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自然法は もう人気がないのでしょうか
《wiki=自然法》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E6%B3%95 《wiki=自然法論》: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E6%B3%95%E8%AB%96 知りたいのは 次の点です。 (1) その法源は 神・自然・理性が挙げられていますが 自然(自然本性)も理性も 自然法そのものを言うと言わなければならないでしょうし 自然(環界・宇宙)は おそらく神の摂理の問題になるでしょう。そうすると 残りは 神です。これは 無根拠と言えば いいのではないでしょうか。自然法の法源は 無根拠である。こう考えてはいけませんか?(つまり 公理ですね)。 (2) 《殺すなかれ》もしくは《生命の尊重》 この一つの事項を〔のみ〕 自然法の内容とするとしては いけませんか? * ただし 中傷・名誉毀損のような 《社会的生命の損傷》も含めます。 こうすれば 自然法の内容にかんして 人ごとに違っていて 定まらないということは起きないでしょうし 実定法とのあいだに 特別の溝があるとも思えないのですが。 wiki(その後者)によれば このような最小限の内容をもって 自然法を規定する行き方を ハーバート・ハートという人が提唱しているようにも言っていますが そのあたりについては よく分からないままの質問になります。よろしくご教授いただければ幸いです。
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- littlekiss
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おはようございます、brageloneさん。 【市民社会の古典理論】 http://www.office-ebara.org/modules/xfsection04/print.php?articleid=39
- harepanda
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●実証主義的傾向が大勢となっていること あるいは その前の時期には 述べておられるところでは ヘーゲルが 《第二の自然である精神・慣習に立脚した法》を 持ち出して来ざるを得なくなったということ このような趨勢のもとでですが それでも どうして 自然法が 下火になるのか これが 理解できません。 ▲現実問題として、ヘーゲルの弟子にして本職の法学者であるガンスが、歴史法学のサビニーに勢力争いで負けたからだと思います。 ●人間の自然本性は 実存しているからには 経験にかかわるものですが あたかも先験的な本性とでも言うべき存在の傾向を言おうとしているのだと考えます。それゆえにこそ むしろ 実証主義が必要になるのでしょうし その実証すべき事態としては 社会的自然とよぶべき慣習の領域をも 拡大した自然本性として取り扱う必要が生じてくるということではないのでしょうか。 ▲私は弁証法家なので、この見解に賛同します。この議論の発想法は、フェミニスト達によるセックスとジェンダーの違いという思考様式にも適合的です。つまり、セックスが第一の自然で、ジェンダーは第二の自然です。しかし、世の中にはカントのように、「経験とは全く無関係な、純粋な理論というものは存在するのだろうか。私は存在すると考える」というタイプの哲学者もいることは、注意したほうが良いと思います。 ●でも そのとき 《自然法の解体》へと向かうのではなく そうではなく 自然法は むしろ依然として なぞであるという現実が 明らかになるものと考えます。この謎が生きるためには ただ一つのこと すなわち 存在の確保つまり 人命の尊重 これが 自然法の内容として 具体化してくるということではないでしょうか。そして それだけでよいはづです。 ▲自然法思想は、現実に存在する誤った法律に対して、人間本性に基づく理想の法を作るべきだという発想の下、一部の人々の間で生き延びていることは認めます。しかし、自然法の本質を人命の尊重としてとらえる発想については、私の思考様式には適合しません。既に述べたとおり、自然法の本質をどこにおくかという議論は、共通項を探すことで終わってしまい、矛盾した議論の真の和解にたどりつくことは考えにくいからです。そもそも、「なぜ人殺しをしてはいけないの?」という子供の質問にすら、哲学者はどう返答したらよいのか分からず困っていたり、様々な矛盾する見解が出てきたりしているわけです。この状況では、とてもではありませんが、自然法の本質を人命の尊重に置くことは、極めて困難であり、反駁の手段はいくらでも存在するということになると思います。 ●自然法の法源は架空性の高いものである と言い換えられたとき それは この《なぞ》のことを捉えていらっしゃるのだという解釈もできます。つまり 無根拠でもあります。 ▲自然法は西洋哲学でありますから、デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」の思想のほうに適合性が高い傾向があります。無根拠という概念を安易に使い出すと、「われ思う、ゆれにわれあり。だが、われとは何であるか?」という仏陀の後継者たちがやりそうな、結論がついたはずの問題を蒸しかえす構造の思想になってしまいます。自然法の法源を無根拠におくと、仏陀の縮小再生産の先に登場する単なる不可知論になってしまうでしょう。それより現実的な解を出すには、医学的・心理学的に人間の思考法の本質を研究することからはじめなくてはなりません。例えば、ヒステリーは長い間、女性だけのものだと思われていました。しかし、フロイトは、ヒステリーは男性にも存在することを指摘しました。アドルノはどのような性格を持った人が、独裁者への心理的依存度が高くなるかを研究しました。人間は哺乳類の範疇には十分、含まれるものの、かなりの独自性を持った動物です。例えば、一般的な哺乳類の場合、メスに明確な発情期があり、発情期以外ではオスを受け入れません。人間のメスは、一年中、いつでもオスを受け入れる準備が出来ているという例外的存在なのです(うさぎも人間と同じく、一年中、オスを受け入れることが知られています)。人間は肝臓が異様に強く、毒物やアルコールの処理能力が高い生き物です。また、水分さえとれば人間は極度に熱さに強い動物で、サウナに犬を入れたら、死ぬでしょう。そして、心理学と医学が融合する時代がやってきました。昨今では実験動物の脳内で、それぞれの脳内物質がどのような挙動を示しているか研究できるようになっており、今までは「なぜだか分からないが、効果があるから使う」という薬だった坑うつ剤やメージャートランキライザー(精神分裂症の治療薬です)の秘密が、少しずつ明らかになってきているのです。この研究が大幅に進歩する頃には、人間が本来持っている精神的傾向が明らかになるでしょう。例えば、うつ病の発生は環境的要因が強いのに対して、躁うつ病の発生には遺伝的要素が大きいことが知られています。ただし、メンデルの法則が厳密には当てはまりませんので、躁うつ病の正体は、複数遺伝子の作用による遺伝的形質に基づいた病気であるといえます。ということは、人間の本質は躁うつ病のType 2(気分の乱高下はあるが、常識が残っているタイプ)なのかという議論も出てくるかもしれませんが、それに対する反論として、躁うつ病の発生率は、うつ病より低いので躁うつ病気質を人間本性とする議論には統計上の無理があるという主張ができるでしょう。 ●あとは 人命の尊重にかんして それを生かすためには 実際の場面では 次から次へというように その見解が二分されるような問題が起きるという事例を挙げていただいたものと考えます。つまりは 《なぞ》の問題であって その法源が《なぞ》としての自然法は 引き続き むしろ 生きているとさえ受け取ったところなのです。そうでないと 実証主義が 生きないということになります。何を実証するのかが失われるのではないでしょうか。 ▲単に、上記のような自然科学的な研究の進展により、実証可能分野が少しずつ広がっていくと思います。 ●ルウソにかんしましては ▼ 万物をつくる者の手をはなれるときすべてはよいものであるが 人間の手にうつるとすべてが悪くなる。(エミール) ☆ は あまりにも 抽象的で 取り扱いかねます。A.スミスが注目した《 sympathie 》を 持って来たいところです。《同感人》という概念を作ることができるのではないでしょうか。つまりは 《自然法の人》という意味で使います。ですから これですと 《自然法》は むしろ 判断力とその時々の実際の判断行為を言うと採ったほうがよいようにも思えます。(というふうに ルウソを まったく単純に 扱ったことがあります。そのままになっています)。(法の哲学は やはり かなり昔のことでした)。 ▲スミスのシンパシー概念は、ルソーのレベルに達していません。スミスのシンパシー概念と同じレベルの自然法思想家は、プーフェンドルフだと思います。プーフェンドルフには社交性衝動という概念があり、これはスミスのシンパシーとほとんど同じで、人間には誰でも他人と付き合って社会生活をおくる傾向があるのだという思想を表明しています。プーフェンドルフにおいては社交性衝動の概念を法源として用いるにはまだ無理があり、せいぜい、「人間には他の人と話したがったり群れたりする傾向があるよね」のレベルにしか達しておらず、人間が本質的に社交性のある動物であるという議論を、法源としての社交性を使って国家の生成を説明するには、社交性では力不足だと思います。この問題を一気に解決したのが、ルソーの一般意志の概念なのです。法源としては社交性行動より意志のほうが強力なのは、この一般意志が国家に現われるという思想があるからです。カントの場合は、一般意志と合致するような行動をとれば倫理的生活が出来るという発想で、ヘーゲルの場合は、一般意志(国家、特に国会)、特殊意志(企業、ツンフト、同業者組合)、及び、個別意志(個人)が、うまく連携しながら、有機体として全体が機能している状態を理想の国家と考えます。 また、スミスの発想法には、現実生活と社会倫理がうまく合体しておらず、たんにふたつ並べただけに見えるという点で、サルトルがマルクスを読んでいたというのと同じ体質を感じます。弁証法家の発想からすると、スミスやサルトルの思想は、好みに合いません。 ● ルウソは 《自然人》と《社会人》とを区別し それらの間に あまりにも峻厳な境界を置いたのではないでしょうか。つまり 社会人が 自然人であることを取り戻すことは無理という限界です。 《自然法の人》という意味での《同感人》であれば 《自然人》の《なぞ》を備えつつ 《社会人》へと橋渡しをすることが 出来るかも知れません。 ▲一般論から言えば、人間はどんな状態からどんな状態にも変わることができる生き物です。したがって、ある状態の人間が、別の状態の人間になってしまうことは、ありえます。少々逆説的になってしまうのですが、この原理を正しく理解し、使いこなしていた人物は、キルケゴールがいます。有名どころでは唯一の、弁証法家にして実存主義者というタイプの人です。したがって、この人のメッセージは、このようなものになります。「君は今は幸せ者かもしれない。が、どんな幸せ者でも不幸者に転落してしまう可能性はあるのだ。自分がそのプロセスを示して見せよう」。つまり、「橋渡し」は読者をどこに連れて行くか、哲学者ごとに違うのです。自然人が社会人になることを肯定的に捕らえているように感じられますが、キルケゴールのように、全然違う方向に人を引っ張っていくタイプの思想かもいるわけです。 ●《なぞを備えつつ》というのは たしかに おっしゃるように 《架空性の高い》想定です。しかも もし架空性が高いからと言って 法源を 取り払ってしまってよいかと言えば それは 問題になるのではないでしょうか。 ▲別のものに法源を求めれば良いだけだと思います。ルソーやヘーゲルの意志概念を持ち出し、高度な議論を使いこなすまでもありません。実定法主義をとり、衆議院議長の河野氏が法源だと言ってしまえば、開き直りの回答として十分です。多分、これを言ったら、実定法主義への安易な依存は自然法思想との整合性が良くないという批判が返ってくるでしょうが。 ●無根拠と言うように 《無》としてでも 想定しておくことは 大事であるように考えます。つまり われわれは 人間であるという自同律を 無限に繰り返すことであり それにしか過ぎませんが 《わたし》の無限の自乗・その社会的な過程ということになります。《わたし》が《一》なら その無限の連乗積も つねに《一》です。 この《なぞ》のもとに 自然法の人=同感人を 《自然人‐社会人》の基軸の上に しかも それとはあたかも別個に 想定します。 ▲私は自然法の人=同感人とは思いません。すでに述べたとおり、アダム・スミスのシンパシーの理論は、むしろ、自然法理論との整合性が悪いものに思われるからです(サルトルと同じで) ●なお 《自然法》は 判断力と判断行為だと述べましたが 後者は 《判断の行為形式(その方法というほどの意味)》と言ったほうがよいと考えました。つまり 広くは 判断力のことになります。 ▲自然法思想の本質は何であるか、人によって考え方が違いますが、判断力と判断行為を持ち出してきた人には、初めて会いました。普通に考えれば、自然法思想の本質は、現実に存在する間違った法律に対して、人間本性に根ざした理想の法をアンチテーゼとして提示することだと思います。 ●同じくなお エミールの冒頭の句は 《なぞ》を示そうとする積極的な文章だと解釈したほうが よいと考え直しました。 いかがでしょう。 ▲ルソーは「なぞ」ではなく、「矛盾」を理解できるレベルに到達しています。だから、ヘーゲルやエンゲルスから絶賛されるのです。
お礼
さて アウグスティヌスですが パスカルの次の議論に対しても反駁になる文章を引きます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ■ わたしは公正な人々に尋ねたい ・・・《わたしは思考する ゆえに わたしは存在する》・・・は 果たしてデカルトの精神においてと 同じことを千二百年前に言った聖アウグスティヌスの精神においてと 同一であろうか。 (パスカル:《幾何学の精神について》2.1657) ◆ だから 精神は自己自身をよく知るようにという命令を聞くとき 自己自身をよく知ることに何ものも付加してはならない。 ・・・ すべての精神は自らが知解し 存在し 生きていることを知っている。しかし精神は知解することをその知解するものに関係づけ 存在することと生きることを自己自身に関係づける。 ・・・ さて 生きる力 想起する力 知解する力 意志する力 思惟する力 認識力 判断力が 空気(あるいはその他の元素)であるのか・・・どうか人々は疑ったのであった。或る人はこれ 或る人は他のことを主張しようと努めた。それにも拘らず 自分が生き 想起し 知解し 意志し 思惟し 知り 判断することを誰が疑おうか。たとい 疑っても生きており 疑うなら なぜ疑うのか 記憶しており 疑うなら 自分が疑っていることを知解し 疑うなら 彼は確実であろうと欲しているのだ。疑うなら 彼は軽率に同意してはならないと判断しているのだ。それゆえ 他のことを疑う人も精神のこのすべての働きを疑ってはならない。もし この精神の働き(* または《わたし》)が存在しないなら 何ものについても疑うことは出来ないのである。・・・ (アウグスティヌス:三位一体論10・10) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ルウソにとっても 先駆者のようだと考えます。《なぞ》に通じると思います。(推論を省いておりますが)。
補足
harepandaさん ご回答・ご説明をいただきありがとうございます。 法学の理論そのものとしては 議論の結着がついているか それとも どういう議論の対立関係にあるかが 明確であるのだと推測します。そこへ 人間の理論をもってきて 割って入ろうとしているのが この質問です。 例によって ご講義を聴いての隙を縫って ちょろちょろと動き回る二十日鼠の訴えになります。ですから おそらく現行の学問じたいにとっては違和感があるかも分かりませんが 重心を少し 経験現実の背後のほうへ移そうとしての議論になるとも思います。 課題がさらに増えました。法の哲学を あわてて読み直し始めただけでは 追いつきません。今回は――字数制限という制約もありますので(ただし 追い着いたと思った時点では ほかの方々のお礼欄・補足欄をも借用してお応えしてまいりたいとも存じます。大掛かりですみません。途中で 匙を投げていただいても構いません。しかるべき質問が浮かんだなら 新しい設問を考えます)―― 人間論・存在論の一件にしぼります。すなわち ▲自然法は西洋哲学でありますから、デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」の思想のほうに適合性が高い傾向があります。 ☆ この一つの主題を明らかにすることに集中します。アウグスティヌスの《われあやまつなら われあり》を その基礎の基礎として 持ち出すのですが まづは ルウソの文章をかかげます。 * 簡単には 《思考は わたしがあやまったと気づいたとき その事態やわたしの省察の過程で持たれるもの》だと捉えるものです。 《自然人‐社会人》の基軸に則りつつも あたかも別個に抽出した概念である《同感人 / 自然法の人》のあり方をさぐるもので そこでは当然のごとく 人間の関係性における《無根拠 / なぞ / 同感 / その判断力・判断形式》を描いているし 問おうとしていると考えます。 ◇~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 第一の手紙 ジュリへ マドムワゼル あなたから逃げなければなりません。冗談ではなく もう逃げていてもよかったのです。出会うべきではなかった。そして今となっては? どうすればいいのです? あなたは わたしに友だちだといった。わたしの迷惑を考えてください(* 逆説的に言っている)。相談しなければならないのです。 ぼくは しばしば うぬぼれてみるのです 天が ぼくたちの趣味にも年齢にもと同じく いとしみの感情のあいだにも 隠れた一致を配合したと受けとめて。まだこんなに若いぼくたちの中の自然の性向を 何ものも変えていないのだ ぼくたちの傾向はみな 適合するようだと。世間のこり固まった偏見を持つことになる前に ぼくたちは 柔らかく固まった感じ方・見方を持っている というのも ぼくが ぼくたち二人の判断の感覚にみとめているその同じ調和を 二人の心の中に求めてみようとしたとて 行きすぎではないと思う。ときどきぼくたちは 眼があう。同時に 少しの間 息を殺している。人目を忍ぶような涙をいくつぶか・・・。ああ ジュリ もしこのような息の合ったことが 遠くかなたから来ているものだとしたら・・・もし天がわれわれに定めをおいたのだとしたら・・・人間のあらゆる力も・・・おっと 失礼! ぼくは 迷いこんでしまった。立てた誓いを単なる希望ととりちがえるところだった。わたしに燃える熱望の激しさは 可能性が自分に欠けているのを その対象のせいにしてしまう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 法源は 《無根拠》ですが 無根拠として 一定しているという想定ですので その内容について思惟をめぐらせるのは もちろん自由です。自由ですが その思惟のいづれか一つが 正解だとして決まるものではないという含みを持ちます。恋愛関係などは その好例のようです。(この外延では 《同感》の内容が 人や時代や地域によって影響を受けると語ることになるでしょう。と同時に 唯一の正解があるのではないことをも語っていて 影響は受けるけれども 左右されてしまうわけではないこともです。このようなつねに蔽い被せるような判断形式は――ずるいのですが――普遍です)。 * ちなみに ルウソの《一般意志》は 普遍性を有しますが これも 経験現実を超える《自然人》と同じように受け取られます。個人の信仰においてその中に生きると思いますが つまり経験現実として はにかみやで《自由》の概念の中にひそかに留まり 無力だが 有効性を保持しているはづですが そうではなく 乱暴に国家とその法律の中に実定されようとし行政がこれを操縦するとなれば わけが分からなくなり 何もかも めちゃくちゃにすると考えます。(まえがきが長くなりました)。
- harepanda
- ベストアンサー率30% (760/2474)
Wikipediaの日本語版は、英語版と比べると内容的に劣っているのは、いかんともしがたいところであり、英語版がかなりアカデミックで高度な知識を備えているのに対し、日本では趣味のオタクが書いただけのものや、議論が十分につくされておらず、内容的に中立でないものが多いという傾向があります。 この2つの記事をお書きになった方は、かなり熱心に研究されているようですが、これを本当に信じて良いのかと言われれば、私なら、「独自研究の範疇に近く、記事の中立性に疑問がある」というでしょう。 特に、参考文献に1817/18年のヘーゲルの法の哲学の講義が入っているのに、ルソーへの言及がないのは、痛すぎます。ルソーは天才です。彼こそが、自然法の根本的な弱点を指摘してしまった人なのです。すなわち、自然法思想は、人間本性をどのようなものとしてとらえるかにより、全く異なる結論が出てきてしまうことを指摘しているのです。さらに、ヘーゲルはルソーの一般意志の概念を受容しているのですが、これが分からないと、ヘーゲル式の自然法の本質は、第一の自然(本来の自然)ではなく、第二の自然(精神)における自然法なのだとする、リーデルの見解が理解できなくなります。 (1)自然法の法源は、人間本性であるといえます。しかし、人間本性とはどのようなものなのかについての出発点が違うと、違った結論に達してしまうという、上記のルソーの示した問題が出てきます。 ヘーゲルの場合は、自然法世代の最後の哲学者であり、彼が「精神は自然よりも高等なものである」という立場をとっている以上、ある時期までは自分の法学を自然法と公然と呼んでいたのですが、途中で「精神の自由、自然の不自由という自分の立場からすると、自然法という言葉はまずいな」と思い、哲学的法という言葉を使うことが増えてきます。これがまさに、第二の自然である精神・慣習に立脚した法であり、ヘーゲルにとって法源とは、精神であり、理性であるといえます。 ちなみに彼の著作である「法の哲学 自然法と国家学」ですが、実は「自然法と国家学 法の哲学」のほうが正しくて、タイトルとサブタイトルの順序を間違っているのではないかという議論も存在します。 自然法の法源は無根拠であるというより、自然法の法源は架空性の高いものである、という言い方のほうがよいと思います。なにしろルソーによれば、いろんな人がいろんな議論をしてきたが、誰一人として本物の自然状態に到達した人はいないというのですから。 殺人の禁止のみを自然法の内容とする議論には、賛成できません。それは、多数の異なる自然法論者からの共通事項を引き出そうとする試みであり、単なる共通項の引き出しに過ぎず、全ての自然法論者の矛盾した主張が真の和解を成し遂げた結果には、なりそうにはないからです。また、殺人の定義そのものが完全なものではなく、その定義をはっきりさせようすると、それだけで大変な議論になってしまい、議論はますます複雑化していくのです。治療をやめ痛み止めだけ投与し自然死を待つタイプの安楽死や、さらに踏みこんで痛み止めと毒物を同時に投与するタイプの安楽死や、堕胎などを、どう扱うべきか、それだけで大騒ぎになります。さらに、不妊治療の一貫として、排卵誘発剤を使うと卵子が複数出てくる副作用があるため、複数ある卵子のうちの1つや2つだけを受精させる行為は卵子という生命の半分を殺すという観点では半殺人ではないかとか、性行為後に使うタイプの避妊薬でひとつの生命として受精したものが着床する前に殺すのは、完全に殺人の範疇に入るのではないかとか考えだすと、もう、殺人の定義などわけがわからなくなってしまうのです。 なお、質問のタイトルの件ですが、昨今では自然法に人気がないのは、当たり前のことです。科学の進歩が進み、自然科学が発達してくると、社会哲学や法学の分野においても、実証主義的傾向が強くなり、自然法のような架空性の高い議論が流行らなくなるのは必然的結果でしょう?ヘーゲルは自然法の解体が始まる時期に生きていた人物です。フランス革命が当初の熱狂から、恐怖政治や王政復古へと堕落していく中、自然法も忘れられていきます。自然法は、200年ほど前に、すでに歴史的役割を終えたのです。
お礼
こちらのお礼欄が 逆に 補足になります。 ルウソは 《自然人》と《社会人》とを区別し それらの間に あまりにも峻厳な境界を置いたのではないでしょうか。つまり 社会人が 自然人であることを取り戻すことは無理という限界です。 《自然法の人》という意味での《同感人》であれば 《自然人》の《なぞ》を備えつつ 《社会人》へと橋渡しをすることが 出来るかも知れません。 《なぞを備えつつ》というのは たしかに おっしゃるように 《架空性の高い》想定です。しかも もし架空性が高いからと言って 法源を 取り払ってしまってよいかと言えば それは 問題になるのではないでしょうか。 無根拠と言うように 《無》としてでも 想定しておくことは 大事であるように考えます。つまり われわれは 人間であるという自同律を 無限に繰り返すことであり それにしか過ぎませんが 《わたし》の無限の自乗・その社会的な過程ということになります。《わたし》が《一》なら その無限の連乗積も つねに《一》です。 この《なぞ》のもとに 自然法の人=同感人を 《自然人‐社会人》の基軸の上に しかも それとはあたかも別個に 想定します。 ・なお 《自然法》は 判断力と判断行為だと述べましたが 後者は 《判断の行為形式(その方法というほどの意味)》と言ったほうがよいと考えました。つまり 広くは 判断力のことになります。 ・同じくなお エミールの冒頭の句は 《なぞ》を示そうとする積極的な文章だと解釈したほうが よいと考え直しました。 いかがでしょう。
補足
harepandaさん ご回答をありがとうございます。 ひきつづき お世話になります。しっかりと勉強してまいりますので よろしくどうぞお願いいたします。 筋がちがうとお叱りを受けるのを覚悟で 申し上げますが 総じて まだ 自然法思想は 持ち堪えると受け取ったのですが いかがでしょう? 実証主義的傾向が大勢となっていること あるいは その前の時期には 述べておられるところでは ヘーゲルが 《第二の自然である精神・慣習に立脚した法》を 持ち出して来ざるを得なくなったということ このような趨勢のもとでですが それでも どうして 自然法が 下火になるのか これが 理解できません。 人間の自然本性は 実存しているからには 経験にかかわるものですが あたかも先験的な本性とでも言うべき存在の傾向を言おうとしているのだと考えます。それゆえにこそ むしろ 実証主義が必要になるのでしょうし その実証すべき事態としては 社会的自然とよぶべき慣習の領域をも 拡大した自然本性として取り扱う必要が生じてくるということではないのでしょうか。 でも そのとき 《自然法の解体》へと向かうのではなく そうではなく 自然法は むしろ依然として なぞであるという現実が 明らかになるものと考えます。この謎が生きるためには ただ一つのこと すなわち 存在の確保つまり 人命の尊重 これが 自然法の内容として 具体化してくるということではないでしょうか。そして それだけでよいはづです。 ★ 自然法の法源は架空性の高いものである ☆ と言い換えられたとき それは この《なぞ》のことを捉えていらっしゃるのだという解釈もできます。つまり 無根拠でもあります。 あとは 人命の尊重にかんして それを生かすためには 実際の場面では 次から次へというように その見解が二分されるような問題が起きるという事例を挙げていただいたものと考えます。つまりは 《なぞ》の問題であって その法源が《なぞ》としての自然法は 引き続き むしろ 生きているとさえ受け取ったところなのです。そうでないと 実証主義が 生きないということになります。何を実証するのかが失われるのではないでしょうか。 ルウソにかんしましては ▼ 万物をつくる者の手をはなれるときすべてはよいものであるが 人間の手にうつるとすべてが悪くなる。(エミール) ☆ は あまりにも 抽象的で 取り扱いかねます。A.スミスが注目した《 sympathie 》を 持って来たいところです。《同感人》という概念を作ることができるのではないでしょうか。つまりは 《自然法の人》という意味で使います。ですから これですと 《自然法》は むしろ 判断力とその時々の実際の判断行為を言うと採ったほうがよいようにも思えます。(というふうに ルウソを まったく単純に 扱ったことがあります。そのままになっています)。(法の哲学は やはり かなり昔のことでした)。 向こう見ずとは このことですが よろしく査察していただくなら 幸いです。
人間社会には絶対的な価値観は存在しないと思います。 どんな事も相対的、時代、立場などのファクターを無視しては成り立たないと思うのですが。つまり人間社会には公理は存在しない、と。 ですから ==《殺すなかれ》もしくは《生命の尊重》 この一つの事項を〔のみ〕 自然法の内容とするとしては いけませんか?== の部分も簡単に人間にとって不都合な点が見つかります。 丹精込めて作った作物を大発生したイナゴが食い尽くしたらどうなります?餓死ですね。これを防ぐ為には殺虫剤の空中散布という大虐殺も許されると思うのですが。 目の前に迫るスズメバチ、貴方はキンチョールを持っている、さあどうする。生命の尊厳を守る為に敢えて刺されるか、反撃もせず。 シロアリはどうか、住宅ローンが20年残っている建物を食い荒らしている憎いやつ。しかし生命の尊厳を冒してはならぬなんて言われたら大いに困ります。 意味無く生き物を殺す事は例え昆虫でも褒められた事では有りませんがどんな場合でも殺してはならないとなれば文明の崩壊も覚悟しなければなりません。せいぜい【生命の尊重】に留めて置く位でしょうね。 人間社会の価値観はすべて相対的で絶対の基準は存在しませんから人間の数だけ正義があるなんて事になったら一大事、そこで神様や法律、慣習などが必要になります。 人々の上に君臨する絶対の存在が無い事にはこの世は阿鼻叫喚の地獄絵図、野蛮時代に戻ってしまいますので絶対の価値基準つまり自然法が存在するかのように振舞うのも必要かも知れません。
お礼
imuzak5320さん ご回答をありがとうございます。 全体としては 自然法の思想を受け容れる方向で お答えいただいたと受け取ってもよいでしょうか。 一つは 生命の尊重については まったく単純に 人命に限っていました。良いかどうか分かりませんが また 人間の利益だけを考えたものになるかも分からないのですが ここでは 人間の生命の問題です。 そして この人命尊重という唯だ一つの命題のもとになら あとは 相対性の世界において 無理なく 互いの価値観を ぶつけ合って 自由な話し合いをつうじて 社会を営んでいけるのではないかと思うのですが いかがでしょう? ただし 細かいことがらとしては――次のNo.3のご回答をうかがうと―― とても複雑で 困難な問題が imuzak5320もおっしゃるように 出てくるもののようですね。 とりあえず このようなご返事にて ご挨拶とさせていただきます。
私は哲学に無教養です。 失敗に終わった無政府主義と自然法尊重との明確な区別がわかりません。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%82%AD%E3%82%BA%E3%83%A0
お礼
ご回答をありがとうございます。 アナーキズム その思想と歴史 世界史上のそれらと日本におけるその実際 とても大きな主題を 持ち出して来られましたね。 補足要求と言われても わたしが 同じく 質問の中に加えたいところなのです じつは。 でも 《自然法》という主題は それほど 内容がぶれるものではないと思います。自然本性 そしてその中に――ということは 人間存在の中に つまりまた 心や精神の中に――備わったと想定される人倫・条理・規範のことだと考えます。もっと言えば 例の《ことだま》を感受しているときに 世界と和解している境地にあるとすれば その境地としての身心のあり方ではないでしょうか。 無政府主義は ▼ 無秩序を意味して使用される「無政府状態」のネガティブな無政府とは同義でなく、「権力・権威がない」、可能な限りの自由な秩序をも意味している。 ☆ ということですから 自然法の中身と志向するところは 同じであるようにも思えます。自然法に関しても 規範を無理なく生きているなら 人は 自由であるでしょうから。 あとは 自然法の思想は まづは そのように 個人の問題として 社会を問題にするときの基礎を扱っていると思われます。そこは 対象領域が ちがっているのでしょう。自然法尊重という基礎の上に 国なら国の法つまり 実定法が作られます。その点では 無政府主義とは どう区別されるのか。探究の筋道が これも 微妙に ちがっているのでしょうか。 あるいは たぶん 自然法思想に則るという場合には 自然法尊重からあとは やはり依然として個人を問題にし それと同時にその自己の生活圏としての社会に少しづつ及ぶという方法なのでしょうか。このように考えたりしました。
補足
littlekissさん ご回答をありがとうございます。 ★ 【市民社会の古典理論】は ▼ 新しい社会としての協同主体の形成 ☆ を主張しているようですが その中身は このレジュメだけでは分かりません。(初めて 聞きましたので 推測もむつかしいです)。 自然法をうんぬんと言っていた時代の市民社会論にかんして言えば これまでわたしが時々触れていた日本社会論との対比で 捉えておきます。その特徴と むしろ 短所(わたしに分からないところ)とは 次のようです。 (1) 《自然と社会》との二分法によっている。 (2) 《社会》について逆に 二分法を用いない。 (3) 二分法を用いての《土台と上部構造》なる分析では 人間が プロレタリアートのみになりがち。 (1-1) 《自然》は 総じて 秩序のない状態であり 秩序を持ち得ないと想定している。 (1-2) 《社会》は 逆に 無秩序に対して 総じて 権力によって束ねられると見ている。そうとしか見ていない。 (2-1)( a ) 人間による社会の支配は 恐怖政治のたぐいは ばからしいと ばかではない人間は見る。支配に甘んじていても そうである。 ( b ) そうではなく その支配がつづくとすれば それは 政治がもっぱら好きだという人間(A族)に そうではない人間(S市民)が やらせた場合である。前者が どうしてもやらせてくれと言って 拝み倒したとき 後者が よしやれと言って ゆづってしまった場合である。それが あとになって 容易には 元に戻せないというときに限られる。 ( c ) さもなければ (あ)半永久的に戦争状態としての権力闘争を繰り広げるか あるいは(い) 同じくだが民主主義的に権力闘争を展開するかである。 (2-2) (2-1・b)のように 社会は 二分されている場合がある。これは (3)の階級分化とその闘争の問題ではない。必ずしも 経済的な制度をめぐるものでもないだろう。 (2-3) これは 政治が飯よりも好きだというアマテラス族が 一般スサノヲ市民から 出たのである。S者は A者を 敬遠したところから 或る意味で悲劇が始まる。神棚に祀ってしまったからである。(国譲りなる神話)。 (2-4) このA‐S連関構造をもった体制は 事実として 長続きしている。《自然と社会》の二分法による場合には それぞれ《無秩序と権力支配》とであり これが 《主権および国家形態》へとつながる。 (2-5) ところが 《A‐S連関制》のもとでは 主権論も国家論も へのかっぱなのである。(いい意味でも悪い意味でも ことだま社会 / 念仏平和主義)。 (3)は 独裁制の問題であり 論外である。 (4) 次のような整理を再掲します。 -1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:アニミスム&シャーマニスム 0 :歴史知性=《イリ(入り)》:世界への入り +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:《ヨリ》を束ね 《イリ》をも 社会力学上(政治的に) 寄せる。 (4-1) 《イリ》なる歴史知性が すべての一般スサノヲ市民であり そこから どうしても出たいと言って飛び出たアマテラス族は 時に 《ヨセ》なるスーパー歴史知性です。おらが国の誇りだとおだてて スサノヲらは アマテラス種族を 自分たちで作り上げてしまったかも知れません。 (5) けれども 《自然法》なる思想 これだけは 西欧の思想史の中でも もっと自由な発想にもとづいたものであり もっと柔軟なのであって けっきょく人間のこと / 《イリ歴史知性》主体のこと / その本性のこと / その社会的な志向性 / ことだま信頼関係(同感)のことなどなどを表わしています。捨てたものではありません。 これが この質問で 検討していただく日本版《市民社会の古典理論》です。よろしくお願いいたします。