聖書に関して言えば意図をもってその内容がゆがめられたという意味の改竄は存在しません。
新約聖書からお話をしましょう。
新約聖書に関してそのように言い切れるのはその圧倒的な数の写本の存在によります。新約聖書の写本はもっとも古いもので1世紀後半から2世紀前半のものと考えられています。2世紀から3世紀にかけて写本の数は爆発的に増え、現存する写本の数は5000以上になります。
このような写本には、筆写途中で誤りが含まれたりしますが、これらの多大な資料のおかげで、どの時点で間違い(改竄)が発生し、どこが間違いなのかを簡単に見つけることができるのです。ちょうど、DNAを比べて生物間の進化の系統樹を作る作業と似ています。
その結果、現在復元されている新約聖書は、少なくとも内容的・教義的には100%原本のままだと自信を持っていうことができます。(細かい語句などはその限りではなく、現在でも細心の注意を払って学者たちの議論が続けられています。)
旧約聖書の場合はそれより少し話がややこしくなります。状況証拠をもとに考える必要があります。
旧約聖書は紀元前15世紀ごろから書かれ始めたと考えられ、それまで最古の写本は9世紀のマソラ写本というものしかありませんでした。
しかし、有名な死海文書が発見されて一世紀の写本が発見されました。
この二つを比べると、旧約聖書の内容がほぼ完璧にコピーされていることがわかりました。
つまり、旧約聖書は、少なくとも9世紀の長きにわたり完璧にコピーされていたのです。
そして、それ以前はどうかというと、口承文学の出番です。ユダヤ教のラビは、現在でも旧約聖書を全文暗記することで有名です。
暗記の方法は色々ですが、大事なことは、集団全体で、暗記の内容をチェックするようなシステムが働いているということです。
聖書の内容を朗読するとき、それが間違っていたら、皆から指摘をされ、それをあらためるというシステムが働いています。つまり、聖書の内容は、ユダヤ人全員により相互チェックされ、文書(写本=現存していない)と口承の両方で受け継がれてきたのです。
このように考えると、旧約聖書に関しても改ざんや間違いなどというものはほとんど存在しないだろうという結論に達することができるのです。
おそらく、巷で改竄といわれるのは、新約聖書の、マルコ伝やヨハネ伝で、最後が作者の文体と少し変わっているように見えるため、改竄だと疑う人がいるということではないでしょうか?
これに関しては、改竄ということはできないでしょうね。なぜなら、おそらく、この二つに関しては最後に文章をまとめる編集者のような人がいたと思われるのですが、そのことはマルコやヨハネ自身が承知していたと考えられるからです。(作者の生存時期とその公にされた時期を考えると、無断で編集したということは考えられない)
つまり、結論を言うと、聖書の改竄はないということです。
補足
前回に引続き長文の回答有り難うございます。 前回への補足 BHSの本文 ヘブライ語(一部アラム語)聖書の本文は、紀元前後頃までには標準的なものがほぼ定まりつつあったが、2世紀頃まではなお流動的で、写本により本文が異なります。これを受けて標準的な本文を基にして5世紀から9世紀頃にかけて活躍したマソラ(伝承の意)学者たちによって最終的に本文が確定され、その際に複雑なシステムにより発音の仕方が示され、母音符号(ニクダ)が付された。こうして確定された本文を「マソラ本文」と呼び、マソラ本文の種々の写本のうちサンクト・ペテルベルグ図書館所蔵の「レニングラード写本」に基づいて校正されたもの(葬祭はBHSの欄外の異読、註等参照)。 写本は写字生による癖などがありますから、判読、解読するにはそれなりの学識が必要とするものです。それに間違いやすい文字として ?(ベート)≠ ?(カフ) ?(ギメル)≠ ?(ヌン) ?(ダレト)≠ ?(レーシュ)≠ ?(語尾のカフ) ?(ヘー)≠ ?(ヘット)≠ ?(タウ) ?(テット)≠ ?(メム)≠ ?(サメフ)≠ ?(語尾のメム) ?(ザイン)≠ ?(語尾のヌン)≠ ?(ヴァヴ) ?(スィン)≠ ??(シン) ??(アイン)≠ ?(ツァディ) 等がありますね(ヘブライ語文字の表記ができてるかな??)(死海写本とBHSの書き違い参照)。それにヘブライ語聖書を翻訳するときの注意としてケティーブとケレーにも注意が必要と思いますが、いかがでしょうか。 死海写本と言えば、死海写本の内容とは無縁の、空想の産物としかいいようのない説を唱える本があったことを思い出します。邦訳ものでは、M・ベイジェント、R・リー『死海文書の謎』、B・スィーリング『イエスのミステリー』(共にいわゆるトンデモ系で、高尾利数訳であるが、どうして彼がこの種の翻訳をしたのか首を傾げます)等で、それらに共通するのは、死海写本には、イエスや初期キリスト教の実態が記されているという見方がありました。死海写本を調べた範囲では、イエスとその弟子たち、初期キリスト教への言及は皆無ですね。 今回の回答への疑問 >変化したと言うより時代的・文化的・宗教的背景があるのでは、と思います。 に対する回答は、回答になっていません。前回の氏の回答は70人訳聖書におけるものであって、それがなぜか、ギリシア語聖書のマリアの議論に変化しています。70人訳聖書の問題点なのですからそれに言及して下さい。是非お願い致します。 >誤訳とは思えないので、具体的な論拠を教示して下さると有り難いです。 に対する回答は、マタイ福音書がアラム語からの翻訳という仮説の立場による論述と考えます。しかしマタイ福音書のギリシア語写本(含断片)は、UBS版、ドイツ聖書協会版(Nestle)によれば数百にも及びますが、アラム語原本及び写本は全く発見されておらず、存在が確認されていません。確かにマタイにはヘブライ語法が多いのは事実ですが、現在ではアラム語説は仮説の域を出ていません(その意味では、共観福音書のいわゆる「Q資料」も同類ですね)。 それは別としてマタイ5・10に関してですが、引用された本の内容を具体的に検証されたのでしょうか。底本ではどうなっているのか、文の構造はどうなっているのか、直訳はどうなるのか等です。 イザヤ51・1とマタイ5・10は文の構造が異なります。 私訳 イザヤ51・1 「義を追い求める者たち」 マタイ5・10 「義のために迫害された者たち」 イザヤ51・1では「義」は目的語ですが、マタイ5・10の「義」は理由・原因を示す前置詞がついており、目的を表すものではありません。更に「追い求める者たち」は現在能動分詞ですが、「迫害された者たち」は完了受動分詞で、共に名詞化されたものです。マタイ5・10には写本による異読はありません。 著者が何をいおうとしているのかは、気に入ろうと入るまいと、正確に訳し、正確に解説しなければいけないと思っていますが、どうでしょうか。 「兎に角」の「兎」と「角」が当て字ということですが・・・議論がかみ合っていませんね! 「具体的に教示して頂ければと思います」と記したのは根拠の希薄な回答(いわゆるトンデモ系)は避けてほしいからです。