見方にもよりますが、あまり変わっていないと言うべきではないかと思います。
例えば火葬についても、仏教はあまり大きな影響をもたらしたとは言えない面があります。もちろん火葬自体は中国経由でなくインド的という意味で仏教の葬法ですし、「続日本紀」に西暦700年に道昭という僧が火葬されたのが最初であると書かれてはいます。
しかし考古学の知見によるとどうやら日本ではそれ以前から火葬は割とあったらしく、実際には仏教伝来がきっかけになったというわけではなさそうです。
恐らく正直なところ、日本人の死体の穢を忌避する心情に、肉体の汚穢をすみやかに消し去れる火葬という葬法がマッチしたことが大きかったのであって、仏教の「諸行無常」「一切皆空」の教えはそれをなぞるような役割を果たしたに過ぎなかったのではないでしょうか。
それ以前の古代には「モガリ」という葬法が一般的で、霊屋を別途設けて遺体を埋葬まで数ヶ月から数年単位で風葬のように自然の腐朽に任せるやり方が多かったとされます。
薄葬令の影響もあり、上屋はわかりませんが火葬して骨を納める形式が7、8世紀頃から増え始めて平安中期ごろには天皇、貴族、僧の間では一般的になっていていたようです。平安期に貴族の間で「例の作法にて」葬ると言えば「火葬」を指すほどになっていました。
10、11世紀頃になると、仏教が葬送に大きく関与するようになってきますので、埋葬後の様式にも石の卒塔婆(五輪塔)などが見られ始めるようになってきます。その目的は死者の鎮魂と供養が相半ばするもので、古くからの「霊魂を恐れる」感覚も強かったとされます。仏教的な供養の意味が墓の中心になるのは近世以降のことでしょう。
しかし庶民では火葬が一般化することはなく、ほとんどが風葬ないしそれに近い土葬が主です。「今昔物語」始め、中世の説話集や絵草子には遺体を「棄つ」という様子が沢山でてきます。庶民の遺体こそ、棄てられるべき厭われる存在だったのです。
現在でも両墓制といって身体や骨を埋める墓とお参りをする墓の2つが別個にある地方がたくさんあるのですが、その原型はこの「体を棄てる」ことにあると思われます。身墓(みばか)などと呼ばれる埋め墓は、単に体を埋めるだけであったり、蘇りや魂が荒れ出ることを恐れるためか、自然石を置く場合などがありますが、いずれにしてもそこに仏教的な側面は見られません。
やがて近世になって仏教的な感覚が庶民に浸透すると、魂の依り代つまり供養を受ける場としての参り墓が一般化してきます。依り代は生木であったり、木の卒塔婆のようなものであったりと、多くは“朽ちる”ものでした。もとから単一墓の地域でもこれは同様でしょう。
朽ちるものを上屋とすることで、年月をかけた供養とともに魂が浄化される様子がまわりに見て取れたことが大事だったのです。つまり、木の卒塔婆が風雨にさらされてやがて消えていく様子は、そのまま成仏の姿と受け取られたのです。
このような墓の形式も、やがて江戸時代前後になると石塔が圧倒的に多くなってきます。長く追慕できることは結構なことであり、その故にこそ石塔が主となったわけですが、肉体が自然に還ってからも何百年も名前だけが残ることは、仏教の教理に照らしてもあまり好ましい事ではなかったでしょう。仏教が一般化したことで墓は皮肉にも仏教から遠ざかる結果となったわけです。
浄土真宗の盛んな地域では伝統的に墓を全くつくらない地域もありますが、どちらかといえばこれは例外に属するでしょう。
※どうも書いていてポイントがずれているような気がしてなりません。質問者氏の問題意識とずれているようなら補足にて教えて下さい。
補足
丁寧な回答ありがとうございます。 お墓の変化と言うより、死観の問題かもしれません。 墓は死の文化だが、死者ばかりという条件のもとでは墓は出来ないですよね。墓を築き、そこに死者を葬るのは生者の行為です。 お墓というものはとても神聖なものなのに、そういうものが変化していったのか?精神的な面で死観とどう結びつくのか?ということが気になります。