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平安貴族を描いた絵は総畳敷きが多いが

平安貴族を描いた絵には総畳敷きが多いですが 日本家屋において床一面に畳を敷くようになったのは 室町時代以降で、平安時代はたとえ寝殿造の屋敷といえども、 畳は持ち運び型のマットレスとして使用していたということが 通説になっています。 ところが、現代さまざまな資料で目にする平安時代の貴族を描いた絵のなかには、 よく考証されたと思われるものの中にすら、寝殿造の正殿の床一面に畳が 敷いてあるように描写されているものがほとんどです。 (例えば「平安貴族」あるいは「寝殿造」でgoogle画像検索すればよくわかります) 神殿造の床が絵に描かれているときは大抵の場合、 貴族が貝合せや歌会をしている部屋の床一面が薄緑色ないし浅葱色に彩色されており、 さらに畳の縁とみられる細い帯が並行に走っており、一面の畳を思わせます。 そして本来あるべき板間は縁側の一部などにすぎません。 これは、どういうふうに考えればよいでしょうか? (1)この床一面に敷かれている畳らしきものこそが、当時主流のポータブルな畳であり、大型なので敷きっぱなしにされている (2)参考にすべき平安時代当時に描かれた神殿造の床の画像資料はほとんど無く、今みられる平安絵のほとんどが畳に関して考証不足、ないし想像で描かれている 2説のどちらかになるでしょうか。 住宅史または絵画資料に詳しい方、アドバイスをお願いします。

質問者が選んだベストアンサー

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  • sijya
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回答No.1

(1)の説かなぁ・・と思いましたが 私が調べたところ、板間に人の居場所にだけ畳が 置かれている絵もありましたよ。 http://img02.ti-da.net/usr/peeyashi/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E.jpg (源氏物語絵巻柏木 復元か) http://www.kikuchu-tatami.com/img/page2/image5.gif (畳屋さんのサイトにあった画像) 個人的な印象ですが、質問者さまがあげられた絵は なんとなく江戸時代の絵師が描いたもののように 思うのですが・・(土佐派・・のような) 土佐派の絵は考証的にいいかげんなものもありますよ

その他の回答 (2)

  • Pinhole-09
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回答No.3

古くは伊勢物語に在原業平が畳一枚抱えて歩くとのくだりがあり、当時の畳は今の薄縁(うすべり)みたいなもので、畳んで持ち運べるものと考えられています。 それが次第に厚くなり今の畳のようになり、一畳ずつ使う置畳からそれを部屋中敷き詰める、総畳敷に変わりました。 1309年に書かれた、「春日権現霊験記」絵巻から1200~1300年頃が過渡期と見る説があります。 その前1115年に書かれた、「東三条殿(寝殿)指図」を見ると一枚ずつ離した畳と三枚続きに敷き詰めた置き畳が、広い寝所のあちこちに配置されています。 客間にも客に応じて畳を置いたと思いますが、総畳敷ではなかったと思います。 ただ居間に薄縁のようなものを、敷き詰めていたかどうか。 藤原時代をよく映す絵巻としては、 源氏物語絵詞、   信貴山縁起絵詞、    伴大納言絵詞、     粉河出寺絵詞、      餓鬼草紙 だそうです。    何等かの参考になればよいのですが。

  • 0w0g
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回答No.2

質問者様が例として挙げられている画像は住吉広行の手になる源氏物語絵巻ですね。これは江戸末期の作になりますので当時の風俗を忠実に描いているとは言い難いのかもしれませんが、描かれているのは現代の畳の様に使用されているわけではなく板敷の上に置かれているだけです。 同じ源氏物語絵巻でも平安末期作の伝藤原隆能の柏木・宿木、鈴虫や、鎌倉末期作の松崎天神縁起、石山寺縁起、枕草子などは分かりやすいかと思います 畳は大きさ、厚さ、縁、等も身分によって差があったようで一律ではなく(延喜式)牛車のようにステイタスの一つでした。座臥の為の調度です。 例えば繧繝縁は皇族(准后などの臣下含む)のみ、高麗縁も紋様の大小で身分に差異が設けられています。畳の他にも敷物、地敷、打敷などが板敷の上に敷かれ、使用されています。 畳が折り畳み式だったのは万葉集の時代ですがこの頃も枕草子などの記述から持ち運びは可能であったと思われます。

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