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『去る人日々に疎し』と云うにも関わらず何故ですか?
友人が死んだ時には悲しみが込みあがり、涙がポロポロ出ましたが最近は記憶と共に悲しみも薄らいできました。 親御さんでさえも同様のことを言っておられました。 人間は同じことを行なったり、考えたりすることには飽きてくるものでしょうか? 皮肉にも、それは成長と言う人もおりますが・・・ キリストからブッタまで、世界中の宗教界では恰も「死んだ人のことは忘れた方が良いとか、時々思い出してあげれば仏も喜び、それが供養になる」と 教育指導をしておりますが、私には宗教システムと云うものは 死んだ人はもとよりですが、残された人主体に考えられた様に思えます。 とても寂しがり屋だった友人が、死んだ日より友達が日に日に減っていく様に思えてなりません。 一回忌、三回忌と葬儀時に比べて集まる人が何処でも減っているのが何よりの証左です。 只でも人々は忘れていきますのに、追い討ちをかけるように「たまに思い出してあげれば良い。」とは、仏が望むはずはありません。 「死人に口なし!」コンセプトなのでしょうか? 私は、忘れないための努力をすること、こそが供養と思いますが如何ですか?
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- odaigahara
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ずっと忘れないことも、供養のひとつかと。。 時々思い出して、というのは、生きている人側の言い訳とも思います。 でも、早く忘れて、違う人生を生きるというの道。 答えはないと思います。
>私には宗教システムと云うものは >死んだ人はもとよりですが、 >残された人主体に考えられた様に思えます 宗教をシステムだと言うのであれば しかも「考えられた」というのであれば お好きなようにつくり変えてはいかがでしょうか。 あなたにとって、宗教が絶対ではないのでしたら。 悩む必要ないでしょう。
- kigurumi
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生きて死んで終わり。 それを悟らなければ不幸は続くと思うんですね。 といっても人間はすぐ執着するので、死んだ人にすらも執着しようとする人もいる。 死んだら存在しませんので、いっくら生きている人が亡き人を供養したとしても、死んだ人に何の影響も与えません。 葬式や供養は生きている人のためにある。 死んだ人のためじゃあない。 葬式や供養は執着を捨てきれない人のためにあるようなもの。 そして、執着をだんだん手放すために、儀式はある。 執着が消えた時、儀式はやらなくなる。 執着して儀式をする限り、心の中には幻の人が生かされ続けているわけですよね。 もし 存在していたら「いいかげんにしろ、人が永遠の眠りにつこうとしているのに、毎回毎回たたき起こして うるせーんだよ!」って言うでしょうけど、存在していませんので、苦情も来ない。 存在しないものを心の中でイメージとして存在しつづけさせるのは、執着心ゆえ。 一種の利己的なものだと思います。 もし、自分が死んでも、生きている人に忘れないで欲しいという利己的な欲望により、起こっているのかもしれない。 自己愛が強すぎる人ほど、「私が死んでも忘れないでね」と言うと思います。 「もし私のことを一時でも忘れたら 祟ってやる」と言い残したら、フラシーボ効果を残しているので、暗示にかかりやすい人に死者の呪いが襲いかかる。 >キリストからブッタまで、世界中の宗教界では恰も「死んだ人のことは忘れた方が良いとか、時々思い出してあげれば仏も喜び、それが供養になる」と それ知りませんでした。 キリスト教は、イエスが何億年後かにまたやってきて、死者を蘇らせ、最後の審判を下す としています。 だから死は仮のもので、人は永遠に生きるとしています。 ただし、最後の審判の後に、天国か地獄のどっちかで永遠に存在しつづける としています。 仏教は執着するな と教えていたと思います。 人には108つの煩悩 つまり 執着があり、それを年末に祓い清める じゃなかったでしたっけ? <時々思い出して供養してあげる。> うーーん、、、思い出して墓参りしないと、お寺大変ですから、お寺は檀家さんに お寺にまかせっきりじゃなく、時々 お墓参りして、掃除して欲しいですよね。 お寺は檀家さんを持っており、檀家さんで不幸があれば稼ぎ時。 法事があれば、稼ぎ時。 檀家さんが法事をしてくれないと、お寺は困る。 だいたい、死んだ人が拝まれると喜ぶってのは、セールストークじゃないですか。 念仏は専門職の人しかなかなか唱えられない。 たとえ嘘八百であっても、私達は知ることはない。 私は般若心境くらいなら空で言えますが、日本語化された般若心境であって、何の効力も無いと思っています。 (祖母が毎朝唱えていたので、覚えただけですが・・・) ありがたーいお経を唱えてもらって、「祖先は喜んだに違いない いいことをした。」と生きた人が死者を利用して幸福を買っている現象。 そもそも そのお経ってどれほど効果があるのか? サンスクリット語で唱えたら、死んだ人が喜ぶのか? 日本で古代サンスクリット語で唱えられる人~? ネイティブで唱えられ坊さんいるんでしょうか? いると仮定しましょう。 で、その唱えた音が本当に実体化するでしょうか? つまり 死んだ人が浮かばれるという現象が起こるでしょうか? 起こると信じるしかない。 信者だから信じるしかない。 まさか 偉い坊さんとされる人が「アナタ ウカバレル アルヨ」と唱えているなんて 誰にも死者にもわからないので、、、、 生きている人が、効果絶大 って思って幸福感に浸っているだけ。 まあ 縁起物を買うと、それだけでもう安心と安心感を得られる人もいるわけで、、、、単純といえば単純。 だいたい 戒名なんてのも、金で死後の名前を生きた人が買うってものでしょ? 戒名を売ってる人が「時々思い出してあげるのが供養」といった場合、法事は必要だから法事は自分達でやらないで、ちゃんと専門業者(自分)に依頼してね ってことなわけですよ。 そうすればお寺事業は衰えない と。 悲しんでいる人を食い物にするビジネス。 「忘れないための努力」ってそれって誰のため? 自分のためですよね? 忘れないための努力って 具体的にどういうことをするべきだと力説されているのか見えてきません。 あなたの主張は、一種の布教のように感じます。 うちの町で、朝っぱらから宣伝カーで音楽ガンガンならしながら布教する人がいるんですね。 「アナタハー カミヲー シンジマス カー」 あなたの場合、「忘れない努力」ですが、この宣教師の場合「カミヲシンジマスカ」で、同じ種類のもの。 忘れないためには「どんな努力」あるいは「死んだ人の何」を忘れないようにするべきかが抜けている。 「カミヲシンジマスカ」も「存在」が抜けている。 片手落ちの言葉を唱えても言葉は実体化しない。 あなたの言いたいことはわかりますよ。 その人を思い出している限り、その人は永遠に生き続けるって信仰ですよね? これこそ正しい信仰であるって主張ですよね。 それは、、、信仰は自由ですが、それを人に押し付けてしまうと、「あなたは神を信じますか? イエス様は水の上を歩かれました。信仰があれば水の上も歩けるようになります。信者になりましょー」と一緒。 「それ誤訳。 水の上じゃなくて 水の際。つまりイエスは湖の水際を歩いたって話ですよね。信仰しなくても、湖の際は誰でも歩けます。要するに創世記の天地創造のことで、霊が深淵をただよっていた というのを聖書作家は、イエス物語で表現しているわけで、信仰が深くなると、水の上を歩行できるようになるって意味じゃあない」って私のようなものにつっこまれますよ。 つっこまれるのイヤでしょ? じゃあ もうちょっと主張の理論を詰めないと。 あ、、、ここ主張のために質問として書いてはいけないので、そこ注意してくださいね。
- shift-2007
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その人が望むことをしてあげることがその人にとって良い事なんでしょうか。 寂しがり屋の人を慰めることはその人にとって必ずしも良ことなのでしょうか。 死者は死後の世界を生きているのだから生前とは違う生活をしているのでしょう。 死ぬことで新しい生活が始まったのだから、生前のままの寂しがり屋でいいのでしょうか。 生も死も宗教界のコンセプトも関係ないと思いますが。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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ANo.1さんのご説明は、私にも非常に感銘的でした。こんなことを考えていた人がおられたのですね。ご質問には私は古人の言葉を思い出します。 『世 阿 弥━ 初心不可忘 時々初心不可忘 老後の初心不可忘』ちょいと意味と解釈がことなるでしょうが。 『大 学━ 日新 日日新 洵日日新』 『私達の師━ 真理が自分になるように、前日より更に深く思いなさい それを続けなさい』 (但し、これは真理ということばと、思うという表現はいいなおしてあります。信仰の上のことばの使用ですので。)
- at9_am
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とりあえず。 > キリストからブッタまで、世界中の宗教界では恰も「死んだ人のことは忘れた方が良いとか、時々思い出してあげれば仏も喜び、それが供養になる」と教育指導をしております というのが?です。 宗教界で「死んだら忘れろ」とはあまり聞きませんね。むしろ普段は忘れていても仕方がないが命日などに時々は思い出してあげなさい、というのが仏教的には普通ですし、多くの宗教での態度もこのような形だと思います。この意味で、 > 忘れないための努力をすること、こそが供養 なのです。 もっとも原始仏教など、葬式などの儀式を是としない宗教は時々見かけますね。 > 友人が死んだ時には悲しみが込みあがり、涙がポロポロ出ましたが最近は記憶と共に悲しみも薄らいできました。 > 親御さんでさえも同様のことを言っておられました。 > 人間は同じことを行なったり、考えたりすることには飽きてくるものでしょうか? 私見ですが、慣れだと思います。 人間は大抵の事に慣れることが出来ます。この場合は悲しいという状態に慣れてしまって、悲しいという感情の強さ自体は変わっていなくともそう感じなくなっている、という事だと思います。
- Vwiyoonn
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韜晦ととられるかもしれませんが、死んだ人はもういないのです。 とりあえずいま存在しているのは記憶と記録だけで、そのどちらもが、故人が存在していたということを束の間だけ示すだけで、それらは本人がこの世から離れたその時からそれらは実際のなにかを指し示すことも、存在している本人との相互照応関係を結ぶこともなくなってしまったものなのです。 しかし、人というものはいつまでも存在の亡骸といっていいそれらにいつまでもしがみつき、時には己が生きることすら忘れることさえあるのです。 いつまでもあなたが悲しみ悼みつづけていたのでは、自分があなたを損ねたのではないかと故人があなたを心配し、この世に未練を残して成仏しきれないのでは故人のためにはならない、というのが『忘れる』ことです。 一方で、故人の存在の痕跡はすでにあなたの一部になっている(#1さんの話とちょっとカブります)のですから、いくら意識の表層で忘れたと思っても故人の存在は、道行く人の姿かたちとか、ちょっとした口癖とかなどのふとしたきっかけで思いだされることでしょう。そのとき、故人のかけらがいま生きている自分とともに在るんだな、と思いだせば故人も仏になったかいがあったと安心してくれるのではないでしょうか。
- cyototu
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頓珍漢な回答になってしまうかもしれないことを覚悟して、貴方の質問に関連あることについて述べてみます。一見関係がないように見えますが、我慢して最後まで読んでいただければ、これから述べることが貴方の問題にどうか関わっているか判ると思います。 20世紀中後期に明らかになった近代物理学の大変重要な成果に、「散逸構造の理論」と言うものがあります。この理論は非平衡熱力学という分野の学問で、それを提唱したイリヤ・プリゴジンは1977年にノーベル賞を受賞しております。この理論は生命現象まで含めて、果たして物理学の法則に従うだけで複雑な構造が自発的に生まれてくることが可能かという問いに、肯定的な回答を与えました。 その要点は3っに要約されます。構造が自発的にできるためには、1)その系は外に向かって開かれていて、エネルギーや情報などを外界とやり取りが出来るようになっていなければならない。2)その系は熱平衡状態から十分離れた状態にあり、従って数学の専門用語で言う非線形効果が無視できなくなった状態に居なければならない。そして,次の3)が貴方の問題と関わる条件なのですが、それは、3)その系に外界から働いた揺さぶり(ないし、邪魔)について、その記憶を忘れるメカニズムが系の内部になくてはならない。 記憶を忘れるということは、我々の未来に向かって起こる現象ですので、3)を別な言い方をすると、「時間の流れには過去から未来に向かって、一方向のみに起こっていなくてはならない(もう少し専門的に言うと,物理現象のの基本的な部分で、時間の向きの対称性が破れていなくてはならない)」とも表現できます。 この3番目の条件は、与えられた系がその個性を失わずに安定した状態で存在できるために必然的な要件なのです。この宇宙では、構造を持った系は常に外界からそれを壊そうという揺さぶりを受けています。ですから、その外界の影響の記憶を忘れることなくずっと持ち続けていたら、ついにはその系は壊れてしまいます。意外なことに、この「忘れる」という負の側面が、この世に複雑な構造を持っているあらゆる存在に対して、その個性を安定して持ち続けさせることが出来るようにしてくれ、結局、生命現象という極端に複雑な構造が、この宇宙の中に自発的生まれてくることを可能にしてくれているのです。 貴方の言う「忘れないようにしたい」という意味は、上の私の論実と微妙に噛み合ないところがあることは承知しておりますが、それでも、何か思索の参考になれば幸いです。