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江戸の上水で隅田川を使わなかった理由は?
江戸時代の江戸では、上水が発達していましたが、隅田川の水を上水に利用しなかったのはなぜでしょうか? 1.隅田川は低いところを流れすぎているから。 2.隅田川は汚れていたから。 3.隅田川は海の水がまざっていたから。 4.実は隅田川の水も利用していた。 よろしくお願いします。
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>隅田川の水を上水に利用しなかったのはなぜでしょうか? 全て正解ですね。 1:関東ローム層の関係で上水路を自由に通す事が不可能でした。 2:隅田川は重要な輸送手段として利用していました。 運河の機能も果たしていたため川岸や運河の周辺では物と人を運ぶ運送業や旅館業で栄え、屋形船や釣り舟、渡し船で川遊びをしたり、花火見物など人々の憩いの場ともなっていたようです。また「賭場荒しは簀巻きにして川へ、心中者は戸板に乗せて川へ流して」います。ゴミ・糞尿・その他で汚染していたようです。 3:隅田川の塩分は、河口側は当然ですが江戸の町内でも塩分が多かったようですね。関東ローム層は、地下水を貯める機能が低い為に何処に井戸を掘っても塩水だったようです。ですから、隅田川のような大河に安らぎを求めたのですね。 4:多少の塩分を気にしない江戸っ子は、(井戸の塩分よりも隅田川の塩分が低いので)使用していたようです。 江戸の町といっても、墨田川の上流地点と下流地点では回答も変化します。 まぁ、上水施設が完成した事が(当時世界最大の)都市に成長した要因です。
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- 川原 文月(@bungetsu)
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 まず、「答」としては、 >>1.隅田川は低いところを流れすぎているから。 が正解です。 また、もう一つの考え方としては、隅田川から水を引くと、どこへ流れ落としたら良いかも問題でした。 江戸の街は、今もそうですが、非常に高低差があり、「坂」の多い街でした。 現在でも、隅田川から分流した河川は、東の方角、つまり、「本所」「深川」方面へは開削により「北十間川」などはありますが、江戸の初期の頃には分流した川は、極端に言えば1本もなかったのです。 そして、万治2年(1659)春から隅田川に橋を架ける工事が始まり、12月13日に完成したのが「両国橋」で、隅田川の東は、当時、下総国と呼ばれていて、江戸と下総国の両方に架かる橋ということから「両国橋」と呼ばれるようになったのです。 その後、江戸の街も手狭になったことから、隅田川の東の下総国の一部を江戸に組み入れ、「御府外(ごふがい=郊外)」として「北十間川」などを開削し「本所」「深川」あたりの発展に寄与しました。 さて、「本題」ですが、すでに「Wikipedia」などでお調べのこととは思いますが・・・。 (1)豊臣秀吉が天正18年(1590)に小田原の後北条氏を打ち破った後、徳川家康は北条氏の旧領である武蔵・伊豆・相模・上野・下野・上総・下総の7か国に移封され、すでにこの時、武蔵国(現:東京都と埼玉県)の中でも、現・皇居付近に居城を据える考えで、同年、早くも旗本の大久保藤五郎忠行に水利対策を命じています。 (2)江戸重継が平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、居城を構えていた台地上の地(現・皇居)に城の建設も同時に進行され、「江戸」と呼ぶことも決定し、家康は、京都にならい碁盤り目のような街造りを始めました。 (3)一方、大久保藤五郎忠行は、当時は、「チョロチョロ」とした流れであった「小石川」(現:後楽園付近を流れていた)を掘削して、駿河台方面(千代田城付近)へ分流することに成功。これが「神田上水」の原型と言われています。 なお、江戸時代は「江戸城」とは呼ばず、正式には「千代田城」またの名を「舞鶴城(ぶかくじょう)」と呼び、庶民は、ただ単に「御城」と呼んでいました)。 (4)これにより、大久保藤五郎忠行に「主水」という姓が与えられ、本来は「もんど」と読むのですが、水が濁らないようにと「もんと」と呼びました。 (5)さて、秀吉も死亡し、家康が征夷大将軍に任命され、徳川幕府が成立すると、人口は一気に増加をしましたが、当時は、千代田城の近くまで江戸湾となっており、井戸を掘っても「海水」しか掘り当てることができず。「小石川」や「神田川」の水を飲んでいました。 (6)こうしたことを憂(うれ)いていた家康や2代将軍秀忠は武州玉川村の百姓六次郎に命じて、江戸近郊を流れるいくつかの小川の中から、井の頭池を水源として流れる「小石川」(後に、「小石川」も「神田川」と総称されるようになる)からの分流である「神田川」をさらに、善福寺池や妙正寺池から流れる「善福寺川」や「妙正寺川」を合流させ、そして、幾つかに「分流」して地下に「ロ」の字型の木製の「懸樋(かけひ)」と呼ばれる水道管を引いたり、地表を流れたりしての「神田上水」を完成させました。完成は寛永6年(1629)と言われています。 (7)井の頭池は、その頃、うっそうとした林の中にありましたが、七つの湧水があり、江戸庶民の水利に役立ったことから「井戸の頭(かしら)」から「井の頭」と呼ぶようになったとも言われています。 (8)しかし、江戸の人口は急増の一途をたどり、江戸と呼ばれる範囲も拡大していったため、神田上水や溜池上水(千代田城の外堀の一角)だけでは不便であったため、承応元年(1652)4代家綱の代になってから、豪商であった庄右衛門、清右衛門兄弟の提出した多摩川の水を江戸に引き入れる計画書を検討、および、実地踏査をし、総奉行に松平伊豆守信綱とし水道奉行に伊奈半十郎忠治、工事請負人に庄右衛門、清右衛門兄弟を任命し、承応2年(1653)4月4日から着工し、11月15日までの8ケ月間で羽村取水口から四谷大木戸までを掘削しました。 (9)なお、この年は「閏年(うるうどし)」といって、太陰暦、つまり、月の満ち欠けで暦を作っていましたので、1年は360日で数えられ、そのままいくと、いずれは夏と冬が逆転してしまうため、2~3年に一度「閏年」を設け、一年の内のどこかに「閏月」という30日の「月」を繰り返しました。この承応2年はちょうど「閏年」で6月に「閏月」を設けてありましたので、4月から11月までが8ケ月となりました。 (10)羽村から四谷大木戸まで約11里(約43Km)。標高差はわずか約1町(約92m)を緩勾配で、さらには、流れを強くすることで、段丘を駆け上がり、山の尾根を巧みに引き回しての大工事でした。 (11)さらに、承応3年(1654)6月には地下に「石樋(せきひ)」や「木樋」という導管を付設し、四谷、麹町、赤坂の台地や芝、京橋方面の千代田城から見て「南西」方面一帯に給水しました。 (12)「石樋」や「木樋」の導管の途中に「溜」と呼ばれる場所を作り、長屋や町民、はたまた、武士の家などの井戸替わりとしました。 (13)俳人で有名な「松尾芭蕉」も延宝5年(1677)から約4年間、日本橋小田原町に住み、そこで、水道の管理(メンテナンス)を担当していたと言われています。 (14)上水道がある程度完備されても、江戸の街では「冷水売り」という商売もありました。 (15)江戸の街は、「御府内(ごふない)」と「御府外(ごふがい)」で成り立っていました。「御府内(=市街地)」は「千代田城」を中心として四里以内を指します。「御府外」は、その周辺を指し、いわば、「郊外」で成り立っていますが、人口の増加で「郊外」は北へ北へと拡大していきました。南は、江戸湾でしたが、民衆の出す「ゴミ」を捨てての埋立地(現在の「夢の島」)として土地を広げています。
- mabomk
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「上水」=「飲料」としては2.3.で使えなかった、、、、ので、「水屋」「水船」という上水屋が活躍した。一寸詳しい資料がここに、 http://www.gakken.co.jp/kagakusouken/spread/oedo/01/kaisetsu3.html 山本一力氏の小説「銭売り賽蔵」に「水売り商売」に纏わる「銭商売」のお話が面白かったですよ。 http://www.amazon.co.jp/%E9%8A%AD%E5%A3%B2%E3%82%8A%E8%B3%BD%E8%94%B5-%E5%B1%B1%E6%9C%AC-%E4%B8%80%E5%8A%9B/dp/4087746798