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江戸時代の木製水道とは?水の漏れや管理方法について
- 江戸時代の木製水道は、神田上水や玉川上水など、木製の筒によって水を供給する仕組みでした。しかし木は腐食する可能性があり、水漏れが起こることもありました。
- 木製水道は地中に埋設されていたため、水漏れが起こった場合、ポイントの特定は困難でした。交換する際には、全ての部分を掘り返す必要があった可能性があります。
- 江戸幕府転覆をもくろむ勢力が木製水道に毒を混ぜるなどの事例は確認されておらず、水の安全性には一定の配慮がされていたと考えられます。
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>木は、いつか、腐食すると思います。 現在まで残っています。(下記サイトの写真参照) 檜というのは耐水性に優れています。 観光地の温泉旅館などに檜の浴槽があるのはこのためです。 >水が漏れていたらその個所のポイント特定は、どうしていたのでしょうか? 水道と言っても現在のように各家庭に送水されていた訳ではありません。 あくまでも共同井戸です。 水道というのは、いわば井戸の人工の水脈です。 共同井戸は20m~30mの間隔で交差点付近など道路に設けられていました。 下記サイトをご参照ください 先人たちの偉業のひとつ、 知恵と技が光る江戸の水道 www.mhi.co.jp/discover/graph/pdf/160_03.pdf 長屋などの共同住宅の場合には、長屋ごとに井戸として設けられていました。 七夕の時期に長屋の住人総出で井戸の清掃をしていました。 東京都水道歴史館:お江戸の科学 www.gakken.co.jp/kagakusouken/spread/oedo/01/haiken.html 上流側の隣の井戸と比べれば不具合箇所は直ちに分かりました。 >江戸幕府転覆をもくろむ勢力が、この水道に毒を混ぜたり、といったことはなかたのでしょうか? 残念ながらその手の事件は280年の間には起きませんでした。 現在のテロのように無差別殺人をやっても、政治的な効果はゼロの時代でした。 江戸50万の町民と全大名の江戸屋敷を敵にまわすことになるだけです。 江戸の町は大半が埋め立て地ですので、井戸を掘っても海水が混ざっていて飲料にはなりませんでした。 天然の井戸が使えたのは山の手だけです。 大正時代に入って関東大震災の際に毒を入れたというデマが流れて朝鮮人虐殺という事件をおこしています。 江戸時代に比べると人心は相当に荒廃していました。 そうは言っても予防措置らしきことはやられていました。 玉川から送られてきた水が江戸の町へ入る直前の場所に徳川御三家の水戸家の広大な屋敷があって(現在の後楽園)そこに池が設けられていて鯉を飼育していました。 鯉に異常があれば、取水口を塞ぐようにはしてありました。 また取り入れ口には水番所と呼ばれる小屋が設けられていて、監視や管理をしていました。 町内にある井戸はそれこそ生命線ですから、町内ごとに厳重に管理されていました。
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- oska
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>日本の江戸期にも、神田上水、玉川上水など、木製の筒による水道が整備されていたと聞きます その通りで、各地の大名は「上水・下水・農業用水」に苦労しています。 降水量が少ない讃岐(ため池が多いので有名)高松藩では、玉川上水より9年早く上水道整備を行っています。 >自身のイメージとしては、この木製水道は、地中に埋めてあったと思っています。 その通りで、地中に埋めていますね。 木が腐るのは、(水分を含んだ木材が)空気に触れる事が原因です。 空気に触れなければ、1000年程度は状態を保ちます。 縄文・弥生時代の木製品が、腐敗しないで多く出土していますよね。 粘土質+水分の環境が合えば、腐敗を心配する必要はありません。 >水が漏れていたらその個所のポイント特定は、どうしていたのでしょうか? 木管(木桶・木枡)及び井戸の設置場所は、城下図に記載(配置図)していました。 ですから、この井戸の水位が変わると(近隣の井戸水量を調査し)「水漏れ個所の推定」が可能でした。 >すべて掘り返して、一気にすべて交換していたのでしょうか? 推測した水漏れ箇所近辺のみ掘り出して交換です。 >江戸幕府転覆をもくろむ勢力が、この水道に毒を混ぜたり、といったことはなかたのでしょうか? 時代劇には、時々あるシナリオですよね。 が、水道に「毒物」を入れる事は「即死罪」なのです。 また、毒を用いる事で目的を達しても「今度は、水不足に悩まされる(自業自得)」事になりますよね。 幕末でも、薩長軍は玉川上水などには「毒」を用いていません。 特定の個人・集団を毒殺する場合は、その箇所のみの水瓶に毒を入れます。
お礼
讃岐は、雨が少なく、江戸よりも上水道整備が早かったとは! 木は、空気に触れなければ、千年も持つというのは、すごいですね。 鉄などの金属より、長持ちですね。 井戸の設置図は、ちゃんと存在していたのですね。 プロの仕事は、いつの時代でも、しっかりしていますね! ありがとうございました!
- eroero4649
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専門家ではないのですが、水が流れていると案外木って腐りにくいですよ。土の中で紫外線にやられることもなく、温度や湿度もほぼ一定ですからむしろ長持ちする条件は揃っているといえるでしょうね。 >または、江戸幕府転覆をもくろむ勢力が、この水道に毒を混ぜたり、といったことはなかたのでしょうか? 時代劇ではしょっちゅう幕府転覆を企む闇の勢力が出てきますが、現実の江戸時代にはそのような勢力は江戸初期の頃の由井正雪の乱から先は大塩平八郎の乱が起きるまで反乱は起きなかったんですよ。その間、186年です。 ところで、「江戸時代最後の戦争」はどの戦いかご存じですか?実は「島原の乱」なんです・笑。え?鳥羽伏見の戦いはって?鳥羽伏見の戦いは大政奉還後の戦いですから、大政奉還で江戸時代(徳川政権時代)は終わったといえるので、厳密には鳥羽伏見の戦いは江戸時代の戦争ではないのです。ま、ちょっと屁理屈が入っていますけどね。 ではなぜ江戸時代に反乱が起きなかったのか?理由は主に二つです。 ひとつは、当時の江戸幕府が絶大な力を持っていたことです。江戸時代はおおよそ200年続いたといわれますが、その江戸時代に幕府によっていわゆる「取り潰し」になった藩はおおよそ200藩になるんですね。つまり、毎年ひとつの藩が取り潰されていたともいえるわけです。外様大名で江戸時代の最初から最後まで生き残ったのは仙台伊達藩や加賀前田藩などごくごく一握りの藩で、江戸時代とは各藩にとっては非常に厳しいサバイバルの時代でもあったのです。 その中で、「謀反の恐れあり」はお取り潰しの格好の口実になるのはいうまでもありません。そんな恐ろしいこと、想像しただけで大変なことになりかねませんよね。 そしてもうひとつの、おそらく最も大きな理由は、「平和で安定してそれなりに豊かだったから」だと思います。徳川江戸幕府の統治に不満がある人たちがほとんどいなかったということでしょう。 江戸時代は浮世絵や歌舞伎のような庶民文化も花開き、吉原のような遊び文化もありました。お伊勢参り、つまり観光旅行もできましたし、実は数学ブームというのもあったんです。数学で有名な神社というのがありまして、何か公式を発見したり難しい解を出した人は絵馬という形でその神社に公式を奉納するんです。するとその絵馬を見た人がそれが正しいかどうか検証したり、あるいは「俺はもっと難しい式を解いた」となると自慢半分に絵馬を奉納するんです。そして全国の数学に自信がある人たちが腕試しにその神社を訪れたのです。 当時の日本人の識字率の高さは驚異的です。しかも、女性向けの本や浮世絵も多く出版されていました。それは女性も文字が読めたことを意味し、18世紀当時に一般庶民の女性が文字を読めた国ってのはたぶん日本以外にはほとんどないんじゃないかと思いますよ。「読み書きそろばん」ができて当たり前の、極めて平均教育水準が高い国だったのです。だから明治維新になってものすごい価値観の変化が起こっても、多少のトラブルはもちろん起こったものの、スムースに近代国家への道を進むことができたのも、平均教育水準が高かったからだと思います。 今の日本でテロ事件が起きるのは極めてまれですよね。オウム事件という前代未聞の大事件がありましたが、あれはファナティックな宗教団体によるちょっと特殊な事例ともいえます。今の若者に、「なぜ君たちはテロを起こさないのか」と聞けばおそらく返ってくる答えは「ていうかテロやる理由が分からないんスけど」でしょう。それと同じだと思いますよ。
お礼
地中の木は、紫外線が無いので、腐りにくかったのですね! 幕府転覆が起こらなかったのは、庶民を退屈させない仕組みが そこそこ充実していたからなのですね。 絵馬の数学比べ、など、トリビア情報も教えて頂き、ありがとうございます!
お礼
知りたかったことを、わかりやすく教えて頂きありがとうございました! 水漏れの不具合の有無は、上流の井戸との比較だったのですね。 そして檜はなかなか腐らなかったのですね。 幕府転覆については、確かに江戸の人々が困るようなことをすると、 大名屋敷も敵にまわすことになりますね。だからそんなことする勢力はいませんよね。 納得です。 水に毒混入の有無のチェックのために、後楽園の鯉が、その仕掛けを担っていたとは! べんきょうになりました。 ありがとうございました!