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谷川俊太郎 二十億光年の孤独
いま国語の授業で「二十億光年の孤独」をやっているのですが 人類は小さな球の上で 眠り起きそして働き ときどき火星に仲間を欲しがったりする 火星人は小さな球の上で 何をしてるか 僕は知らない (或はネリリし キルルし ハララしているか) しかしときどきに地球に仲間を欲しがったりする それはまったくたしかなことだ 万有引力とは ひき合う孤独の力である 宇宙はひずんでいる それ故みんなはもとめ合う 宇宙はどんどん膨らんでゆく それ故みんなは不安である 二十億光年の孤独に 僕は思わずくしゃみをした この最後の「くしゃみ」とはどういうイメージなのでしょう みなさんの意見を聞かせてください
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- soma_h
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こんなサイトに、詩の感想が載っております。 みんなの読詩感想文 http://poemaga.poet.jp/web/event/01-03.html 私の感想としては……二十億年もの壮大な宇宙に思いを馳せ、その想像力は無限に限りなく 広がっていっていきます。 とてつもないスケール、非日常感、そして孤独、不安。 それらに押しつぶされそうになる感覚……私にも覚えがあります。 そういうときに出た「くしゃみ」。その日常の動作によって、夢から覚めたように、 現実へ立ち戻ることが出来た。 地球の上に立っている「自分」という「個」の体の中に、意識を呼び戻すことが出来た。 そんなイメージでしょうか? しかもそれが、「くしゃみ」という、本当に些細な、そしてありふれた動作であるところに、 思いがけないさりげなさ、そして軽妙さを感じます。 自分の意識はどんどん宇宙へ向けて広がっていたのに、体の方は地球に留まったまま、 外気に混じったチリや埃を吸い込んで、勝手に反応していた…という、面白さ。 これが「僕の背筋は思わず冷たくなった(凍った)」とかだと、絶望感に目の前を塞がれた感じですし、 「僕は思わずため息を吐いた」だと、孤独感が一層増してしまいますし、 「僕は思わずあくびをした」だと…間延びしすぎていて、「じゃあ、今までアレコレ宇宙に思いを馳せて いたのは、何だったの?」という感じになると思いますし。 いかがでしょうか?
- zephyrus
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質問されたくらいですから、きっとこの「くしゃみ」に思わずくしゃみをされたんでしょうか。 きらりと光る表現に出会った場合、これがなかったらとか、別の表現に言い換えてみるとどう変わるかとか、 いろいろ試してみるのは案外有効な手続きのようです。 まず、なかった場合。 「二十億光年の孤独に」で終わりますが、ちょいと深刻な終わり方になりますね。 もったいぶった感じにもなる。なんだか、キルルとかハララといった軽妙さと、うまく溶けあわない。 言い換えた場合。いろいろやってみます。 「僕は思わず渋面した」 「僕は思わず脱糞した」 「僕は思わずろくろ首」 「僕は一メートル飛び上がる」 「僕は迷わず僧侶になり」 「きみはニーチェの隣に座る」 「僕らは宇宙にべかこ(あっかんべー)せよ」 各パーツをまたいろいろ組み替えてみます。 どれももうひとつですね。はっきり駄目なものもある。例文のくだらなさ、ひらめきのなさは置いといて。 つまり「僕は思わずくしゃみをした」がこの詩の最終行にぴったりな表現であるらしい。 「くしゃみ」とは必ずしも、悲しみとか立腹とか理不尽とか運命とかにリンクしない、 つまり既存の価値観から一定距離を保ち、免れている、 ばかりか、軽妙で洒脱、エスプリが効いて、感情は乾き、すがすがしい孤独感があります。 この詩が発表された当時、それは50年以上前のことだったでしょうが、 湿潤で重苦しい情緒が尊ばれた日本のことばにとって、どれほど新しく響いたことでしょう。 その後、日本の国民性もずいぶんドライで陽気で軽佻になったものの、 いまだにこのことばが新しく響くとすれば、それはこの詩全体の新しさ、みずみずさを保証しているのだと思います。なんでもないことばの選択のようで、才能の確かさ的確さ、そして独創性があると思います。
お礼
いろんな例ありがとうございます たしかにくしゃみがベストな感じしますね
お礼
さっそくの回答ありがとうございます やっぱり面白さってのがみんなの共通した感想みたいです