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明治憲法下でどうして政党政治が成立しえたのでしょうか?
明治憲法って初め藩閥による超然内閣で政治が独占されていたのに、なぜ、政党政治に時代は変わっていったのでしょうか?薩長がそう簡単に政権を手放してしまったのはなぜなんでしょうか?ふつうだったらそう簡単に手放さないですよね。どうして、それをしたのか。また出来たのか、理解できませんでした。どなたか教えてください。よろしくお願いします。
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ひとつには、明治維新における「御誓文」の存在があります。 また、藩閥政治では、納得しない人々が出て、争いになります。 また、いつまでも藩閥政治を行っていると、欧米諸国から、「遅れた国」と侮蔑され、外交上不利になったからです。 このため、欧米諸国の制度を取り入れ、立憲君主制議会内閣制を発足させて、欧米諸国に納得させたのです。
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- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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同じ時代意識での、結果的には翼賛的な政党ですものね。 改良・改善とかの意味ですし、反体制とはいえてないでしょうね。 民権運動はまたちょいと別にして。それにしても革命いけんではないですからね。 下野した要人やスタッフが首謀となっているのでしょうし。 そういう範囲の、明治体制、明治憲法下の政党ですからね。
- Yelm
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敢えて言えば明治体勢は現代の開発途上国に見られる『開発独裁』の走りに近いものです。 アヘン戦争に始まる欧米列強の脅威に対し、明治期の日本政府は数百年に渡り続いた封建制度を捨て去り、近代的な国民国家への脱皮を模索しました。藩閥政治もいわばそのための「必要悪」として認められていた経緯があります。 その結果、日本は世界第三位の海軍大国にして国際連盟の常任理事国という紛れもない「大国」の座を得たのです。 そして開発独裁体制が進展すると豊かになった国民が諸権利を要求しだしますが、戦前の日本でもこれが大正デモクラシーに繋がり、普通選挙の制定と政党政治の進展となったわけです。 ところがこのとき、制定から既に40年を経て大日本帝国憲法は制度疲労を起こし、実態と合わなくなっていました。 ところがさしずめ昨今の日本における護憲論と同様「過去の日本の発展は大日本帝国憲法あってのこと」として憲法の改正には誰も取りかかりらなかったのです。 そしてその結果、ロンドン条約調印時に野党だった政友会は「海軍軍令部の同意の無い軍縮条約の調印は統帥権干犯だ」と政府を猛攻撃します。 それまで軍や憲法学者、政治家の主流は「軍の統帥権はあくまでも純粋な作戦面に限定される」というのもので軍縮条約が統帥権干犯との意見は軍内部でも少数派に過ぎず、あくまでも政府・議会側が突っぱねていれば何の問題も無かったはずでした。 言わば40年を経て制度疲労を起こしていた体制を改正するのではなく、政府の足を引っ張る材料に利用したのです。 またそのような党利党略に凝り固まった行動は当然ながら、政党政治に対する不信感をかき立てることになり、議会の力は更に落ちていきます(当時の現役軍人の書いた書籍ですら「統帥権の独立は時代錯誤で、日本の将来を危うくする」と書いたものがあるぐらいで、学識ある人間ならその程度の事は分かりきった話でした)。 この結果、統帥権は一気に拡大解釈されてしまい、また政治家が軍の行動を非難すると「統帥権干犯だ」と揚げ足を取られるようになり、議会は自ら軍に対する統制機能を放棄してしまうのです。
- cse_ri2
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それは簡単な話です。 明治時代には、まだ『公』という意識が多くの人に残っていたのです。 『私』だけを考えれば、明治維新で生き残った薩長の元勲が、権力を手放すはずがありません。 しかし、当時はまだ己の私欲よりも、天下国家を重んじる意識が、特に下級武士の出身者に残っていたのです。 徳川慶喜がなぜ最後まで抗戦しなかったのか。 また、野に下ったあとも、明治初期の混乱を眺めながら、なぜ旧幕府勢力を糾合し政府と戦わなかったのか。 まだ将軍職にあった頃の徳川慶喜には野心もありましたが、いったんその地位を捨ててからは、『私』を徹底して隠し続けました。 今の政治家・役人を基準として考えると、とても理解できないでしょう。 しかし、明治という時代には、まだそういう気風が残っていたのです。
- Auskunft
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明治政権樹立後の権力闘争は征韓論で表面化しました。 倒幕の功績に比例し、薩長土肥が握っていた権力が分裂します。 薩摩の一部と、土肥が反対に回りました。 反対派の一派が、まずは武力で反発します。西南戦争で西郷と薩摩士族が敗れると、武力で政権を奪取する可能性は絶たれました。 そこで言論を使おうとして起きたのが自由民権運動で、近代的な政党が作られました。 この時期の権力を握っていたのは薩摩の蜂起しなかった組と長州で、いわば与党です。薩長は何より、それぞれ海陸軍に勢力を持っていました。 土肥は野党的な役割となります。 なので、自由党、立憲改進党の創始者らはそれぞれ土肥のリーダーでした。 この時期、政党=野党みたいな感覚です。 隈板内閣が最初の政党内閣といわれますが、土肥も藩閥にかぞれば、藩閥内の権力闘争に過ぎないと見ることもできます。 その後、この運動は政府の意図に反して国民の支持を受け、憲法の制定と、議会の開催を目的にします。 なので、ご質問に対しては、憲法制定と議会開催は同じレベルだと答えるべきでしょう。つまり、藩閥vs政党(与党vs野党)という奇妙な対決の場が、議会に移ったのです。憲法に対して政党がつくられたわけではありません。むしろ政党が憲法を作らせたという感じです。 これらの初期の野党的な政党が力を持つのと平行し、藩閥の巨頭である伊藤や山縣といった藩閥政治家は、政党を取り込みました(立憲政友会など)。そのため政党と藩閥が必ずしも分裂したものではなくなっていました。藩閥は政党に政権を譲ったけれども政党になった、という感じでしょうか。名目は政党でも、実際は半分は藩閥です。 その後、政党政治は大正時代にむけて政党議会政治は一応は栄え、薩摩出身の山本権兵衛は海軍(≒薩摩)から政党内閣の総理大臣となり、政党からスタッフを集め、山縣・桂の長州閥に対抗して軍部を抑えたこともあります。その後も多くの政党内閣が実現するものの、背後では、軍部が大きな力を持ってもいました。 昭和初期に、この権力闘争に決着がつき、軍部が勝利します。憲法上の統帥権に冠する欠陥から、議会や政府は軍部の暴走をとめることができず、結局議会も政府も軍の言いなりになります。 軍が藩閥の子孫であることを考えれば、どこまで政党政治が実現できていたかは疑問です。なので、本当に政党政治がなされていたか、断言するのも難しいと思います。
- cipher_roy
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日米和親条約や日米修好通商条約等、欧米との間に江戸幕府が締結 してしまっていたいわゆる『不平等条約』における治外法権/関税自主権 問題の解決のために、日本が近代国家としての諸制度を整備する必要が ありました。 元々の討幕運動の時期にはお上の一方的支配構造を改革するという名目を 旗印に活動を始めたのですから、今さら約束を違えるわけにもいきません。 ただ、官僚や軍部の要所は太平洋戦争が終わるまで薩長の藩閥は実質的に 残っていましたから、権力を全くの手放しにしたわけではありません。 現代でも行政の影響力としては官僚(事務方)の方が圧倒的に強いです。 行政首長として君臨する『政治家』の側がよほど強いカリスマや実行力を 伴わない限り、官僚主導の慣例は変わるものではありません。
お礼
みなさまありがとうございました。 本当は全員の方にポイントをおつけしたいのです。皆さんとても参考になる解答ばかりです。これをもってお礼に代えさせていただきます。ありがとうございました。