ★ 目くらまし ☆ だと ひとは ただちに分かる精神ないし心を持ち合わせているからでしょうか。その意味では――何か 貴重な成果に 不当なけちをつけているという声を聞いているのですが―― No.2のri-zyuさんの ● 自覚の有無 ☆ の問題と呼応すると思われます。むろん この微分が 哲学の花であり実であります。つまりその点では ri-zyuさんにはわるいですが ブッディスムには信用しがたい側面があるように思っております。不立文字は ただ 心の中だけで 持っていて欲しいと思うものです。 考えてみれば ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 1)「貨幣経済の目くらまし」 2)「勝ち取る(獲る)」事に対する過度の価値の偏り ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これら二つの主題は それだけで 大論文を必要とするほどの内容になるかと思います。 分かったように言っているわたしですが このあとの展開は 若い方々に押しつけたいと思うのですが いかがでしょう。
いつもお世話になります。 primeapeことポケモンのオコリザルです。 自らはすくわれているにも等しくありながら、人間としての尊厳ある他者が未だそのように悟り?(このくらいくだらないんです)得ていないのなら、ただ待ちます。他者を認めるなら救うとは及びも付きません。 内面においてはこの待つ姿勢に葛藤なり迷いなりが生じます。 このような煩悩は(自覚があるならば)未だ迷う他者が悟りえるために益のあることですが、所詮は同じ煩悩です。 そのような堂々巡りを繰り返しながら、成仏を望まない心の前に「死」によって崩れていくより無かった本来の心があります。 繰り返してきた心の深層の歴史はそんなところです。 それでも前進はしているでしょう。 何を持って救われているとするかも見解が色々あるでしょう。 わたしはあたまを真っ白に出来ることを自慢していますが、これは気分転換的な特技でしかなく、そんな奇人変人大集合を紹介しているのは、それだけで救われえること、又は悟りえることの証明と解釈するアホウが多いモンで煙に巻いているだけです。その代わり余計な説明が要らなくなるモンで一時そんな楽チンをしていました。
お礼
primeapeさん 仕切り直して ご回答をありがとうございます。 ★ 自らはすくわれているにも等しくありながら、人間としての尊厳ある他者が未だそのように悟り?(このくらいくだらないんです)得ていないのなら、ただ待ちます。他者を認めるなら救うとは及びも付きません。 ☆ もし 他者に はたらきかけることを言っておられるのであれば この質問は 別です。 まづ 自己のことです。言いかえると ほかの人びとにもかかわるのですが その人びとの状態について 自己は どう捉えているか。この問いです。はたらきかけは そのあとのことです。 ★ 〔悟りを待つ姿勢で 堂々めぐりを繰り返しながら〕 成仏を望まない心の前に「死」によって崩れていくより無かった本来の心があります。 ☆ この意味が取れません。単純に 死が 結論となってしまった。つまり 何も結論は出なかった。という意味なのでしょうか。まぁ ★ それでも 前進はしているでしょう。 ☆ ということで よかったと言えば よかったのですが。 ★ 何を持って救われているとするかも見解が色々あるでしょう。 ☆ これはですね 単純に考えてください。《すくわれているか 否か》 二つに一つ という選択です。理屈無しで そういう問いかけです。どうでしょうか。
- ri-zyu
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自覚を得てないからではないでしょうか。 前もお話ししまたか、雲門禅師と言う人が法話の折、聴衆に向かってあなた方は全て備わっている、何も足りぬものは無い。 聴衆は自覚を得てない、雲門は自覚を得ている。
お礼
ri-zyuさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 あぁ ★ 自覚 ☆ の問題ですか。えぇっ? ぢゃあ そうだとすれば ○ 自覚の有無を別とすることができるなら みな すくわれている。 ☆ というご回答になるぢゃないですか。そうですよね? あとは どうなんでしょう? ひとから言われて はい 自覚しましたとも言えないというところでしょうか? ここの回答を見ても 自信をもって 述べていらっしゃいますよね。みなさん。ならば そういうとき 質問の性格によっては わたしはすくわれていると(――つまり または そういう意味合いのことを――) ひとこと 添えておけば その回答が 全体として 完結するように思われる場合というのは けっこう 多いように思うのです。自覚を そういう場合には 半分している つまり 半分しか 自覚していない のでしょうか? きちんと 表現しよう運動をするとよいと思うのですが? 質問者も 補足要求などで さらに一段と突っ込んで 話を進めることができるのではないでしょうか? 日本人も そのようにしても 何も恥ずかしくないだろうし むしろ そうすべきようにも思うのですが? 何か それを憚られるという要因などありますでしょうか? 世間の何となくといった空気なのでしょうか? 積極性への運動は どうでしょう。
- maimaisus
- ベストアンサー率8% (6/75)
どーも、何時もお世話になってます、maimai.susです。 そこは、本人がそう思えなければ、いくら恵まれた環境に、有っても、救われたとは思えないのは仕方ないことだと思いますよ。 どんな環境にいても、それなりの苦労や悩みが付き物ですしね。 ま、良く捉えれば、前向き、悪く捉えれば、悪い意味でのわがままとも受け取れるね。 同じ事していても、気持ちが違えば、よくも悪くもなるし。 そう言えば昔、学校の先生が、 「本当の意味で人の心を救うことが出来るのは自分自身だけだ。」 って言っていたなー。その時、「たまには、ええこと言うなー」と思った記憶があります。 心の話なんで、何とも言えない部分がありますが。これ、生活的、肉体的部分の話となるとまた、話は違ってくるかもね。
お礼
maimaisusさん こんばんは。仕切り直しで ご回答をありがとうございます。 そうですね。煮え切らない と言っちゃ いけないでしょうけれど つまり そういうほど 実際には 複雑な問題があると言わねばならないでしょうけれど えいやっと どちらかに決まりませんか? 賭け といっては また まずいでしょうが もしすくわれていないなら そう はっきり 言うことはできませんか? つまりは すくわれている。ただし まだまだ 細かいところでは 調整中である。とか あるいは すくわれていない。もう少しだが 残念ながら まだなんです。とか。 どちらかに まづは 決めて そのあと 条件づけが付属していても構わないのですけれど。 この側面では こちら あの側面では あちらと言うんぢゃ なんとも お応えのしようがなくなります。 そうですか。特に 何かに遠慮して 言うのを控えているというのではないのですね。ぢゃあ 仕方ないですね。 わかりました。それでは。
補足
easy_allさん ご回答をありがとうございます。 あぁ そうですか。そうなんですか。サルトルのことですが。 実存主義も サルトルも 間接的にハイデガーも 論じようと思って触れたわけではありませんし そこまでの定まった評価を わたしは 持っているわけでもないのです。弱りましたね。 専門の方に 飛び入りでもしていただいて さらに第三者からの判定を加えられれば よいかとも思いますが どうしましょう。 紹介されているサルトル評について できる範囲で 感想を述べておくべきでしょうね。 ▲ 「サルトルの言う自由は、徹底的な価値否定の上に成立つだけに、いかにも無内容であり、責任と表裏だと言われても、何に対する責任なのかが見えにくい」(片山洋之介) ☆ これは 素人目にも おかしいと言ってよいのではないでしょうか。 ▲ サルトルの言う自由は 徹底的な価値否定の上に成立つ ☆ でしたら なおさら 哲学の原点であるように思いますが。たしかに 原点というのは いわば無味乾燥であり ▲ 無内容であり ☆ と言われても 仕方がないところですが それを言って 批判したというのでは 《論評》という文字じたいが 泣きます。 ▲ 責任と表裏だと言われても、何に対する責任なのかが見えにくい ☆ 《見えにくい》ことと 《自由と表裏となった責任がない》こととは 別です。こんな評論を いまどきの学者は しているのですか。これは おどろきです。むろん その後の追跡をわたしがしていなかったことの証明になるのですが それにしても 日本の哲学思想は いったい どこへ行ったのでしょう。 と口をすっぱくして 愚痴りたくなりますね。(間接的に easy_allさんを 批判したことになってしまいましたが)。 ★ この<価値>を、現実世界で体感できないのが、現代の課題だと私は考えています。 ☆ 《体感できないけれども この〈価値〉を問い求めている(――あるいは 〈すくい〉を求めている――)なら そこには すでに すくわれている姿がある》と わたしは 言っています。なぜなら 《問い求めている》のなら 《すでに――言ってみれば 知識や見識としてではなくても いわば魂においては――知っている》と言えるからです。人格の問題としては そこまでの境地を すでに 潜在的にでも 知っていると思われるからです。知っているからこそ そのさとりや すくいを問い求めると言うべきだからです。知らないものについて 《価値》とは言わないでしょう。 もし どうしても求めても得られないということでしたら そのかたちのない希望において 求める者は すくわれている。と言うべきでしょう。そこから 新たな出発ができるでしょうし 新たな局面が開かれるかも知れません。そういうものです。 ☆☆ 社会的なコミットメントを意味するアンガージュマンは 自己に 逃れる余地を もう 作らないわけですから 前向きの姿勢であるように考えます。どうでしょう ☆ 少々 しつこいですが このように 公共の場で 社会にかんする発言をおこなうならば とうぜん 文章責任が生じます。その答責性を果たすべく 努力するのは ふつうの姿です。――という受け取りが ふつうの批評なのではないですか。 振り子が もう一方の極に振り切るかのような批判をするとは 初めっから 何も理解していなかったことの証明ですよ。 けっきょくのところ easy_allさんのご回答にも けちをつけてしまったようですが これは ごくごくふつうの ごくごく率直な反応になるのだと思いますが どうでしょう。