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ドイツ議会は何故全権委任法を阻止できなかったのか

 1933年3月23日、ドイツ議会において『全権委任法』が可決され、これによってナチスの独裁体制が確立しました。  しかし、成立当時のドイツ議会の議席配分を見ると、ナチスは『全権委任法』成立のために必要な3分の2の議席はおろか、過半数にも達していませんでした。  私なりに勉強をして、共産党は弾圧を受け、議席を剥奪され、社会民主党の一部の議員も逮捕・病気などの理由で欠席をした事まではわかりましたが、それでもはるかに3分の2ラインを下回ってます。  ナチスは、どのような手口で『全権委任法』を成立させたのでしょう?  また共産党、社会民主党以外の政党は、『全権委任法』に元々賛成だったのでしょうか? 

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  • DieMeute
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回答No.2

ヒトラー内閣は他の党も参加していた連立政権です。 賛成票を投じた国家人民党はヒトラー内閣に参加していました。党首のフーゲンベルクは経済相・農相の地位にありました。 国家人民党は右翼であり保守派であり、フーゲンべルは経済界の代表者でもありました。 その国家人民党は躍進著しい共産党に脅威を感じていました。1932年12月に出された党の機関紙では「共産主義の脅威」という文章が載せられ、党首のフーゲンベルは「農業界は急進化しており、最終的には共産主義に落ち込む」とまで言っています。 翌年にヒトラー内閣ができ、国家人民党が政権に参加した時、ヒトラーとフーゲンベルの最初の会議で話し合われたのは共産党対策でした。それは共産党の禁止や全権委任法についてでした。 酷い経済状態にあり共産党に脅威に感じる国家人民党としては、全権委任法は国難を乗り切る為、または共産党対策の為の法でした。だから賛成票を投じました。 同じく全権委任法に賛成した中央党やバイエルン人民党は、ドイツでは少数派のカトリック政党でした。過去には政府に迫害された事もあります。ヒトラーはカトリックに配慮する姿勢を見せ、彼らの賛成票を取り込んだと言われます。 もともと中央党内部では、ブリューニング元首相をはじめとする人達が、始めはこの全権委任法に反対していたそうです。 しかし、ブリューニングがヒトラーとの会談で「悪いようにはしない」という約束を取り付けた事から反対派も賛成にまわったそうです。 ヒトラー内閣で副首相だったパーペンや、経済相・農相のフーゲンベルはヒトラーとナチ党を押さえ主導権を握る事が可能だと考えていたと言われます。 しかし、ヒトラーの方が一枚上手でした。 ヒトラーは、政府が頻繁に変わり政策が安定せず、経済状況は酷い状態にあり、共産党の勢力拡大に危機感を募らせる政党に、国難を乗り切る策として全権委任法を提示し賛成させました。 しかし、実際には権力を奪取し独裁政治をする為にその法を使用したのです。全権委任法に賛成した政党は騙されたと言えるでしょう。

sk1272
質問者

お礼

 国会議事堂炎上(ナチスの仕業ではないかも知れないが)による共産党員逮捕から始まる、共産党への異常なまでの弾圧を見るまでも無く、本当の脅威は『共産勢力の拡大』などではなく、ナチスそのものだった事に、国民はともかく、議会が何故気が付かなかったのか不思議でなりません。  権力を奪取し独裁政治をするための法だった。←と私なら最初からそうだと思うのですが、これはあらかじめ結果が分かっているから言えることですよね。  大変参考になりました。 ありがとうございました!   

その他の回答 (2)

noname#91529
noname#91529
回答No.3

|議会が何故気が付かなかったのか これについては きづいていたと思います。 グレーナー将軍の動きをトレースするとはっきりしますが・・・ たとえば、社会民主党 ワイマール期を通じて30パーセント程度の議席は確保しており、 エーベルト・グレーナー協定も、反ナチス政治協定と解釈できます。 資料的には何ですが「権力のネメシス(ウィーラーベネット著)」 を読めばわかるように、 シュライヒャーを中心とする軍部がヒトラーを取り込めると判断したことが一つ。 また、 保守国粋主義が「ヒンデンブルクの政治的弱体化・死」を契機として勢力争いに敗北してしまったことも大きいでしょう。 当該法律成立の前提として、リッペ(Lippe)選挙の結果を見てください。 ナチスはなし崩し的勝利を目算していましたが、 圧倒的勝利は不可能でした。 「ヒトラー世代の政権」が支持されるようになったのは、 当時、 政権の実務実行能力があったということに関し、その原因は、 苦労もしていないで戦中・戦後のアジを本気にしていた 無産階級・下級官僚・元兵士等による支持が大きいと思います。

  • Mumin-mama
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回答No.1

下の「成立当日」の表の下に詳しいことが書かれています。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E6%A8%A9%E5%A7%94%E4%BB%BB%E6%B3%95 1924年以降ドイツの政界は右翼に傾いて行き、「強い政治家」を求めるようになって行きました。 1929年以来崩れ出したドイツの景気は、同年10月のNY株式取引所恐慌依頼、頼みとするアメリカ資本の支持を失って本格的な恐慌に入り、それにより経済的にもろいドイツの資本主義は破滅的打撃を受け、ドイツは失業者で溢れました。恐慌の深刻化とともにドイツ支配勢力の大半は、膨大な社会政策費がかかることを恐れ、社会革命を招くおそれのある民主政治の廃止と、独裁政治の樹立を要求するようになりました。 また同時に恐慌に悩む中産階級と農民は、中間派諸政党に見切りをつけナチを支持するようになり、社会民主党を支持してきた労働者は共産党を支持するようになりました。 1928年6月に久々政権を取り戻した社会民主党のヘルマン・ミュラー内閣は、国防軍とユンカーと大資本家に背かれて1930年3月に政権を失います。このとき以来、ドイツでヒットラーと真剣に闘争した支配政党も政府も無くなります。 参考: ドーズ案とミュンヘン一揆 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%BC%E3%82%BA%E6%A1%88 ヘルマン・ミュラー http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%A9%E3%83%BC ヴァィマル憲法 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%AB%E6%86%B2%E6%B3%95

sk1272
質問者

お礼

 やはりキーワードは、強いドイツ復活のため、共産勢力拡大の脅威のために、国民及び議会は強いリーダーシップを求めるようになったのですね。  いかなる理由があるにせよ民主政治を否定し、独裁政治の樹立を求めるあたりに、当時のドイツが尋常ではなかったことが伺い知れます。  そういえば、わが国も去年の参院選までは全権委任状態だったような・・・  余談でした。  おかげ様で、この連休中、ドップリとナチス漬けになることができました。(笑)  大変参考になりました。 ありがとうございました!

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