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執権 北条氏と将軍 源氏

執権政治で北条氏が政治の実権を握ったとき 将軍 源氏はいなかったんですか?

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  • hukuponlog
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回答No.2

清和源氏の嫡流としての将軍(鎌倉殿)は,頼朝-頼家-実朝の三代で絶えています。 その後は,藤原氏から藤原頼経という子供が,京都から将軍として鎌倉へ迎えられました。これを摂家将軍と言います。摂家将軍は4代,5代の将軍となります。 様々な変遷を経て1250年代以降は,親王(天皇の子供)の1人が将軍として迎えられるようになりました。これを宮将軍と言います。宮将軍は6代から鎌倉幕府滅亡まで続き,最後の9代将軍は守邦親王という人です。 つまり,頼朝の子孫の断絶以降も,鎌倉幕府滅亡まで征夷大将軍はいました。ただし,源氏の嫡流ではないし,武家でもないということです。

その他の回答 (2)

回答No.3

 前の方が回答されている通り将軍は一応存在しました。  教科書にも載っている4代の九条頼経は、公家に嫁いでいた頼朝の血縁者(おそらく腹違いの妹)の曾孫に当たる人物といわれているので一応遠いながらも源氏の血を受け継いでいます。その後、彼の息子の頼嗣が5代将軍となりました。彼らは摂家将軍と呼ばれています。   しかしこの頃になると頼経は北条氏に反発するようになります。もともと「頼朝公が作った幕府をのっとった」という批判を避けるために将軍の座にすえていたに過ぎない存在であるので力を持たれると北条氏にとってやっかいです。結局息子ともども疎まれた頼経は「反北条派と結んで幕府に対し謀反を企てた」という理由によって親子ともども京都に送り返されてしまいました。これ以降幕府(もとい北条氏)は代々宮中から親王を将軍として迎えるようになります。    というわけで血の濃さに関係なく考えれば源氏の将軍はとりあえず5人いるということになりますね。しかし元々は実朝が殺された時点で親王の招聘を考えていたものの、当時の宮中のトップである後鳥羽上皇に拒絶されてしまったため、摂家将軍はその代替案にすぎなかったらしいのです。よってもし上皇の許可が下りていたとしたら源氏の将軍は実朝までの3人のみになっていたかもしれません。(ちなみに親王招聘の許可が下りるのは承久の乱以降になります) よくありそうな情報ばかりですみません。少しでもお役に立てたら嬉しいです。

  • Tacosan
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回答No.1

2代将軍頼家の途中からは, 実権は将軍にはなかったと言っていいんじゃないでしょうか. wikipedia の源頼家の項も参考にするといいかな.

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