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第一次インドシナ戦争の停戦ライン(17度線)について
はじめまして。 最近ベトナム戦争について勉強をしているのですが、そこで一つ疑問がわきました。 1954年フランスとの第一次インドシナ戦争が終結し、ジュネーブ協定によって17度線でベトナムは南北に分断されてしまったわけですが、この17度というラインはどのようにして設定されたのでしょうか? (インドシナ戦争終結時、ベトミンは国土の3/4を制圧していたにもかかわらず・・・。) 知っている方がいらっしゃいましたらご回答お願いします。
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- DieMeute
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双方の妥協の結果、17度線で決まりました。 当初、ベトナム民主共和国(北ベトナム)はジュネーブの会談の席で13度線を提案しています。 しかし、中国の影響でそれを16度線に譲歩します。 フランス側はアメリカからの要望もあり18度線を提案します。 16度線と18度線で双方譲らず、中々決まらなかったのですが、ソ連が中間の17度線を提案し、北ベトナムとフランス双方が妥協して合意し17度線に決まりました。 中国の周恩来と北ベトナムのホーチミンの間で行われた会談で、停戦について話し合われた時、ホーチミン側は、アメリカ軍の介入がなければ3年から5年でフランスを打ち破れるとの見解を示します。 しかし、周恩来は、アメリカがインドシナに軍事援助を強めている現在、軍事的手段よりも選挙という平和的手段によってベトナムを統一する方が得策だという見解を示します。インドシナへのこれ以上のアメリカの影響力の増大、アメリカ軍の介入を危惧したのです。 アメリカ軍のインドシナ介入を阻止し、選挙による南北統一を図る為には停戦協定を早期に締結する必要がありました。それにはフランスが受け入れられる案が必要でした。 軍事的優位に立っている北ベトナムが譲歩し16度線を示せばフランスも受け入れやすいだろうという事で中国は北ベトナムに13度線をやめ16度線にするよう提案し、北ベトナムもそれを受け入れたと言われます。 最終的に17度線で決まりますが、北ベトナムとしては、これはあくまで一時的なものであり、南北統一選挙でベトナム統一を果たす気でいました。だから最初の13度線から17度線へという大幅な変更も受け入れる事ができました。 しかし、その後は当初の見込みは外れ、南北統一選挙は行われず、アメリカ軍の介入という事態になりました。
- syusen
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こんばんわ 本来は終結後、民主的統一選挙が行なわれるはずでした。 しかし、東南アジアの民主的社会主義化(米国で言うドミノ理論)を恐れた、アメリカが、強権的に国連に介入し、選挙の無効と南の傀儡政権を正当化するため、第二次インドシナ戦争(ベトナム戦)に至ったのです。 「トンキン湾事件」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%B3%E6%B9%BE%E4%BA%8B%E4%BB%B6 分断されても、選挙によって祖国統一が明らかだった状況を、指導者ホーチミンは確信していたので、譲歩したのです。 ちなみにベトナム戦争は、今で言う多国籍軍で、アメリカのほか、オーストラリア軍、フィリピン軍、韓国軍も参戦しています。 (復帰前の当時の沖縄は、米軍の前線基地だった、兵器弾薬補給やBー52が飛び立ち爆撃して帰ったのです)
お礼
回答ありがとうございます。 ベトナム戦争には沖縄基地が使用されていたということで、日本もこの戦争に大きな関わりがあると言えそうですね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 そういう経緯があったんですね!! とても参考になりました。