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因果応報は、人間が世の中を良くする為に作り出したデタラメなのでしょうか?

因果応報について、分からないことがあります。 例えば、今世に被害者Aさんと加害者Bさんが居たとします。 このとき、加害者となるBさんが、改心して、犯罪行為を思いとどまった場合、他の人が、Aさんに加害しないといけなくなるのでしょうか? 前世の自分の行為の報いとして、被害を受けるのが必然だとしたら、加害するほうも必然なのでしょうか? だとしたら、例えば、必然的に犯罪行為を犯さなければいけない義務を持って、この世に生まれてくる人も居るということでしょうか? そう考えると、犯罪者になるために生まれてくるなんて悲しすぎます。 「運命は、自分の努力で変えられる」と言いますが、加害行為は宿命の部類なのでしょうか? それとも、自分が努力して、自制し、加害行為を思いとどまったら、他の誰かが、その加害行為を肩代わりしてくれているのでしょうか? また、無差別に誰でもいいから殺したいという人が居た場合、例えば、学校の教室で銃を乱射したケースで、銃弾が当たって死ぬ人と、擦れ擦れで当たらず助かる人がいますが、こういう場合には、因果応報は当てはまらないのでしょうか?  このケースで因果応報が当てはまらないとなると、死んだ人は、なぜ銃弾に当たって死ななきゃいけなかったんでしょうか? もしかしたら、因果応報の概念は、人間が世の中を良くする為に作り出したデタラメなのでしょうか?

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  • ベストアンサー
  • pojipoji
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回答No.18

因果応報とは、原因によってその結果があるという法則のことであり、宿命論ではありません。人間の心は目耳鼻舌皮膚から入る情報によって、また迷い、決め付け、好みなどの意識の傾向性によって瞬間的な判断を繰り返しており一瞬たりとも留まることがありません。つまりは情報が限られ、その上、個人個人の傾向性により情報を身勝手に分析し、その分析によって行動するということを繰り返していると考えられます。 たとえば仏教では八正道が苦を離れる道であると説いています。「釈迦が最初の説法において説いたとされる、涅槃に至る修行の基本となる、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念および正定の、8種の徳。」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%AD%A3%E9%81%93 悪い原因を少なくすれば、悪い結果も少なくなるであろうということです。 生き物である人間が何時かは死ぬことは、生き物という言葉の定義からして当然ですが、いつ死ぬかはわかりません。しかしその瞬間、どうして銃弾の通る位置に立っていたかは、その個人個人の行動の積み重ねによってそこに到ったと考えるほかありません。以前の特定の行為だけに限定して原因と結果を考えることは出来ません。また、いかに立派な方であったとしても個人がすべての原因と結果をコントロールできると考えることも出来ません。たとえば、地震の発生を現代科学で抑制することは出来ません。いろいろな原因と結果が絡み合ったと考えるべきだと思います。 お釈迦様も、最期はチュンダさんという人の出した豚肉料理または茸料理によってひどい下痢となり、それがもとで亡くなったとされています。 前世という件については、霊魂とか特定の魂が存在すること、およびそれが生まれ変わりを繰り返しているという証明はありません。仏教では一部の立場を除き「存在とは現象として顕われるのであり、変化そのものであり、変化する何者かという主体をとらえることはまちがいであると指摘する。そのような妄想された「我」に執着する執着を破るために諸法無我が説かれた」ように霊魂とか魂という考え方を否定しています。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B8%E6%B3%95%E7%84%A1%E6%88%91

siropengin
質問者

お礼

みなさん、たくさんの色々なご意見を寄せてくださってありがとうございます。  みなさんの、ご意見を参考にして、その後、色々考えてみましたが、なんとなく、因果応報は、NO.1・11・12・17さんのおっしゃる様に、因果応報は「心の問題」のような気がしてきました。  因果応報は、心の在り方と同じような出来事を引き寄せることなのかもしれません。  NO.18さんのおっしゃる様に、八正道を実践して、清く正しく美しく生きていくことが大切だと思います。  汚い部屋に、汚い格好で暮らしていると、心もシャキッとしないし、だらしない出来事が起こりやすくなると思います。  キレイに片付いた部屋で、植物を置いて、落ち着いた生活をしていると、心も生活も穏やかになっていくと思います。  心の在り方は、人生のすべてに現れてくると思うので、気をつけようと思います。  とても勉強になりました。  みなさん、ありがとうございます。

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  • pojipoji
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回答No.19

補足 食物連鎖の頂点に立つ人間は、他の生き物への加害行為によって生存を保っているともいえます。 「また一疋の甲虫が、夜だかののどに、はいりました。そしてまるでよだかの咽喉をひっかいてばたばたしました。よだかはそれを無理にのみこんでしまいましたが、その時、急に胸がどきっとして、夜だかは大声をあげて泣き出しました。泣きながらぐるぐるぐるぐる空をめぐったのです。 (ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。ああ、つらい、つらい。僕はもう虫をたべないで餓(う)えて死のう。いやその前にもう鷹が僕を殺すだろう。いや、その前に、僕は遠くの遠くの空の向うに行ってしまおう。)」 http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/473.html 「むかしのバルドラの野原に一ぴきの蝎がいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。するとある日いたちに見附(みつ)かって食べられそうになったんですって。さそりは一生けん命遁(に)げて遁げたけどとうとういたちに押(おさ)えられそうになったわ、そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないでさそりは溺(おぼ)れはじめたのよ。そのときさそりは斯う云ってお祈(いの)りしたというの、  ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉(く)れてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸(さいわい)のために私のからだをおつかい下さい。って云ったというの。」 http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/456_15050.html

siropengin
質問者

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みなさん、たくさんの色々なご意見を寄せてくださってありがとうございます。  みなさんの、ご意見を参考にして、その後、色々考えてみましたが、なんとなく、因果応報は、NO.1・11・12・17さんのおっしゃる様に、因果応報は「心の問題」のような気がしてきました。  因果応報は、心の在り方と同じような出来事を引き寄せることなのかもしれません。  NO.18さんのおっしゃる様に、八正道を実践して、清く正しく美しく生きていくことが大切だと思います。  汚い部屋に、汚い格好で暮らしていると、心もシャキッとしないし、だらしない出来事が起こりやすくなると思います。  キレイに片付いた部屋で、植物を置いて、落ち着いた生活をしていると、心も生活も穏やかになっていくと思います。  心の在り方は、人生のすべてに現れてくると思うので、気をつけようと思います。  とても勉強になりました。  みなさん、ありがとうございます。

siropengin
質問者

補足

間違って、同一人物のpojipojiさんに同じ文章を二重投稿してしまいました。ごめんなさい。 とても参考になりました。 ありがとうございます。

  • frau
  • ベストアンサー率28% (56/199)
回答No.17

私はこの世は結果論ではなくて、あの世に至るための過程だと思ってます。現象も生物の動きや意義や意味、すべてそうです。 宿命と運命って入れ子のようなイメージなんです。性や肉親、人種という自分の根本となるルーツは宿命という大きな器で、その中に入っているのが運命。真ん中が自分の心や魂です。核の部分が最も柔軟でそして融通や可能性の広がりが外に向かっている、という感じでしょうか。 宿命や運命はカルマで決まり因果応報は秩序だと思います。因果応報という法則でこの世の混沌に浸透しているのかと(もちろん人智では整理整頓できない混沌ですけれど)。 殺人という例が挙がっていますが、殺人も時代や文化によってそれが正義となる事実もあります。たとえば戦争です。法治国家では犯罪が、戦時中では正義となり、殺した人数によって勲章をもらえた時代がありましたよね。ということは殺される側=加害者、殺す側=被害者という図式も戦争という世界では成立します。 >犯罪者になるために生まれてくるなんて悲しすぎます でも戦争がおきれば国に駆り出されて自分もそうなる可能性だってあります。だから本当に、戦争というのは人類にとっての因果応報だと思いますね。その象徴がすでに現れています。 回答に「因果応報は、心の問題」とありますが私も同感です。 運命は意志ひとつにかかってます。意志とは心という混沌の結晶の一部だと思います。意志は開拓するスコップのようなものとイメージしています。たとえばどれだけの過去があったとしてもとりあえず「生き続ける」という目的において、唯一絶対必要なものです。理性の中でもっとも尊いものかと思います。 理論で因果応報の矛盾を考えることはできても、それ自体矛盾という形をとった整然とされている法則かもしれません。生と死、光と影、男と女という二律背反の法則がそれを形として見せているのかもしれないし。それを軸に展開するのがカオスの世界で、混乱させるのが神様の目的なのかなと。そしてその中で苦しんだり悲しんだり悩んだり葛藤したりして成長するためにそれがある。 以下、ある本からの抜粋です。 「今日在るのは、過去の結果として存在している。我々はいいことにせよ、悪いことにせよ、自分で種をまいてそれを刈り入れていることに気がつかねばならない」 「この世に偶然というものはない。この世に起こるすべてのことは意味がある。苦痛、絶望、幸福、喜びは皆カルマの法則のもとに起こっている」 「偉大な真理は隠されている。隠されているからといって、それが正しくないとはいえない」 もし因果応報の真理が分かったらそれはそれでそれが存在するという意味を失います。ということは生きる意味も死ぬ意味もなくなるでしょう。神様って意地悪ですよね(笑) もしくは、輪廻転生や因果応報の概念を人が作り出したのなら世の中を良くするために作り出したデタラメ(?)ではなく、個人の救いや成長のために作り出した概念じゃないでしょうか。因果応報の矛盾や不条理を説明するにはあまりにも複雑ですから。 それにしても人生に起こったすべては消せないし、どんなことが起こるかはやはり分からないもの。それらについての意味づけや意義、評価などは日々更新していくしかありません。その感受性や性格、考え方や価値観そのものが因果と結果が応報ではないでしょうか。とてつもなく深遠で複雑怪奇であるが、要するに個人レベルのものである、と考えます。

siropengin
質問者

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みなさん、たくさんの色々なご意見を寄せてくださってありがとうございます。  みなさんの、ご意見を参考にして、その後、色々考えてみましたが、なんとなく、因果応報は、NO.1・11・12・17さんのおっしゃる様に、因果応報は「心の問題」のような気がしてきました。  因果応報は、心の在り方と同じような出来事を引き寄せることなのかもしれません。  NO.18さんのおっしゃる様に、八正道を実践して、清く正しく美しく生きていくことが大切だと思います。  汚い部屋に、汚い格好で暮らしていると、心もシャキッとしないし、だらしない出来事が起こりやすくなると思います。  キレイに片付いた部屋で、植物を置いて、落ち着いた生活をしていると、心も生活も穏やかになっていくと思います。  心の在り方は、人生のすべてに現れてくると思うので、気をつけようと思います。  とても勉強になりました。  みなさん、ありがとうございます。

noname#74145
noname#74145
回答No.16

因果応報は矛盾に満ち満ちていますね。理屈で考えればとても納得できない事ばかりなので信じたい人はあまり深く考えないように自分でブレーキを掛けるようになっています。事実か否かではなく信じられるかどうかという問題、宗教といった方がいいですね。 ですからsiropenginさんの疑問はごもっともで真面目に考えれば誰でも矛盾や理不尽さが気になります。 野蛮な社会から文明社会に脱皮する過程で大衆をまとめる必要がありその一つの手段として“発明”された物が因果応報だと思っています。 従ってこれを本気で信じるには現代人はあまりにも賢すぎると思いませんか。 また因果応報は悪用されればその弊害は計り知れません。 法律のように違反したかしないかがはっきりと分かるものではなく信じる信じないの世界ですから言った者勝ち、大きな声で言うほうが説得力が有るというおよそ文明社会では有り得ない事が起こります。 そのように存在を全く確認されていない事柄を拠り所にして被害者を貶める、場合によっては現世で罪を償うべきだなどと言う戯言さえも説得力を持ってしまう、それが因果応報の恐ろしさ。 近代国家はそのような曖昧な事を拠り所にして人を裁く事など絶対に有りません。 当然 >加害者となるBさんが、改心して、犯罪行為を思いとどまった場合、他の人が、Aさんに加害しないといけなくなるのでしょうか? >前世の自分の行為の報いとして、被害を受けるのが必然だとしたら、加害するほうも必然なのでしょうか? という真剣な疑問もその意義を失います。

siropengin
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みなさん、たくさんの色々なご意見を寄せてくださってありがとうございます。  みなさんの、ご意見を参考にして、その後、色々考えてみましたが、なんとなく、因果応報は、NO.1・11・12・17さんのおっしゃる様に、因果応報は「心の問題」のような気がしてきました。  因果応報は、心の在り方と同じような出来事を引き寄せることなのかもしれません。  NO.18さんのおっしゃる様に、八正道を実践して、清く正しく美しく生きていくことが大切だと思います。  汚い部屋に、汚い格好で暮らしていると、心もシャキッとしないし、だらしない出来事が起こりやすくなると思います。  キレイに片付いた部屋で、植物を置いて、落ち着いた生活をしていると、心も生活も穏やかになっていくと思います。  心の在り方は、人生のすべてに現れてくると思うので、気をつけようと思います。  とても勉強になりました。  みなさん、ありがとうございます。

  • cabin504
  • ベストアンサー率8% (30/341)
回答No.15

No4のものです。 残念ながら、罪は償おうと思っても限りがあります。殺した人を元に戻せれば償う事になろうかとは思いますが、無理ですしね。 ですので、その代わりと思えるものこそが償いでしょう。 近頃裁判で色んな判決が出ておりますが、その中で過去の判例とか言う言葉を、よく聴きますが判決とはそういうものではないと思います。 遺族の方がありがとうございました。これで救われましたと思えることこそが、判決でなければと思います。 次に、なぜ生きるのか?確かに理不尽な世の中です。自分の為に生きようとする人は、道を見失います。自分の生きる価値を求めてください。 一瞬でも貴方の行いや、言葉や、生きている事で喜んでくれる人が一人でもいれば、それが生きている価値です。折角大昔から繋いで来た命です。他の人の為に、使えるところまで使わせていただきましょう。

siropengin
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noname#91067
noname#91067
回答No.14

ANo.8です。 >因果応報は、人間が世の中を良くする為に作り出したデタラメなので しょうか? あらゆる法律は老人と男によって作られたものだ。若者と女は例外をほ しがり、老人は規則をほしがる。 / ゲーテ 私が女だから不規則とか合理的でなくとも割に平気かもしれないです。 >人間は、自然じゃないということなのでしょうか?  自然じゃない生き物の世界の、混乱を防ぐための次善策が因果応報な  のでしょうか?  人間たちが、勧善懲悪を唱えないと、自分たちの身が危険にさらされ  るので、作り出したのが因果応報なのかなとも思います。  でも、因果応報の概念が、人間の生活をより良くしているのなら、  それは、逆に人間界にとっては黄金律で、自然なのかもしれません。 ありのままの自然にはない「本音と建前」「義理と人情」も共生能力に してますね。 Wikiから引用 本音と建前(ほんねとたてまえ)は、社会現象を表す日本語である。 『本音』 - 真実の感情・欲求を指す。 これらは社会・立場から期待・要求されることと違う場合があり、しば しば正直に表現されない。 『建前』 - 公に表す行動・意見を指す。 これらは社会・立場から期待・要求されることで、本音と一致しない場 合がある。 私見で「建前」を定義すると「嘘や仮想を肯定して生きているというこ と」で本音と裏腹ということなんですが、この使われ方が逆転するとい う作用もあります。 人間が運に縛られず理想を追う自由な精神を示す建前もあるよう ニーチェの 『敵には嫌うべき敵を選び、軽蔑すべき敵を決して選ぶな。汝は汝の敵 について誇りを感じなければならない。』 と新渡戸さんの武士道から 『平時において友たるに値する者のみを、戦時における敵としてもつべ きことを要求する。勇がこの高さに達した時、それは仁に近づく』 は建前論の光を表していますよ。 建前も用法次第で悲観主義(自然的)から楽観(意思的)へとなれるよ うです。 色んな人が居ます。良い友との共生は喜びを導き逢えるし、敵でも最も 良い敵を得ることはもっと多くの学びになり、価値観が違っても善いと こ取りすればいいと思います。結局それが方法や過程が違っても、どん な思想、教義にもある目的であるはずだと思うのですが。 厳密であるはずの数学でさえ現実の模写という訳でもなくて、人間にと っての現実は感官に入った表現された事柄だけ。原理や法則も人間がい なくなればあるがままの自然があるだけになると思います。 思考に至っては、他人の感覚以上に検証不可能なのでますます現実から 遠のき当たり前といっても、デタラメといわれたってしょうがないので すよ。どうしたって「立場を交換しても両者が了解できうる」を示せな ければ主観を超えれないから。結論を求めるのじゃなく疑うのが哲学で すし。

siropengin
質問者

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回答No.13

 因果応報とは教説の中の一語句なのでしょうね。  耳目にはしていますが、使ったことはありません。  わずか50年ですが、私のहिन्दू Hinduやङुध्ध्हि Buddhiの勉強ではकर्म kármaの法則とか申しております。これは宇宙の創造から消滅(同じことですが)の法則、原理、そして当為なっているものの意志の表れの一側面であります。当然ながら宇宙のフォースの一形態的見方です。  被害がそれ自身कर्म kárma構成の一因果とはなるものでも、その結果でもなく、それはそれ自身、因がなければ果とはなりえません。  被害の側で、応酬的加害をしないという意志は加害の側の福益となることはいうまでもありません。  その加害が別の加害を受けるのは、その加害自体の因か別の因があるからに過ぎません。  無差別銃撃や東京大空襲、原爆投下などの無差別集団の被害には、創造の意志、当為の不可窺の原理のものであることが多いが、そのことを分析し、論評することは赦されておりません。  創造の意志と意識のことを、これは数々の聖典のことでも同じですが、平面的眺めと理解ではなく、螺旋状や立体状のレベルと位相の視点での理解をしないと、言葉や文字だけで、インテレクチャな作業だけでは、矛盾と、不可解で終始します。  要するに全ては因あり、なればこそ果ある。その因果の律が依拠する律もある。そういうことを立体的に理解できる、存在性と意識、そして理解能力が前提とされております。  神秘にみえて神秘ではない。何も隠されてはいない。見ることができないだけに過ぎませんので、ご質問者様が存在性を高めれれば全てが、納得できることです。私もどなたも回答申し上げることではないのです。

siropengin
質問者

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  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.12

しかも一つの原因によって一つの結果があるのではなく、多数の原因によって多数の原因が生まれるのだと思います。「そんなに単純なものではないと思いますよ。」 因果応報を説いているのですから輪廻があるのだろうと言う見解があるのだと思います。変わらない魂・私と言う邪見を持たぬなら、エネルギーの連続である輪廻の始まりは成り立たない事がわかるでしょう。全ての現象が原因であり結果なのだから。さかのぼっても見つかりようが無いですね。成り立ちません。なので無始(始まりの無い)信じられないほどの無数の生によって我々は、「信じられないほどの無数のカルマ」をつんできたことでしょう。 問題は心のポテンシャルの話だと考えたら如何でしょうか。、「信じられないほどの無数のカルマ」からどの現象を引き寄せやすくなるか。「怒欲無知」に焼かれているならそれに相応しいものを享受し易くなるでしょうし、「慈悲喜捨」「理性」に満たされているならそれに相応しいものを享受し易くなるでしょう。 「慈悲喜捨」「理性」を持っていても大きな因に巻き込まれることもあるでしょう。それも「信じられないほどの無数のカルマ」のなかでも大きなポテンシャルだったものが現れたと考えれば善いではないですか。 結局は自分の心を「慈悲喜捨」「理性」で満たすことで現世も来世もそれに相応しいものを享受し易くくすることが大事でしょう。 「信じられないほどの無数のカルマ」をつんできたことでしょう。善いカルマも悪いカルマも。出来る限り悪いカルマを打ち消すが如く、多種多様な善行為を清らかな心でつむことが、悪いカルマを引き寄せにくしよいカルマを引き寄せやすくする、自分を守ることになると思います。 テーラワーダ仏教(仏教の大元のパーリ語の三蔵の仏教で論理的道徳的理性的な教え)のスマナサーラ長老の書籍がオススメです。 きっと得るものが多いと思いますよ。 論理的道徳的理性的な教えですからw

siropengin
質問者

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  • am2007
  • ベストアンサー率51% (132/254)
回答No.11

おはようございます。 少し気になったので書いてみました。 >因果応報について、分からないことがあります。 Yahoo辞書によると、「前世あるいは過去の善悪の行為が因となり、その報いとして現在に善悪の結果がもたらされること。」とあります。現代的な意味合いでいうと「負の連鎖」とでもいうのでしょうか。 個人的な解釈ですが、因果応報は、幼少期の成長過程における潜在意識が関係していると思います。NO1さんもおっしゃっている「心の問題」ですね。その「心の問題」が、私たちが気付かないところで環境遺伝的な形で残っているものと思われます。 >加害者となるBさんが、改心して、犯罪行為を思いとどまった場合、他の人が、Aさんに加害しないといけなくなるのでしょうか? 設問の言い回しが微妙ですが、そのように理解しています。 加害者Bさんと同じ意識を持った方(C)の存在があるからです。 そして、Aさんの意識は改善されない限り継続している訳ですから、当然のごとく振りかかります。 因果応報は、Aさん、Bさん、Cさんという個人が原因ではなく、その「心のあり方」が原因だからです。 >前世の自分の行為の報いとして、被害を受けるのが必然だとしたら、加害するほうも必然なのでしょうか? 必然というと誤解がありますが、無意識の方が正解かも知れません。 ただ、前世は関係ないと思います。というより、私は、前世は存在しないと理解しています。 あくまでも、幼少期の成長過程における潜在意識だからです。 >だとしたら、例えば、必然的に犯罪行為を犯さなければいけない義務を持って、この世に生まれてくる人も居るということでしょうか? それは、ありえません。 生まれてくるときは、必ず、純真無垢です。白紙、同然です。 >「運命は、自分の努力で変えられる」と言いますが、加害行為は宿命の部類なのでしょうか? 宿命ではなくて、幼少期からの生活環境により作られた無意識下の意識(潜在意識)ですから、そこに気がつけば運命は変えられます。つまり、運命も病気も治すことが可能だということです。 説明しようと書き始めましたが、長くなり過ぎたので止めました。 簡単にいいますと、例えば、 夫婦仲のよくない家庭環境で育った子供は、そのご両親の一挙手一投足を意識がある無しに関わらず、幼少時より日常の中で嫌というほど肌で見て感じて育ちます。そして、この時期に何をどのように理解するかだと思うのです。すなわち、後々、問題になる価値観の基礎になるのです(三つ子の魂百までといいます)。両親が厳しければ厳しいように、優しければ優しいように子供は育ちます。そして、このときに生まれる感情(喜怒哀楽などの感情)が問題なのです。 結果として、子供は、親子の愛情を満足に感じることなく育ちます。 その感情とは、「いつも寂しいな」、「もっと私を構ってよ」、「どうして?」、「なぜ?」などの怒りであり、不安であり、寂しさであり、悲しみなどであるのです。ところが、人は、これらの負の感情を忌み嫌い、無意識のうちに「心の缶詰」に押し込もうとします。 「心の缶詰」に強引に押し込まれた感情は、いつか必ず噴出します。 それが、顕在意識の中で同様のシチュエーションが設定されたとき、噴出します。 その噴出した感情が、形を変え(病気、DV、因果など)悪さをします。 私の書き込みを参考にしてください。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4016673.html http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4006161.html http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3488956.html?check_ok=1

siropengin
質問者

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  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.10

因果応報という法則で全てを説明しようとすることがそもそも無理。 持っているりんごの手を離せばりんごは足元に落ちる、これは真理に思えるけど、実は地球という天体の上でしか見られない現象。 同じように因果応報を否定できない、だけど全てを説明できない。 ならば別の力(理由)が働いていると考えればいい ただそれだけのこと。

siropengin
質問者

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  • anris
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回答No.9

No3です。 補足を頂いたので、思うところを書きます。 >フランスで有名なアラン・カルデックの「天国と地獄」という本を読んだのですが、その本で、前世でなんらかの事情で人間を袋に詰めて海に沈めたことがある人が、その罪を償うために、今世で海難事故の犠牲者となる道を選んだと書かれています。 文学が必ずしも、哲学的な事実とイコールではないことを前提に、 ちょっと、こみいってしまいますが、聖書に代表されるような創造主の 崇拝の考え方と、東洋的な思想哲学とは、ちょっと違うことはお知りだと思いますが、 文学では、はっきりと違いが出てしまいます。 (究極は一緒ですが) 簡単にたとえますと(簡単にすると誤解されやすいことも承知の上で) 「袋に詰めて人間を海に沈めた」 これを見てどう思います? 「数百年前人類に猛威をふるった感染症、彼は未知のウィルスの感染源であった。彼の死をもって、数百年後の未来と、村の人々の生活には光がさした。男は英雄として語り継がれた」 という場合と、 「彼を沈め、私は社会から追放される道を歩むことになった。生涯独房で。しかし、私は後悔していない。妻の復讐はなったのだ」 回りくどいですが、言いたいことは、結局、善悪は人の感情によって変わるもので、因果応報は、人の考えとは関係なくある真実だ。 ということです。 > 海難事故に遭うような境遇に身をおくことを無意識に選ぶことが原因なのでしょうか? 無意識ということが一つの原因でもありますね。 しかし、無意識が原因になった原因があるのです。さらに無意識の原因になった原因の原因もあるのです。さらにさらに・・・ってしつこいですね・・・ > そして、海難事故が起こるためには、事故を起こす不注意が必要です。誰かの不注意は、必然なのでしょうか? これも同じことですね。不注意になった原因が必ずあります。さらに不注意になった原因のげん・・・ はい。原因があるということは必然です。 > 私も原因と結果が、因果応報だと思うのですが、今世と過去世は分けて考えたほうがいいのでしょうか? 上記内容がすでにこの質問の答えになっていると思うのですが、 今世と過去世を分けて考えるというより、 原因に原因を求め、さらに原因を追って行けば、勝手に過去にさかのぼるということです。 ですから今世の因縁は過去にあるのですね。 お答えになりましたでしょうか??

siropengin
質問者

お礼

 みなさん、たくさんの色々なご意見を寄せてくださってありがとうございます。  みなさんの、ご意見を参考にして、その後、色々考えてみましたが、なんとなく、因果応報は、NO.1・11・12・17さんのおっしゃる様に、因果応報は「心の問題」のような気がしてきました。  因果応報は、心の在り方と同じような出来事を引き寄せることなのかもしれません。  NO.18さんのおっしゃる様に、八正道を実践して、清く正しく美しく生きていくことが大切だと思います。  汚い部屋に、汚い格好で暮らしていると、心もシャキッとしないし、だらしない出来事が起こりやすくなると思います。  キレイに片付いた部屋で、植物を置いて、落ち着いた生活をしていると、心も生活も穏やかになっていくと思います。  心の在り方は、人生のすべてに現れてくると思うので、気をつけようと思います。  とても勉強になりました。  みなさん、ありがとうございます。