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東三河について
東三河はその昔、飽海評と穂評が設置されていたということですが、いつ頃どのようにこういった事が分かったのでしょうか? 諸説あるので、詳しい方がみえましたら、教えてください。 よろしくお願いします。
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別に詳しいわけでもありませんが、知っている範囲内を書きます。 ご存知と思いますが古代三河は、三河と穂の国に分かれていました。 穂の国府が置かれ国造(朝別王)がいたといいます。 穂の国の中心が穂評(郡)でした。 大化の改新で二国が統一され、三河の国となり八名郡、宝飫郡、渥美郡の三郡が設けられたといいます。 穂(ほう)郡が宝飫(ほおの)郡ついで宝飯(ほい)郡に変わっていった。 飽海(あくみ)郡が渥美(あつみ)郡に変わっていったと考えられます。 平凡社の「日本歴史地名大系」23巻を参考にしました。 なお穂は稲穂で無く東三河で目立つ山が由来だといいます。
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