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本音好きとそうじゃないひと
人それぞれ立場もちがうし、状況によっても違うでしょうが、本質的に「本音好き」(できれば可能な限り虚飾や粉飾はやめて、あからさまに言動したい)人と、「本音嫌い」(真実など下らん?醜い、とるに足らん、興味ない、虚飾して自分も相手もらくになりゃいい?)私は前者だと自覚しているので、後者の気持ちは憶測でしかないですが、どういう理由で人はこのような傾向に別れる(あるいは折衷的な人が多いかもしれませんが)のでしょうか?
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私は本音好きです。 確かに人によって建前は使い分けることができますが、正直居心地よくないです。だって建前って一般論だから。一般論で話しててその場は居心地よくても相手の「生身の部分」「核の部分」は知ることができない。もっとも本音で話していると言っても相手はそうではないときもあって、またその逆もあって。でもそれは直感で分かります。 そういう場合には相手の「嘘」も自然に分かるものです。でも上っ面の付き合いだとそれが嘘かどうか、本音かどうかなどは気にもなりません。逆説的ですがそれが「利害関係者同士」になる可能性がある。本音で話す同士は利害関係になったとしても相手の意図が読める場合もある。 私も本音でぶつかりあう人がいますが、確かに深く傷つくときもあります。また相手も傷つけることになります。 確かに本音でぶつかりあうことはリスクを背負うかもしれません。皆それが怖いから建前の部分で付き合うのでしょう。今の人間関係ってそういう意味では希薄だと思います。親子にしろ友人関係にしろ生徒と先生との関係にしろ。 つまり同じ嫌なことを言われても許せる人間と許せない人間がいます。許せないのは表面的な付き合いの人です。その人の魂に触れるような付き合い方は性格や感性が合うか合わないかで決まりますが、その人とは自分の片割れといってもいいくらい同じ部分があって、またもちろん違う部分もあって、正攻法で正面からぶつかっていける関係です。「お前だから話す」と言われるとやっぱり嬉しくて。普段何かないと会いませんが。でも喧嘩しても次に会うときは何もなかったような気持ちで挨拶できます。二人とも音楽人なのですが、音楽の話や精神的な話など会話に尽きることはありません。で、その議論が発展してまた喧嘩する(笑)お互い似てるんですね。そして相手のよいところも悪いところも認め合ってます。男女の関係から入ったのですが、甘かった(笑)。互いの強烈な個性を持ち合わせ、しょっぱなからいろんなエピソードがあり、今では人間同士の付き合いです。 やっぱり私は傷ついても、傷つけても、相手のすべてを知りたいと思うのです。そういう相手は稀有だと思います。お互いもっと自分と相手を大切にしなければと思ってますがもう遅いです(笑)。
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- augustinus
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コミュニケーションのとり方ですので、相手との関係も関係しますが、 いつもズバッと本音を話す人は、どちらかというと相手のことを考えていない人が多いようです。 本音好きは、能天気、楽天家が多いのではないでしょうか。 行き過ぎると、ロマンチスト、ナルシストとなって、人から嫌われる、敬遠される人になるでしょうね。 本音嫌いは、相手との距離をいつも一定に保ちたいと考える人が多いと考えられます。 また極端な場合、自分のことを知られたくない、人と接したくない、関わりたくないというニヒリスト、厭世家になります。 大抵こういう人は、今の自分に自信がない、もしくは、理想の自分にはなっていないということを感じています。
お礼
非常に鋭い分析ですね。納得いたします。 楽天家と思いやりの薄い人、慎重派と厭世感の同居、人としての心的エネルギー価値観の方向性によって、本音という状況も動くようですね。
- ecoshopQ
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私は「本音嫌い」です。 くだらないです。この社会で本音を言って得すること なんかありません。本音を言わせよう言わせようとす る人はゴマンといても。 また「本音好き」、つまりは議論好きなのでしょうが、 そういう人はたぶん何かに酔っているのだと思います。 とにかく本音をもらして良いことは何もありません。 人とうまくやっていくには自分を隠しばかのふりをする ことです。
お礼
ほんとにそうですね。「本音」は違う「本音」の反発をほぼ100パーセント受けます。世の中そういう法則になっているようですね。しかもこの争いは、実はお互いの主張を理解し消化して行っているわけではないですから、ただの感情論で無益に終わることがほとんどです。大体、狭量な精神からの「本音」なので同様な狭量な「本音」しかかえってこない。両者が交じり合った状態ならまだしも、交じり合わないので感情論になる。ここで「本音」を出すと必ずこういうことになります。面白くありません。 うまくやることが実は大事なのかもしれませんね。
- azukipuff
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こんにちは。 私は相手との距離を縮めたいときにはできるだけ本音で話したり、素の自分を出そうと思います。 相手を理解したいし、相手にも私がどんな人なのか知ってほしいから。 逆に、距離を取りたいな、あんまり近づきたくないな、って時には本音はあえて言わないで場の空気で言動するかな~と。 周囲に距離を縮めたい人、距離を取りたい人のどちらが多いかによって、本音好きとそうでない人との違いが出るのではないでしょうか。 近づきたくない人には自分を理解してもらおうとも思わないし、対立する危険を犯してまで本音を言う必要ないですからね~。 ちなみに私は基本、本音好きです。
お礼
相手によるということはどうしてもありますね。私は、本音しか出したくないので、寡黙になるだけですね。寡黙か、是も非もないことしか言わない。 しかし、「本音」は必ずといっていいほど違う「本音」と衝突しますね。お互い信じるところが違うという宿命です。そのお互いの主張する根拠感性をわからないくせに、自分の「本音」が相手によって侵食されたという妄想からということが多い。これが面白くありませんね。
いろいろな人がいなければ世の中が成り立たないからではないでしょうか。 世の中、「本音好き」の人だらけになってしまえば、 例えば、畑にトマトを植えようとする人に向って、私はトマトが嫌いだからそのようなものはなくてもいい。 という人が現れるかもしれません。 そこに「本音嫌い」の人や「折衷的」な人がいれば、適当なところで和解案を持ち出すことも可能でしょう。 けれども「本音好き」の人のみでは、小さなトマトから紛争が起きかねません。 トマトから戦争・・・。冗談抜きで本当に起こってしまうかも。 かといって「本音好き」の人がいなければ、 誰も決定することのできない、前身のない世界になってしまいそうです。 金子みすずの言葉を借りれば みんな違って、みんないいのです。
お礼
その通りで、元素がたくさんあるので世界が成り立っています。ものの循環でいろいろなものが生きながらえています。単色になってしまったら世界は枯渇するでしょう。 本音好き、本音嫌いも、お互い持ちつ持たれつで世の中を回しているようです。
- maxmixmax
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他人とぶつかるのが嫌いな人は「本音嫌い」になるでしょう。 それが苦にならない人は「本音好き」になるのでは。 私は「本音嫌い」です。 迎合しておけば、人付き合いも楽でいいですからね。 どうしても迎合できない場面が来ても、 本音をぶつけるのではなく、 その人から遠ざかる方向でお茶を濁します。
お礼
ぶつかるのがいやだということを、主張するよりも上に置く人は当然「本音嫌い」になるでしょうね。そっちからのアプローチもありましたね。私もここで質問回答して「本音」でいくと、ほぼ確実に違う「本音」の攻勢に会うという法則が感じられます。はっきりいって精神的にわるいです。でも、向こうも嫌がらせではなく信念に近いのでしょうね。
お礼
良寛ですよね。その精神は私も踏襲したいのです。というか、本音じゃないことを顔を引きつらせて振舞えないたちなので、回答者さんのお考えにひどく共鳴します。 しかし、「本音」で傷つくということが、実は多くの人間の限界性から繰るのではないかとも思っています。こちらの「本音」に相手の「本音」が反発するのは、実は交じり合っていない。逆説的にいえば、交じり合えないから反発する。もし、お互いに「理解」しその上で本音のやり取りができればそれは身のあることだと思う。しかし、どうやらそれは人間の能力を超えたことのように最近思えました。ここでのやり取りで、そう実感します。 回答者さんがおっしゃっている相手というのも、その「交じり合い」がかなりのところまで手きているその有益性を実感しているから「本音」のぶつかり合いが意義あるものとして実感されるのではないでしょうか。 「本根」を避ける処世術というのは、実はこの人間の無能さを考慮している便宜的なものなんじゃないでしょうかね。もし、人間が1ランク優れた存在ならば大いに「本音」を出せというのが常識になる気がします。