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人を疑って安全なのと、無垢で危険なのはどちらがいいのか

先日、岡本太郎の「明日の神話」が渋谷に壁画として飾られたらしいですが、意外だったのは、おそらく作者の意思に反して、警備員監視員を常駐させるという措置を取ったと聞きました。意思に反してというのは、生前作者は「芸術は太陽のようなもので、無償にただそこにある」という精神だったので、「ただそこにある」にしては警備員などは異質だといわざるを得ません。 同様に、「セコム」してますかとか、あの張り紙も番犬代わりになるような効果があります。先日ある用件で某大学にいったのですが、間違えて女子部のほうに入り込んだら、職員が猜疑の目で声をかけてきて非常に不愉快な思いをしました。 つまり、現代社会は「私はあなたを疑っています」というサインをそこらじゅうに出しているわけです。で、とりあえず予防的に犯罪を抑える効果はあるが、この精神的な閉塞感拒絶感あるいは蔑視感というものが、あるべき犠牲として容認肯定できるものなのでしょうか?反対を言えば、「私はあなたを信じています」とそこらじゅうの家のドアに鍵もかかっていないし、番犬の変わりに猫がなついてくるという感じです。こういう姿勢が、本来人が持っている「良心」をさらに開放させて、「セコム」する場合しない場合と同様に、総体的に犯罪を抑えるという効果はないものでしょうか?つまり、犯罪は人を軽蔑するところから起こる、その「復讐心」からということがいえるのではないか、それを実力で押さえ込むことが果たして理性的なのかということです。 もちろんつまるところ、こんな警備監視体制と拒絶感の氾濫は、なんら理性的なわけではなくて、ただヒステリックに自分の身の安全を祈願するというもっとも人間らしい原始的本能的な姿勢の現われだと思っています。そして、それに衣を着けて、警備保障商売が成立していると考えるのですが、どうなのでしょうか。

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回答No.3

 無垢は危険なのですか?無垢で安全でありたいですね。  私たちは無垢になれないのでで危険です。危険だから無垢になれません。これは悩みです。  この辺は私の課題でもあります。回答に為りませんが、すばらしい方々のご回答をともにお待ちしたい。  被害者は加害者とともに、行為者として加害者でもあるのでしょうね。  たかだか70数年の人生で、加害(原因)はつらいが、被害は学べるし、許すということができます。  ある程度の対応にして、信じ、愛し、受け入れなさいは単なる信仰理念であるより、生き方としては賢明に存じます。  後は訓練と積み重ねでしょう。形式や論理ではない。  岡本太郎さんがそういうことをおっしゃっていたことは感銘します。  青山か原宿にお住まいの未亡人が同じ講演会から帰るとき、出会い、親しく話しかけようとしましたが、この胡散臭い男にご警戒のご様子でした。これも当然です。未亡人のせいではありません。私もおずおずした態度でしたからね。  太郎は多分、被害を蒙っても、損害となっても、受け入れるということの方を価値あると思われたのかな。  私も今、安全な生活だからそうはしているけれども、それはそうでないたくさんの方々のおかげだと存じております。ありがたいことです。  でももっと人を、世界を信じて生きられるようになりたいと努力しております。たくさんの経験をしてきている私たちは、疑ったり、防備したり、警戒したり、はねつけたりすることが安全だと思っていますが、そのことについて、私の書き込みの後の多くのすばらしい人のお教えを、質問者とともにお待ちしたいと存じます。

garcon2000
質問者

お礼

危険だから無垢になれないし、無垢になれないから危険であり、実は同一の問題なのかもしれません。被害者は加害者の一端を負っています。 要は、度胸なんでしょうかね。度胸というのは腹を決めるところからきて、腹は強い自己からでしょうか。 アレルギーというのは、防衛すればするほど、体のほうがまた過敏になるという面もありますね。

その他の回答 (3)

  • wiz0621
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回答No.4

少しややこしい言葉遣いですが、むしろ警戒のサインに対し 『思いやりが欠けている』と感じる人のほうにこそ 『思いやりが欠けている』いると感じます。相手の立場に立って 考えてみるということをするべきではないでしょうか? 知らない人が自分の領域に踏み込んできたら不快に感じますよね? 人間にはは自己の領域を作る性質があるとされます。 同時に、相手の心に土足で踏み込むという、悪い意味で用いられる 言葉が世にあるように、他者が自分の領域に許可無く踏み込むこむとは、 人間社会では良くないこととされています。 この前提の上で、『私の領域にこれ以上入ってこないでください』 と宣言することが悪いこととは思えません。 むしろ、『領域をつくることは悪いことですから、私は許可無く入ります』 『私の目にあなたの領域が入ってしまうのは不快です』 と宣言する人間の方が自分勝手に思えます。 そして、警備シールを貼るような場所は質問者さんの家ではなく 相手の権利の及ぶ空間、相手の領域なのです。 人間関係の基本は、相手の領域に許可無く踏みこまない、つまり 『相手の権利を尊重し、侵害しないこと』と言い換えることができます。 真に猜疑心の無い、相手のことを思いやる社会というのは 相手の持つ当然の権利を侵害しない社会ではないでしょうか。 特に『保全』の権利は物品所持にしろ、生命維持にしろ、 最も基本的な権利なのですから。 その相手の当然の権利に対して悪意を感じる、という方こそが 第三者の目からは猜疑心の持ち主であると感じます。

garcon2000
質問者

お礼

>人間関係の基本は、相手の領域に許可無く踏みこまない、つまり 『相手の権利を尊重し、侵害しないこと そうなのです。その基本があれば、警戒などは不要なわけです。つまり、そういう社会でないところが根本にあります。

noname#73004
noname#73004
回答No.2

気持ちは良く分かりますが、そうもいきませんね。 かつて平安時代に警察がいなくなって犯罪が増えましたし。 現代では外国からも対応しないといけません。 ただ「私はあなたを疑っています」はある程度、苦味の無いオブラートに包む事が出来ます。 例えば現金などの管理は、今ここにいるメンバーでも怪しいから…などは絶対に言いにくいです。 もし万が一無くなったら、ここにいる誰かが盗んだのではないかと思ってしまう、それはお互いに嫌だから管理責任を果たす、 この状況で無くなったとしたら私の責任だ… こう言えばよいのでは。 「このトイレは店員も利用しております」も同様なのかもしれません。

garcon2000
質問者

お礼

性悪説でもって統制していくのが常道ですね。それ以外に両親を信じるやら何やら甘いこといっても、結局は弊害がメリットを上回ります。 オブラートという精神は、妥協点の産物でしょうが、それしか人間はやれないという限界点をうまく利用している。 店員も利用しております、と関係ありますでしょうか?ちょっとピンときません。 ご趣旨は大変納得できます。

  • toshipee
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回答No.1

 哲学に通じてるわけじゃないが。  まず結論から。どちらがいいかと言われたら「個人の勝手」に尽きるし、どちらがいいかと、世論や国が決めたとしても、もはや片側には従わないだろう。ニーズがあるから、商売が存在する。しかし、ニーズがない者には、全く考える価値もないモノと言える。故に決めるモノではない。  女子部に入った件も、間違えた失態が事実としてあるなら、不愉快とは思わず、まずそれをまずわびるべき体勢があれば、警備も存在意義が薄れると思う。  犯罪の温床は、不幸な経験からに尽きると考える。あれこれ専門家が検証しているが、それぞれの親が子供を責任持ってきちんと「親」をしていれば、また、日本という国が親をしやすい勤労体勢を取ればいいのは明白だと思うのだが、資本主義で、競争社会があるという現実を考えると、難しく思う。しかし社会主義だったとしても、がんばりに対しての結果は反映されにくくなるので、これまた勤労意欲が失せるから、違うとも思うし、完璧な社会は幻影なのだろうなと思う。  故にどこかでひずみが出るのは、生物の弱肉強食の原理原則から考えれば、その方が自然なのかもしれない。故に進化が始まるのだから。

garcon2000
質問者

お礼

よくわかりました。 まったくその通りで、どこにも矛盾点が感じられません。人間が作ってきた社会の中で、ごく普通の成り行きという感じかもしれません。女子部に入ったことは別にわびるべきことではありません。禁止されてもいませんので。

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