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露米会社と本国を結ぶルート
はっきりいってアラスカは当時のロシア(サンクトペテルブルグ)からみて、地球の裏側より遠かったと思います。 運河もシベリア鉄道もない時代、アラスカとサンクトペテルブルグウィ結ぶルートとはどんなものだったのでしょうか? 喜望峰とマゼラン海峡ルートを創造しますが、どちらもかなり遠いですね。
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もともと毛皮を求めてシベリアからカムチャッカ半島、アリューシャン列島、アラスカへと進出して行ったので、交易ルートもその進出ルートに沿ったものとなりました。 露米会社などはオホーツクやカムチャツカで、船を建造しアリューシャン列島やアラスカに進出しています。 40人から70人が乗れる船が建造され、毛皮交易が行われたそうです。 最初の頃は船の乗組員の半分はロシア人ですが、残り半分は現地人を乗組員として使っていたそうです。優秀な船乗りが不足していた為、政府が好条件を提示して船乗りを募集し送りこんだ事もあったそうです。 毛皮はオホーツクやカムチャツカの港から、シベリアの中心都市であるイルクーツクまで陸路輸送されました。 なお1760年には首都からシベリアの中心都市イルクーツクまで大街道が整備されており、大量の物資が行き来していたそうです。その為、「シベリアのぺテルブルク」と呼ばれたそうです。 毛皮は清との主要な貿易品でもあり、イルツークから近い、キャタフという交易都市で取引きが行われています。 なお、北大西洋沿岸にある露米会社の拠点への物資補給と、日本を含めたアジア諸国との貿易促進の為に、1803年にフィンランド湾のクロシュタット港から露米会社の船が2隻派遣されています。 この時は大西洋を横断しホーン岬をこえて太平洋に入っています。
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- kantansi
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当時のアラスカからサンクトベテルブルグを結ぶルートは、アラスカからカムチャッカのペテロハバロフスクまで、ベーリング海を渡る航路、カムチャッカからは、馬そりなどを利用してイルクーツク経由のシベリア横断です。 露米会社を設立した、グレゴリー・シェリホフはイルクーツクの毛皮商人でした。 また、アリューシャンのアムチトカ島に漂着した大黒屋光太夫もこのルートでサンクトペテルブルクまで行きました。 ただし、お分かりの通り、シベリア横断は費用が莫大にかかり、結局それが命取りで露米会社は潰れてしまいました。
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ご回答ありがとうございます。 近代にもなって馬ぞりでシベリア越えですか。採算取れるわけないですね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 1760年に街道整備を行い、陸路が中心というわけですね。 海路は南米経由ですか。なんにしてもアラスカまで植民地経営をしようとした、当時の列強主義の貪欲さが伺えます。