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小野妹子と鑑真
遣隋使の小野妹子は、同じ時期くらいに海を渡った鑑真のようにやはり海を渡るのに苦労したのでしょうか?? 鑑真は失明するほどの苦労をしたと習いましたが、遣隋使の海を渡る苦労はあまり聞きません。 よろしくお願いします。
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まず, 遣隋使は「正式な使者」であったのに対し鑑真は「国法に反した」渡海であったはずです. そのため, 鑑真はほとんど支援を受けられなかったと思います. また, 遣隋使や遣唐使でもやはり苦労していたはずです. もちろんこちらは正式な使者なので国の支援は受けられますが, それでも「嵐で行方不明になった」とか「全然違う場所に流された」ということはありました. 実際, そのようなことを前提として「正使と副使は同じ船に乗らない」というきまりになったいたはず.
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- Shirozaru9
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同じくらいの時期じゃないんです。現代と幕末くらい離れているんです。その間に、国際情勢が大きく変ったのです。 小野妹子が遣隋使に行ったのは、飛鳥時代の607年。この時は、九州北部から朝鮮半島西部を北上し、渤海湾から山東半島に渡ったようです。これなら、陸伝いなので楽でした。 ところで、この時代は朝鮮半島が百済,新羅,高句麗に分かれて争っていました。百済が現在の韓国西部、新羅が韓国東部、高句麗が北朝鮮と中国東北部に相当しました。この三国で、百済は日本と友好的でした。だから、遣隋使や、630年の最初の遣唐使の時は、韓国西部を通ることが出来ました。 ところが、三国の中で新羅だけが強くなりました。隋を倒した唐も、朝鮮半島を獲ろうとしました。詳しくは、「白村江の戦」で検索すると出てきます。結論を言うと、百済が滅びて新羅が朝鮮半島を統一し、日本船が韓国西部を通ることは政治的に危険になりました。 それ以降、遣唐使船は現在の長崎県の五島列島から、長江河口まで東シナ海を横断するルートを通るようになりました。 鑑真が初めて来日しようとしたのは、奈良時代の743年です。東大寺の大仏開眼は752年で、鑑真がやっと奈良に来たのは753年です。遣隋使から146年経っています。
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>国際情勢が大きく変った なるほど、そうだったんですね。このような状況での鑑真の決意はすごいものですね。 ありがとうございました。
お礼
>遣隋使は「正式な使者」であったのに対し鑑真は「国法に反した」渡海… なるほど、これなら鑑真が苦労するのも理解できます。 ありがとうございました。