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死を受け入れる、消化すること
姉妹の夫が余命幾ばくかわかりません。 病気で数年前に余命宣告されていました。その時が近づいてきました。 彼は30代です。 彼女の今を、これからを漠然と想うと、なんと言っていいかわからない寂しさか、不安か、辛いのか・・・ 彼女の前で、私が泣いたりしたくないのに、電話してるだけでも涙が出てしまいます。 私の夫は「消化しきれない事もある」と言い確かにそのとおりだと思いますが・・・ 彼の死を受け入れて、少しでも彼女の力になってあげたいのです・・・ どんな気持ちを持てばいいのか、支えになる言葉を下さい。
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人の価値を時間というモノサシで測った場合、短い=不幸って図式になりますが、長さじゃなく質というモノサシで測った場合、別の価値を見つけることができるのではないか と思います。 なんてことない平凡な人生。 永遠に続くと思える平凡な日常。 そこに急に身近な人の死期が近いことを感じたら、自分もいつか死ぬという、既に存在していたものを、初めて実感としてありありと感じたりします。 永遠などない。 そうなったとき、一つ一つが価値があり、新鮮であり、はかないことを知ります。 夢から覚めて、現実が始まるわけです。 人間に限らず動物には共感能力が備わっています。 他人が痛がっていたら、自分は本当は痛くないのに、痛いと感じ、だからこそ、手助けしたりできます。 逆は無関心です。 究極の共感能力の持ち主は、相手が絶命すると、その人も息絶えます。 相手と同一になってしまったので、相手が死ねば、心臓が止まってします。 全員が究極の共感能力の集団だったら、絶滅しています。 中には、相手と同じ痛みを感じることができない代わりに、その人ができないことを代わりにやったりします。 泣いて泣いて食事をつくることができないまでになっていたら、その人の代わって食事を作り、子供に食べさせ養育を肩代わりする。 そうすることによって 餓死が防げます。 子供が父親の様子がおかしいと気づき、勉強も手につかず、不安でいっぱいになって 精神が弱っていたら、親が泣いて何もできないのなら、親戚が代わりに子供を養育するしかないでしょう。 それが集団の価値。 それぞれに役割がある。 私は父親が余命いくばくも無いと宣言されたと母親から聞いたとき、自分のやりたかったことを諦めることにしました。 母親は取り乱し、何も手をつけられない状態になった。 私まで泣いて泣いて泣き崩れていたら、一家絶滅です。 母親はやりどころの無い怒りを私にぶつけた。 まるで私が病気の根源であるかのように当り散らした。 耐えましたよ。 彼女が当り散らしたあげく寝込んでいるとき、私家事一切をひきうけました。 これにはオチがありまして、、、医者の誤診。 すっごいありえないことです。 あれは何だったのか? まあ そういうわけで、母親は窮地に立つと弱い人間で、私は追い込まれると強くなると知りました。 誰か1人気丈にしていなけりゃ。 難しい役どころですが、、、、 だって、こんな事態なのに、一緒に泣かずにせっせと家事こなすなんて、冷酷だ とか言われる役まわりなわけですから。 それがイヤなら、一緒に泣いてあげればいいんじゃないかと。 できることをやるしかないでしょ。 できないことを、あなたもやれ って言われても、できないものはできないでしょ? 親戚の代わりにあなたが死ねます? それこそ 命の恩人でしょうけど、それは不可能ですよね。 じゃあ 自分ができることは何かを考えるしかないでしょう。 慰め 励ましを求めているのは、あなたじゃないはずですよね? なんで、本人やその家族に代わって、あなたがそれを求めるのでしょうか? ちょっと厳しいかもしれませんが、奪っちゃ駄目です。 あなたは援助する側。援助される側じゃないです。 気丈に。 そして、人ははかないと知り、一日一日を大事にすごす。 春になるとサクラ咲きますよね。 作家の誰か言っていました。 「あと何回桜が見れるのかと思うと、桜がとても美しいと感じる」と。
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- ri-zyu
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お辛いでしょうね、愛する姉妹が悲しんでいる苦しんでいる姿は、見たくないですもんね。 お察しいたします。 kanatarouさんのご主人凄い事をおしゃいますね、悟を開いた禅の老師がおしゃりそうな「消化しきれない事もある」。 人間であれば不条理な状況に置かれれば悲しみ、消化しきれない事もあるのは自然な事だと思います。 どんな気持ちを持たなくて良いんじゃないでしょうか、悲しい時は悲しいです、辛い時は辛いです、不安な時は不安です、泣きたい時は泣けば言いと思います。 そうすれば自然と「時と言う妙薬が必ず心を癒してくれます」。 今はkanatarouさんも、kanatarouさんのご主人も、姉妹さんも、姉妹さんのご主人も、大変お辛いでしょうが、時が癒してくれます。
お礼
私の小さな疑問は主人に一蹴されてしまう事がほとんどです。 今回もそうだったのですが、まだ何か物足らなくて質問させてもらいました。 妙薬ではなく、劇薬?サプリメント?違うモノを探しています。 でもありがとうございました。
ANo.5です。 幾分、冷静を取り戻されましたでしょうか? 私は今、40代前半です。 親世代が高齢化し、先日叔母が他界、今後も不幸が続く見込みです。 でね。 最近、凄く、凄~く、思うのですが 死は受け入れようが、拒もうが、本人の意思とは関係なく 生きるもの全てに訪れるので ●仕方がない といった諦観に早く辿り着いた人の方が どうも安らかな最後に至れるみたい。 仕方がない、というのは 本人に言わせると「考えても仕方がない」といった意味らしいんだけど。 考えても仕方がないことに悩むのではなく 一日一日を丁寧に淡々と過ごす状態を維持するのが (そういう心を維持するのが)結局イイみたい。 だから、なるべく外部の人は 悲壮感を持ち込まない方がイイんだろうな、と思います。 たまたま、昨年読んだ本の中で 養老孟司氏が私の言いたいことを的確に表現していたので 長くなりますが引用します。 +++++++++++++++++++++++++++ 現代人は皆、人は必ず死ぬということをわかっていると思い込ん でいるけれども、どこまで本気で考えた末にわかっていると感じて いるのかは甚だ怪しいように思えます。 人は自分のことを死なないと勘違いするようになりました。(中 略)「俺は俺」「私は私」で不変の意識であるはずだ。不変だとす れば、どうしてそれが消えなくてはいけないのか。なんで死ななき ゃならねえんだという疑問です。(中略)だから「魂」という概念 を作り出した。そして自分が消えても意識は残るはずだ、というこ とを「魂が残る」というように考えて、納得していたのでしょう。 近代化とは、人間が自分を不変の存在、すなわち情報であると勘 違いしたことでもあるのです。それ以来、実は人間は「死ねない」 存在になってきました。 現代人は、自分が死ねないと考えると同時に死を遠ざけてきまし た。それは前述したように、身体を遠ざけてきたのと同じです。意 識中心になりすぎてしまって身体が忘れられてしまったのです。当 然、自然の一部でもある死が実在でなくなってきます。 しかし、だからといって死んだらどうなるかということで悩んで も仕方がないのも確かです。死について考えるといっても、自分の 死について延々と悩んでも仕方が無いのです。そんなのは考えても 答えがあるものではない。したがって「死の恐怖をいかに克服する か」などと言ったところでどうしようもない。 極端に言えば、自分にとって死は無いという言い方が出来るので す。そうすると「(自分の)死とは何か」というのは、理屈の上だ けで発生した問題、悩みと言えるかもしれません。 死というのは勝手に訪れてくるのであって、自分がどうこうする ようなものではない、それを考えるのは猿知恵で良くないと思って いるのです。きちんと考える人もいるのでしょう。しかし、私はそ うではない。だから、自分の死に方については考えないのです。無 駄だからです。 「死んだら仕方ない」というふうに考えるのは大切なのです。そ れを知恵と呼んでもよい。(中略)人間の力の及ばぬところで出て きた結果は、仕方がないと思うしかない。 私はさんざん一元論、原理主義を批判していますが、ある意味で 神様っていいな、と思うこともあるのです。それは「結局神の思し 召しだから、仕方がない」と考えることに役立つからです。その前 提のうえで、「生きるとはどういうことか」という話を患者さんと も出来るからです。
ああ、自分は蚊帳の外にいるんだ、 姉妹はこの数年 毎日 一日一日一瞬一瞬を 踏みしめて暮らしていたのだ、 夫の死を深く見つめ、夫の生を噛みしめ、 夫婦の二人の生の寄り添いをあじわったのだ、 自分は、とても関係ないところで ただ気分のことに揺れてめそめそしている。 と思うしかないじゃありませんか。 よその夫婦の間のことでわかってあげられることなど、ほとんどないと。 彼らの思いなどわかってあげられないからこそ、 あなたにも見える、ご姉妹が積み重ねている小さな目の前の暮らしを、尊いものと思いなさいな。 そう思うことで、自然に、たいせつにできるものがよく見えて、手を差し出すべきところがよく見えるでしょうから。
お礼
ありがとうございます。 先日、自宅に帰ってきた彼に会いました。 私にはなんと言って声をかけていいのか判らず何も話さずに帰ってきました。 もう普通の会話は難しいようでした。 そして彼女は私の思ってた以上に強かったです。考えてみれば当たり前です、もう何年もこの事と向き合ってきたのですから。 おっしゃるとおりです。 また涙が出てしまいました。 こんなこと言われないと判らない自分がなさけないです。 本当にありがとうございます。
優しい言葉をかけた方がイイ人と 厳しい言葉をかけた方がイイ人がいると思いますが ご質問者さまがどちらのタイプか? ご質問文だけでは判断できません。 あえて厳しい言葉をかけます。 気持ちが弱るようなら以下、無視して下さい。 ************************ > 少しでも彼女の力になってあげたいのです・・・ 力になりたいなら、泣くな。 支えになる言葉など安易に求めるな。 甘えるな。 覚悟しろ。 強くなれ。 自分に負けるな。 頑張れ。 元気という気を纏え。 笑おう。 以上です。
お礼
お言葉ありがとうございます。 泣くつもりはないのですが、すぐに涙がでてしまうのです。 としですかねぇ 言われた事を忘れないようにします。 笑います
- srtmm
- ベストアンサー率20% (2/10)
私の親友は、脳梗塞のあと心筋梗塞に見舞われ、一時左半身は不随でした。 死の淵を2度も体験しましたが、先日は一緒に東京見物が出来るほどに回復しました。 本当に死んでもおかしくなかった状態だったのです。 私はただ、回復を待つしかありませんでした。彼の生命力を信じて・・ 彼が本当に辛い時、私はかけてあげる言葉など考えませんでした。 いつまた脳に出血があるかもしれない。 心臓の血管がまた塞がれてしまうかもしれない。 その状態で私が言ったことは、励ましなどではなく、痛みを共有することだけでした。 「いつも心は共にある」 これだけです。 楽しいことしか考えませんでした。 彼は今北海道にいます。私は東京です。 また一緒に北の大地を旅しよう。 東京で再会しよう。 私たちの支えは、離れていても時間を共有することです。 そして彼は、また心臓のカテーテル手術をすることになっています。 再検査で血管に不具合があり、ひとつの血管が死んでしまっているかもしれないということです。 これは手術してみないと分からないのです。 ダメなら、彼の命は絶えてしまいます。 しかし、私も彼も「再会」を信じ、必ず戻ってきて「夏の知床」で遊ぶことだけを考えています。 心から信頼している友に、余計な言葉は要りません。 質問者さんのご姉妹の方への言葉とは少し違うかもしれません。 でもかけてあげる言葉を一生懸命考えるよりも、「そばにいてあげる」ことができるのではないでしょうか。 私は遠く離れているからそばにいることができません。 彼女が辛くて動けない時にさりげなく動いてあげる。 ご姉妹であれば、それで心は通じるのではないでしょうか。 人は言葉を持っているから、それに頼ろうとします。 物言わぬ動物たちは、家族を守るために行動で示します。 母猿は、我が子を死を受け入れられずにその子の死体を抱いたまま離さないことがあります。 無償の愛を示すことが出来るのは、動物のほうかもしれません。 質問者さんの辛さは同じ体験をしたものでなければ分からないでしょう。 ただ、質問者さんより、ご姉妹のほうがもっと辛いのではないでしょうか。 当の本人の辛さは第三者には分かりません。 だから、言葉よりも心遣いが大切だと思います。 「そばにいてくれる」ことがどんなに支えになるか。 かける言葉よりも、ご姉妹が動きたいけど動けないことを察知してあげて、先に動いてあげることを考えてみてください。 そんな日常の心遣いが彼女の支えになると思います。
お礼
離れたところに住み、今までは数ヶ月に1度連絡を取り合うぐらいでした。 彼の体調は気にはしていましたが、その話をするとかえって辛いかと思い、頻繁に詳しく聞くこともしませんでした。 もっと「そば」にいられるように気をつけます。 ありがとうございます。 srtmmさんも彼と再会できますように
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
あの世の死はこの世の生、この世の死はあの世の生なんですね。 この世に生まれた人は遅かれ早かれ必ず死ぬことになっています。 でもそれは肉体だけなんですね。肉体が死んでも本人の意識が死ぬわけではありません。本人の意識(魂)はあの世の世界に帰って楽しく生活することになるのです。あの世でいつの日か会うことができるのですね。愛するものと別れるつらさは誰にもあることなんです。 でもいつの日かまた必ず会えますので、それが生きる希望でしょうね。 私も愛する者たちを失いました。悲しみから逃れることはできませんが同じ経験をした多くの人がいるということですね。悲しみのときも苦しみのときも喜びのときも日はまた昇りますからね!
- h1r0s13
- ベストアンサー率12% (61/497)
人間は肉体ではないのです。ご本人が無神論者でなければ、とりあえず四次元精霊界という所に行かれると思います。 そしてまた、3、400年たったのち再び肉体の衣を身にまとい、あなたとお会いになるのです。
- yeimtr
- ベストアンサー率13% (8/60)
私も何度か身内の死に立ち会っています。その時の気持ちと言えば 悲しさ、不安、苦しさ、亡くなる本人の気持ちを思う辛さ、本当になんと言っていいのかわからない気持ちになります。支えになる言葉、例えば「元気出して」とか「大丈夫?」とかいう言葉は言って欲しくない代表の言葉だと思います。元気な訳がないし、大丈夫な訳もないからです。その時支えになったのは友人がまめに連絡をくれたり、そばにいてくれた事でした。病気の話しにはあまり触れずに私の様子を気にかけてくれたりするだけでしたが、言葉よりも本当に心強かったです。そして亡くなった後も時間がたつにつれて悲しさや辛さがこみ上げてくるのでその後も気にしてくれた友人には本当に感謝しています。
お礼
回答いただいた方々、質問を読んでくださった方々へ。 長い間、質問を締め切らず、すみませんでした。 まだ、何か回答があるかな、と思い時折確認するのみでした。 今では彼女の家族も落ち着いてる様にも見えます。 私はまた自身の事でうつうつ、もんもんとしてますが… ありがとうございました。
お礼
彼は逝ってしまいました。 色々考えました。 死を受け入れる、消化することから日常の生活も・・ この事は「蚊帳の外」で何も出来ないけど、 「一日一日を大事に」することでこれから何か得る事があるかな・・・ 死を考えるのは「人生って 何の為に生きるの 」って事でもありますよね 当たり前すぎて何言ってるのと、我ながら・・・ 知りたいことはまだたくさんです。 ありがとうございます。