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あなたは すくわれていますか
質問としましては 題名とは少しちがって 次です。 ○ ひとは なぜ すくわれているのに すくわれているとは言わないか? へりくだり・遠慮・はにかみなどの事由は 別としてください。 民主主義の世界が 理論上 出来あがりました。 人びとは 世界宗教のいくつかや世界の哲学思想のあれそれに 造詣を深くして来ています。 それぞれ 人間と社会とについて 一家言を持つに到っています。 これだけ おのおのが 共生のちからの素を培って来ています。 ▲ (コリント前書4:7) ~~~~~~~~~~~~~~~ あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。 もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ でもありますから なぜ 救いを得たと言うのをためらうのでしょうか? この世間に生きるときには 何か そういうふつうの生活の確立を阻み また その確立を明らかに述べることが憚られるといった要素が 亡霊のごとく 飛び交っているのでしょうか? なぜ すなおでないのでしょう?
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No.55、59です。 > でも サルトルも > ○ アンガージュマン > ☆ を言っていますね。道具存在ではない自己投企のあり方を言っていますね。 > だから 誰が上だとか下だとかを言えるほど 通史的に見ることは出来ませんが > サルトルの実存主義が それほど 蓮っ葉なものだとも思えません。 どうでしょうか?現代の日本でも世界でも、サルトルを評価する声は、もはや無いと思います。 「理想」No.665「特集サルトル・今」では、 「1970年代に入ると、日本においてもサルトルの影響力は急速に後退する」「弁証法的理性批判の企てそのものに、何か根本的な問題があったからだと考えざるを獲ない」「実践的にも、五月革命後のサルトルの活動は専ら極左小集団へと傾斜して行く」(池上明哉) サルトルの投企そのものは、無動機の暗闇での飛躍にすぎない(伊吹浩一) フランスで「サルトルなど流行おくれという反応には慣れていて」(生方淳子) 「サルトルの現象学的存在論は現在あまり評判がよくない」「サルトルの言う自由は、徹底的な価値否定の上に成立つだけに、いかにも無内容であり、責任と表裏だと言われても、何に対する責任なのかが見えにくい」(片山洋之介) 第一線の研究者による、冒頭からの4論文がこの論調です。 > ★ だから「生活の苦難がない=救われている」のだが、『魂・精神の価値が見つからず、生きる意味が無い』ので、救われていると言わない。 / と考えたのです。 > ☆ このとき すなわち > ★ 『実存=魂=精神 の価値』を人々は追求する。 > ☆ わけですから > ○ ひとは すでに かつての《すくわれている》という表明に匹敵する内容としての《価値》を じつは 知っているというふうに捉えたのです。 この<価値>を、現実世界で体感できないのが、現代の課題だと私は考えています。 ハイデガー哲学そのものです。 > このとき あらかじめとしてでも > ○ 《われは 実存している》と 闡明するところから 踏み出していくとよいのはないでしょうか? > ☆ という問いなのです。そうすれば 人びとは 互いに 自由な批判をし合って 向上していくことができる。こう 思うわけです。 > そうしないと つまりは その程度までの公共的な表明をしていないと いつまでも 自己の内面に終始するようにおそれたものですから> 問いました。 > そういう意味では 社会的なコミットメントを意味するアンガージュマンは 自己に 逃れる余地を もう 作らないわけですから 前向きの姿勢であるように考えます。どうでしょう この<実存><アンガージュマン>は、サルトルそのままで、 片山氏の「無内容であり、責任と表裏だと言われても、何に対する責任なのかが見えにくい」との批判に耐えられない、と考えます。
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- maimaisus
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maimai.susです。 >☆ 理解できていないとすれば そのようです。と言いますか これを理解せよというそのものについては まだ 示してもらっていないと思っているのですが どうでしょう? 今までの回答の中に、答えはあります、そう言った質問が出ること自体が、理解といいますか、認識すらしていない証拠ではないでしょうか。 >☆ ということは わたしの言っていることが 少数意見だが 《正しい》とおっしゃってくれているのでしょうか? んーっと言うか、これに関しては、正誤は別として結果によると思います。良い方に進めば、人は善と思うでしょうし、悪い方に進めば、悪と思うでしょう。ここだけの話で終わるのなら、まあ、ここだけの話という事です。 私的には、多くある正論の中の一つ、と言ったところですか。 > じゃあ これから 賛同を多く得て行けばいいわけですね。 そう言う事ですね。 その為には、今のままでは、大変なので、回答させて頂いている訳です。 今のままだと、ただのい炉端会議しかならですよ。
お礼
maimaisusさん ご回答をありがとうございます。 ですが どうも 堂々めぐりのようですね。 もともと ★ ただのい炉端会議 ☆ ですから どうお応えしてよいやら 何もないのです。 ★ 今までの回答の中に、答えはあります、そう言った質問が出ること自体が、理解といいますか、認識すらしていない証拠ではないでしょうか。 ☆ そうなんですか。弱りましたね。もう根気が続きません。お手上げです。すみません。
25です。そうですか。回答した件にbrageloneさんは関わりがおありでしたか。 知らない人を知らないと言っただけでしたから、やりとりはしていませんよ。 それに、あそこで煩わされる当人はわたしではないのです。 不名誉な勲章を捨てるほど持っているといえば言わずと知れたわが友人のことですが、 もう少しましな女を惚れさせろい、、、と悪態をついておきます。 それはさておき、お話の前半はよくわかります。 蘇生談のURLも面白く拝見しました。ありがとうございます。 マルタのくだりは、わたしが自家薬籠で話すのと同様にbrageloneさんの自家薬籠であります。 「復活する、生きる、死なない」に関して、経験を超越した願いとは、うーん、そうでしょうか。難しい。そうかもしれません。 ただ、経験については、考えを切り離したほうがよいと思われます。 ここで大切なのは、願いとその成就が、信において発動するということの意味でしょう。それはbrageloneさんにも異存のないところと受け止めます。 願いには種類があるとおっしゃりたいのもわかります。exaucementは相互の絆であって祈願ではないですからね。 わたしたちはそれと意識することなく、自分と結ぶ諸関係に願いがあり信があります。またその拒否があります。 母の乳房でも、葉っぱ一枚でも、イエス・キリストでも、抽象的な物語でも、つまり諸関係の対岸が身近であろうと身近でなかろうと、 それを客体化できるかどうかが、自分を自分と受け入れる力のバランスとなります。 こちらひとりの、一方のはたらきかけでは、それは成り得ないのです。 母の乳房がまごうかたなき母の乳房であることに住処を得て、わたしをそこに住まわせるから、わたしという者が成り立ちます。 葉っぱが葉っぱである住処を得て、なおわたしをそこに住まわせるから、わたしという者が成り立ちます。 信仰のある人は、神をいったん外へ見出す必要、神を客体化する必要があります。そのようにまず自分の領土を耕し、 信をおいた対象の住処とし、そこに拠って存在する自分であることを徹底的に意識するのが信仰の徒であるとわたしは思うのです。 exaucementの発動のうちにに捉えがたい力がある、これを愛と呼んでみる、という姿勢がわたしの先の投稿にあったわけですが、そのような愛とはどういうものか。 以上のようなバランスを作り出す力であるということで、要望にお答えできたかどうかわかりませんが。 これ以上時間を割くことができません。そろそろ体力も限界のようです。あとは皆様に。
補足
amaguappaさん ご回答をありがとうございます。 ★ 不名誉な勲章を捨てるほど持っているといえば言わずと知れたわが友人のこと ☆ と言われれば その方のことが気になりますが ★ そろそろ体力も限界のようです。 ☆ とおっしゃっているさまを見れば また ここにも 気になることが増えます。まづは ★ これ以上時間を割くことができません。 ☆ と文字通りに 解釈しまして お応えにすすみます。 ★☆ 経験を超越した願い ☆ この問題をも措いておいてよいとしますと 次のご文章が 最大の山場であります。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 信仰のある人は、神をいったん外へ見出す必要、神を客体化する必要があります。そのようにまず自分の領土を耕し、 信をおいた対象の住処とし、そこに拠って存在する自分であることを徹底的に意識するのが信仰の徒であるとわたしは思うのです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ おそらく (あ) 生きていることそのもの (い) そこにおける そこからの あたかも自然のままの自己表現 (う) 概念を駆使しての説明表現を これらに与えること (え) ここで しかも 問題は 一般に非思考と言われる信仰に関しての心の現実に その表現が かかわっていることである。 ☆ ご文章は まづ (う)の範疇に属します。しかも (あ)の実態を おそらく そのまま表わそうという勢いのものです。 これに対するわたしの今の結論は みなさんの評言を待ちたいというものです。なぜなら (1) わたしの中では いかんせん 悲しいかな 特には 何もないのです。何も起こっていません。起こそうとしてもいません。 (2) (え)の非思考なる信仰にかんしては それが《何でないか》を明らかにし得ても 《何であるか》は なかなか 明らかにし難い。こう思うからです。 (3) わたしも たしかに 神について それは 無神論の《無神》と 同等で対等のものであると捉えることを たとえば しています。そのとき 指摘されたような内的作業をおこなっているかも知れません。ほかにも 行なっているかも知れないですし あるいは 何も行なっていないのかも知れません。 ということは ここで わたしの消極的な結論になるのですが 神ないし信仰について 言葉で表現したもの それが すべてであるというものです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ わたしたちはそれと意識することなく、自分と結ぶ諸関係に願いがあり信があります。またその拒否があります。 母の乳房でも、葉っぱ一枚でも、イエス・キリストでも、抽象的な物語でも、つまり諸関係の対岸が身近であろうと身近でなかろうと、 それを客体化できるかどうかが、自分を自分と受け入れる力のバランスとなります。 こちらひとりの、一方のはたらきかけでは、それは成り得ないのです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ たとえば このように文章として表わした言葉 ここに――消極的にですが―― 信仰のすべてがあると見る立ち場です。 すなわち (4) 繰り返しになるのですが 信仰は 非思考です。ですから その内面における内容の言葉による外化=表現は 内容じたいの問題として扱うよりも それじたいが 信仰なのだと見なし合って 対話をすすめていけばよい。こう――消極的に ということは 逃げの手になるようですが―― 考えます。 このあたりまででしょうか。なかなか むつかしいです。 考えるのに むつかしいと感じる場合には 故意にむつかしくしていませんかなどと 相手に 勝手な言い分をぶつけるのも どうも わたしの わるいくせであるようです。それを肝に銘じて すすみます。とりあえずにでも ありがとうございました。
>なぜ すなおでないのでしょう?> NO12だとなにか物足りないものを感じたので投稿します。 おそらく自己優越暗示というものでしょうかもしくは自己防衛機構とでも言いましょうかそのどちらかということなんじゃないかな?というのが最終的に思いつきました 自己優越暗示ですが、これは言ってしまうという現象に対する心的変化と外界のレスポンスによる次元の歪曲がおこってしまう危険性をさける目的があるのではないかと思うわけです、つまり「おそらく言わない方が歪曲させられないだろう」という予測なわけです、そして言わないという反動に自分で優越感に浸れるという代償が付く訳です、つまりいちいち外界に表明して劣等化させられる危険性(相手からいじくられる不快さ)を発生させるよりイニシアティブを取って優越感に浸りたいという願望とでも言いましょうかそのようなことではないだろうか?ということです、裏を返せば対人恐怖とでもいいますか人に対して安心できないとでもいいますかそのような不信感がきっかけになっているのではないかという気もします、そのようなことが他者にいえないという現象のような一面もあるのではないかと思います、ただ人から異を唱えられるかもしれないということを認めておいて自分は優越だと思っているわけですから疑問に感じるということなのかな?という気がします、実は自分も同じことで質問したことのある一人ですwあしからずw
お礼
TENNTENNSEVENOKさん ご回答をありがとうございます。 はあぁ もしそうだとすれば わたしの言っていることは すべて ★★ (No.45) 「中身のないただの感情ぶつけ」 ☆ です。何も考えていず いわゆる能天気で ほとんど ホンネで――もしくは ホンネとタテマエの両方を述べたのちに あらためて ホンネで――自己表現して来ましたから この《すくわれている》に関しても 単純に そのまま 宣言してよいだろうと踏んで 設問しているというわけです。それは すべて 《ただの感情ぶつけ》なのです。 ★ おそらく 自己優越暗示というもの ☆ は――ですから―― わたしには ありません。そして ★ もしくは 自己防衛機構 ☆ これは ないわけではなく ただし その仕組みが 一般の人びとと違うというものなのでしょう。すべて自己表現の中に含める つまりは 外に表わす ことによって そのあと 表に現われたことがらをめぐって やり取りし 自己防衛するという行き方です。 あらためてですが 自己優越暗示に関して ★ 言ってしまうという現象に対する心的変化 ☆ は ありませんし ★ 〔その言ってしまったことに対する〕外界のレスポンスによる次元の歪曲がおこってしまう危険性をさける ☆ ことも視野にありません。もっと言えば そういうレスポンスを わざと 引き起こそうとしていると言っていいかも知れません。結果としてですが そういう魂胆があるだろう?と問われれば あると答えておきます。 むろん レスポンスによって わたしの《すくい》の程度が 批判されれば たいへん よろこばしいことです。そこで 一段 わたしの境地が上がるというわけですから。その努力は 怠らないのが 信条です。 こうなると すべては ★ 感情ぶつけ ☆ だと思います。わがすくいの向上にかんしてまで 感情のぶつけによって ひとさまからの反応や批判をあてにしているわけですから これほどの不届き者はいないかも知れません。 というような分析結果になりました。どうなんでしょうね。
補足いたみいります、やはり批判と捉えられてしまったのか議論の妨げと捉えられてしまったのか申し訳ないです、つい勢いで書いてしまったのもので・・・ > ★ おそらく「高慢な態度」「不当な権限」「不当な圧力」「悪行」などがズレの部分で、「待遇が良い」「自由に振舞える」「権利がある」などが投影の部分なのかな?と思ったりします ☆ 当たっていると申しておきますが このような《ズレ》や《投影》を入れて 表現することのほうが わたしの主観を 公共的な精神に仕えさせ その言論内容に妥当性を与える こう思います。> ここまで認識しておればおそらく大丈夫だと思いますがルサンチマンが哲学的分析の妨げになってしまうのではないかと心配したもので おそらく分析は大いに的を得ていると思います、ただ絶対確信的に否定したりするもんですから、その要因をしらずに書いているのかな?と思ってちょっと問い質してみただけです。いや申し訳ないです、なんで気になったかといいますとひょっとして昔の自分と同じ感じなのかな?(感情や主観のエネルギーは出れど芯からズレずという感じ)と思ってそうだったらなんにも心配なかったんですが、自分の直感があたる心理を質問した時やたら「偶然だ」とかとなんかと言われたんでちょっと考え直してひょっとして「中身のないただの感情ぶつけ」の可能性を考えてしまったものでいや申し訳ないです、僕の直感が当たっていたという事でしょう。申し訳なかったです。
お礼
TENNTENNSEVENOKさん ご回答をありがとうございます。 わたしとのやり取りが長い方々は 分かっておられると思いますが わたしは 余談で――ひょっとすると 本論の中で―― えらそうに ぶつくせがあります。その点 これは へのかっぱと見なして 扱ってくださいませ。 とのおことわりを かかげて 次のご回答に移ります。
オコリザルです。 他の方の回答の流れに乗ってみます。 存在の解釈で「優しさ」に触れるだけで満足すると、その本質(神様)は良い人又は善人であり、いい人たちばかりのホテルカルフォルニアにとどまる事になります。 本質に愛を志すことが道です。 心は枯れません。 ですから愛を知ってもホテルカルフォルニアの中です。 待つだけのくつろぎからホテルでの宿泊費を散財することとなります。 この散財が欲望でなく既に欲動です でも、愛を体感すると話は違うかもしれません。 こんなことを考えました。 存在の善性に潜む罠とも言いえるでしょう。 brageloneさんをイデア界に招待した鬼神が愛を語れないならば、その鬼神は神話を紡げないことになります。 ところがbrageloneさんの言葉は既に神話を知りえている事を証明している。 このあたりが行いにより心理が判明するか否かです。 いかがでしょうか。
補足
primeapeさん ご回答をありがとうございます。 もう primeapeさんのおっしゃろうとするところは わたしだけではなく みなさんも 分かっていらっしゃると思います。 ただし その文章は 分かりにくいところも 出てくる。ということだと思います。 今回では ★ 存在・善性 愛 そして 悪 欲望・欲動 と ホテルカリフォルニアとの絡み ☆ が いまひとつスムースに飲み込みつつ進めないものがあるように感じます。と言っても それは ホテルカリフォルニアを引き合いに出して論じておられるからではないでしょうか。 bananasand さんによれば ◆ (No.36) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ホテル・カリフォルニアというのは、そういう意味では、この痛みや苦悶という代償を / 支払わないことが楽園であるという勘違いを突いているのだと思いますね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ であってみれば 決して ★ いい人たちばかりのホテルカルフォルニアにとどまる事 ☆ ではないように思うのですよ。《いい人たちばかりの》という部分ですね。歌詞のはじめのほうで ▲ ここは天国? それとも地獄? ☆ とあって 二項対立の二分法かと思わせますが そうではないと言っています。《優しさ》とその反対の《酷さ・冷酷さ》も 同居した世界にあって むろん よい方向へ向けてですが その全体を引き受けようと言っていると思います。 中で 哲学として間違っていると思えるのは ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 人々は 鋭いナイフを突き立てるが 誰ひとり内なる獣を殺せない ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《内なる獣》は 《悪・そこからの失敗・あるいは あたかも悪をそのまま身によそおう毒麦》のことです。したがって これも 《悪そのものは 存在していない》と言うわけですし その悪からの《癒しも 世界との和解も そして すくいも》得ていると言っていこうという動きになります。 《鋭いナイフ》は 比喩だとしても 問題は 《悪ないし欠陥ないし毒麦》を それそのものを 取り除こうとすることにあります。そうではなく その意志行為の基礎である存在じたいもしくは《わたし》そのものの回復 これを目指そうということでした。そうすれば 欠陥も癒やされ 毒麦も もう 必要でなくなり 消えてゆく。ということでした。この点では 歌詞には 異論がありました。 あとは primeapeさん一流の表現で ★ 存在の善性に潜む罠 ☆ を指摘なさっています。 ★ イデア界と鬼神 ☆ が なじみのない言葉かとも思います。これを primeapeさんに ふつうの会話で語るように表現して欲しいと言っても かえって その精神が伝わらなくなるかも知れず 痛し痒しですね。 ★ 心は枯れません。 ☆ これは 万人に伝わります。 わたくしの自分の問題でもあるのですが いま少し表現を変えてみられては いかがですかというこころです。きびしい口調になっていると思いますが。
- 阿加井 凛悟(@neutral)
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こんばんわ。デル…アンセンです。 絵のない絵本を描いてみます。 人間1.「わたしカラダは丈夫でたくさん運動できるけどオツムが弱いの。 わたし知恵が足りないの。(-_-;)」 人間2.「よう。そうかオツムが弱いのか。 ボクは片足が無いから走ったりとかはできないけど、(^_^;) キミの知らないことを知ってるかもしれないから教えてやるよ。(*^_^*) よろしく。」 人間3.「どうも。へえ。片足が無いんだ。 アタシは目が見えないから絵を描いたりなんかできないけど、 その1本の足がつかれちまったときは移動するの手伝ってあげる。(*^_^*) よろしく。」 人間4.「おはよ。へえ。目が見えないんだ。 アタシは耳が聞こえないから悪口とか聞こえないの。 目が見えなくてこわいときはカラダに触って方向を教えてあげる。(*^_^*) よろしく。」 人間5.「ちわ。そうか。耳が聞こえないんだ。 ボクは字が読めないんだけど、手とかカラダで話ができる。 聞こえなくて困ってるときはボクが説明するよ。(*^_^*) よろしく。」 人間6.「やっほ。そっか。字が読めないんだ。 アタシ、脳ミソが壊れてて満腹が分からなくて なかなかメシが終わらないのだけど、そこそこ字は読める。 読めなくて困ってるときはアタシが読んであげる。(*^_^*) よろしく。」 人間7.「お。そっか。満腹が分からないんだ。 ん~。(-_-;) キミに満腹を教えてあげることはできないけど、 キミのメシが終わるまでその辺で散歩してる。 そのうち戻ってくる。 忘れちまってるかもしれないからメシが終ったら読んでくれや。 それじゃあ後でまた遊ぼ。(*^_^*)」 人間8.「うう。アタシは別に何にも困ってないんだけど。 おもしろいこと無いんだよね。(-_-;)」 人間9.「……。そっか。おもしろいこと無いんだ。 1番さんも2番さんも3番さんも4番さんも5番さんも6番さんも 7番さんも8番さんも、その辺にいると思うから、 おもしろくなりたかったら適当に呼んだらいいよ。(●^o^●) よろしく。」 人間1.「うんぬん。」 人間2.「うんぬん。」 人間3.「うんぬん。」 …………中略…………… 人間9.「うんぬん。」 人間1.「うんぬん。」 …………中略…………… 人間5.「うんぬん。」 人間6.「うんぬん。」 ここに「【すくわれて】いない人」は、いない、 そういうことを話しているのですよね?
お礼
デル…アンセンさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ちょっと どぎつい感じがありましたが 創作意欲が旺盛な方なんですね。あっ そう言えば 万葉集のルネサンスと言っていましたね。ひとり和歌に限らないわけですからね。 その昔 《まつり(奉り・祭り)》は 《かみに 供え物を差し上げる》意味だったそうです。村人たちは かみとの共食〔という設定〕のもとに 収穫物の感謝をささげ 共同自治をいとなんでいました。 ところが 隣り村との共存関係が どうにかなってしまいました。それは 人びとに 《わたし》の芽生えが生じたためです。これは 農耕をいとなむにつれて 季節や時間の経過ということを自覚するようになったことと連れ立ってのことです。端的に言えば ひとは死ぬものだと知ったのでした。 ここで 《わたし》に芽生えた人びとのあいだで 大きく 二つの思想に分かれました。いくばくかの時間を ともに せいいっぱい生きていこうとする《イリ》派と それはそうだが 世の中には まだ 《時間》にも《わたし》にも気づいていない人たちがいる。その人たちに対しては 強い指導力を持って 《寄せていかなければならない》と考える《ヨセ》派とが 並び立って 競いました。 その旧い縄文人の名残りとしては 《ヨリ(寄り・依り・憑り)》なる原始心性というものです。 やがて 《ヨリ》心性を《依らしむべし》とする《ヨセ》派が 勝ちました。その人びとのだだを捏ねるさまがうるさいものですから 《イリ》派は くにゆづりしたのでした。泣く子と地頭には勝てないようです。 そこから 村どうしの関係は 《まつり》が 《ヨセ》派の大将に 《まつらふ(服順する)》ことになり とうとう村々をたばねて 社会全体が 二階建ての構造になりました。そこでは 言わずと知れた お二階さんが 《まつりごと》をおこなうという仕組みです。 共同自治が 財政という強制獲得経済のもとに 税を課し 配分する(つまり 一たん 所得として得た価値を国家の次元で再分配する)という仕組みとなって もう久しくなっています。税制にしても 市民が決めるというのが タテマエなのですが。 このような歴史をどのように継承していけばよいかについての井戸端会議です。
補足
お礼欄にて 訂正があります。 中ほどにおいて 【誤】 ここで 《わたし》に芽生えた人びとのあいだで 【正】 ・・・・《わたし》に ≫目覚めた≪ 人びとのあいだで でした。お詫びします。
オコリザルです。 A37の延長で、所詮雑談ですが。 A37の私の説明や成り行きの推測が所詮、見出したあくであり、要するに他者には悪を見出せる前提で自分自身はそうではないとの考え方で発展しています。 brageloneさんのコメントもまたそうです。 要するに悪に身に憶えが無い。ところが思い当たる節がある。 人間同士が関係を保つために不可欠な同一性があるなら、これは大きな命題として人間存在に普遍性があるかどうかにつながります。 ところで悪をなせば瞬間的に罪となります。この罪となる審判は愛にもとづく采配です。悪が現象として悪をなすことではありません。現象すれば法の上で罪です。そしてその間違いをつづけるのは悪をなしているとの勘違いゆえの欲です。 この考えには思い又は心理、衝動、動機、などが行いの先に出ているか、行いにより心理が判明するか、要するに自由意志を自覚しているかです。 自由意志は哲学か宗教の考え方で日常に反映されているとは限りません。 私にすれば、現象は全て愛の確認です。
お礼
primeapeさん ご回答をありがとうございます。 ★ 雑談 ☆ という表現は あまり使わないほうがいいと思いますよ。規約の関係です。 ★ 私にすれば、現象は全て愛の確認です。 ☆ これは わたしの解釈では まづ ○ 愛は ひとの判断としての意志決定が 《わたし》というひとりなる存在の自由意志にもとづくということの 社会的な側面を捉えた概念です。 ○ 自由意志の発動による自己表現は 社会にあって 基本的に 人びとを相手にしています。その相手との関係が 具体的な交通関係になり そこで 方向性が決まり さらに 意志決定によって 自分の意志内容の向きが決まります。 ○ 向きには 正負があり 思いやりか知らん振りか 愛情か憎悪か 好きか嫌いかなどなどですが これらプラス・マイナスを含めて 一般に 《愛》と言うのだと考えます。 ○ すなわち 意志は わたし個人の内面ではたらき 愛は ひととの関係性において はたらく。同じ内容の表象および自己表現だと考えます。 ☆ よって ★ 社会現象は 全て 愛の〔あり方の〕確認です。 ☆ と同時に 意志と同じ内容だという意味は 意志の発動にかんして へそ曲がりがなかったか つまり 善の損傷(つまり 悪)がなかったかという確認でもあるということだと思います。 存在の持続という善は 存在に対する愛のことでもあります。また 概念を持つと その概念をめぐって 二次的に 概念や現象が起きますが この場合 善に対する愛 これも 善であり 意志であり 愛であるとなるのだと考えます。 それゆえ ★ この〔* 善の歪みとしての悪 そしてその行為が〕罪となる審判は愛にもとづく采配です。 ☆ 総合的な愛 あるいは 善悪を超えた愛 という視点から――つまりは 存在という視点から―― できるかぎり満遍なく見渡しての采配が のぞましいでしょう。 ★ そしてその〔* 悪ないし罪という〕間違いをつづけるのは 〔* そもそも世の中には 善とは別に 独立した存在としての悪というものがあって その〕悪をなしているとの勘違いゆえの欲です。 ☆ とのこと。こういったことは 何度でも さらに こなれた表現において 言っていくといいでしょうねぇ。
- maimaisus
- ベストアンサー率8% (6/75)
maimai.susです。一寸ご無沙汰です。 回答番号:No.22の話なんですが、全然、根本的な事では無いですよ。 むしろ結果的な話ですね。 それと、今までの質問回答読んでbrageloneさんの言いたい事は、解ったんですが、ってとこですがね。 brageloneさんには、私の言っている事って、ハードルが高かったですかね。 ちなみに、私個人としては、救われていると言っも、brageloneさんが、回答のお礼で言っているような事は、別に何も感じません。 って事は、そう言う人間もやはりいると思います。そして別の感じ方をする人もいると思うのです。 むしろ、そう言った人間の方が多いのかも知れません。 民主主義の世界は、正しもの世界では有りません、数の多い方が主の世界だと言う事も、忘れてはいけない事だと思います。
お礼
maimaisusさん ご回答をありがとうございます。 ★ brageloneさんには、私の言っている事って、ハードルが高かったですかね。 ☆ 理解できていないとすれば そのようです。と言いますか これを理解せよというそのものについては まだ 示してもらっていないと思っているのですが どうでしょう? ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 回答番号:No.22の話なんですが、〔* そこでのわたしbrageloneのお応えした話は〕 全然、根本的な事では無いですよ。 むしろ結果的な話ですね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ にわかに あぁ そうですかとも言えないのですが。つまりは 上と同じように maimaisusさんのおっしゃる《根本的なこと》を わたしの記憶では まだ 聞いていないのですが? ★ 解かった ☆ と言っていただいているんで よかったと思う反面 何か 奥歯にものがひっかかっていませんかね。そうでなければ よかった よかったとなりますが。 あとは ★ 民主主義の世界 ☆ を誤解なさっていますよ。 ★ 数の多い方が主の世界だと言う事も、忘れてはいけない事だと思います。 ☆ ですから 少数意見も尊重するのが 民主主義ですよ。しかも ★ 民主主義の世界は、正しいものの世界では有りません、 ☆ ということは わたしの言っていることが 少数意見だが 《正しい》とおっしゃってくれているのでしょうか? じゃあ これから 賛同を多く得て行けばいいわけですね。
- 阿加井 凛悟(@neutral)
- ベストアンサー率29% (231/773)
ふたたび、こんばんわ。 多くの方の意見を聞くことができておもしろいです。 聞かせてもらったぶん多くの方とお話ししてみたいのですが、 オツムがついていかないので今のところ質素な回答しかできません。 >お二階さんによって そのえらい人たちの不快な意識の排泄を浴び :そうであっても「お二階さん」を求めるのはなぜなのでしょうね。 「ねえねえ【お二階さん】。あそこに【悪い人】がいるよ。 ねえねえ【お二階さん】。なんとかしてよ。」 かくして「お二階さん」が増殖し、税金が増える、 そして「税金」に「悪」と名づける、このような循環が生まれると、 なかなか「すくわれ」ないような気がします。 >時間には向きがあり、生き物は発酵・腐敗に向かう :言葉の使い方が下手っぴですみません。 これは、わたしの細胞の水分貯蓄量が減って皮膚にシワができたり、 稼いで食って寝る、という必要不可欠な儀式的行動の間に、 このようなことが不可抗力的に起こっている、という単純な観察結果です。 >《いつも新鮮でみづみづしいすなお》が 永続しないのではないか :ということに関しては、 【すなお】の水分貯蓄量が減った場合、【善】に対して飢餓を感じた場合、 「【善】をください」といつでも大声で求めることができますし、 求める【対象】は、いつでも、どこにでも存在していますから、 《いつも新鮮でみづみづしいすなお》を持つことは じゅうぶん可能ではないかと思います。
補足
neutralさん 打って変わってのご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 【すなお】の水分貯蓄量が減った場合、【善】に対して飢餓を感じた場合、 「【善】をください」といつでも大声で求めることができますし、 求める【対象】は、いつでも、どこにでも存在していますから、 《いつも新鮮でみづみづしいすなお》を持つことは / じゅうぶん可能ではないかと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは 再掲載のみです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・・・かくして「お二階さん」が増殖し、税金が増える、 そして「税金」に「悪」と名づける、このような循環が生まれると、 / なかなか「すくわれ」ないような気がします。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 税金は われらが共同自治のための拠出金です。われらがよいと考える共同自治のために お二階さんたちに 使わせましょう。また 共同自治の形態を 変えてゆくでしょう。 次のうたの中で 《権利》だけを主張するのは おかしいでしょうね。でも おおむね おもしろいかも知れません。 ▲ (植木枝盛:民権田舎歌 1879 《民権自由論》付録)~~~~ ・・・ 人に才あり力もあれど 自由の権利がない時は 無用の長物 益がない さらば人間というものは 自由で生きてこそよけれ 自由が無ければ死んだも同じ ・・・ 卑屈さんすな圧制受けな 人に貧富強弱あれど 天の人間(にんげ)を造るのは 天下万人皆同じ ・・・ ここが人間の同権じゃ 権利張れよや国の人 政府は民の立てたもの 法度は自由を護るため 官的(かんて)きゃ吾儕(おいら)の雇いもの 権利を張らねば詮がない 古え今の別(わか)ちなく 悪しき政府が世に在ると 圧制暴虐やらかして 民の自由を抑え制(つ)け ・・・ なんとこれでもよい事か これは間違い大間違い ・・・ 権利張れよや自由を伸べよ 民選議院を早く立て 憲法(おきて)を確かに定め~~よ これは今日(きょうび)の急務じゃぞ やれやれやれやれ国の人 立憲自由の政体で 自由の権を張り伸ばし 学問修めて智恵磨き 職業務め働いて 文明開化の人となり ・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ たぶん みんなの意見がふつうに集められるようになれば 変わってゆくでしょう。 お二階さん すなわち ▲ 官的(かんて)きゃ 吾儕(おいら)の雇いもの ☆ には まだ なっていないでしょうか。
- 阿加井 凛悟(@neutral)
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こんばんわ。 ホテルカリフォルニアに、ちょっとお邪魔してみます。 ズレたことをしゃべるかもしれませんが、 そのときは笑って放置してください。 今わたしは豪華なご馳走に囲まれています。 今わたしはこの空間と時間とご馳走と美しい夜景と 真摯なおもてなしと、心地よい音楽に、やさしくされています。 さて。 わたしは、やさしくされています。 わたしが、やさしくされることを選びました。 今わたしは「すくわれて」います。 さて。 ご馳走をたくさんいただいたわたしは「太る」という責任を取ります。(-_-;) 時間にやさしくしてもらったわたしは 積もった仕事を短時間で処理するという責任を取ります。(-_-メ) 財布の中身が淋しくするという責任を取ります。(-_-メメ) このようなことになったのは、 わたしが、やさしくされることを選んだから、 「善をくださいおねがいします」と求めたから、であり、 わたしに「悪」を投げつけたものは存在しないのですが、 このときの「ご馳走」の存在に「悪」と名づけるようなことがあると、 それはそれはもう、この世は「悪」だらけということになってしまいます。 わたしとしては「悪」を「想像」「創造」することから、解放されたいです。 睡魔が侵入してこなければ、また後であらわれます。
お礼
neutralさん お早うございますになります。ご回答をありがとうございます。 わぁ うらやましい。と ★ 笑って放置して ☆ よいお話でもないようで・・・。 ★ わたしとしては「悪」を「想像」「創造」することから、解放されたいです。 ☆ それだったら ★◆ ホテルカリフォルニア ☆ じゃないですか。単に ◆ ポジティヴ・シンキングや そこにネガティヴ・シンキングを容れても なお その事態の解釈――見方の入れ替え――だけでは まだ その《悪=失敗》を繰り返すことになる。 ――同じ繰り返すことになったとしても あたかもその《毒麦》を みづからが あるいは 身づからも 引き受けるという姿勢(ポジティヴ・スタンス)が 大事なのではないか。 ☆ ということのようですよ。つまり ○ 思わず善をひん曲げて 思わず悪を《想像し創造してしまう》ことが ひとには あるから ▲ 善き意志によって 私的なものとしてではなく 公共的なものとして・・・いかなる偏狭や嫉みなく清らかな抱擁によって所有される 内的なもの 高みにあるものを捉えようと自分のためであれ 他者のためであれ 気遣う ○ ことを励行しようということのようですよ。 でも ◆ ホテル・カリフォルニアというのは、〔そういう意味では〕、この痛みや苦悶という代償を / 支払わないことが楽園であるという勘違いを突いているのだと思いますね。 ☆ という点にかんしても 次のように じゅうぶん だいじょうぶのようですね。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ご馳走をたくさんいただいたわたしは「太る」という責任を取ります。(-_-;) 時間にやさしくしてもらったわたしは / 積もった仕事を短時間で処理するという責任を取ります。(-_-メ) 財布の中身が淋しくするという責任を取ります。(-_-メメ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ * あぁ 世話焼きぢぢいになってしまいました。(-_-;)。(-_-メ)
補足
easy_allさん ご回答をありがとうございます。 あぁ そうですか。そうなんですか。サルトルのことですが。 実存主義も サルトルも 間接的にハイデガーも 論じようと思って触れたわけではありませんし そこまでの定まった評価を わたしは 持っているわけでもないのです。弱りましたね。 専門の方に 飛び入りでもしていただいて さらに第三者からの判定を加えられれば よいかとも思いますが どうしましょう。 紹介されているサルトル評について できる範囲で 感想を述べておくべきでしょうね。 ▲ 「サルトルの言う自由は、徹底的な価値否定の上に成立つだけに、いかにも無内容であり、責任と表裏だと言われても、何に対する責任なのかが見えにくい」(片山洋之介) ☆ これは 素人目にも おかしいと言ってよいのではないでしょうか。 ▲ サルトルの言う自由は 徹底的な価値否定の上に成立つ ☆ でしたら なおさら 哲学の原点であるように思いますが。たしかに 原点というのは いわば無味乾燥であり ▲ 無内容であり ☆ と言われても 仕方がないところですが それを言って 批判したというのでは 《論評》という文字じたいが 泣きます。 ▲ 責任と表裏だと言われても、何に対する責任なのかが見えにくい ☆ 《見えにくい》ことと 《自由と表裏となった責任がない》こととは 別です。こんな評論を いまどきの学者は しているのですか。これは おどろきです。むろん その後の追跡をわたしがしていなかったことの証明になるのですが それにしても 日本の哲学思想は いったい どこへ行ったのでしょう。 と口をすっぱくして 愚痴りたくなりますね。(間接的に easy_allさんを 批判したことになってしまいましたが)。 ★ この<価値>を、現実世界で体感できないのが、現代の課題だと私は考えています。 ☆ 《体感できないけれども この〈価値〉を問い求めている(――あるいは 〈すくい〉を求めている――)なら そこには すでに すくわれている姿がある》と わたしは 言っています。なぜなら 《問い求めている》のなら 《すでに――言ってみれば 知識や見識としてではなくても いわば魂においては――知っている》と言えるからです。人格の問題としては そこまでの境地を すでに 潜在的にでも 知っていると思われるからです。知っているからこそ そのさとりや すくいを問い求めると言うべきだからです。知らないものについて 《価値》とは言わないでしょう。 もし どうしても求めても得られないということでしたら そのかたちのない希望において 求める者は すくわれている。と言うべきでしょう。そこから 新たな出発ができるでしょうし 新たな局面が開かれるかも知れません。そういうものです。 ☆☆ 社会的なコミットメントを意味するアンガージュマンは 自己に 逃れる余地を もう 作らないわけですから 前向きの姿勢であるように考えます。どうでしょう ☆ 少々 しつこいですが このように 公共の場で 社会にかんする発言をおこなうならば とうぜん 文章責任が生じます。その答責性を果たすべく 努力するのは ふつうの姿です。――という受け取りが ふつうの批評なのではないですか。 振り子が もう一方の極に振り切るかのような批判をするとは 初めっから 何も理解していなかったことの証明ですよ。 けっきょくのところ easy_allさんのご回答にも けちをつけてしまったようですが これは ごくごくふつうの ごくごく率直な反応になるのだと思いますが どうでしょう。