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禅の具体的な実践法
禅の具体的な実践法についてお聞きしたいのですが。 たとえばヨガでいえばアーサナ、呼吸法、ムドラーといった区分けがあり具体的な各実践方法があります。 禅の道場に参加したり、本を読んでみると代表的な実践法は数息観といわれています。しかし某道場に参加してみると数息観の次にムーという音に集中する禅を教わりました。また只管打座も禅の方法のようにいわれているようです。禅の方法というものはどういうものがあるのでしょうか。
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示唆に富む大事なご回答がたくさん寄せられていますが、参禅におけるプロセスや方法みたいなもののお尋ねなのでしょうね。 そしてご参加された参禅での指導の内容についていのご見解などがご希望だったのでしょう。 そういうやりかたもありえるとと存じます。 そして参禅やヨガでは指導者に全面的な信頼が必要です。 かけらも疑問や不信感があってはいけません。 そういう契機、出会いが必要です。そういう出会いにするように受け入れることが必要です。その努力と恵まれた機会が必要です。 ともかくやっていくか、それとも新たな出会いを求めるかはご決意され、そういう方にお伺いすることが大事です。 参禅といっても、いろいろなことがあるものです。
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- tumaritou1
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私は鈴木大拙博士の本からしか禅の事を知りません。ですが感じた事があありますので書いてみます。禅とは右脳の意識が主導権を持った生き方と言えるかと思います。 あべこべに、精神疾患と言うものは自我意識だけを認めて自我意識だけで世の中を渡ってゆこうとしている事です。それは意識するという事です。意識をして生きてゆく、或いは何かをするという事は、大抵がうまく行きません。 人に会う事を意識をした場合が「対人恐怖症」と言う事です。不安ならば「不安障害」話す事を意識した場合は「吃音」神経症の症状名はほとんどの場合が意識した事が、そっくりそのまま症状名になっています。 心に湧きあがった事を意識し続ける事が精神疾患の元を作っています。それは現代においては教育の仕方、或いは人々の考え方によって精神疾患が増えていると思います。 お釈迦様の「一切皆苦」と言う事は精神疾患そのものを指していると感じます。精神疾患は全て否定的な考え方になってしまうと言えるからです。禅宗のだるまから法を受け継いだ慧可と言う人は「心の苦しさから」弟子になった人です。あまりの苦しさにも拘らず、師匠が無視をしたために肘のところから自分で切って、その腕を差し出して、本気を認められて弟子になる事が出来たようです。 人間が不安になる前が天国にいた事になります。天国に一番近い存在は幼子と言う風に聖書に書いてあります。人間が善悪を知る知恵のリンゴを食べたために、天国から追放されたとあります。善悪を知る知恵のリンゴを食べるという事は、幼子ではなくなるという意味です。それは脳が大人になって来るという事を意味しています。 悩みが始まる年頃が有ります、それは脳の機能分化が完成に近くなる事を意味しています。善悪を知ると言う事です。つまり自分を顧みていろいろと比べて見る、或いは分別して世の中を見るという事になります。 それは思春期と呼べる年頃です、中二病が始まる頃です。昔の宗教家が無常を感じて出家する年頃です。それは脳の機能分化が完成に近くなったという事を意味しています。その頃から精神疾患が増えてゆきます。 それは今までは一つだった心が二つになったという事です。それは自我意識が自立した、或いは一人歩きを始めた事を意味しています。今までは心が一つだったものが「心が二つ」になった事を意味しています。 二元論の始まりです。この事が人間苦をもたらせます。それは「意識」をするという事です。自我意識が自立をするという事になります。その事が精神疾患の元を作り出します。意識が無意識と別の道を歩み始めます。これが精神疾患の本当の原因となっています。 人間には元々教えられなくても生きてゆく力が有ります。生きてゆくための備わった人格が有ります。それは命の働きそのものと言っても良いものです。無意識を統率している意識です。無意識の意識と言うものです。その意識と自我意識がともに歩いてきたものが、意識をしたために別の道に走ります。この事が人間に苦しい思いをさせる事が有ります。これは意識性の強い人に強く現れます。そのその意識性の特に強い、不安の大きい人達が宗教家になってゆきます。 人間苦の解消は其の二つになった者を、また一つにするという事になります。意識と無意識が出会うという事です。これが悟りを開くという事です。有限と永遠との葛藤、肯定と否定との矛盾それぞれの絶対に折り合わないものの矛盾の解消。それはあらゆる精神疾患の完治を意味しています。赤子の心に戻るという事です。自我意識が無意識の意識と出会う、或いは出会いやすくするという環境が禅の道場と言う事になります。 無意識から意識に戻る時に悟りを開く事が多いような気がします。必ずしも座禅をしなくても悟りを得るという事は出来ます。それは精神疾患になって、完治する事によってです。これは大変辛い事になります、時間がかかります。
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- ri-zyu
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仏法は釈迦から始まり、基本的に何故人間は苦しくのかを突き詰めようとして始まり、禅の始祖達磨は心が物事に囚われるから、では心とは何ぞやを突きつけたのが基本的に禅ではないかと思います(心が何ぞやを悟ろうとした)。 ですから禅の具体的な実践法はの質問はやや外れのような気がするのですが・・。 心とは何ぞやと言えば「不立文字」でよいのではないでしょうか。 「不立文字」心とは捉えようのないもの、形のないもの、人智で解決できないもの、雲の様に変わるもの、自分の心で有りながらコントロール出来ないもの 臨済 自らを自ず(あるがまま)からという 達磨 あちらの物をこちらの物と思うとき迷いが始る。 親鸞 不義を持って義とする(筋道が無いのを筋道とする) 良寛 災難に逢う時は会うのがいいそれが災難を逃れる事 親鸞の他力宗ですが自力宗の禅もあまり相違はないと思います、宗教の本質を掴んでいるのはどちらもではないでしょうか、いやどちらも掴まない。 禅では鈴木大拙が良いと思います、真宗(他力宗)にも精通しているようです。鈴木大拙は褒めている妙好人など触れてみるのも良いかもしれません。 合掌。
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- magga
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立禅・歩行禅・座禅などいろいろありますよね。 私のやっているのは、「実行中継」です。 立禅なら足裏を感じて「立っています、感じています」と念じ(ラべリング)ます。歩行禅なら「右足離れます・上げます・運びます・下ろします・付きます」とスローで一定に動かしながら念じます。座禅は「膨らみ・縮み」と実況し、妄想が出たら「妄想妄想妄想」と確認します。もっと詳細に気付けるようになったら「怒り」「欲」「無知」もっと気付け得るようになったら…と言う風にしていきます。 四念所と言うやつですね。 「現代人のための瞑想法」に詳しく載ってます。
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- runjump
- ベストアンサー率27% (6/22)
歩き回りながら瞑想する。 立ちっぱなしで瞑想する(仁王禅)など色々やり方があるようです。 ふつうは半目ですが余計なものが目に入らないように眼をつぶる方法もあるそうです。 私の場合は薄暗くしてはんかふざで数息観を続けていくといつの間にか数を数えるのを忘れています。 修行に行ったこともあるのですが、檀家の方々に非常に厳しく怒られました。横の人が片付けしていなかったのを私が怒られたりしました。 精神を律するという意味であると思うのですが、別に禅とは関係ないなと思ったのでもう行っていません。 一人でもできます。
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まことにありがとうございます。 参考にさぜていただきます。
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