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あなたは すくわれていますか
質問としましては 題名とは少しちがって 次です。 ○ ひとは なぜ すくわれているのに すくわれているとは言わないか? へりくだり・遠慮・はにかみなどの事由は 別としてください。 民主主義の世界が 理論上 出来あがりました。 人びとは 世界宗教のいくつかや世界の哲学思想のあれそれに 造詣を深くして来ています。 それぞれ 人間と社会とについて 一家言を持つに到っています。 これだけ おのおのが 共生のちからの素を培って来ています。 ▲ (コリント前書4:7) ~~~~~~~~~~~~~~~ あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。 もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ でもありますから なぜ 救いを得たと言うのをためらうのでしょうか? この世間に生きるときには 何か そういうふつうの生活の確立を阻み また その確立を明らかに述べることが憚られるといった要素が 亡霊のごとく 飛び交っているのでしょうか? なぜ すなおでないのでしょう?
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No.55、59です。 > でも サルトルも > ○ アンガージュマン > ☆ を言っていますね。道具存在ではない自己投企のあり方を言っていますね。 > だから 誰が上だとか下だとかを言えるほど 通史的に見ることは出来ませんが > サルトルの実存主義が それほど 蓮っ葉なものだとも思えません。 どうでしょうか?現代の日本でも世界でも、サルトルを評価する声は、もはや無いと思います。 「理想」No.665「特集サルトル・今」では、 「1970年代に入ると、日本においてもサルトルの影響力は急速に後退する」「弁証法的理性批判の企てそのものに、何か根本的な問題があったからだと考えざるを獲ない」「実践的にも、五月革命後のサルトルの活動は専ら極左小集団へと傾斜して行く」(池上明哉) サルトルの投企そのものは、無動機の暗闇での飛躍にすぎない(伊吹浩一) フランスで「サルトルなど流行おくれという反応には慣れていて」(生方淳子) 「サルトルの現象学的存在論は現在あまり評判がよくない」「サルトルの言う自由は、徹底的な価値否定の上に成立つだけに、いかにも無内容であり、責任と表裏だと言われても、何に対する責任なのかが見えにくい」(片山洋之介) 第一線の研究者による、冒頭からの4論文がこの論調です。 > ★ だから「生活の苦難がない=救われている」のだが、『魂・精神の価値が見つからず、生きる意味が無い』ので、救われていると言わない。 / と考えたのです。 > ☆ このとき すなわち > ★ 『実存=魂=精神 の価値』を人々は追求する。 > ☆ わけですから > ○ ひとは すでに かつての《すくわれている》という表明に匹敵する内容としての《価値》を じつは 知っているというふうに捉えたのです。 この<価値>を、現実世界で体感できないのが、現代の課題だと私は考えています。 ハイデガー哲学そのものです。 > このとき あらかじめとしてでも > ○ 《われは 実存している》と 闡明するところから 踏み出していくとよいのはないでしょうか? > ☆ という問いなのです。そうすれば 人びとは 互いに 自由な批判をし合って 向上していくことができる。こう 思うわけです。 > そうしないと つまりは その程度までの公共的な表明をしていないと いつまでも 自己の内面に終始するようにおそれたものですから> 問いました。 > そういう意味では 社会的なコミットメントを意味するアンガージュマンは 自己に 逃れる余地を もう 作らないわけですから 前向きの姿勢であるように考えます。どうでしょう この<実存><アンガージュマン>は、サルトルそのままで、 片山氏の「無内容であり、責任と表裏だと言われても、何に対する責任なのかが見えにくい」との批判に耐えられない、と考えます。
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>このことを わたしは TENNTENNSEVENOKさんのご議論に合わせて 表現しているのだぞと言えば それは おのれを大きく見せようとする高ぶりになるのでしょう。> なんでこの議論で僕がでてくるのかよくわかりませんが、内容が自分勝手で自己中心的になりたいが故に反論に明らからに理屈になってないことを言及し偽りの虚勢を張りるようなガキレベルの行動がでれば退散しようかなと思うところですが今のところぎりぎりそうでないのでもうすこし >しかも とは言っても 高ぶりによって そう言っているのでもない場合も あるのではないでしょうか。ただ 高慢であると見えているだけかも知れません。わざと 高慢な態度を取っているだけかも知れません。表現は 自己表現と言いますから そこに 自己が著わされていることに間違いないでしょうが 言葉どおりの内容であるかどうかは まだまだ問い求めの余地があるのではないでしょうか。> まさにそうです、そう見える場合もあるということだと思います 大まかに分けると ・自負したいが故に控えてあたかもすばらしいかのように見せる ・自負する目的はないが単純に表に出していないだけ ・表に出していないのを受け手があたかも相手は自負していると思い込む場合 ・自負することが目的ではないが自負することによるレスポンスや自分の心の変化に対するなにか(「自分が高慢になってだめになってしまうのではないか」「本当は確かなものではないのではないだろうかと気がついてしまう」etc)が怖い この辺だろうと思うところです >こうやって わたしは そうとう TENNTENNSEVENOKさんのご議論をもてあそんでいます。はっきり告白します。告白しておきます。> そうですか、でしたらそろそろ退散しようかなw
お礼
TENNTENNSEVENOKさん ご回答をありがとうございます。 そうですね。わたしが楯つくのは 回答者に対して 質問者は へりくだって 応答すべきだという意図を わたしは あなたの文章に 見てしまうからです。 質問の本筋では ありがたいご回答を得ているのですが そのほかのところで ひっかかりがあるようなのです。 ☆☆ わたし( bragelone )の文章は 《中身のない感情ぶつけ》です。 ☆ と申し上げことに対して ★★ そうですかwまあ僕はそうは思えませんがねwまあいいですw ☆ とおっしゃっていただきましたが そのあとに どうも 別の事柄が 付随しているように感じるのです。 《そうは思えません》であるなら もう そこで ひとつの議論が 終わりとなります。なるはづです。 どうも そうでもない様子ですので あたかも けんかを売った買ったというようなやり取りが つづいています。そういう情況です。そうではないでしょうか。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・自負したいが故に控えてあたかもすばらしいかのように見せる ・自負する目的はないが単純に表に出していないだけ ・表に出していないのを受け手があたかも相手は自負していると思い込む場合 ・自負することが目的ではないが自負することによるレスポンスや自分の心の変化に対するなにか(「自分が高慢になってだめになってしまうのではないか」「本当は確かなものではないのではないだろうかと気がついてしまう」etc)が怖い ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ こんなことは どうでもよいことです。もし 信頼関係に入れば です。でも そうではないという意図を わたしは 受け止めざるを得ないというのが 実情なのです。どうでしょう? 一たん 議論が決着を見てからのわたしの述べていることは ただ対応だけのものです。中身は どうでもよいことなのです。信頼関係に入れないのであれば そういう対応を 繰り返すほか ないということになります。そのへんの事情を おくみ取りいただき 対処してもらえればと思っております。いかがでしょうか。
- hakobulu
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> ☆○ あやまつならば 〔その気づきにおいて〕 われあり。 ☆ というとき ○ 欺かれるならば われ あり。 Si fallor, sum.( Augustinus ) ☆ とも表現し得ます。すなわち これが 信仰の立ち場〔もしくはその立ち場を同じくする思想の立ち場〕であるわけですから :ここが今回の壁でしょうか。 わかりません。 ブレイグさんの言葉で咀嚼していただけると有難いのですが。 私の理解では、「>いわば自我も本能も超自我も どこかへ行ってしまっている」という状態に人間はなり得ないはずなので、おっしゃるところの「信仰の立場」を理解しなければ、次へは進めそうにありません。 尤も、進んだからといってどうということはないのかもしれませんが。 >はっきりしていることは この自己到来において 自己の回復のために 自我も超自我も本能も それとして はたらいていないことです。 :と断定されていますが、その理由を知りたいためでもあります。 教えていただき、このへんが理解できるようになりましたら、さらに感想をと思っています。 ひとつだけ、 > ○ 信仰は 超自我のはたらきを持つこともあれば そのまま 自我として 自己表現に踏み出すこともあり 時には あたかも本能そのものであることもある。 ☆ これが 《わたし》という生き物であるということになると思うのです。 :についてです。 「>信仰の立場」について「わかりません」と述べておきながらこのように言うのはおかしいかもしれませんが、信仰とは超自我による本能の抑圧によるものと理解しています。 超自我のないところに信仰は生まれないと思います。 蛇足ですが、超自我性とは必ずしも善を指向していると限定されるものではありません。 あくまで本能に対する抑止力として機能しているものと理解しています。
補足
hakobuluさん ご回答をありがとうございます。 ううーん。今回は 感覚として 違うように まづ 思いました。総じて 違うと感じました。 ★ ブレイグさん ☆ というのは わたしのことですか? ブラジュローヌと言います。 ★ 私の理解では、「>いわば自我も本能も超自我も どこかへ行ってしまっている」という状態に人間はなり得ないはず ☆ でも 《だまされた》と気づくのは どういう力の働きによるのでしょう。《約束を裏切られた》と言えば 約束の内容と それをめぐる事態の経過とを 認識していなければ 知覚もできないのですが 〔したがって おそらく 自我や超自我が ともに はたらいていると言うべきなのでしょうが しかも そこで 怒りがこみ上げてくるなら 正確かどうかは分かりませんが 本能も やはり 働いているかもしれません。ということでしょうが〕 問題は その知覚が生じたのは なぜかにあります。わたしの述べたことは ○ 知覚の起こった部位は わたしの身体=精神のどこかであり 内面においてである。 ○ しかも この知覚を起こしたのは では わたしの意志行為の結果であるか。おそらく 否であろう。内発的なものだとは 思えない。 ○ では 自我のはたらきか。超自我のそれか。――おそらく そうではないのではないか。 ○ そうではなく 知覚が起きたから 自我なり超自我なりが 働き出したのではないだろうか。 ☆ 以上のような見解を示したのですが どうでしょう。知覚と共にはたらいた自我などは 認識の問題なのでしょうね。 これは 必ずしも 信仰の問題として捉える必要もなく そのように言えるのではないでしょうか。 しかも この《あざむかれた》という知覚は そこで おそらく自我や超自我がはたらくかどうかを別とすることが出来るほどのかたちにおいて わたしは わたしに還ったという感覚を持ちます。欺かれたと思っているわたしは 自然本性のわたしです。 別の言い方では 《あぁ わたしは なんてばかなんだ。また まちがってしまった》というように あやまちを侵したとき それに気づくなら やはり わたしは われに還ります。 このように 《わたしが わたしである》のには 自我や超自我は 特別に 関与していないように思えるのですが いかがでしょう? それらのはたらきは その《自己到来》のあとのことではないでしょうか? 以上は 特に 信仰のこととして話していませんが 信仰は 最先行する存在と意志行為の核であるとすれば そこに 信仰も 前提されています。したがって 心理学のほうに すり寄って 話を合わせるなら ★ > ○ 信仰は 超自我のはたらきを持つこともあれば そのまま 自我として 自己表現に踏み出すこともあり 時には あたかも本能そのものであることもある。 ☆ という認識が得られると考えます。 ★ 信仰とは超自我による本能の抑圧によるものと理解しています。 ☆ これは 無理です。想定の問題として 無理です。非思考であり 思考や想像としての根拠が いっさい ないところに 信仰が生まれるのですから とうぜん 《超自我》とも かかわりません。かかわるのならば それは 経験思想の問題です。つまりは ★ 《超自我による本能の抑圧》=《信仰》 ☆ であるなら 信仰など 要らないということではないのですか? いちいち 信仰と言う必要など さらさら ないはづです。 ★ 超自我性とは必ずしも善を指向していると限定されるものではありません。 ☆ですから わたしの善悪観は こころに尋ねて うそがないことを善と呼び うそが生じていることを 悪と呼ぶというものですから 超自我や自我には 直接には かかわりません。意志行為の問題です。 どうでしょう。
- 阿加井 凛悟(@neutral)
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こんばんわ。 ご返事をいただき、ありがとうございます。 お恥ずかしいのですが、理解するのに時間がかかっております。 「悪は存在しない」というやさしい事実に出くわしてから、 生きるのが怖くなくなったことを、大変よろこんでおります。 わたしが最も子どもに伝えたかったことのひとつです。 今日は祝日だったので公園で鬼ごっこをして遊んでまいりました。 52番さまとか53番さまのお話が、わたしにとって興味深かったようで、 「バランス」の「くずれ」のことを、あれこれと考えごとをしつつ、 小学生4人と幼児2人に遊ばれてムキになっておりました。 今日は天気がよく、とても影の濃い日でした。 少し小学校の理科のお話をしてみたいと思います。 光がたくさんあると、陰が濃くて、シャープでクリアになります。 影を濃くすると、光がたくさんになる、ということは、あり得ません。 光は単体で存在できるけれど、影は単体で存在できません。 ですから「光が【ある】」ということからしか、はじまりません。 そして、光と影は、かならず零和的です。 ところで、 1.ホウレン草の葉っぱが大きくなるとホウレン草の根っこがのびる。 2.ホウレン草の根っこがのびるとホウレン草の葉っぱが大きくなる。 3.大根の根っこが大きくなると大根の葉っぱが大きくなる。 4.大根の葉っぱを大きくすると大根の根っこが大きくなる。 このなかで、正解はどれなんでしょうね。 これは、かならず零和的なのでしょうか。 わたしが質問者ではないのに質問をしてすみません。 「善」は「単体で」存在することができるのだろうかと、ふと疑問に思いまして。 お時間があれば説明してくださるとうれしいです。
補足
neutralさん 公園では おたのしそうですね。ご回答をありがとうございます。 ★ 「バランス」の「くずれ」のことを、あれこれと考えごとをしつつ、 ☆ ということは 《自我・超自我・本能》の問題もしくはそれによる説明は 広く行きわたっているというべきでしょうか。ご回答へのお応えとして述べているように わたしは その議論には 受け身でしか 参加できない状態です。まづは このことの確認です。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 光がたくさんあると、陰が濃くて、シャープでクリアになります。 影を濃くすると、光がたくさんになる、ということは、あり得ません。 光は単体で存在できるけれど、影は単体で存在できません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 確認してくださって ありがたいです。つまり 《影があるから 光があるのだ》という議論(?)が けっこう まだ あったようなのです。 ★ そして、光と影は、かならず零和的です。 ☆ これは どうなんでしょう。理科としての解答がどうなのか よく分からないのですが この両者に 和を求めるのは どうなんでしょう。明暗として その濃淡として 定量的なもののように見えますが その和を求めるというのは どうなんでしょう。それに 光は 意志行為ではないので 定性的なものとしても 測定しがたいように思うのですが どうでしょう。 ★ 「善」は「単体で」存在することができるのだろうか ☆ これはですね。わたしの考えでは 《存在は善である》という想定から出発していると捉えたほうが てっとり早いと思うのです。それで 特に 学問として致命的な欠点を持つとも思えないのですが。 存在の持続(維持向上)が 善であるという前提ですね。ですから この前提に立つなら ○ 一人ひとりの人間存在が 単体として 善である。 ☆ となります。もっとも ○ この人間は その自然本性において つまりは特に その中の意志能力に注目して その意志の行為において 相手の存在を やはり 同時に 前提している。 ○ ゆえに ひとは 孤独な存在であると同時に 孤独関係としての存在である。 ○ 社会的に独立した存在であると同時に 社会的に関係し合う存在である。 ○ 意志は 自由意志として 《ひとり》なる存在の自己表現を推し進めるが それと同時に 相手との関係が すでに 具体的な交通関係に入るなら その意志の方向性が決まり さらに 好きか嫌いかの正負の向きが やはり 自己のもとに決まる。このようにプラス・マイナスの向きを持った意志行為は 人間の関係性として 愛と呼ばれる。 ○ 《間(かん)主観性》という用語も ある。それは 愛なる関係として その双方の主観の交わるところ また その場を言っている。 ☆ したがいまして ○ 人間にかんして 善は 単体で 存在すると同時に その単体の関係として 存在する〔であろう〕。 ☆ カッコをつけて推測のかたちにしたのは 考えてみれば 《間主観性》じたいは 《わたし》の主観そのものではないからです。わたしの自由意志は いくら愛だからと言って 相互の主観のまじわるところ・つまり相手への思いやりということだけに 寄って行ってしまうわけではないからです。一方での《独立性》も 重要だと思われます。 ホウレン草や大根の問題は 理科としての答えを 自信をもって 言うことが出来ません。あしからず。
- easy_all
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>すなおでない >救いを得たと言うのをためらう のではなくて、満足できない・飢餓感・渇望がいやされない、 =達成感が無い・生きる意味を見出せない・生命の歓喜が無い のだと思います。 かつて産業が未発達な時代には、生きるとは重労働・病気との闘いだったから、民衆は救いを求めた。 だが現代、機械文明・医療の発達によって、生活が安易になった時代になって、 生きる意味を求め、モノ・カネでは満たされない渇仰に、人々は彷徨する。 生きる意味を「もらっていない」と、誇らしげにTV・新聞が大衆を扇情する。 ヤスパース+ハイデガーの実存哲学は、「現存在・世人」と呼んだ20世紀の大衆社会の中で、 かつて神学が、神・霊魂 と名づけたものを、超越者・実存 として新たな哲学を、 かつての『救い→生きる意味』として樹立しました
補足
easy_allさん ご回答をありがとうございます。 そうですね。微妙なご回答のように感じています。 ここでは 《すくわれている》と宣言しないほうが 妥当であるという回答内容だと捉えて お応えしてまいります。 たとえば ★ ・・・かつて神学が、神・霊魂 と名づけたものを、超越者・実存 として新たな哲学を、 / かつての『救い→生きる意味』として樹立しました ☆ ということでしたら ○ ひとは なぜ 生きる意味を見出しているのに 得ていないというのか。 ☆ という質問になるでしょうね。あるいは ○ ひとは すでに 生きているのに なぜ 生きる意味が見いだせないと嘆くのか。 ☆ と問います。つまり ○ なぜ すなおでないのでしょう? ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >すなおでない >救いを得たと言うのをためらう のではなくて、満足できない・飢餓感・渇望がいやされない、 =達成感が無い・生きる意味を見出せない・生命の歓喜が無い のだと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ でも ひとは この世界の内にあって ★ 実存 ☆ しているのですよね? 生きています。 ★ 満足できない・達成感が無い ☆ のは むしろ われわれの向上心のなせるゆえでしょう。 ★ 生命の歓喜が無い ☆ とは言っても たしかに ちゃんと ★ 生命の歓喜 ☆ を知っています。欠如しているけれども その歓喜があること そして ひとはその歓喜に値することを 知っている。 すでに 《すくわれている》じゃないですか。 ★ 生きる意味を「もらっていない」と、誇らしげにTV・新聞が大衆を扇情する。 ☆ というからくりを すでに じゅうぶん 知っています。大衆大量媒介物など 量的な重みはあっても 中身は 大したものではないことくらいは もう 誰でも 知っています。ひとの企画することくらいは その最高の達成を持ってきたところで 高が知れています。 もしくは たしかに 人間の知恵と能力は 偉大であるとするのなら やはり 総じて言って 《すくわれている》でしょう。 むろん その度合いも 程度問題です。相対的なすくいを得たに過ぎません。ならば いま 《わたしたちは おのおの すくわれている》と一たん 宣言して ふたたび あたらしく 歩むことのほうが 人類史にとって ふさわしいのではないでしょうか。 もし 停滞感や閉塞感が いくらかでもあるとすれば それは いわば人類の――神学をとおしての 神や救いや霊魂にかんするところの――前史というものを 一たん 終わらせていないからではないでしょうか。すでに 一段階として 終えているのに まだ ぐぢゃぐぢゃ 言って 終わらせていない そこから来る《癒されない渇望》なのではないでしょうか。どうでしょう?
>はあぁ もしそうだとすれば わたしの言っていることは すべて ★★ (No.45) 「中身のないただの感情ぶつけ」 ☆ です。> そうですかwまあ僕はそうは思えませんがねwまあいいですw >★ おそらく・・・わがすくいの向上にかんしてまで 感情のぶつけによって ひとさまからの反応や批判をあてにしているわけですから これほどの不届き者はいないかも知れません。 というような分析結果になりました。どうなんでしょうね。> おそらくあたっているんじゃないでしょうか?ご自身がそう感じているのはおそらく感情の部分だろうと思いますが表明文を見る限り感情が分析を促進しているように思います >あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。 もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。 > これなんですがおそらくこの場合誇りたいという願望があるように思います、つまり素直に発言するとno12やno46のように次元が変化するわけですから賭けになりますよね、そすると言わない方が良いのではないかと無意識に感じますしかしその場合誇ることが出来ませんそのパラドックスを解消するために卑下することによって誇らしさを表明しようとしているのだろうと思います、自分のことを低く見ていて実は高く見ているということなのだろうと思います
補足
TENNTENNSEVENOKさん ご回答をありがとうございます。 たぶん すべては 言葉のやり取りとしての そこにおける表現の問題だと言うべきでしたね。その点をも同時に添えておくべきでした。 相手との つまり今の場合 TENNTENNSEVENOKさんとのやり取りという場 この場が 社会という人間関係の一部分として 社会全体のありようとしても またその問題情況としても はたらいているし 起き上がって来ている。こう思いますし そう添えて 述べるべきでした。 卑下したわけでもなく 自己を誇ろうとしたのでもなく また 卑下も自慢も そのつもりはないところから いまの場での推移として 起こるものだとは捉えています。 このことを わたしは TENNTENNSEVENOKさんのご議論に合わせて 表現しているのだぞと言えば それは おのれを大きく見せようとする高ぶりになるのでしょう。しかも とは言っても 高ぶりによって そう言っているのでもない場合も あるのではないでしょうか。ただ 高慢であると見えているだけかも知れません。わざと 高慢な態度を取っているだけかも知れません。 表現は 自己表現と言いますから そこに 自己が著わされていることに間違いないでしょうが 言葉どおりの内容であるかどうかは まだまだ問い求めの余地があるのではないでしょうか。 こうやって わたしは そうとう TENNTENNSEVENOKさんのご議論をもてあそんでいます。はっきり告白します。告白しておきます。そして この言辞は つりあいを取るためです。――こうなると きわめて 挑戦的にもなりました。もともと 文責は 負っていますので その点は だいじょうぶです。いわば けんかを吹っかけているかたちにも なってまいりましたが これも 対話ないしその場のしからしめるわざです。そして それを わたしが 推し進めております。 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。 もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここからは 文章責任者であるパウロの 世話焼きの度合いがひどいということを読んでも よいでしょうが わたしには かれが おのれを高ぶらせ 誇ろうとしているとは とても 思えません。しかも もし 誇ることがあるとすれば その誇るものは あなたも同じく持っているものだと言っているのですから かれが いかに わたくし心から自由なその《わたし》であったかを 汲み取るべきでしょうね。 あぁ やっぱり わたしの文章は ★ 中身のない感情のぶつけ ☆ に終始していますね。
25、47。 まずはお気遣いのなきように、時間と体力については、こどもが離乳期です。不名誉な勲章の持ち主については、brageloneさんのインタムライスムと彼の合議制民主主義がなぜ摺りあわなかったか、思うにスタイルの違いが大きいのではないかと思います。彼が退会Noコードのコレクターであろうと名前のコレクターであろうと、誰かが困ることになるとは誰も思っていなかったでしょう。スタイルは非常に軽やかです。サイト運営者にはシステム的に重いということになります。 本題です。 > ここに――消極的にですが―― 信仰のすべてがあると見る立ち場です。 > それじたいが 信仰なのだと見なし合って 対話をすすめていけばよい。 異存はありません。わたしもそのように思っていますよ。わたしに特定の信仰がないことはご存じでしょうけれども、 わたしが述べた言葉では信としたところ、これは、信仰の簡素にしてすべてを指すと思います。 宗教ではなく態度、アティテュードの次元の事項だからです。 こんにちでは、それがやや損なわれているとして、話をすすめてきました。 例に従うなら、母や葉っぱが、これほど存在を不安定にした時代はないと言えるほどです。 68年が舞台の《存在の耐えられない軽さ》とはだいぶ事情が違うようです。 社会の固い網の目に変動があってわたしたちはこぼれるのではないということは言えそうです。 追伸 自我の話題が出ることに驚き、むしろ困惑を覚えます。 分析のツールである自我は、分析を離れて、存在するものとして扱うべきではない。わたしからの警鐘です。 余談ですが、文体から症状が判別できない素人であるならば、分析ごっこは超自我を深い迷妄に誘い込みます。 自覚のある方はどうか危険さを省みてほしい。 もちろん哲学の場に拝借してきて思考を鍛えなおすツールとなりうるのならばそれを制止するつもりはありませんが。
お礼
amaguappaさん。河合隼雄についてです。(2月13日記)。 評価のしにくい思想の持ち主であると思っています。 新書二冊にわたって書かれた自伝は そのほかの著作品のすべてをまとめるかのように うまく きちんと 自己表現されています。そして 理論としての自己表現も明らかにされております。 二点を挙げます。ひとつは 日本神話に題材を採った《中空構造》の視点です。中心にアメノミナカヌシの神という何もしない柱を据えるという世界観――いわゆる《権威》の問題ですね―― これが 日本社会の構造にも 反映しているという理論ですよね。 もう一つは ユングから承け継いでいるかに見える《神の四位一体》説です。 数学専攻だったということも然ることながら しかも 超自然のことがらにも関心を深めていくわけですが そのように推論じたいについては よく通っていました。 テレビで 遠藤周作との対談を聞きました。遠藤の神学は 一言で言ってしまえば すべて 想像の産物です。非思考としての信仰ではありません。想像と思考と信念とから成る人生訓です。その基礎だけで あとは いわゆる文学的に ものごとを見ている点を突いて 河合は きわめて正当にも 主観の共同性とは どういうことかを 説明していました。 ですが その結論は たとえば 上に挙げた二点の理論です。《中空構造》については そのほかの構造形態が可能であるはづですから それについても触れなければいけないでしょうし それらの形態論を 理論的に 展開しなければいけません。民主主義ならそれとして どうであるか に触れなければおかしいはづです。 《四位一体》説は いわゆるグノーシス主義の問題です。ですが これに対する批判は 簡単です。善の神と悪の神とが 互いに同等に 全体としての神の位格を占めるとなれば けっきょく 哲学は 何も考えることもなく すべては あそびであると宣言したも同然です。善は悪 悪は善となります。世の中 絶対的に飲めや歌えやであり 何をどう振る舞おうと うまく身を処した者が勝ちだというものです。 わたしたちは どうも 互いに 願いは同じなのですが その目指すところに到る道は 別の筋をとおって歩むということになるでしょうか。そういう場合も あるのでしょう。と ひとこと 申し述べておこうと思いました。
補足
amaguappaさん ていねいに 重ねてご回答をいただき ありがとうございます。少々 お時間をわづらわせ申し上げましたね。 ○ 自我・超自我・本能 ☆ これらは わたしにとっては 心理学の本を初めにひもといた時から――さもありなん とは思ったものの 生来の天然ぼけの所為で ほとんど取り上げることもなく―― もう使って来なかった語彙に属します。 ★ 自我の話題が出ることに驚き、むしろ困惑を覚えます。・・・ ☆ うんぬんということで amaguappaさんは きちんと位置づけていらっしゃるようですが その位置づけのほうも わたしにとっては どうでもよいものとして 放っておいた経過があります。その意味で つまりまったく別の意味で 《困惑を覚えています》。ぶっつけ本番です。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 分析のツールである自我は、分析を離れて、存在するものとして扱うべきではない。わたしからの警鐘です。 余談ですが、文体から症状が判別できない素人であるならば、分析ごっこは超自我を深い迷妄に誘い込みます。 自覚のある方はどうか危険さを省みてほしい。 もちろん哲学の場に拝借してきて思考を鍛えなおすツールとなりうるのならばそれを制止するつもりはありませんが。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 重ねて掲げて――と言っても 必ずしも その中身について わたしが承知しているわけではなく 情けない限りなのですが―― 今後の指針にしていくべきことでしょうね。 お子さんが まだお小さいとか。知りませんでした。と言いますか 想像しませんでした。すでに 大御所の地位にお有りの方とお見受けしていましたから。(比較的に高齢での出産もあるわけですから なんとも言えませんが)。そうですか。楽しみですね。 そう言えば agrippaさん(ほかにもいくつか名前がありましたね) どうしていますかね。どこかで 自分に・自分の思考の翼に 壁か境界を わざわざ 設けているところが あったように 記憶していますが。対話を 行き着くところまで すすめない。か もしくは 進んだとしても 持論を変えない。・・・(もう やめときます)。 ★ 宗教ではなく態度、アティテュードの次元の事項だからです。 ☆ これが なんとも あいまいになっていると わたしも 考えます。もしくは ○ 態度も何もかにも 果ては 人格までも 宗教のほうに 寄せて行き あたかも蚕が繭にくるまるように 自我か超自我か あるいは むしろ ほかの人間に求めたところのカリスマ自我か何か 結局は大いなる幻想に 寄りすがって行くかに見えます。 ★ 例に従うなら、母や葉っぱが、これほど存在を不安定にした時代はないと言えるほどです。 ☆ そうですねぇ。テレビのニュースなどで 生徒たちが 田植えを体験したりして 自然に親しもうとする動きもあるにはあるように見受けられますが そのことは やはり めづらしいことになっているのでしょうね。それ以上に このような変化について 次の評言は 盲点をついたものになるのでしょうか。 ★ 社会の固い網の目に変動があってわたしたちはこぼれるのではないということは言えそうです。 ☆ 例に挙げられている《68年の革命》について 語り得るほど詳しくありません。ミラン・クンデラとかいう人のその著作には たまたま勧められて読んでいますが だからどうなのかという問いを抱いたまま 来ています。 上の評言は ちょうどここでも触れることがあった《〈羞恥心〉現象》のごとく わたしたちの むしろ何かを意図しないままの ふつうの生活に根ざした姿が 少しづつ 変わって行き これが 社会のあり方をも変えて行くというふうにも とれる内容にも思えますが。《こぼれる》という言葉を 拡大解釈しての読みですが。 これは まだまだ うかうかとしてはいられませんね。この何気ない質問にも いくつかの課題が 詰まっているようですね。 《合議制民主主義》 然り。《自我・超自我・本能》然り。精神分析も 同様でしょう。《自然本性》 あるいは 《ものごとの自然のありさま・あり方》。信仰に対して 宗教の現状。 たとえば現代っ子といえども 落ち葉が どこかの工場で製造しているものだとは 思っていないでしょうね。 一歩一歩 あゆんでまいりましょう。
- hakobulu
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逸れた横道をそのまま進む形になるかもしれませんが、 > ○ 信仰にとっては 《いま・ここなる〈わたし〉》が 存在の全体として 人格の全体として あるのみです。 ☆ いちいち 自我もへちまも ありません。本能も どうでもよいものです。 :そうですね。 素人の悲しさでうまく説明できないのですが、信仰といい、なんでも良いのですが、社会的に自己を顕現しているものは大体自我と捉えることが可能だと思います。 本能の超自我のといったところで、それらだけが発現することはまずありません。 必ず自我という門をくぐらざるを得ないわけで、信仰も犯罪も無為もすべて自我の表明と言えます。 本能や超自我の調合具合によって、様々な形態を持つ自我として私たちは対社会的な顔を持つことになります。 つまり、社会的存在と認識された段階ですでに自我の発現があるわけで、その自我は本能と超自我が妥協した産物というわけです。 自我もへちまもあるわけですし、本能がどうでもよい、といっても信仰という超自我性のみで 『 《いま・ここなる〈わたし〉》が 存在の全体として 人格の全体として ある』 ことはできない、ということになると思われます。 >信仰は 非思考であり それは 無根拠という意味です。 :これはわかるような気がします。 ただ、非思考であり、無根拠である信仰というものに引き寄せられるには、それなりの理由があるのが自然です。 そんなことを言ったら、なにごともそうではないか、ということになりますが、そのとおりと思います。 ただ、それらを構図として把握しておくことがそれほど無駄なこととも思われません。 ▲ (コリント前書4:7) ~~~~~~~~~~~~~~~ あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。 もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ :という文言も、私にとっては興味ある視点で、非常に新鮮な印象を受けます。 ただ、真理というよりはひとつの戒めとしてより解釈できません。 どうも不信心者は無粋でいけませんが、このへんが食い違いの大元なのかもしれませんね。 せっかく宗教は別にして、とおっしゃってくださっているのですが、私としては、信仰についてもう少し理解しないと難しいのかなという気もします。 >自我など どうでもよいと言えば それは 自我が崩壊することだと採るでしょうかねぇ。 :少なくともそう感じはするんじゃないでしょうか。 または、(無意識的にせよ)それを求めて・・・ということもあるでしょう。 「自我はどうでもよい」という自我があるではないか、と言われそうですが、「自我はどうでもよい」と認識すること自体が自我の弱体化を物語る、ということになるでしょうか。 >こわいでしょうか。 :というか、甘美の沼に入り込むような印象ですかね。 >自我など・あるいは いわゆる自尊心とやらなども 気にしていませんでしたから。 :どの分野においても(本能・自我・超自我の)バランスのとれた方はいますしね。 同時に、これがバランスのとれた生き方みたいなものもないわけで、それ(バランス)自体の必要性を認識しているかいないか、というあたりが関係してくるように思います。 今回たまたまそのバランスの例として述べたわけですが、信仰すること自体を云々したわけではありません。 なんか横道に逸れさせてしまったようですみません。 そういえば、まだ顔洗ってなかったような気も・・・。
補足
hakobuluさん ご回答をありがとうございます。 なるほど。信仰の理解を 伴なったほうが 分かりやすいのかも知れません。 ★ (本能・自我・超自我の)バランス ☆ という言い方・見方をするのであれば 信仰という・これも――その対象は 非経験の絶対ですが それを信じる・つまりは 受け容れるというのは――経験行為ですから その意味で この信仰のあり方と 自我のあり方との異同を明らかにすることは よいことであるようです。 けれども ☆○ あやまつならば 〔その気づきにおいて〕 われあり。 ☆ というとき ○ 欺かれるならば われ あり。 Si fallor, sum.( Augustinus ) ☆ とも表現し得ます。すなわち これが 信仰の立ち場〔もしくはその立ち場を同じくする思想の立ち場〕であるわけですから このときの 人格のあり方を探るとよいかも知れません。 すなわち 《あざむかれる》のです。いわば自我も本能も超自我も どこかへ行ってしまっているその隙に乗じて 起こる事件であり その事件を契機にして われに返るという自己還帰を得るわけです。 はっきりしていることは この自己到来において 自己の回復のために 自我も超自我も本能も それとして はたらいていないことです。 わづかに 《気づき》が起きますから そこに 《思考》を伴なうようになりますが――そして その思考を 取り立てる場合もあるでしょうが―― はっきりしていることは すべて(自己到来のすべてが) 向こうからやって来るということです。内面に起こることですが 必ずしも内発的ではないようです。 《あやまつならば・・・》と表現しても けっきょく 同じだろうと思います。《あざむかれる》場合を取り上げるなら いっそう あざやかに分かるというものです。その《気づき》には むしろ 自我も超自我も どこかに放り投げておかれていると言ってよいのではないでしょうか。 《気づく》その能力は わが身体=精神のもので それこそ ▲ (コリント前書4:7) ~~~~~~~~~~~~~~~ あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。 もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ と言われることにかかわっているそれだと思われます。内発的でないと言っても そういうふうに 内面の能力とその発動であるようです。 ★ 信仰という超自我性のみで ☆ これは――表現として違和感を持つというただそのことを言おうとするのですが―― やはり 両者は 同じものではないでしょう。 ○ 信仰が 愛(意志)をとおして はたらく。 / あるいは 愛が信仰をとおして はたらく。 ☆ という言い方をしますが 意志の発動およびそれによる自己表現 これが 《わたし》の生きることであり 実際の動態でもあります。そこに 信仰が位置しています。だとすれば かなり譲歩して すり合わせを行なうならば ○ 信仰は 超自我のはたらきを持つこともあれば そのまま 自我として 自己表現に踏み出すこともあり 時には あたかも本能そのものであることもある。 ☆ これが 《わたし》という生き物であるということになると思うのです。 * 《信仰》とは何ぞや?を推し進めても いいかも知れません。
- hakobulu
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私がこのように強弁するのもおかしなものですが、「誤解」ではないように思われます。 やはり、信仰は賭け(言い得て妙です)でしょうし、(教義を信じるのでない以上)非思考でもあるでしょう。 ただ、 >こうであれば ★ 自我も 超自我も ☆ 関係ないのです。 :ということにはなりません。 ここでこのようなことを言うのはお門違いかもしれませんが、自我や超自我は思考ではありませんし、ある一個の生命エネルギーの顕現の仕方にすぎません。 思考そのものではなく、「思考させる力」あるいは「思考させない力」などなわけです。 >《想像》あるいは 何らかの《表象》とは いっさい かかわらないゆえ 《信じる》というわけですから。 :まさにおっしゃるとおりですよね。 素人の分際で講釈を始めようというわけではありませんが、本題に絡む大事なところだと思うので、もう少しだけ補足させていただきたいと思います。 超自我とは本能の抑圧(または抑制)によって作動する、ある意味で「非動物的な指向性」を指す、と(素人なりに)解釈しております。 人が言動するとき、その時点ですでに本能や自我、超自我はすでに仕事を終えていることになります。 あえて言えば、それらもまた、非思考ということです。 といったようなことを前提にして、 > ☆ ですから 信仰が与えられ その持続が始まったとするなら その時点からは 自我は もはや どうでもよいと捉えています。自我を見張る超自我も 要らなくなります。 :「>その時点からは 自我は もはや どうでもよい」となるように、 そのようにして自我の崩壊につながりやすい、ということです。 また、超自我が自我を見張るのは確かですが、これはむしろ、自我が超自我の顔色と窺う、という構図のほうがより実態に即しているようにも思います。 超自我が過剰な要求をすることもありますし、自我に(本能との)調整力がないと、たとえば自分を犠牲にして困窮する人を助けようとする宗教者などのように、「私=自我」を見失ってしまうでしょう。 それはそれで、むしろ賞賛されるべき所為なのかもしれませんが、そして嫌いではありませんが、しかし、生命の本質から言うとやはり「すなお」とは言えません。 つまり、そこにはなんらかの「無理」が働いているわけで、なぜそのような無理をするのか、ということに関して精神分析などからのアプローチもあったりするのでしょう。 とはいえ、誰しもぬるま湯の中で暮らしているわけではなく、何らかの無理は必然ですから、そのことを特異視するつもりはありません。 しかし、その「無理」の善性によって、その「無理」を普遍性と解釈してしまいがちなこともありがちです。 だいぶ横道にそれてしまったのかもしれませんが、このような感想です。 逸れついでに、 >そしてそれは 無神を信じる・つまり信じないと言うのと まったく 同等・対等だという見方が 正解だと考えます。 :に関しても少し述べさせていただけば、これは2つのパターンがあるのではないでしょうか。 ともかく信じない、という立場。 信じないというわけではないが、信じるに足る根拠が薄いので信じると言い切ることはひかえている、という立場。 後者の場合は無思考とは言えないような気もします。
お礼
hakobuluさん ご回答をありがとうございます。 まづ ○ 信仰は 非思考であり それは 無根拠という意味です。思考しうべき根拠とは いっさい かかわらない。 ☆ という意味です。これで 無神論が 信仰のひとつの形態だという見方で よいはづです。 そうだとすれば――つまり 無根拠だとすれば―― ★ 自我・超自我・本能 ☆ とも 信仰は かかわりがないと言えるはづです。それは ○ 無理な自己犠牲は 信仰にとっては 何の意義もない。 ○ なぜなら 信仰が もし命じたとするなら まだ わかるけれども 超自我が命じたというとき 信仰にとっては 何ら かかわっていません。 ☆ ゆえです。超自我が どうはたらこうと 信仰にとっては 知ったことではありません。 ○ 信仰にとっては 《いま・ここなる〈わたし〉》が 存在の全体として 人格の全体として あるのみです。 ☆ いちいち 自我もへちまも ありません。本能も どうでもよいものです。 * 自我など どうでもよいと言えば それは 自我が崩壊することだと採るでしょうかねぇ。こわいでしょうか。――わたしの場合 もともと 能天気で 自我など・あるいは いわゆる自尊心とやらなども 気にしていませんでしたから。すんなり 信仰が与えられ 入っていきましたけれども。 でも ○ あやまつならば 〔その気づきにおいて〕 われあり。 ☆ といえば 存在ないし人格の全体のことを言っているはづですよ。その気づきのときの思考を 取り立てて見せれば 《われ考える。ゆえに われあり》になりますけれど。でも こちらのほうは やはり 自我の問題と癒着してしまいましたね。
- hakobulu
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理解力が足らず、つい断片的な感想にならざるを得ないにも拘わらず、丁寧に対応していただきありがとうございます。 今回は、私の最初の回答である#32に対する bragelone さんの補足に関連して述べることになります。 >まぁ 《さとった》と能動的に表現するのも いいかも知れませんが 《さとりを得た》ことを《すくわれた》と表現しても ★ 矜持 ☆ を失うとも思えないのですが どうでしょう? ★ 自我崩壊 ☆ にむすびつきますか? :むすびつくように思われます。 今回おっしゃっておられる、 >信仰に関しては 煮詰めた議論としては けっきょくのところ ○ 賭け ☆ であると捉えるものです :という観点は同感できますし、それゆえに、ということになるでしょうか。 賭けるという場合、そこには自らの力で立つという、つまり自我に関しては放棄してもよい、という暗黙の了解の下に第一歩を踏み出すのではないでしょうか。 賭ける対象が神であろうとギャンブルであろうと、それは同じだろうと私は思います。 学問的裏づけは持ちませんが、個人的に表現させていただければ、(信仰の場合)超自我の比重が高くなりますから、どうしても不安定になるでしょう。 一見安定しているようですが、本性である本能や、調節機構としての自我の領土が狭いため、もろさは付きまとわざるを得ないでしょう。 決して信仰に対する批判ではありません。 ただ、即座にというわけではありませんが、また常に、あるいは全てがというつもりもありませんが、自我崩壊という指向性を伴うものではないか、ということです。 公言するという行為が、こういった指向性に拍車をかけるものではないか、という気がするので、個人的には疑問符がつくかな。 ということになるのかもしれません。
補足
hakobuluさん ご回答をありがとうございます。 今回は 信仰について 誤解があります。あるいは 《賭け》が 誤解を生んだかと 恐縮です。 ★ 賭けるという場合、そこには自らの力で立つという、つまり自我に関しては放棄してもよい、という暗黙の了解の下に第一歩を踏み出すのではないでしょうか。 ★ (信仰の場合)超自我の比重が高くなりますから、どうしても不安定になるでしょう。 ☆ 《賭け》という場合に たしかに 誤解を避けるために 最低のこととして ☆☆(No.47補足欄) 信仰は 非思考です。 ☆ と添えるべきでした。こうであれば ★ 自我も 超自我も ☆ 関係ないのです。《思考》とは関係ないからです。《想像》あるいは 何らかの《表象》とは いっさい かかわらないゆえ 《信じる》というわけですから。頭の中のはたらきとは まるっきり かかわらないのです。心の向きあるいは傾きと言うべきような その決断のときの決定としての意志行為 これのみ 起きます。 別様に言えば ○ 信仰は 自我・超自我 あるいは 経験思考 あるいは 頭の中で処理する調節・管理の操作 これらをすべて 超えています。 ☆ ですから 信仰が与えられ その持続が始まったとするなら その時点からは 自我は もはや どうでもよいと捉えています。自我を見張る超自我も 要らなくなります。 というような からくりです。 ただし たとえば いわゆる 《キリスト教を信じている》などという場合には その《教義》を信じているというのは おかしいことになります。 つまりは《教義を 思考の対象として捉え その認識によって 物事の判断をおこない みづからの意志決定をおこなう》ということになります。これを 信仰と言うほど ばかな話は ありません。それなら ただの思想であり せいぜいが いわゆる信念信条のことになります。 信仰の対象は あくまで 《絶対》であり これを思考によって把握したなどと言う人がいれば 自己矛盾です。分からない・なぞだから 絶対であり 絶対とわたしとの関係として 信仰であるというものです。 《〈教〉を信じる》というのは あり得ません。言うなら 神を信じるです。そしてそれは 無神を信じる・つまり信じないと言うのと まったく 同等・対等だという見方が 正解だと考えます。《信じない》というのは やはり 非思考なのです。思考ではありません。賭けです。ですから 実態は 無神論の信仰者なのです。どうでしょう。 経験と超経験(絶対)とは きちんと 識別すべきです。もっとも 後者は ただの想定であるに過ぎません。
- hakobulu
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>この《宣言》をめぐっては 結論が 総じて言って 逆になるようですね。 :そうですね。 関連性があるのか無いのかよく理解できていませんが、件の「悪は存在しない論」のときと似たような印象を受けています。 端的に言うと、そういった視点から何が得られるのだろうか? ということになるでしょうか。 人間の本性に沿った視点だろうか? という疑問でもあります。 本性が何かということを今持ち出す煩雑になるでしょうが、無理のない、つまり、普遍的な真理と言える(あるいはそれにつながる)のかどうか。 これが気にかかる点です。 ◇ >《さとり・すくい》という概念じたいは 絶対的な中身を言っているのでしょうが その体得・体現は 段階があって 完全なものだとは捉えていないという意味です。 :そうだったんですか。 であれば、「救われている」と宣言しない者こそ真の救い(あるいは悟り)に向かいつつある、という可能性もあるわけでしょうか。 そのような趣旨であれば、 『さとりや救いを得たと感じても、それらが完全なものである場合は稀である。』 という前文があればわかりやすかったような気がします。 聖書からの引用(ですよね?)があったりしたことも加え、『「>絶対的な」救い』を想定してしまったので。 おっしゃるような「さとり」なり「救い」なりに関して、 『だから、たとえば「救われている」と公言することによって、「>ひととの関係 社会の中でこそ 確かなものにしていこう。」』 と続くのなら(理屈としては)わかります。 しかし、そうだとすると、冒頭に戻りますが、 「救われている」と宣言しない者こそ真の救い(あるいは悟り)に向かいつつある。 ということにならないでしょうか。 >なぜ すなおでないのでしょう? :ということに関しては、それほど大事なこと(救われる、あるいは悟る)に関して、たとえ方便にしても、そうやすやすと素直になることのほうが問題ではないだろうか。 といったような感想も浮かんだりしています。
補足
hakobuluさん ご回答をありがとうございます。 拍子ぬけなさったかも知れませんが そういうことなんです。 ☆☆ (No.38補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ○ すくわれていると公言したからには 自分の弱点も〔* ひとがおしえてくれるぶん より一層〕わかるし 出れば ただちに 直そうとします。 ☆ ということなんです。公言していなければ 自分の内面において 自分の努力だけで 気をつけているし 直していくということだと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これが 骨子ですね。 あらためて 振り返りますと―― まづ 《すくわれている》と 心には 思っている場合から もはや 出発してよいようですね。 これを 今度は 公言するかどうか そういう選択を迫る質問になります。 ★ 「救われている」と宣言しない者こそ真の救い(あるいは悟り)に向かいつつある、という可能性もあるわけでしょうか。 ☆ これを 今度は 論じていただけるとありがたいのですが 別の主題になりましょうか。また 同時に ★ 人間の本性に沿った視点だろうか? ★ 無理のない、つまり、普遍的な真理と言える(あるいはそれにつながる)のかどうか。 ☆ に 当然の如く かかわっています。じつは 地続きと言いますか 存在論あるいは自然本性の理論もしくは自由意志論 そして善悪の議論 これらに 直接に連なっていると見越しています。あるいは それらに最先行するものとして 非思考なる信仰の議論 これが あります。しかも 論理的には この信仰(もしくは 良心および信教)から 生活のすべては 派生してくると捉えますので 信仰に関しては 煮詰めた議論としては けっきょくのところ ○ 賭け ☆ であると捉えるものです。だとすれば ○ その内実をいっさい問わずに 《すくわれている》と宣言するか否か ☆ という設問の仕方は 経路をたどってですが しかも 直結していると考えるものです。 ですから ここでは 普遍性の議論をしませんが あたかも おこなったと見なしての今の質問というかたちにも 形式上は 成っている。こういったからくりです。 余計なひとこととしましては ○ すなお ☆ の問題も いまの《賭け》としての決断の問題であるように捉えているというのは 正直なところなのです。 一方的・主観的すぎると言われるかも知れませんが そのあたりにも批判を頂戴できれば ありがたいと思うようなこととなります。 * なるほどと思われる補足要求が いくつか 挙がって たいへん うれしい限りです。思えば そういうこと つまり いくつかの論点につながっているということ なんですよね。いま そういう中間段階にいるようです。
補足
easy_allさん ご回答をありがとうございます。 あぁ そうですか。そうなんですか。サルトルのことですが。 実存主義も サルトルも 間接的にハイデガーも 論じようと思って触れたわけではありませんし そこまでの定まった評価を わたしは 持っているわけでもないのです。弱りましたね。 専門の方に 飛び入りでもしていただいて さらに第三者からの判定を加えられれば よいかとも思いますが どうしましょう。 紹介されているサルトル評について できる範囲で 感想を述べておくべきでしょうね。 ▲ 「サルトルの言う自由は、徹底的な価値否定の上に成立つだけに、いかにも無内容であり、責任と表裏だと言われても、何に対する責任なのかが見えにくい」(片山洋之介) ☆ これは 素人目にも おかしいと言ってよいのではないでしょうか。 ▲ サルトルの言う自由は 徹底的な価値否定の上に成立つ ☆ でしたら なおさら 哲学の原点であるように思いますが。たしかに 原点というのは いわば無味乾燥であり ▲ 無内容であり ☆ と言われても 仕方がないところですが それを言って 批判したというのでは 《論評》という文字じたいが 泣きます。 ▲ 責任と表裏だと言われても、何に対する責任なのかが見えにくい ☆ 《見えにくい》ことと 《自由と表裏となった責任がない》こととは 別です。こんな評論を いまどきの学者は しているのですか。これは おどろきです。むろん その後の追跡をわたしがしていなかったことの証明になるのですが それにしても 日本の哲学思想は いったい どこへ行ったのでしょう。 と口をすっぱくして 愚痴りたくなりますね。(間接的に easy_allさんを 批判したことになってしまいましたが)。 ★ この<価値>を、現実世界で体感できないのが、現代の課題だと私は考えています。 ☆ 《体感できないけれども この〈価値〉を問い求めている(――あるいは 〈すくい〉を求めている――)なら そこには すでに すくわれている姿がある》と わたしは 言っています。なぜなら 《問い求めている》のなら 《すでに――言ってみれば 知識や見識としてではなくても いわば魂においては――知っている》と言えるからです。人格の問題としては そこまでの境地を すでに 潜在的にでも 知っていると思われるからです。知っているからこそ そのさとりや すくいを問い求めると言うべきだからです。知らないものについて 《価値》とは言わないでしょう。 もし どうしても求めても得られないということでしたら そのかたちのない希望において 求める者は すくわれている。と言うべきでしょう。そこから 新たな出発ができるでしょうし 新たな局面が開かれるかも知れません。そういうものです。 ☆☆ 社会的なコミットメントを意味するアンガージュマンは 自己に 逃れる余地を もう 作らないわけですから 前向きの姿勢であるように考えます。どうでしょう ☆ 少々 しつこいですが このように 公共の場で 社会にかんする発言をおこなうならば とうぜん 文章責任が生じます。その答責性を果たすべく 努力するのは ふつうの姿です。――という受け取りが ふつうの批評なのではないですか。 振り子が もう一方の極に振り切るかのような批判をするとは 初めっから 何も理解していなかったことの証明ですよ。 けっきょくのところ easy_allさんのご回答にも けちをつけてしまったようですが これは ごくごくふつうの ごくごく率直な反応になるのだと思いますが どうでしょう。