カント「判断力批判」を私が読み始めたとき、
初めの30頁位は、1頁に1時間ほど。2時間超の頁も、ありました。
岩波文庫だったから、書き込みスペースが少なくて、ノートを作りました。
そこから慣れて来て、「趣味判断の第三様式、10合目的性一般」からは、ノートをやめ、付箋をページに貼りつけて、論点を整理しました。
スピードも上りましたが、カントの論理の進め方がつかめて、
またドイツ語の構造が、訳文の向こうに透けて見えて、かなり楽になりました。
次の44頁は、そんな感じで、1頁1時間弱でしょうか?
そうやって74頁になると、美の分析は終了で、崇高に入ります。カントの手法が、何とか把握でき、面白く読めました。
崇高も、実質40頁です。その後は「美学的反省判断の解明に対する総注」(岩波文庫なら183頁)など、カントも伸び伸びと記述しており、これまで既出の論点が詳説され、ぐっとわかりやすい。
また、興味のない項目は飛ばしても、まったく支障ありません。
下巻も、そんな感じで、実質のボリュームは半分です。私が熟読したのは、16頁前後、42頁(けっこう重要)、77頁(かなり重要)、140頁です。
『美とは何か?』この大難題に、ひるまず恐れず挑んで、スゴい。
三島由紀夫は、「カントは、判断力批判で、すってんころりんしてしまい・・・」と、どこかの大学の、
小平キャンパスでのティーチインで、話していました。
確かに、この分析手法の緻密さに対して、結論はややガッカリですが、
それでも『美とは何か?』カント以後に、ここまで考えぬいた人はあるのか?と、私は思います。
>哲学書を読むときは、どれぐらいの量読めますか?
私は、哲学のアマチュアです。プロの研究者とも、話したのですが、
1頁で2時間超、はザラです。
また「ノートを作るのは、だめ」という点でも、彼と一致しています。
本vsノートがどう対応するか?一覧性が無いので、論理の組み立てが一目でサッと眺望できないから、です。
だから、余白への書き込み+蛍光ペンの4色で論理を明確に浮き上らせる+付箋で、ページを超えて論理をつなげる
という方法を、私は愛用しています。
ハイデガー「存在と時間」は、熟読して要約を作成しました。
計算すると、1日10時間でまる4ヶ月かかりました。
これも、最初は苦労しましたが、序論が終って、第一部になると
めくるめく面白さで、まったくすばらしい体験でした。
ヤスパース「実存開明」も、最初は苦労して、新幹線の東京→京都の
2時間ちょっと、ずっと同じ頁を見て、うなっていました。
私が最初に、苦労して読んだ哲学書です。
「方法序説」を、まるで村上春樹の小説のように読んだのは、私も同じです。
だが「実存開明」を3割くらい読むと、あとはずっと楽で「形而上学」も、日経新聞の経済教室くらいのペースで読めました。
バルトだけは、何冊読んでも難しい。だがそれが大きな魅力です。
どうでしょう?私は、ヤスパース→ハイデガー の順で読むのを、おすすめします
お礼
回答いただきまして有り難うございます。仰るとおりに思います。 デカルトのほんの一文でも、自分の経験や他の哲学者の意見と照らし合わせて見ると、それだけで持てる労力のすべてを使い果たしてしまうようなときがあります。 とはいっても、古典やよく言及される本をとりあえず目を通しておきたいという想いから、なかなかそこまでの解釈をつけていくことはやれてないのですが…。 「純粋理性」は読みました。 用語の意味はもちろんですが、一つの体系として理解していくには三冊とも読まないとだめ なんだということを、すごく感じております。カントとつきあいが深まるにつれ、最初に抱いていた、空論的な形式主義者ではないことがわかり、また自分の批判がいかに無理解な物に基づいてたかを思い知らされているところです。 それにしても、「存在と時間」十回目とはすごいですね…。十回読むと何か違うものが見えてくるのでしょうか。