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イエスの救いの本質は

イエスの救いの本質は、キリスト教の言った方が良いのでしょうか。 私は余り賢くないものですから、難しい言葉は除いて頂き、判り易く10行以内に言って頂ければ幸いです、本質(要)でかまいません。 恐縮ですが、よろしく御願いします。

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noname#80116
noname#80116
回答No.3

 《イエスの救いの本質は》 人間の考える経験思想を超えているととってください。  そうでなければ わざわざ十字架上に露と消える必要がありません。  そうであるので 最高法院(サンへドリン)の大祭司たちに 神への冒涜という罪での死刑に値するというふうに 思わせました。これは キリストとしての神の貌です。  人間の貌としては 《わが父 なにゆえ 我れを見捨てたまいしや》と述べて その文句にかかわらず自分の信仰を表明し しかも 大声をあげて泣きました。  神でなかったなら わたしたちは 人間の能力と努力とで ある程度のことまでは出来るものだと思い それで おしまいになります。  人間でなかったなら 神であるのだから そこまでのことも出来たのだとわたしたちが思って もう救いを問い求めることも 中途半端の努力で おしまいになります。  けれども イエス・キリストは 神の貌と人間の貌とを備えていたのではないかと その後 うわさされるようになったとさ。

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  • taco8ch
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回答No.7

こんばんは。宗教おたくの#4です。 いや、だから生贄でしょ? 「神の子羊」って誰のことよ?

ri-zyu
質問者

補足

>こんばんは。宗教おたくの#4です。 シャレのきいた方ですね。他の方に諭されましたので、謝りの書き込みをしようと思っていたところです。深い思案があったのなら、すいませんでした(ごめんなさい)   キリスト教には特に疎いものですか。ら。 私が、思案したいと思います。  

noname#80116
noname#80116
回答No.6

 No.3です。 《イエスの救いの本質》が もし《いけにえ》の思想にも接点を持つとするなら それは いけにえや犠牲(同じことですが)を もう一切やめにしようというものです。  ただ《人間の貌》でしかなかったとするなら そういう身代わりの思想において 生け贄として捧げられたとのみ捉えられるでしょう。  そしてこの限りでは むしろ現実です。一昔前には 不祥事を起こした会社のために死んでくれという身代わりがありました。そんなことは やめにしようと言っているのに イエスもそうしたから おまえも見倣ってくれという 逆の思想になっていました。  キリスト・イエスのおとぎ話の要素(《神の貌》の側面)は そのあとの問題です。

  • kigurumi
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回答No.5

10行以内ですか? 2文字ですみます。 私も <生贄> だと思います。 身代わりの思想は各地にあったようです。 日本でもお札ってありますが、古代では人形だったようです。 魔よけの人形とかなっていますが、人形が本人になりかわって、災いを受けることで、本人が生き延びることが可能って思想です。 ユダヤ教でも贖罪ってものがあって、身代わりに動物がささげられ、それで罪をチャラにしていた。 どうして身代わりに捧げられた動物を焼く尽くすのかというと、そのように丸コゲにならないように肝に銘じろって意味らしいです。 例えば生まれながらに人を殺すことに快楽を感じる人がいたとします。 危険分子で、その人が生きている限り、その人は生きても、他の人が何人も死にます。 集団の数がその餌食にならないように、殺すわけです。 ところが、他人の命を奪うとかじゃなく、過失で人に害を与えてしまった場合、殺人も他人に害を与えるので、どんな理由にせよ害を与えたものは問答無用で殺すか というと、「悪かった」と理解する能力があれば、歯止めがきくわけで、害を与えたから殺すってのは、やりすぎ。 でも、いずれにせよ害を与えた者となっているので、穢れた者になるが、その穢れを他のものに移し、炎で燃やし清めることで、罪は消えるって考えたらしいです。 建設的ですよね? ちょっとした罪でも殺していったら、全員死ぬしかないわけで、そういう思想がある集団なら、とっくにその集団は絶滅している。 他が身代わりとなり清められたとなれば、集団は絶滅せずに済む。 もともとは、人間はまだ狩猟をしていて、大地の恵みをおすそ分けしてもらって、生き延びていたわけです。 大地が痩せると、大地の力を復活させるために、集団のリーダーが殺されていた。 ところが、農耕を発明してから、計画的に食料を作れるようになり、定住し、人は食料を歩いて探して回ることが減り、ある程度食料が計画的に得られるようになると、栄養がよくなり、子供が死ににくくなり、集団の人数が増えていくわけです。 すると集団を統率するために、強いリーダーが必要になり、そのリーダーが統治するわけですが、カリスマ性が無いと、なかなか統治できない。 人数が少ないときは、その人がどういう人か毎日会うのでわかるが、人数が増えると、側近以外なかなかその人と喋れなくなるわけです。 そのリーダーが他の人からすれば遠い存在になるわけです。 そのうち、神格化に似た現象が起こるのではないかと思います。 でも、農耕をやったとしても天候次第なわけで、天候で不作が続いて、農耕がうまくいかないと、神の力が萎えたと考えた。 それで、リーダーを殺して、大地に還元して、大地が再び緑を復活させたら、リーダーも一度大地に戻って、再び地上の戻ってきた と考えたわけです。 そのうち、大地が萎えるのは、地上のリーダーがよくないからと考えるようになり、精力を失ったリーダーは精力を取り戻させるために殺すってなった。 でも、そうやって大地が痩せるたびにリーダーを殺していたら、いつまでも集団が統率できませんので、身代わりに贖罪するものを立てるようになった。 これによってリーダーは大地が痩せても、殺されることがなくなり、身代わりのものがリーダーの衣装を着て、リーダーのような豪勢な食事をして、女性たちと快楽を共にしたあと、鞭を打ち天と地に間に吊るされ槍で刺され、大地にそのリーダーの地が流され、大地が生命のエネルギーを復活させるとなっていった。 この異文化の思想が、後にキリスト教のイエス物語に採用されたわけです。 というわけで、生贄を立てることで、死ぬことを免れるってのが、イエス作家の思想。 それは古代の異文化の思想が元。 日本だって元は権力者が死ぬと、側近も一緒に埋められていたわけですが、その風習を変えたのが土師氏。 身代わりに人形を作って、リーダーが死ぬと、側近の身代わりの人形がリーダーとともに葬られるようになった。 聖書では土師記において、他の民族の土地を奪って領土にするという土師であるイエスが登場しますが、日本だとリーダーと一緒に死ぬ運命だった人を救うための身代わり人形を発明したのが土師。 で、日本のその身代わりに殺される人形が、ユダヤ教では動物であり、キリスト教では人間なわけです。 で、キリスト教では一人の人間=イエスが罪を贖う ではなく、全人類の罪を イエス一人が贖う という思想なんですね。 で、2000年ほど前に全人類の罪はこの世からイエスが消し去ったので、地上は天国になったとして、そのことを喜べとこの世のイエスの話など知らない人々に伝えるってのが伝道。 つまり古代の身がわり思想が元となってできた思想家が作ったイエス物語の童話を世の隅々に伝えベストセラーにする活動をしているのが、キリスト教徒なわけです。 いわば信者はセールス 営業 拡販員 なわけです。 購読者が多いほど、作者は印税が入るわけですが、残念ながら、この童話の原作者は誰かわからず、その子孫も誰かわからないため、改造して童話を発行している集団が印税でもうかっているわけです。 と分解していくと、結局 互助的なシステムなわけですが、いずれにせよ 人々の罪はイエスが肩代わりになり死んでくれたので、悪人はこの世には一人もいないってことで、イエスの死が救いってわけです。 イエスを殺さなければ、救いはこなかったってわけで、イエスを殺したことで、地上は天国になったので、この殺人はいいことだったってわけです。 まあ、実際 殺人を正当化する1つの思想だと思いますが、あくまで童話ですから。 本当にそんなこと考えて殺人を正当化する集団がいたら、かなり危険ですもんね。 あーー、確かにキリスト教は神のためと殺人を犯してきましたが、、、、 困ったもんです。 童話と現実の区別がつかなかったようですね。 彼らにとってみたら「よくも神を殺したな」といいながら「神を殺したことで幸せになったから喜べ」と、二つの矛盾する思想の狭間で揺れ動いており、混乱して自分達の殺人を正当化するまでになったと思います。 そう考えると、イエス物語は救いではなく、破壊が本質になっていますね。 本質が破壊なので、その集団は破壊をもたらすことをするわけです。 その破壊をもたらす集団の罪の穢れをどうやって清めるか? 難しい問題ですね。 それができたら とっくにやっていたでしょう。 で、結局できないので、再度イエスがやってきて、絶滅させると信じているわけです。 となると、絶滅こそ救いである ってのが、イエスの救いの本質ってことになりますね。 実際 中世の神学者の中には、絶滅するしか救いは無いと考えていた人もいたようです。 簡単な話、他人をつぎつぎ殺さず、自分が死ねば、救いは来るってことですが、そうはせず、自分は生きて他人は殺してしまっては、、、、 その人はいつまでも救われないですよね。 日本のように身代わり人形発明すればよかったのに。 一応偶像禁止なので、その思想が芽生えなかったようです。

ri-zyu
質問者

お礼

お礼が遅れて申し訳ありません、色々参考になりました、貴重なご意見有り難うございました。

  • taco8ch
  • ベストアンサー率7% (11/146)
回答No.4

「生贄(いけにえ)」ですがな。

ri-zyu
質問者

お礼

>「生贄(いけにえ)」ですがな。   他の方の回答文を拝見しましたが思案ってのご回答ではなさそうです。 宗教おたくのぶるいですな。 いたずらか。  

noname#58770
noname#58770
回答No.2

もうキリスト教も嫌いだけれども やっぱり、愛ではないでしょうかね。 「愛せよ。」 愛することが律法として定められました。 神直々に。イエスが神ならね。 なんで愛することがわざわざ律法なのでしょうか。 愛することを行え、それがもう律法というわけです。 神が受肉して、伝道して、弟子はわずか12人で、 その弟子は逃亡し、人々から理解されずに苦しんで、 そして殺される。で、神よ、どうして私を見捨てるのか。 で、復活したと。 馬鹿馬鹿しいでしょうが、もしイエスが神だというのなら なんでわざわざ自分が創造した人間のために苦しんだんです? 「自分で自分を救ってみろ。」これと同じことを 当時のユダヤ人も言いました。ほんとうに神がいて 神が自分たちを救おうとするなら、そんなことするはずがないでしょ。 なんで神が十字架に磔にされる必要があったのか。 なんで、彼が神なら、殺されたのか。 なぜ神は、人に神を殺させたのか? でも、神がそれを望んだというのなら、それに意味があるなら 神にそこまでさせた、人間とはなんでしょうか。 神が自分を犠牲にしてまで、救わねばならなかった人間。 その人間の崇高さと悲惨さ。 そして神のその行為は自己犠牲の愛からとしか 言いようがないんじゃないんですかね。 それでも人間を救おうとという神の 愛ゆえにそうせざるをえなかった神の後先を考えない 神の、愛。 旧約時代、あの神は嫉妬の神と呼ばれました。 愛も嫉妬も紙一重じゃないでしょうかね。 私がキリスト教について言及するとまた頭のおかしい病人といわれるので、そんな病人の戯言と、ほっといてください。

ri-zyu
質問者

お礼

有り難うございました。

  • h1r0s13
  • ベストアンサー率12% (61/497)
回答No.1

イエスが主として説いたのは「愛」です。 それは伝道活動が、たった三年だったから無理もありません。 彼はインドに行ったり、いろんな処で修行をし、輪廻転生も知っていました。 だが時間が無く、弟子も理解出来きず、彼が説いた、その「愛」ですら、当時も今も正しく伝えられていません。 イエス・キリストが説いた「愛」は、太陽のごとき「愛」、無尽蔵の「愛」です。 いわゆる、見返りを求めない「愛」でした。 彼は東洋では、阿弥陀如来とも称されています。また、数千年後には、新たな地に下生されるとも言われています。

ri-zyu
質問者

お礼

>彼は東洋では、阿弥陀如来とも称されています。 中々面白いですね。 有り難うございました。

ri-zyu
質問者

補足

貴重なご意見有り難うございます。 >見返りを求めない「愛」 すばらしい教えだと思いますが、例えば自分の家族が殺された、加害者をそれでも愛せますか? 禅(仏法)で言う自覚がないと出来ないと思います。 イエス・キリスト教の自覚(救いの本質)とは何ですか?