つまり話をまとめると、まず過去の経験から学べる人と、学べない人が居る。そして学べる人の中には、経験を活かして現実的に解釈する能力を高め、人として成長して行く人(良い方へ向かう人)も居るが比較的少なく、多くは(恐れて縮こまり不安に戦くような)異常に臆病なパーソナリティを形成し、発言できない人、行動できない人といった病的な症状を呈する(悪い方へ向かう)ようになる、という考えをお持ちなわけですよね?
で結局は、現実的な解釈ができる人と、できない人の違いは、何なのでしょうね?
同じ経験をしても、その経験から学べる人と学べない人、良い方へ向かう人と悪い方へ向かう人に分かれてしまうのは、なぜでしょうね?
また、現実的な解釈をできない人、人の主張を鵜呑みにしてしまう人が、大人の7割以上を占める、といったお話を以前に伺いましたが、残りの3割以下の中に、前述の『良い方向へ向かう人』と『悪い方向へ向かう人』が含まれると考えるわけですかね? それでは『良い方へ向かう人』の割合は、どのくらいになるとお考えなのでしょう?
~~~~~~~~~~~回答です~~~~~~~~~~~~
単なる質問と回答のOKwaveは違ってきているような気がするので、そろそろ失礼させていただきます。
自分で退散するのに失礼とは思いますが、総集編のつもりで、余分なことも加えて回答させていただきます。
1-1 人を単純に2分することは不適当と思います。いつも同じように考え、同じように行動するものではないし、程度の問題は重要です。 ,,,の人、,,,ではない人という区別をつけて、人を認識しラベルを貼り付けると、誤認識が増加する危険があるので、できるだけ避けるように努めようと私は思っています。
1-2 現実的な解釈や対応とは何でしょうか。
テストでも選択式のもので正解・誤答が決まるようなものであれば、いい加減に問題を読み適当に回答してもある程度の正答率はでます。
一生懸命に問題を読み選択肢の差を考えた結果誤答を選択することもあります。大学入試の出題者ミスで、正解がなかったり、複数の正解選択肢がある場合さえもあります。
http://www15.wind.ne.jp/~Glauben_leben/Nitiniti/Nitiniti145.htm
テスト問題ではない現実世界ではもっと大変です。見方によって色々と変わるのが事実です。同じことに対しても、甲乙丙が[これが事実だ]と思っていることは違います。これが現実的な対応だと甲乙丙の三人がそれぞれ独自に考えたことがあれば、その現実的な対応の内容は同じではありません。[事実の客観的把握はこれだ][現実的な対応とはこれだ]という確定不変のことはありません。
ANo12で次のような回答をしました。{(1)(3)の状況下で、(2)のように短絡的に「Aが悪い」と受け止め・反応・行動する【こと】を、現実的な解釈ができないと[buhahaさんは]呼んでいます。(2)のように短絡的に「Aが悪い」と受け止め・反応・行動する【人】を、『現実的な解釈ができない人間』と[buhahaさんは]呼んでいます。私は、こうした場面での人(C)のとる態度は色々であり、簡単に、現実的な解釈ができる、現実的な解釈ができないという区分は難しいと思います}
どこかにメジャーがあって、これは現実的な解釈、この人は現実的な解釈をする人、というより分けは難しいと思います。
1-3 努力とか方向性、姿勢について質問されているのでしょうか。
harrywithersさんは、{客観的な事実を把握する}、{事実にかかわり無く物事を現実的に対応する}という2つの例を挙げています。客観的事実の把握は難しい場合があることを指摘し、そのときの情勢等を判断して現実的な行動ができるようなケースを説明されています。
harrywithersさんは正解にヒットするかどうかということではなくて、その人なりに(表面的な受取で終わらせない)(事実の真偽はどうだろう)と考えようとする姿勢と、(事実の確定よりも優先すべきことがないかを、その場の状況に即して考える)という姿勢をharrywithersさんは言われているのだろうと思います。
そういう姿勢を持っている場合に、大事なこととして、1)客観的な事実を探り出す力、2)自分自身を知り、自分の心の傷や偏見などを投影しないこと、3)常識と知識を使いこなし様々な解決策を探る努力を怠らないこと、4)情報が間違いとわかった時にすぐに修正できる柔軟な姿勢を例として挙げて、(自分の頭の中に)選択肢を出来るだけ多くだせる、、、 こんなことが、現実的な解釈と、その先の解決力につながる】と言われていると思います。
buhahaさんは、『こうした方向を目指す人とこうした方向を目指さない人がいる』『こうした方向に分かれるのはなぜか』『それぞれの人は、全体の中で何割か』と重ねて質問されているのでしょうか。
私は、harrywithersさんの言われていること(と私が解釈していること)ができると良いなと思っています。
これができるならば、仮に失敗をたくさんすることがあったとしても、生き方としてすばらしいことだなと私は思います。 ただ、それを望み実現したいと思って努力しても、なかなかできないことだと思います。
なかなかできないのは私の能力が平均的なレベルよりも相当に低いからではなくて、それをいつもやるのは人間には難しいことなのだと私は思っています。
これを能力の所為にしても始まらないのです。かえってマズイのです。ちゃんとできない、事実を誤認した、誰かを傷つけた、自分が損害を被ったのは、能力がなかったと言われてもきついです。少なくとも、私が見聞きしている範囲では、ほとんどの人が多くの場合に、事実調査をしません、知っているはずの情報を総合して一番よい解決のために頭を使うようなことをしません。細かく調べたり、情報を整理したり、情勢分析や先行きの展開を考えるようなことは、ごくまれにしかしません。
ANo8では、{『現実的な解釈をする必要がないから、現実的な解釈にエネルギーの無駄遣いをしない』『会話として相づちを打ったりコミュニケーションをとることは大事なのでそうするが、会話の内容は忘れてしまってもいいようなことなので、適当に扱っている(賛成でも反対でもどちらでもいい)(Aさんが悪者でも、そうでなくても、事実があっても事実そのものが無根でも、どちらでもいい)』というのが、多くの人の生活の知恵になっているのではないでしょうか。}と回答しました。
buhahaさんから{現実的な解釈にエネルギーが必要なのはわかるのですが、だからと言ってなぜ、非現実的な解釈に走ってしまうのでしょうか? 非現実的な解釈をしてしまうが故、(トラブル等)余計に時間とエネルギーを浪費する事態を招いてしまうことも多いと思いますし、事実無根の悪者扱いをした結果、殺されてしまうことだってありますよね。 現実的な解釈をする能力があるのに、なぜわざわざ事実無根の悪者扱い等非現実的な解釈をするのだろう? と思います。}と質問を受けました。
私は{現実的解釈をしたり、他人により現実的な解釈をするように求める行動は一般的ではない、むしろまれな行動である。『なぜ』そうなのかについては解釈になりますが、人間の頭脳はフルには活動しない、日常生活を繰り返す範囲で普段の脳の活動を行い、特別な場合以外には深く考えたりしないようにできているのではないかと思います。諍い(いさかい)が誤解やコミュニケーションの不足、行き違いで起きることがわかっていても、「(2)事実にかかわりる無く物事を現実的に解決する」能力を発揮することがまれなのが、人間なのではないかと思います}と回答しています。
正しい事実をしっかり理解し、その場に応じた適切な対応をしたいかと問われれば、yesと答えるのが多くのケースですが、例外的な状態を除けば、私も、多くの人も、事実を把握するための努力や現実的な対応を実現させるために具体的な努力をすることはほとんどありません。
1-4 buhahaさんは『現実的な解釈ができる人と、できない人』がいると強く感じているようです。そのために私の回答とかみ合っていない可能性があるようです。もしもかみ合っているのならば無用なことですが、ちょっと次のように考えてみて下さい。
『授業を聞いて理解できる人と、できない人がいる』『学びを積み重ねてハイレベルの大学に入れる人と、どんどんドロップアウトしていく人がいる』『その結果、就職や所得、生活も自分で選択できる範囲が広がる人と、選択の余地がなくなっていく人がいる』この2つの人の違い、方向が分かれてしまうのは、努力不足あるいは生得の能力不足と考えるのでしょうか。前者は全体の何割いるだろうかと質問したいのでしょうか。
私は、こういう問題を考える場合に、色分け問題のように考えない方が良いと思っています。日常的に可能な方策が出てこないで、あいつは特別というようなことになってしまうと思うからです。
私は、どういうのが実際の中で多いのかを考えて、そういう行動や生活習慣を普通と考えようにしたいと思っています。医者や学者が正常と言うのを基準にはしないように考えたいと思います。道徳家や政府等が正しいというのを基準にしないようにしたいと思っています。
いい加減で適当に生きて、悪いことも良いこともやるし、正義感に燃えることも、ずるくやることもあるまぜこぜ状態を普通と考えます。普通とは違って見える人でも、あいつはおかしいとかあいつは特別とか、人の差とはできるだけ見ないで、同じような要素がほとんど自分にも同じようにあると思おうとしています。日常の中で少し程度が違うことを見て、自分もやろうという気が起きることを自分でも心掛けます。
そんなように見ようとしていると、人は2分類、3分類できるようなものではなく思えます。同じ人でも、いろんな時があり、いろんな対応や思考をしているのに気付きます。
[BさんがAさん悪者として扱っていた]という情報だけを見聞きした場合、Bさんの口調や様子が異常でなければ、多くの場合、Aさんは悪者なんだと受け取るのが普通です。その結果Aさんに対してどこまでの行動を取るかは別の条件で決まる要素が大きいですが、理解としてはAさんは悪者という理解をするのが一般的です。
AさんについてAさんは悪者であると理解をしていても、他の情報がDさんから入ってきたとき、あるいはBさんについて悪評を聞いたときに、Aさんは悪者であるという評価が揺らいだり、修正されることもあります。また自分がAさんとコンタクトするとか身近になる状況が発生した場合にも、Aさん評価の見直しが起きることがあります。
こういう評価の見直し、起きたことについての再評価を頻繁にやるか、ほとんど1回で定着させてしまうかにも、いくつもの条件があります。 同じような状況にあっても、見直しをしないビトもいるし、すぐに見直すヒトもいます。そのときも、単文形式思考主軸のヒトは評価を入れ替えるだけで終わることが多く、重曹入れ子型思考が主軸のヒトは色々とあちこち直さないと評価が入れ替わりません。それだって、程度の問題だし、同じヒトでも単文形式を取ったり、重曹入れ子型複文形式を取ったりします。
1-5 公平とか、私利重視とか、単文形式とか、重曹入れ子型複文形式とかは、みんなが持っている要素です。どれが多く使われるかは、習慣ではないかと思っています。ただし、脳をいつも使うことだけはほとんどのヒトはできません。(できるヒトもいるかも知れませんが、私は知りません)(ほとんどの時間を習慣的なパターンで過ごし、脳はほとんど使いません)
論理的思考とか、筋の通った考えとか、最適化(公平でも、私欲でも)には、論理性が必要です。通常論理性を追求しようとすれば、重曹入れ子型複文形式になってしまいます。多数の情報を整理分析するにも、矛盾や情報の欠落に気付くにも、論理性は必要です。日常生活ではほとんど論理的思考や情報の整理分析は無用ですが、こういう習慣をほとんど持っていない場合は、使わない能力は発揮しにくくなるので、だんだんと切れが悪くなってきます。Aさんが何々をしたからAさんは悪いとBさんから聞いても、Aさんは悪いという部分だけを聞いたり、Aさんが何々をしたという部分だけを聞くことが多くなります。
それが嫌であれば、普段から何かにつけて、情報や思考を[論理的に整理し、不十分な点や、限定できていないという見直しと確認]をするのが良いです。日常の会話やマスコミ情報は、論理的には条件不十分で結論を出せないか、出した結論は論理的ではないはずです。日常生活はそれでもかまいません。その日常の中で、入れ子の重層的複文を自分で考えておかしさの検証をたまにはして、論理性の要素をさび付かせないようにしていると、早とちりの間違い、一面だけを見る間違いで、極端な失敗をしないで済むように思います。
1-6 経験を活かして現実的に解釈する能力を高め、人として成長して行く人(良い方へ向かう人)も居るが比較的少なく、多くは(恐れて縮こまり不安に戦くような)異常に臆病なパーソナリティを形成し、発言できない人、行動できない人といった病的な症状を呈する(悪い方へ向かう)ようになることの、ヒトの割合の質問にお答えします。
単純に2分してヒトを分けません。ヒトを分けるのではなく、そうなることがあると言う意味であることを予めお断ります。
ナイーブな神経を持ってたり、大きな被害に遭うと、以降しばらく注意深くなったりするのは誰にもある傾向です。ですが、そのようなことがあると神経症的になることもあります。でもそうなる確率は10%にならないのではないかと思います。
大地震や火災、盗難等の被害者で、異常にガードが堅くなったり、心配で薬を飲むようになるケースは多くないと思います。
精神や行動の障害に色々な神経症生障害やパーソナリティ障害があるそうですが、その人でも、治った後に、同じような状況になっても症状が100%再発するものではなくて、平気でいたり、たいしたことなく済んだりすることも多いようです。結構タフで何があってもゴーイングマイウエイに見えていたヒトでも落ち込んで自信を失い縮こまることもあります。どちらにしても、何かの不都合があってそれを契機として退行現象(逃避、萎縮、沈滞)を起こすことはありますが、発生率はそう高くはならないでしょう。何度も詐欺被害を被るとか、投資と言われて何度も多額の損をすることもあるのでしょうが、毎回詐欺、毎回損のヒトはいないのではないでしょうか(わかりません)話しに載らなかったりしたことも多いのでしょうが、その無事に過ぎたときのことがカウントされない、本人も無事に過ぎたことをそのように認識していないと思います。
経験を活かして能力や判断力等を磨き上げるというのは、程度が問題です。多くのヒトが15歳程度までなら、能力アップ、判断力アップを続けているのではないかと思います。それより歳をとると、忘れる速度、記銘保持するに懸かる手間との関係で、個人差が大きいし、時々で一定ではないものの、経験を活かして能力や判断力等を磨き上げる上昇度は大きくダウンするように思います。30歳くらいまでなら上昇度が下降速度を遙かに上回るヒトもいますが、若いときよりもダウンします。総合的に上昇度が下がっているのでどんな経験をどう生かせるかは単純ではないと思います。ある意味では誰でも何歳まででも成長していけるでしょう。一方経験の中には『みんなそんなにまじめでも一生懸命でもない。自分もこれまでやってきた』という自信あるいは怠惰を支持する経験もあります。そうすると、何かの危険な情報を得てもその背景を考えなくても、事実かどうかさほど気にしないでも大丈夫だったという経験を活かすこともあります。このような経験の活かし方というのは成長とは普通は言わないかも知れませんが、世の中が安定し、不安で恐慌状態を起こさないで済む基盤を強固にしているので成長かも知れません。それらの上昇下降とそんなに考えなくてもいいという経験が教える『動じないこと』『大勢に準じていれば安心』のバランスがあるので、経験を積んだからといって分析と思考の能力がどんどんと高まるという方向に進むことは少ないと思います。総合的にはそうですが、一部自分の関心があることに注力してその情報を調べ考えるということを続けていると、その分野では鑑賞、解釈、創造的思考、調整能力等は勢いを鈍らせることなく成長することはあると思います。ただし、自分の関心領域以外でもどんどんと力をつけるのは無理なように思います。特に関心領域を持たず、情報も集めず、技能も発揮せず、日常生活の繰り返しに終始すれば、加齢と共に低下するのは避けがたいと思います。ただ、なるべく、重層した入れ子で考えるくせ(習慣)を持っているとアガサクリスティのミス・マープルのような情報分析力・判断力を持てると思っています。
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別件 桃太郎のはなし 福沢諭吉の家族への教え
桃太郎の話しはめでたしめでたしで終わりで、だから何だということのないはなしとして記憶しています。
福沢諭吉が家族のために全部ひらがなで、桃太郎を題材に書いたものがあるそうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B2%E3%81%B3%E3%81%AE%E3%81%8A%E3%81%97%E3%81%88
学問のすすめを書いたヒトですから、そのように解釈すると、桃太郎の昔話を聞くような場合でも、[本当に鬼は悪者だったんだろうか、鬼をやっつけて宝を持って帰ったというのは、妥当なことだろうか]と、自分なりに考えろよ、本に書いてある、年長者が得々と説明してくれるから、それをそのまま単純に自分の中に取り込んで終わりにするなよと、子供らに教えたかったのではないでしょうか。
しかし、いつもそのように考えていたら、とてもでないけれどやっていけないように思います。
時々は、常識を疑う、経験者や先達の教えを破る、その時々が大切なように思います。
もちろん、常識を大切にし、年長者、先生、先輩、上司、牧師、政府の言うことを大事にし、自分の信条として疑うことなく生きていっても問題はないです。
科学は過去の知見を覆すことがねらいと言っても良いような面があります。しかし、科学を追究せずに、技術を習得利用することでも社会経済の発展を支えることもできます。
えん罪は好ましくはないですが、えん罪を皆無にすることは、社会罰を続ける限りなくなりません。
合理性というのは、必ず真実ということではありません。いくつかの情報をある視点で検討したら、これが妥当だとうという(現実を処理するためのロジック)です。
BがAを悪者扱いしている状況やロジックがその範囲で妥当そうならば、それを聞いているCはそのように理解するのが普通です。
自分や身近な人間が事実無根の悪者扱いをされる経験を数え切れないほどしていていれば、世の中には事実無根の悪者扱いは非常に多いと考えるのは妥当だと思います。しかし、世の中に悪者扱いされるのが妥当なヒトはいないのでしょうか。すべての悪者扱いは事実無根なのでしょうか。 そのような状況ではBの主張を鵜呑みにはしないという方もいるでしょう。一方過去の経験からAが悪者扱いをされているのは相応のことがあるからだと推定でほとんどのケースで問題はない、問題があってもレアケースであるし、そうした場合には後で修正されている。Bの言うことは違っている可能性があるということを第一優先にしたら、とりあえずAは悪くない、いや悪い人と確実に指名できる対象者はいないということになると思うヒトもいるでしょう。
そんなに面倒な思考過程を踏まず、Aが悪いと言われていたからAが悪いのだと済ませてしまうことが多いと思います
お礼
何度もありがとうございます。 インナーとミドルの違い、よーくわかりました。 腕にチクリと痛みを感じた。インナー 見ると蚊が私の血を吸っていた。アウター 「てめー! なにしやがんだ! うりゃっ」 ミドル 〈パチン!(という感覚)〉インナー 手の平に血が。アウター 「こいつ、こんなに吸いやがって! ずうずうしいんじゃ! ボケ!」 ミドル っと、こんな感じですよね。 修行プログラムの方も参考にさせて頂きます。 さて、NO20の回答者様のご指摘どおり、『愛』という言葉は定義が難しいと思うのですが、 harrywithersさんがおっしゃっている『愛』について、もう少し詳しく教えて頂けないでしょうか。 (他の部分は理解できたのですが、『愛』に関する部分だけが、まだ理解できません) harrywithersさんがおっしゃっている『愛』とは、どのようなものなのでしょうか? また、それは問題解決能力を支える土台の為だけに存在する道具のようなものなのでしょうか? (少なくとも、harrywithersさんがおっしゃっている『愛』と、私がイメージする『愛』とは異なるように感じました) その辺りについて具体的に教えて頂けたら幸いに思います。 宜しくお願い致します。