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大河の篤姫をみて

篤姫は、家定なきあと、天障院として、髪を落とし「頭巾」(?)を かぶると思っていたら、髪はわずか短くしただけ、頭巾はかぶりませんでした、 江戸中期までは将軍の正室など(天英院など)は将軍が死んだ後は必ず頭巾をかぶっていたとおもわれますが、なにか規則が変わったのでしょうか? また、頭巾の中はどうなっていたのでしょうか? 江戸の大奥に詳しい方、よろしくお願いします、

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回答No.7

今晩は、cobamaxさん。 >>しかし、「月光院」が頭巾をどうしてつけたかはよくわからないのですが どうやら「解明」に近づきました。 「徳川家の女たち」・新人物往来社。並びに、Wikipedia検索により、詳しい説明は省きますが。 初代:徳川家康・・・母・於大の方(色々な戦国時代に翻弄され、実名も不祥=後年に名前は創作された可能性が高い)、院号「伝通院」。 2代:秀忠・・・母・西郷局(さいごうのつぼね)、院号「竜泉院」。 3代:家光・・・母・小督(おごう)の方、または、お江与の方、寛永3(1626)年9月15日死去。享年54歳。法名「崇源院昌誉和興仁清」。寛永3(1626)年11月28日、従一位追贈。 4代:家綱・・・母・本名「お蘭」またの名を「お楽」「高島御前」とも呼ばれた。承応元(1653)年12月2日死去。法名「宝樹院殿華城天栄大姉」。 5代:綱吉・・・母・お玉。元禄15(1702)年に女性として最高位の「従一位」を賜り、藤原光子(または、宗子)と名乗る。永宝2(1705)年79歳で没。「桂昌院」。この時、官位をめぐり、幕府と朝廷とのやり取りで一大波乱を巻き起こす。 6代:家宣・・・母・お保の方。甲斐府中徳川綱重の側室のため、晩年は出典あらず。 7代:家継・・・母・お喜世、またの名を、輝子。 ここが一番大事!!・・・ 将軍の子どもが生まれると、生母ではなく、正室に育てられるのが一般的でした。天英院熙子(ひろこ)は、さぞ、辛い思いで「側室の子」を養育したと思われますし、お喜世の方(月光院)との確執もあったと思われますが、その子どもである家継(鍋松)が正徳3(1713)年に将軍宣下が下されると同時に、お喜世の方に朝廷より「従三位」の位を賜り「月光院」と名乗る。 これには、天英院とお喜世の方との確執とは別に、幼い家継を天下に「将軍である」と認めさせたい天英院の思惑が、あいまみえて、特に、将軍宣下と同時にお喜世の方に官位を与えられた。はっきり言って「異例」のことであった。そこには、天英院が公家の出であることを利用したことは、言うまでもないと思います。前出および後出する「生母」たちはのほとんどは、死後「追官」です。 従って、月光院が「薙髪」して、皇族および公家出身者と同じように「尼頭巾」を被ったこととつながると考えます。 8代:吉宗・・・母・於由利の方。法名「浄円院」。紀州家のため史料不足。 9代:家茂・・・母・於須磨の方。元禄元(1688)年~正徳3(1713)年10月24日。宝暦13(1763)年4月16日、従二位追贈。 10代:家治・・・母・お幸の方。延亨5(1748)年2月26日死去。法名「至心院殿観真円如大姉」。年月日不祥:「追贈従一位」とある。 11代:家斉・・・母・お富の方。生年不祥。文化14(1817)年5月8日死去。院号「慈徳院殿善教成誉大姉」。 12代:家慶・・・母・お蘭、またの名を、お楽の方、高島御前。法名「宝樹院殿華城天栄大姉」。 13代:家定・・・母・お美津。夫家慶死後「本寿院」と号す。 14代:家茂・・・母・おみさの方。紀州徳川家から入った将軍のため「史料不足」。 15代:慶喜・・・母・登美宮(とみのみや)、有栖川宮織仁親王九女。落飾後「貞芳院」と名乗る。 と、まあ、ここまで見てくると、月光院がなぜ「尼頭巾」をしたかは分かりますよね。前回、あなたが是認してくださったように、皇族や公家を真似た。 生前に朝廷から官位を賜ったのは、5代綱吉の母と7代家継の母だけだったからです・・・と、私は「推理」します。

cobamax
質問者

お礼

暑いなか、私の些細な疑問に丁寧に回答いただきありがとうございます、 「尼頭巾」をするしないは、公家 皇室出身の正室、側室は「する」 武家 その他の出身は「しない」「月光院」はご指摘のような理由で 例外という結論ですね、「天障院」は形式的に「近衛家」よりですが 本来の出である「武家」の出をとり「しない」方になりましたが、 後の「和の宮」は皇族の出であるため「する」になったのですね 何回も回答いただき恐縮です、今後またここで江戸の歴史の質問をします、 「歴史家」先生の回答楽しみにしております、

その他の回答 (6)

回答No.6

は~い。自称「歴史作家」は健在ですよ。 ただ、昨今の暑さにはクタクタ。冷房ガンガンかけてかみさんからもガンガン怒られています。 >>(家宣→天英院 吉宗→寛徳院 など)しかし江戸後期になると 本寿院 天障院 などは剃髪せず、NO4のかたの説明のとおり 髪型を変え、頭巾はかぶっていません、一方家茂の正室 和宮は 剃髪して頭巾をかぶっています、大奥の規則は変わったのか、もと もと(剃髪や頭巾の使用は)個人の自由になっていたのか、その辺が疑問です ホコリを被った史料を探し出しました。 まず最初に、謝っておきます。 前回、「丸坊主」になる、と、書きましたが、大変なミスティクでした。 正確には、「尼削ぎ(あまそぎ)」と言うことで、やはり、肩くらいまでの「ショートカット」にしかしませんでした。その上に「尼頭巾」を被っていました。また、「落飾」を「剃髪」ではなく「薙髪(ちはつ)」と呼びました。 さて、尼頭巾を被る女性と被らない女性。 大奥で、夫に先立たれた正室、側室は、「切り髪」にすることは「決まり」がありましたが、「尼頭巾」を被るかどうかについての「規則?」らしきものは見当たりません。(少なくとも、私の史料の中では)。 ただ、これには、信心の「度合い」と言うよりも「違い」があったようです。 歴史の表舞台に良くでてくる、6代将軍家宣正室・天英院煕子と14代将軍家茂正室・静寛院宮(皇女和宮)ですが、皇室または公家の出身で、皇室および公家は神道を奉じています。しかし、武家に嫁ぐと、いやおうなしに仏教を信奉しなければなりませんでした。 毎日の日課として、朝一番に、仏間に入り、公方さま以下、正室、側室、生母、義母などなどが焼香しました。 そこで、夫の亡き後、皇族や公家出身の正室は、仏門に帰依した「証拠?」として、尼頭巾を被ったようです。 しかし、別の史料によると、6代将軍家宣の側室・月光院も夫の死後「尼頭巾」を被っていますね。 正確には、そこまで「つっこんで」の史料がありませんが、将軍の正室は、皇族や公家出身者が多いのと正室だけではなく側室も多いので、尼頭巾」を被った女性は、天英院や月光院、静寛院以外にもいたと思います。 ただ、大奥の実態が徐々に分かり始めたのは、明治になってからですので、まだまだ細かいところまでは分かってはいないのではないでしょうか。(何か、私自身の言い訳がましいところもありますが・・・)。 なお、8代将軍吉宗の正室・寛徳院は元禄4(1691)年8月18日~宝永7(1710)年6月4日。伏見宮貞致親王の王女、理子女王(まさこじょおう)は、宝永3(1706)年に吉宗と婚姻していますが、吉宗が将軍になったのが正徳6(1716)年4月29日で、あくまでも、紀州徳川家へ嫁いで紀州で亡くなっていますので、寛徳院は千代田城としての表舞台には出てこないと思いますが・・・いかがでしょうか。 (よもやま話・つづき) (1)将軍の正室は別として、「お手つき中臈」たちは、将軍が死亡すると、やはり「薙髪」の後、桜田御門内にある御用屋敷(または、比丘尼屋敷、桜田御用屋敷とも呼ばれた)へ移りました。また、前記のように、本当に尼寺へ行った者もいました。 篤姫でも、側室の「お志賀の方」が篤姫に「おいとまごい」をする場面がありましたよね。 (2)天英院は、延宝7(1679)年12月18日に甲府城主徳川綱豊(後の家宣)と結婚。(14歳)。天保元(1681)年8月26日、16歳で女子出産。豊姫と名づけましたが、翌年10月21日死亡。その後、元禄12(1699)年9月18日に男子出産。しかし、翌日死亡。 宝永元(1704)年12月5日、第5代将軍綱吉に実子がいなかったため、甥である綱豊に養嗣子の伝達があり、家宣と名を改め、ただちに、天英院と共に西ノ丸に入る。宝永6(1709)年1月10日、綱吉64歳で死亡。即日、家宣は将軍に就任。天英院と共に本丸へ移る。実に44歳で本丸大奥に入りました。30歳を過ぎていたので「御褥寝(おしとね)」は禁止でしたが、将軍の正室ということで、大奥のトップになりました。 家宣には、4人の側室が選ばれ、その中の一人、勝田玄哲女・輝子(お喜世の方)が宝永2(1662)年4月25日、男子出産(家継=幼名、鍋松)。 これにより、お喜世の方の権勢が煕子(天英院)を上回り不仲となる。 家宣、正徳2(1712)年10月14日死去。 煕子は落飾し「天英院」と称し、「尼頭巾」姿となる。お喜世の方も、落飾し「月光院」と称する。この女性も天英院にならってか「尼頭巾」を被った。 正徳3(1713)年4月2日、実子家継が12歳で将軍に就任。 しかし、正徳6(1716)年4月の下旬に家継が風邪気味なのをおして「花見の宴」を開催。この宴の最中に家継は高熱を発して倒れる。病状は明日をも知れない状況となるが幕府の老中など重臣が、次期将軍を誰にするかで意見がまとまらなかった。候補としては、尾張・継友(つぐとも)。紀州・吉宗。水戸・綱条(つなえだ)の3人。 この時「歴史が動いた!」天英院は老中らを大奥へ呼び、床に臥せっている家継の後見人として吉宗を指名。渋る老中らに対して、 「文昭院(夫であった家宣)様の御遺命である」 と切り札を出す。 正徳6(1716)年4月29日、吉宗が千代田城に呼び出され、老中より伝達されるも、本人に迷い有。このことを知った天英院は吉宗を大奥に呼び、再び、 「これは家宣様のご遺志です。ご辞退あるべからず」 と一喝! 4月30日、家継死亡。 8月13日、吉宗に将軍宣下有。 女の底力か・・・。 なお、天英院と月光院の確執の最中に起きたのが「絵島生島事件」。 家継が死亡してから、月光院の権勢も落ち、天英院がしきりになぐさめて仲直りをしている。 天英院は寛保元(1741)年2月28日76歳で死亡。 月光院は宝暦2(1752)年9月19日68歳で死亡。 二人は増上寺に仲良く合葬されている。 (3)天璋院篤姫・・・幕末の世に生き、和宮と一緒に無血開城に大きく貢献した。 慶応4(1868)年2月9日、倒幕軍が京都を出発。東海道、中山道、北陸道の3手に分かれて江戸へ向かった。総大将は、西郷隆盛。 西郷は、鳥羽伏見の戦いで破れて江戸へ逃げ帰った慶喜を、断固として殺さなければ、幕府軍の息の根を止めることはできない、と言い放ち、 東海道軍は3月6日に駿府に入り、3月11日多摩川を渡ったところで、中山道軍と北陸道軍を待つため進軍停止。中山道軍3月13日板橋宿で北陸道軍と合流すべく進軍停止。千代田城攻撃は3月15日と決定。千代田城まで後およそ2里半。 そんな慌しい中、篤姫から西郷隆盛に一通の書状が届く。 「徳川家が永らえるよう、私の一命にかけて、なにとぞお願い申し上げます」 西郷隆盛は篤姫が千代田城へ入った頃、江戸藩邸で、14代将軍に徳川慶喜を擁立しようと篤姫と共に家定に働きかけた同士。 1300字にも及ぶ巻き書状を見た西郷は、3月14日、単身千代田城へ赴き、勝海舟と会談。 そして、「その時歴史が動いた!」。 西郷は勝に攻撃中止を伝えた。 慶応4(1868)年4月11日、千代田城無血開城。 表門から官軍が城受け取りに入る直前まで城に残り、将軍家の全ての財宝で城を飾り付けて去ったという。 天璋院は一橋家に身を寄せ、共に城から出たお付の女中たちの結婚や就職先を探すことに奔走した。また、薩摩から金銭援助の申し出があったが、 「私は、もう徳川家の者ですから」 と、かたくなに拒み、明治16年に死亡した時、所持金は3円(約6万円)だったという。 (4)静観院宮(和宮)・・・夫・14代将軍家茂が慶応2(1866)年7月21日大阪城で死亡すると、12月9日薙髪。尼頭巾を着用するようになりました。 15代慶喜の母の立場から、多くの助言や慶喜に朝廷に対して大政奉還をして反意の無いことを書状に書かせたり、自らも朝廷に慶喜の助命嘆願書を送ったりした。 また、千代田城内で、徹底抗戦の動きが活発になった時、老中たちを大奥へ呼び、 「ただただ神君家康公以来の徳川家の家名が立つよう謹慎を続けるように。抵抗さえしなければ徳川家が滅ぶことはないのです」 と、諌めたと言う。 4月9日清水邸に身を寄せ、その後、京都に呼び戻され5年余りを過ごし、すでに東京(明治元(1868)年7月17日、江戸を東京と改める)に移られていた明治天皇の勧めで東京へ。しかし、32歳頃より脚気になり、箱根塔之沢温泉で療養中に死亡した。 死に臨み、静観院宮は、 「皇族としてではなく、徳川家の人間として葬って欲しい」 と遺言したという。 増上寺に家茂と並んで「宝塔=墓」が建てられた。 増上寺には、8基の宝塔があり、徳川家の家紋である「三つ葉葵」が刻印されているが、静観院宮の宝塔だけには「菊」のご紋が刻印されている。 長々とすみませんでした。

cobamax
質問者

お礼

たびたび詳しい回答ありがとうございます、 皆様のおかげでかなり疑問が解けてきました、 なぜ「頭巾」にこだわったかというと、将軍が死去してから1月は 正室 生母にも長い徳川の慣習で知らせなかったといわれています このように慣習や規則に厳格に守る幕府が将軍の逝去という一大事に正室の髪型、頭巾着用形状に関して「どうぞご自由に」ということは 無いのではないかと思ったからです、頭巾の使用に関しては私の 知識は「そのとき歴史~」「映画 大奥」「テレビ東京 大奥」 の映像からだけですが、姿はかなりばらばらです、 「歴史作家」さんの正室が公家のでか武家のでかによって、形が 決まったのではないかという説はかなり有力だと思います、 「先生」のおっしゃるように 「天英院」→公家「和宮」→皇室  「頭巾着用」 「天障院」→武家(形式的に近衛家の養女)「本寿院」→武家(?)                  「頭巾つけず」 しかし、 「月光院」が頭巾をどうしてつけたかはよくわからないのですが

  • Domenica
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回答No.5

#4です。 > 天英院は剃髪して頭巾をかぶっていた とは存じませんでした。 私は(漠然と)在家で垂髪だと思っておりましたので…。 この点は確認しておらず、申し訳ありませんでした。 そう考えていくと、「在家、出家により髪型が変わる」のも大奥では常識ではないようですね。 大奥にはほかにも剃髪の「御坊主」がいますが、剃髪=出家で、出家したものは大奥には勤められない…ならば、大奥勤めはできませんもの。 それとも、出家しても大奥に勤めることはできたのでしょうか…。 回答にならず申し訳ありません。

  • Domenica
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回答No.4

天璋院や本寿院がしている髪型は「切り髪(きりかみ)」といい、「江戸時代『後期』の身分の高い武家」の未亡人がしていた髪型です。 正面から見ると、髷を結っているように見えますが、実際には結っていません(結うのと束ねるのは違うらしいです)。ポニーテールのようなものです。 ですから、実は、「切り髪」もヘアスタイルの系統から考えますと、「垂髪」の系統になるんですよ。 よく紹介されている明治時代になってからの天璋院の写真は、さらに「断髪」した後の姿ですね。 天璋院は、さっさと「断髪」されたんですよ。 頭巾は、いろいろな人が被っていますが、その下は、全く結わえていない垂髪(いわゆる「肩下がりのおかっぱ」)もしくは、剃髪した丸坊主です。 落飾後は、在家の場合と出家の場合がありますので、それによって「髪型」も変わります。

cobamax
質問者

補足

回答ありがとうございます、よくわかりました、 天障院や本寿院は髪型は「切り髪」というものだったのですね、 天障院は「切り髪」より「断髪」をしましたが、剃髪はしなかった ということですね、在家 出家により髪型が変わるということですが たとえば家宣の正室の天英院は剃髪して頭巾をかぶっていたようですが、出家して大奥にいることができたのでしょうか?

回答No.3

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>篤姫は、家定なきあと、天障院として、髪を落とし「頭巾」(?)を かぶると思っていたら、髪はわずか短くしただけ、頭巾はかぶりませんでした、 その通りです。 まず、髪を落とすことを「落飾(らくしょく)」と言いますが、2つの方法があります。 (1)完全に髪を剃って「丸坊主」になり、頭巾を被る者。 (2)現代で言うと「ロングヘアー」を「ショートカット」にするもの。 (1)についてですが、家康の時から、すでに「丸坊主」にしない側室もいました。家康には「正室」「側室」合わせて16人いましたが、その中でただ一人「茶阿局(または、阿茶局=於松の方)」にだけは、家康が「遺言」として「剃髪はするな」と言い遺しています。 私の「推測」ですが、かなりの才色兼備だったようですので、大奥に残って大奥を取り仕切る役割をさせるためだったのではないかと考えます。つまり、髪を落としてしまうと、仏門に入るわけですから、発言権が無くなってしまうからだと思います。 また、尼になったことで有名なのは、綱吉の側室「お安の方=安子」で、綱吉が死亡すると、音羽という女中と一緒に尼寺へ行きました。(城を出たため、院号やどこの尼寺かは不明)。 ですから、夫が死亡したから、必ずしも「丸坊主」にして頭巾を被るとは限りませんでした。 秀吉の正室「おね」の肖像画を想像されているのでしょうか? 篤姫も明治まで生きて、晩年の写真がありますが、ショートカットで写っています。(このサイトには「規約違反」になるため、写真を掲載できませんが・・・)。 (よもやま話) (1)最近はNHKも大分「時代考証」を曲げているのは事実です。 例えば、「落飾」には、夫の埋葬された寺の坊主(住職)が呼ばれて、剃刀で「剃髪」または「ショートカット」にするのが慣わしですが、篤姫の時は、坊主は出てこなかったようです。また、「院号」を付けるのも、その坊主の役目でした。勝手に「院号」を名乗ったわけではありません。 (2)篤姫は、大変な「お国訛り=鹿児島弁」だったようですが、NHKでは「標準語」と言うよりも「現代の若者言葉」。 (3)3代将軍家光の側室「お万の方」も剃髪はせず、家光の死後、一旦は「お梅の方」と名を改め、田安家に身を寄せていましたが、大奥の秩序が乱れている、と、家光の正室「孝子=本理院」から「大奥に戻るように」との要請を受け、本丸大奥へ入りました。しかし、明暦3(1657)年1月に起きた「振袖火事」で本丸が焼け落ちたのを契機に、家光の正室とともに、小石川伝通院に移り88歳まで生きました。 (4)篤姫は、家定の「正室」といわれていますが、実は、正しくは「継々室」と3番目の「妻」です。 では、1番と2番は・・・と言うと、 御台所・・・有君任子(ありきみのただこ)、鷹司政通養女、鷹司熙末女。1823.6.5~1848。天親院。 継室(2番目の妻)・・・寿明姫秀子(すめひめひでこ)、初め「明子」と呼ばれた。一条忠良女。1826~1850.6。澄心院。 継々室(3番目の妻)・・・篤姫、幼名「お一(おかつ)」、後「敬子(すみこ)」。島津忠剛女、島津斉彬養女、近衛忠熙養女。1836.12~1883.11。夫家定の死後「天璋院」と名乗る。千代田城開城後は家定の母=本寿院と共に一橋家に身を寄せる。 あなたの「答え」になったでしょうか。

cobamax
質問者

お礼

歴史作家さん 相変わらずお詳しいですね、 篤姫の件では2度目ですが、いつも丁寧な回答大変ありがとうございます、 毎回大変参考になります、今回の回答で大体理解できましたが。 若干疑問が残っていますので、補足の欄に記入しました、 よろしくお願いします、

cobamax
質問者

補足

江戸の歴史がすきで、いろいろと本やテレビ等でみていますが、 些細なことですが、将軍亡き後の正室 側室の姿がさまざまです、 私の知る限り江戸中期までは将軍なきあとの正室、側室は剃髪して 必ず頭巾(正式にはなんというのでしょうか?)をつけていました、 (家宣→天英院 吉宗→寛徳院 など)しかし江戸後期になると 本寿院 天障院 などは剃髪せず、NO4のかたの説明のとおり 髪型を変え、頭巾はかぶっていません、一方家茂の正室 和宮は 剃髪して頭巾をかぶっています、大奥の規則は変わったのか、もと もと(剃髪や頭巾の使用は)個人の自由になっていたのか、その辺が疑問です

  • joy_joy
  • ベストアンサー率40% (2/5)
回答No.2

詳しくはないですが、篤姫の時代考証している方の講演を聴いた事があります。 講演では、篤姫は鹿児島から出る時、実際でも原作でも舟に乗っていないと言っていましたし、家定に結婚前に会うなんて事もあり得ないと講演で言っていました。 ストーリー状入れたかったのでしょう。 そんな事もやっているので、「頭巾」はやめたのでは。 「歴史に忠実に」を言っていたら、当時の女性は「お歯黒」では…。

cobamax
質問者

お礼

ありがとうございました、

  • v7nV1dZjx
  • ベストアンサー率10% (7/64)
回答No.1

確かにそのとおりです。 NHKドラマの時代考証がいい加減なのでしょう。 言葉遣いもあちこちでこんな言い方はしないだろう というのがありますね。 最近の大河ドラマは若いタレントのお披露目ドラマ のようになっていて面白くありません。言葉の指導も 厳しくないのがすぐわかります。

cobamax
質問者

お礼

ありがとうございました、 残っている、篤姫の写真をみましたが、髪があり、頭巾はかぶっていませんでした、また写真によると家茂の正室の「和宮」は頭巾姿で写って います、