ラフに書いたので、細かくは説明してませんが、大体において
私の書いたことは19世紀-20世紀に確立されたフランス革命研究を
なぞっているので、定説にほぼ沿っているといえると思います。
テルミドール9日前後の状況はかなりはっきりしていて、
誰がどう動いて、結果どうなったかというのはほとんどなぞはありません。
しかし全体的にどういう背景からこうなったのかというような
意味づけについては学者によって観点がさまざまなんで、
時代というか世代によって、学んできたことがかなりことなります。
例えば、古い山川の教科書あたりだと、テルミドールのクーデタの背景を
新たに誕生した小土地所有農民や中工業市民の保守化によって
恐怖政治にブレーキがかかったというような解釈をしていましたが、
そもそもロベスピエール派が目指していた小土地所有農民の形成が
封建的特権の無償廃止という前からの政策では実現しておらず、
ロベスピエールやサン=ジュストがまさにそれに着手していた段階だったことがわかっているので
この説明は間違いです。
テルミドールのクーデタの背景には、粛清を恐れた派遣議員の個人的暗躍が強く、
それに中立的立場だった平原派などの多数は議員団がのっかった格好で、
ブルジョワ層を代表する平原派は、そもそも小土地農民の育成という
資産の均等分配につながりかねない貧困対策に不満で、
サン=ジュストらの主張していた”人民の純粋化”に狂気を見ていたので、
恐怖政治の終焉という取引によって、腐敗議員の集団であったテミドリアンと結託し、
腐敗しない人といわれたロベスピエールとその派閥を葬りさることに同意したわけです。
この顛末は、ジャコバン独裁下においてもブルジョワジーの動向が、
政権に決定的な影響を与えたということで重要で、
その後の総裁政府やナポレオンの帝政、復古王朝や七月王政でも
ブルジョワジーの支持が政権の命運を決めたというがいえます。
ちなみにですが、私が習った頃の山川の教科書には、
ロベスピエールの独裁というような書き方はされておらず、
「ジャコバン独裁」という用語が使われていました。
ロベスピエール派はジャコバン派のなかのもっとも小さなグループなわけで、
ジャコバン独裁がロベスピエール独裁ではないことは一目瞭然です。
しかしこの点の説明は教科書にはないと思いますが。
あとテルミドールのクーデタの内容について詳しく教える教科書はないと思いますが、教科書のその部分を引用すると、
「・・・ジャコバン独裁への不満はしだいに高まった。そのうえジャコバン派の指導者内部に対立が生じ、ロベスピエールはダントンら政敵を粛清して独裁を強化したが、まもなく孤立し、1794年7月27日(革命暦テルミドール9日)ついに政敵に捕らえられ断頭台で処刑された、ここにジャコバン派は勢力を失い、恐怖政治は終わった」
とあります。
途中に出てくる独裁は、個人独裁であるかのように誤解しやすいですが、書いた方はそういうつもりで書かれたのではないと思います。
ジャコバン派の内ゲバがあって、孤立化して、政敵にやられるというのは、基本的な流れです。
政敵が二回でてきますが、バラスやフレロン、あと保安委員会の面々も、
ダントン派の分子で、ダントンが処刑されたときに見向きもされなかった小物の政治家たちですが、
ダントン派の報復という見方は当然ありえます。
そしてロベスピエールの死で、ジャコバン派つまり左派が完全に弱体化して、
以後政権をとれなくなって、王党派ではない右派が、ブルジョジーの支持を得て、
非民主的な政府を以後つくっていくことになります。
教科書に書いてあることは基本的に間違ってはいませんが、
たいがいにおいて省略によって誤解を与えているとは言えるでしょう。
また暗記のために単純化しようとする教師らがこれに拍車をかけてます。
私は山川の教科書しか読んだことはありませんが、
別にロベスピエールが悪者としては書かれているとは思いません。
そこは誤った拡大解釈もあるのではないでしょうか。
簡素にまとまっているだけですね。
お礼
私の使った教科書も山川でしたが昔のことですので少々うろ覚えです。ジャコバンの主流=ロベスピエール派ではなかったのですね。端折って書かれたような記憶があり、Wikiなどで調べてももう一つそのあたりが理解しにくかったので質問いたしました。再度の回答ありがとうございます。