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ものごとを「味わおうとする」
ものごとを「味わおう」とする人間は、それだけで結構高尚な部類に属するのでしょうか? といっても、なかなか焦点が絞りにくい問題かと思います。私もどう問題定義すべきがよくわかりません。漠然として印象があって、人間の高尚性というものが仮にあるとすると、それは大体「物事を味わおうとする傾向が高い」ということに関連していないだろうかと、おぼろげに感ずるわけです。 先日野球を観にいってうんざりしたんですよ。 「野球」を観にいっている人って少ないんですよね。応援したくて行く、別にプレーに集中しないでもいい、あるいは、その流れを「味わう」ということに価値観を置いていない。打球音や捕球音が聞こえない。 クラシックのコンサートでも、じっと集中して耳を澄ましている人はあまりいないように見受けられる。 つまり、なんらかの外の情報によっかかって味わった気になっている、あるいは、そういうなんとなしの、「雰囲気」にいればよくて、自分の精神に目的物が作用しなくてもいいと。 そういうのじゃいやで、自分の精神と何事かを対決させるとか同化したいとか、とにかく味わいたいというような願望は、高尚でしょうか?
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- hakobulu
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「味わおう」というのは、「貪欲に本質を知ろうとする心の動き」のように感じます。 骨付き肉を食べるのでも、肉が多少残ったままの骨を残して、「ああ、食った食った」というのではなく、骨をしゃぶりつくして、髄液まで残さず吸いつくす。 しかも、それを淡々と肩に力を入れずに行なう。 といったようなイメージでしょうか。 物事の本質を知りたいという傾向の現れと言えると思いますが、高尚かどうかは、知ろうとする対象が何か、によっても異なってくるでしょう。 貪欲さがなければ本質追求を目指すことはできませんから、(本質を目指すという高尚さの表出には)貪欲さが必須条件であることは確かだと思います。 ただ、貪欲にならなくても良いこともあるわけでしょうから、ある場面で貪欲でないからといって必ずしも、その人が高尚でない、ということにはならないでしょう。 他の場面では高尚であったりする可能性は充分にあるような気がします。 野球観戦でドンちゃん騒ぎをし、家へ帰ってからは貪欲に何かを追求する。 といったようなパターンもありではないかと思います。 >自分の精神と何事かを対決させるとか同化したいとか、とにかく味わいたいというような願望は、高尚でしょうか? :「>何事か」が何か、ということによって違ってくるでしょう。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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分かるというのとは違いますよね。 味わえることができ、楽しめると、分かる以上で、分かることなんかどうでもいいのでしょうね。 誰の言葉かな、「桜見に来て桜見る馬鹿。」月に置き換えても、人生のさまざまなことでもそうでしょうね。 それでもチャント見ているし、知っている。 チャント人生の行為(呼吸とか生活とか)しているし、経験している。人間の意識や存在とは面白いものですね。どんなことも記憶にちゃんと入っていて、必要なときにはちゃんと呼び出されてきますね。ちょいとの瞬間の遠い場面でさえ。 独占したり、執着したり、そのほか、自己所有やその中で自己の気持ちや欲望を何とか叶えようとしている世界ではないのでしょうね。 ある道のプロ、芸術家などは何かと身につまされてきたりしますが、私の場合は、全部、宗教も思想も、人生も哲学も、なにもかも皆アマチュアでいられるので、のんきであり、一面自分の追及は己の本道ですので真剣ですが。 〔そういうなんとなしの、「雰囲気」にいればよくて、自分の精神に目的物が作用しなくてもいいと。〕 こういう表現での側面もあるかもしれませんね。 でも自分の何かが、ちゃんと作用しているのでしょうね。 親が大勢の奉公人(徒弟や職人ですが)がいたころはよく一日(ついたち)や十五日には球場や仲見世など連れて行かれました。職人に。 もう、63年も前かな。それくらいしか観戦の経験はありません。 ですからほかのことですが、何かを楽しんでいる時って、まったく無意識ですよね。 意識とは意識できないものですから、このことば表現って同語反復ですが。 上田の青頭巾では大好きな稚児の死体を食べることまでしますね。 同化させたいのでしょうかね。 対象に対しての意識では、同化はできないですね。 同化は対象への要求ではなく、infinit confidence とwhole faith、まかせでしょうか。 身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ。 瀬ってご存知ですか。 泳ぐとき、しがみついていてはだめですものね。 下村の次郎で、先生が水泳の達人は波や水が邪魔だろうか、対決するだろうか。というようなことを言っていました。 そうかといって無為でもないのですね。 何かをしようとか、効果をもたらそうとかでもないのですね。 だから、味わおうとしてもいいけれども、それで終始するのではないようですね。 自分の人間としてのレベルをいつも、未だし、と思いながらも勉強と精進をしております。アマチュアとして。
お礼
味わうことは、刺激が少ないとか、物質が乏しいとか、お財布が軽いとか、そういう「寂び」的なものに自動付加してくるので、その反対の状況ではなしにくいものです。が、貧すれば鈍するということも事実でしょうから、余裕のあるところで、じっと精神を統一することが、人間の本懐のようです。
まずは質問の答え A・高尚なんじゃないでしょうか。 ただ、見に行っているひと全員ががしゃちほこばったものを求めて 野球を見にいったりコンサートに行くんでしょうか? 普段色々ストレスを抱えて社会生活を営んでいるのだから そういう場でガス抜きがてらマッタリしたりはしゃいだりしても まあいいじゃないですか。 私は高尚な人と野球を見るよりくだらない人間同士集まって 楽しくワイワイ見る野球が大好きです。楽しいし。 ワイワイやるのってたまにはいいものですよ。
お礼
確かにそれはわかります。外野席の喧騒で楽しめるのも、ひとつの感性能力の賜物だと思いました。ただ、バランスですね。一生瞑想めいたことをしないで終わってしまっては、それこそゆっくり夢を見ることもなく終わってしまっては、精神が疲れてしまうでしょう。
- nabayosh
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雰囲気を含めてすべて味わうことができる人が通だと思います。 ラーメン屋でラーメンを食べるのと、全く同じ味のラーメンを独房で食べるのとでは純粋に味自体は変わらないけれども、その味だけを味わおうとするのは高尚とは思いません。何か乏しいんじゃないでしょうか。 クラシックのコンサートだってそうです。 客席の咳やいびきの音などのノイズすら含めて総ての鳴り響く音がコンサートを構成しているんです。 極端に言えば演奏者や聴衆の心臓の鼓動まで込みということです。 野球場の件ですが、それはうんざりする方が間違いなのです。 野球自体を楽しみにしていないで来る人も含めて総合的に野球なのですから。 打球音や捕球音をかき消す声援という現象も、野球の一部として楽しめる人が通でしょう。 garcon2000さんの思うようにものごとというのは輪郭がはっきりしていないのではないかな、ということです。 自分が思い描く輪郭を味わおうとするのは、自分の中でしか高尚ではないように思われます。
お礼
確かにそれはありますね。もっと、広い守備範囲広い感性を持っていることが大事なのかもしれません。ただ、より集中型というタイプもありますので、それはそれでしょうがないかもしれません。
例えば、大怪我をして体中を激痛が走る。 そのときに、その体験を傷みとして味わおうという姿勢は、大変よいことである。 例えば、失恋をして悲しみに打ちひしがれる。 そのときに、その感情を全身全霊で味わおうとする生き方は良い生き方だといえる。 なぜなら、松尾芭蕉に言われるまでも無く、人生はそれ自体パッケージツアーの 観光旅行のようなものであり、3次元という制限のなかで精神が様々な体験を 「味わう」アトラクションのようなものだからだ。 それにないよりこの世で自分が味わう経験はすべて自分が撒いた種。だから 人生を早く学んで欲しいものを有効に手に入れるための最大の学習は 「味わう」ことなのだ。 努力ということも「味わう姿勢」があれば、苦しいことではなくなる。自分の主観を 少し別の観点から眺め、自分の五感を器として感覚を受容しながらそこから生まれ いずる感情を観察することこそ、人としての感性の陶冶なのかもしれない。 高尚かどうかという以前に、極めて本質的な気付きと言えるのでは。
お礼
高尚というより、本質といったほうがよかったですね。回答文を読ませていただいて、そう思いました。味わおうとする人があまりに少ないように思えたので、どうもそういう方面へ思考が行ってしまいました。
- yumyumcup
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高尚な人間とは…とても難しいですね ただ、ものを味わおうとする人間の例が記されてきましたが、逆にそれは欲深いのではと感じます。 さらに、他人のことでいろいろ嫌だなぁと気にしていることも、高尚とは程遠い感じがします。 私にはわかりませんが、ただひとつ、高尚な人は、自分を高尚な人間だなんて、まるで思ってない、控えめな方ではないかと思います。
お礼
欲深い種類がいろいろあるようです。精神を働かせようという欲深さがある例ですね。 また、自分が高尚と思っていようと思っていまいと、高尚であるかいなかには関係ないでしょう。
お礼
集中する対象物にもよりますかね。 おっしゃるように、高尚というより、貪欲さのほうに近い問題の気がしてきました。ただ、精神力を要することですから、それは一種の強さ、高尚という面も含んでいる気がします。