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筑紫、大宰府???
平安時代の和歌で、よく「宇佐八幡宮」や「筑紫」が(旅したことがなくても知識として)詠み込まれていますが、筑紫の方は、なぜそんなに平安貴族たちにメジャーだったのでしょうか? 太宰府天満宮は919年にできたと思うのですが、それ以降、急速に有名になったというのも不自然な気がして、質問してみました。 よろしくお願い致します。
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どのような和歌集に読まれていたのかわかりませんので少しずれているかもしれませんがお答えします。しかも長文です。(できれば教えてください。) 筑紫と宇佐八幡宮と大宰府ひとつづつ片付けていこうと思います。 まず筑紫ですが、筑紫という呼称は、筑前と筑後の国にあたる北九州地方を指しています。もしくは、九州全域をさす言葉でもありました。 九州は、その地理上から古来より大陸文化との接触の地点でした。 そのため律令下では、大宰府という役所が置かれました。この役所が置かれたのも筑前国(筑紫)です。この大宰府は九州を管轄し、外交を司る役所です。遠の朝廷とも言われていたといいますから、それなりの役職についている貴族たちは、大宰府のある筑紫というのは知っていたと思われます。ですから歌に読まれていても不思議はありません。 また、国司として自ら任国に下ったり、下った人から聞いたということもありえます。(これは九州に限ったことではないですが・・・。) 最後に宇佐神宮ですが宇佐神宮は、奈良時代以降朝廷の崇敬が厚く宇佐使と呼ばれる天皇の即位や国家の変事に際し、宇佐神宮に奉納するために派遣される使者がいました。この使いの初見は737年なのでこのころには朝廷内部では宇佐神宮が知られていたと思われます。
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- kei0816
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NO,5です。 ついでに言いますと、平安時代まで(というか、江戸時代が始まるまで)今の東京など関東は、東の果ての辺境の地でありました。 この先は蝦夷の地であり、蝦夷としょっちゅう戦争をやってました。 まあだからこそ、武士という新しい勢力の揺籃の地となったのですが。
- kei0816
- ベストアンサー率25% (7/27)
日本という国は西の九州から東に中心が移動しています。1世紀の「漢委奴国王」の金印が福岡市東区の志賀島から発見されたように、古代においては北部九州が日本の中心でした。 それは奈良京都に日本の中心が移動した後も、大陸との貿易などの窓口としてその重要性は全く衰えませんでした。 平清盛が、太宰府の役職を得、日本初の人工港を作ったのも博多湾でした。彼は貿易でその富を築き上げたと言われます。 とまあいうわけで、太宰府やその周辺の筑紫の国について、特別な目で見られていたのは当然といえます。
- no009
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>なぜそんなに平安貴族たちにメジャーだったのでしょうか? 第二の都市だったからです。 唐、新羅、百済、高句麗などと海を介して接しており、防衛、外交の拠点でした。白村江の戦い以降特に防衛拠点としての重要性は増し、水城、大野城等国家予算の多くを投じて建設されています。万葉集に出てくる防人の歌などにもでてくる通り、多くの人も全国から集められています。 魏志倭人伝の頃より北部九州は大陸の文化に接して人口も多く、文化の程度も高かった影響もあるのでしょう。少なくとも平安時代に急激に有名になった訳ではないと思います。邪馬台国は関西か、北部九州かというくらい2大文化圏だったのでしょう。 ところで、「大宰府」と「太宰府」天満宮の漢字の使い分けはお見事です。
- clarence
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#2です。 そうなんです。beartさんのコメントにもあるように当時の中心地は京都でした。そして当時大宰府は、京都、奈良などに次ぐ都市でした。 さらに言わせてもらうと、大宰府は当時左遷された人が行くところとしても有名でした。例えば、藤原広嗣、源高明、菅原 道真ですね。 左遷はされていませんが、大伴 家持や山上 憶良も大宰府にいったことがあります。ですから下層貴族の人間も大宰府は知っていたと思われます。 落窪物語ですか・・・・。 作者不詳ですね。 私では、なんともいえません。 ただ物語が書けるくらいの人物は、身分もある程度は、高かったと思いますから九州に関しての知識はあったのではないでしょうか。
お礼
再度、ありがとうございます。 平安時代は京都の一極集中っぽいので、「名前は知っているけれど遥か彼方の異世界」たる大宰府は、今で言えばアラスカとか、アマゾンとか、みたいなものかなー、と勝手に想像しています。
- potejin
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宇佐八幡宮って和気清麻呂が道鏡を天皇にしてもいいか御宣託を 聞きに行った場所ですよね。 天皇の跡継ぎ問題という重大な事柄を聞くために 近くに伊勢神宮などがあるにもかかわらず、わざわざ九州まで行ったのは、天皇家の発祥の地が宇佐八幡宮に関係あるのかも・・・という ようなことを読んだことがあります。 詳しくは井沢元彦さんの「逆説の日本史」を読んでみてください。 今ではよくわからなくなってしまった「常識」が平安時代には あったのかもしれませんね。
お礼
伊勢神宮が別格なのは聞いたことがあります。確かに、わざわざ宇佐に行くほど、信仰が厚かったのですよね。「逆説の日本史」読んでみます!
お礼
よくわかりました。今の関東中心の価値観では見誤ってしまうところですね。 『落窪物語』には、「憂さ(宇佐との掛詞)のみまさる心尽くし(筑紫との掛詞)という表現がありました。他にも例はあるかと思いますが。