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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:隅田川の墨田堤の幅はどこからどこまで?)

隅田川の墨田堤の幅と歴史について

このQ&Aのポイント
  • 江戸時代に造られた隅田川の墨田堤は、現在の堤防から100m以上もの幅があった可能性があります。
  • 東白髭公園があるあたりの隅田堤の幅はどこからどこまでなのか、詳細は分かっていません。
  • 桜堤は江戸時代に造られたものであるかどうかは分かっていませんが、移設や新設の可能性も考えられます。

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noname#224207
noname#224207
回答No.1

>今現在は、隅田川があって桜堤がある高速手前までが堤防になっています。ですが、高速を超えて墨堤通りを渡ってその歩道の先ががくんと下がっています。ここが、墨田堤の盛土の境のような気がします。 ほぼ合っています。 現在の墨堤通りがほぼ当時の堤防です。 桜が植えられていました。 >しかしそうだとすると、特に東白髭公園あたりは、現在の堤防から100m以上もの幅があることになります。さすがにここまで巨大な堤防はないと思います。 堤防に巾があったのではなく、河川敷が広くとられていて普段は耕地として使い、増水時は遊水地にするという考え方です。 当時は堤防で流れを食い止めるという現代のような考え方ではなくできるだけスムーズに流す、という考え方です。 墨堤通りの東側の地帯は元々河川敷よりも高くなっていて、このような地形を自然堤防と呼びます。 河川が増水時に陸地を削ったり、上流からの土砂を堆積させたりしてできます。 詳しくは 参考 自然堤防 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/自然堤防 昔の堤防はこの自然堤防が侵食されるのを防ぐのが目的でした。 結果として現代のようにメッタヤタラに高いということは有りませんでした。 >もしかすると東白髭公園は隅田川だったのでしょうか 河川敷で湿地帯でした。 沢山の池がありました。 >桜堤は江戸時代の場所のままなのか? 長命寺から下流はほぼ現在と同じです。 ただ現在の向島側の墨田公園は水戸家の下屋敷でしたので、桜は三囲神社の所まででした。 長命寺から上流は現在の墨堤通りとお考えください。 蛇足 現在の桜橋の浅草側は中洲でした。今戸中学校付近から言問橋付近までの細長い中洲でした。 現在の浅草側の墨田公園やグランドなどはこの中洲と中洲と陸地の間の水路を埋めた土地です。 中洲に桜などありませんでした。 現在の新荒川橋の下の荒川と隅田川を結ぶ水路が元々の隅田川です。 この古い隅田川と千住方面から流れてくる川(旧荒川)の合流点が鐘淵です。 三角州状態になっていて、多数の水路が流れていました。 東白髭公園と墨田高校の間にも水路がありました。 そもそも現在の荒川はありませんでした。 明治44年以降に作られたものです。 現在の隅田川だけでは水がさばききれないので荒川を現在の形に変更した大工事でした。 詳しくは下記のサイトをご覧下さい。 参考 荒川放水路の変遷 | 荒川下流河川事務所 | 国土交通省 関東地方整備局 www.ktr.mlit.go.jp/arage/arage_index017.html

pringlez
質問者

お礼

> 堤防に巾があったのではなく、河川敷が広くとられていて > 普段は耕地として使い、増水時は遊水地にするという考え方です。 > 当時は堤防で流れを食い止めるという現代のような考え方ではなく > できるだけスムーズに流す、という考え方です。 なるほど…。 日本堤の方はおそらく食い止めるための堤防だと思うんですよね。浮世絵でも細く長い堤が描かれていますし、溢れると武家屋敷の方に流れてしまうので。なので、日本堤は防ぐための堤防、隅田堤はゆっくり流すための堤防ということなのですかね(たぶんそういうことですよね)。確かにあのV字で堤防を作っても溢れるんじゃないかとは思っていたのですが、わざと流れるようにしていたのなら納得です。その疑問も一緒に解決した気分です。 >> 東白髭公園は隅田川だったのでしょうか > 河川敷で湿地帯でした。沢山の池がありました。 なるほど、確かにそんな雰囲気の場所ですよね。 > 現在の新荒川橋の下の荒川と隅田川を結ぶ水路が元々の隅田川です。 はい。このあたりの川に興味があって勉強しているので 荒川放水路や古隅田川の事自体はだいたい把握しているつもりです。 いろいろ参考になりました。 ありがとうございました

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