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世界史に詳しい方!マグナ=カルタ誕生から、ピューリタン革命を経て、内閣の誕生まで。
ヘンリ8世が、宗教改革勧めて、修道院から土地と財産を没収。 ~ その土地はジェントリに。 なぜ? イギリスはカトリックは嫌いなの? ピューリタン、とは? 内閣とは、 国王が国の象徴だけの役割の時に、 複数ある党の中でも、多数派の党が内閣となって、国王の代わり(最終的になにかを決定する)をするってこと? わかんない。
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質問の主旨がどうも理解できませんが。 マグナカルタですが、当時のヨーロッパの王の収入は、原則的に自分の領地からの収入だけでした。 非常の場合、都市や領主に課税する事はできました。 当時のイギリス国王は、北フランスが本拠地で、イギリスは実質的な植民地でした。 当時のイギリス王家のプランタジネット家の後継者争いから、フランスとの戦争となりましたが、当時のイギリス王であったジョンのほうが劣勢だったため、ジョンは傭兵を集めるためにイギリス貴族や都市に課税しようとしましたが、自分達を支配・抑圧しているフランス貴族支配に反発し、課税の拒否と今後議会での承認無しに課税を禁止する要求をジョン王に飲ませました。 これが、マグナカルタです。 >ヘンリ8世が、宗教改革勧めて、修道院から土地と財産を没収。~その土地はジェントリに。 なぜ? ヘンリ8世の父ヘンリ7世は、バラ戦争の結果生まれたチューダー朝の初代国王です。 バラ戦争では、多くのイギリス貴族が没落し絶対王政の基礎ができていました。 しかしまだまだ貴族勢力の力は強く、教会や修道院も多量の領地を得ていました。 それを取り上げて勢力を弱める事で、王権のさらなる強化をはかったわけです。 取り上げた領地を下級貴族に分配する事で、下級貴族の支持を得ました。 この構図は、それ以前のドイツで行われた聖職叙任権闘争と全く同じ構図なのですが、当時のドイツでは、カトリックからの離脱など考えられない事であったため、叙任権闘争は混迷を深めますが、ヘンリ8世の時代では、宗教改革の真っ最中であったため、カトリックからの離脱とイギリス国教会の成立へとつなげ、絶対王政の基礎が作られます。 >イギリスはカトリックは嫌いなの? イギリスでも、エリザベス1世は、徹底したカトリック嫌いでした。 これは、姉メアリー1世がカトリックで、メアリーとの王位争奪において捕囚され、あわや殺害されるところであった事に起因します。 また、イギリスと敵対するスペインは、アイルランドをカトリック化し、イギリスと敵対させたり、イギリスへの直接攻撃などを意図したため、カトリック=スペインとみなして、反発を強めます。 エリゾベス1世に子が無かったため、スコットランドのスチュアート家がイギリス王位を継ぎますが、ピューリタン革命で倒れた後チャールズ2世が王に返り咲きます。 チャールズ2世が、カトリック優位の政策を実行したため、名誉革命となり、カトリックに対して国教会の優位が規定されます。 >ピューリタン、とは? ピューリタンは、スコットランドの長老派の影響を受け、イギリス国教会の改革をかかげた諸教派を指します。 スチュアート朝のジェームス1世・チャールズ1世らに弾圧され、アメリカやオランダに亡命した者も多くいました。 ピューリタン革命を指導した会衆派 アメリカでの最大教派に成長したバプテスト 良心的兵役拒否が認められたクェーカー などがあります。 会衆派と教義内容に差が無い長老派は、ピューリタンには含みません。 >内閣とは、 国王が国の象徴だけの役割の時に、 複数ある党の中でも、多数派の党が内閣となって、国王の代わり(最終的になにかを決定する)をするってこと? チョット違います。 国王絶対制の場合でも、国王が全て指示できるわけではありませんから、内閣が作られます。 当然国王がいなくても全く問題はありません。 また内閣を組織するのは、多数党とは限りません。 少数与党の場合もあります。 特に首相が、元首の任命だったりする場合は。
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- e4a2c
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国王が勝手に税金を取ることを決めてはならない、 ということを、貴族たちが国王に認めさせたのが マグナ=カルタですね。 それ以降も、国王に対する要求と言えば、 清教徒革命にしても名誉革命にしても、 基本的には、商売を自由にやらせろ、ということです。
- tanuki4u
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というように、近代政治のお手本になっているイギリス。お手本になるということは、イギリスが手本になる先例がなかったということなので、適当なことから慣例が生まれて、それでやってきている。 憲法も不成文法で、成文化されておりません。
- tanuki4u
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王様も一人でいろいろ考えるのは大変。 ということで、お気に入りを王様の小部屋(キャビネット)に呼んで、政策を考えた。 これがイギリスの内閣制のはじまり。 スチュアート朝のアン女王が子供がいなくて無くなったので、遠い親戚をドイツから呼んできた、これがハノーバー朝。 ところが、ドイツ生まれのドイツ育ちなので、英語がわからない。 ハノーバーの王様でもあったので、興味はドイツ。 ということで、ドイツに行ったまま、イギリスには帰ってこない。 ということでキャビネットの第一人者がPrime Minister 一番目の大臣と言うことでいろいろ取り仕切った。これが首相。 その時21年間首相をしたのがウォルポール。 選挙で自分を支持している政党が負けたので、まぁ年も年だしってことで、王様が頼んでも、辞めちゃいました。1741年 けっこう、このやり方だと議会と喧嘩にもならないから、いい方法だ!ということで、議会の多数党の親分を首相に選ぶのが慣例となってきた。 なんせ、イギリスは100年前には議会VS国王で、内乱、つまり清教徒革命をやった国なので、内乱が起きるようなゴタゴタが起きないこことはいいことだとなった。
- tanuki4u
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適当に作ったイギリス国教会だから、まじめに大陸のカルヴァンとかの教えと比較すると、ドーモ変だな?というのでイギリス国教会の改革派がピューリタン。 ちょっと潔癖すぎちゃうの? と、言われたのでピューリタン。ピュアなんです。
- tanuki4u
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権力者というものは、自分の権力を脅かすヤツが嫌いです。 権力の源泉の一つに財産があります。 ヘンリー8世の時代の財産というと、「土地」ということになります。 王家の土地を100とすると、10とか20とかもっているのが大貴族そして、修道院です。0.1とか0.01しかもってないのがジェントリー階層です。 ということは、なんくせを付けて、修道院の土地を没収して、たくさんのジェントリーに分けちゃえば、王様として安泰。ジェントリーは大喜びで王様の言うことを聞きます。 んで、ヘンリー八世は、男の後継者が欲しかった、なので、産めない嫁と離婚したくなった。離婚するにはローマ法王の許可がいる。ある時、許可が出なかった、だって、嫁の実家がカソリックの大旦那スペイン王だったから。離婚の前は、「プロテスタントの大馬鹿やろう」みたいな書を書いてローマ法王に喜ばれていたくらいなのに。 だもんで、ヘンリー八世、手のひらを返した。「イギリスじゃ宗教でも王が一番」これが国王至上法。カソリックと変えるために、宗教儀礼はカソリックで教義はプロテスタントというような、混在物がその後のイギリス国教会。 ということで、ローマ法王の後ろ盾が無くなった、修道院の土地をドンドン没収したわけです。