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水子思想と無明と覚り
究極的・根源的な生の選択を問う問題になると思います。 堕胎を経験した人が その無明を明らかに見るとは いったい どういう事態になるでしょう? 過去は消せませんが これをものり越えうる覚りは 縁起の究極として どのように思考し実践するのがよいとお考えになるでしょう? 知恵を明かしていただけるものなら おしえてください。 わたくしの考えでは 経験行為(人間のおこなう縁起関係)によっては 無理だと思います。経験行為のかかわることとしては 信じるという心の伸び(志向性)をとおして 明らかになるもののように考えています。 気分のいい問いではなくて申し訳ないですが どうぞよろしくお願い致します。仏教とは別様にも ご見解を投稿いただければ幸いです。 《Q:〈我れ〉はある? ない? どちらですか(仏教)》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html 《Q:河童は水子の落とし子ですか⇒日本人は愛し得るか》= http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3560366.html
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いつも考えさせられる問いを授けて戴き感謝しております。 私は素直に後悔するということだと思います。 お腹を痛めて産んだ子ですから、時に自分が産まれてきたことを思い出したり、 周りの幼子を観て、同じ年頃だった我が子を想像し、 如何に罪作りなことをしてしまったと思う親として人としての痛みです。 二度と戻らない我が子を、心の中に受け止めて、 辛いだろうがこの子が見守ってくれていると信じることです。 その人にとってこの子は励みにもなり、自分を戒める役割にもなります。 たった一つの後悔から本当に正しいと思える生き方へ繋ぐことができる、 ひとつの人間としての心の在り方だと思います。
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- kigurumi
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No.7です。 しつこくてすいません ^^; >とのことですが 全体を見れば けっきょく 《イエスです》ということのようですね。 えっとですね、、、 世の中 白か黒だけじゃなく いろいろな色ありますよね。 白か黒どっちかだけで答えよ と言われても、、、、 えっと。。。。 日本の神社 行ったことあります? 鳥居があって参道(産道)がありますよね。 で、本堂のところにもしめ縄がかざってありますよね。 とおりゃんせ って歌知ってます? 「天神さまの細道じゃ」 「御用の無いものとおしゃせぬ」 「この子の 七つ のお祝いに」 「行きはよいよい帰りは怖い」 さて、、、日本人なら、鳥居の意味、しめ縄の意味、とおりゃんせの歌の意味 知ってい、、、、ない人もいるかも・・・・。 これ、黒か白で説明できないんです。 この思想が供養にも流れていると思えるんです。 このって何よ? って言われると、説明できますが、「結局 白ですか 黒なんですか」って同じ質問が帰ってきそうな予感が・・・。 ところで、大変失礼ですが、あなた 日本人ですか? もしかして、日本の文化に育っていないとか??? >★《両者とも実に愚か》。 とありました はい 適切ではないと思えたので、言い改めましたが、それは無効という白か黒かの答えしか許容していただけないのでしょうか。 供養というものを理解する空間は、どこにも残ってはいないのではないでしょうか? 水子供養について、日本の文化というか観念の理解が不可欠で、それで説明が必要だと感じ前回書きましたし、絵馬についても同じ思想が流れていると思えるので、それを引き合いに出されているので、そもそも ということから話を始めたわけですが、、、、 やはり 白か黒か という路線でしか思考できないですか。 私では無理です。 何故なら日本というのは長い長い歴史があるんです。 それを白か黒かどっちですか 答えよ といわれても、、、 長い長い日本に起こった歴史をなしとして考えては、供養の意味を理解することは不可能だと思えるし、日本の文化無しに、日本のこの風習を理解することはできないと思うんですね。 なお 河童って中国からきています。 日本古来の神話上の生き物じゃなくて、中国の神話の生き物。 、、、ということで、日本の歴史・文化を無視し水子供養を説明せよと言われても、それなしに(日本の歴史無しに)は私には説明は無理そうなので、このスレから降りさせていただきます。 失礼しました。
お礼
ありがとうございました。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >★《両者とも実に愚か》。 とありました はい 適切ではないと思えたので、言い改めましたが、それは無効という白か黒かの答えしか許容していただけないのでしょうか。 供養というものを理解する空間は、どこにも残ってはいないのではないでしょうか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・相手が表現したことばであるかのごとく言っておいて あとで《言い改めました》はないでしょうという意味です。 ・《白か黒かの答え》――これを 悪徳商法については その被害者にかんしても 《黒》だと言ったのは あなたです。そうですか?と確認しようとしたまでです。 ・《供養というものを理解する空間》は その説明を ことばを尽くして 述べていただけばいいだけのことです。日本の文化・歴史に触れなければ説明し得ず 長くなるのなら 長い文章で説明しようとすればいいのだと思います。 でも《無理そう》だそうなのですね?
- kigurumi
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No.4です。 >《日本の国体 / 穢れと清めの思想》がある限り 日本はなんとかなる・なるようになるというご回答でしょうか。 ノーです。 >験者について 心配することもないし このような問題を取り上げる必要もないというお考えでしょうか。 ノーです。 >絵馬に託された後悔の思いと新生への祈りは そのように《穢れと清め》が果たされていくのだというご指摘でしょうか。 聖書に土師記ってあったと思いますが、日本書記にも土師の存在が記録に残っているんですね。 絵馬は土師系が考え出したものじゃないかと思っています。 絵馬の役割は身代わりだと思います。 指摘の通り、元来は穢れを清め再生を促すと考えられたのではないかと思います。 あなたは絵馬はどういう役割を持つという認識なんでしょうか? もしかして、罪状符だという考えでしょうか? 今じゃ 学問の神様 菅原道真のご利益を期待して奉納されているようですが、菅原道真は土師系ですよね。 >悪徳商法については かける方もかかる方も 愚かである。それだけであるということでしょうか。 愚かという言葉は適切じゃないですね。 悲しい人々というのが適切かもしれません。 どうにもならないと思えることは、もう人間の力ではどうにもならないので、神とか宗教とかに託して楽になりたいと思い、そこに金銭で代行しますと言われたら、藁にもすがるほど弱っている人は金を出しやすくなると思います。 ただ、絵馬は信仰なので、信じて身代わりになってもらうわけですが、これもお金を出して絵馬を買うというのも、、、、。 どうなんでしょうね。 無縁の人々が、金銭を受理し、穢れを清めていたという歴史が日本にありますので、、、、。 通貨が流通していない時代だと、食べ物とかそういったものと交換条件でやってもらっていたのかもしれません。 祭りの奉納は金じゃなく、取れた作物を神に捧げていますよね。 これは神の恵みに感謝し、取れた作物を奉納して恵みに感謝するという意味だったと思います。 聖書だとカインとアベルですが、あの神様は動物を選んだ。 初子を欲しがったわけで、、、これがイサクに繋がっていき、、、 って、今回関係無かったですね。 でも、昔は日本では7歳までは子供は神の子とされていたんです。 いくつか理由は知っていますが、これも土師関係かも。 >《供養という儀式》 おそらくこの社会制度としての儀礼が 足を地につけていないまぼろしの《清め》となっていて 人びとはなお苦しみつづけるのではないでしょうか。 じゃあ 先祖供養という儀式は日本において、幻の清めになっており、今も遺族の人は苦しみ続けている とお考えでしょうか。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BE%9B%E9%A4%8A 『供養(くよう)とは、サンスクリット語のプージャーまたはプージャナーの訳で、仏、菩薩、諸天などに香・華・燈明・飲食などの供物を真心から捧げること。』 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BE%9B%E7%89%A9 『供物(くもつ)とは、宗教儀礼として神仏や先祖、あるいは故人など、信仰・崇拝を目的に、霊前に捧げる供え物をさす。』 供養とはこういう一連の考えから来るのではないでしょうか。 懺悔じゃあない。 絵馬って神の乗り物と考えられていたわけですよね。 でも、現物の馬を奉納するのは庶民には負担で、それで身代わりというか代用として、絵馬を奉納いていたわけで、神様に願いを届けるという信仰心から使われるようになったんじゃないかと。 全く信じていなければ、絵馬を奉納したりしないし、無くなった人の怒りをこれで沈めたいという欲求も起こらないと思うんですね。 菅原道真は祟り神としても有名で、いろいろあって、回避するのが難しかったかもしれませんが、いずれにせよ土師系の一人を貶めてしまったわけで、供養したくなりませんか? 天神として奉るという供養をした事例。 今では学問の神様として崇められている実在の人物に対する供養です。 こういう概念が供養だと思いますが、どこか変でしょうか? 結局 所詮気休めだろう といわれても、、、 日本の文化は気休めだとは思えません。 なにより 太陽の国であり、一度沈んでもまた昇るという思想が根底にあり、これが日本のベースになってしますから。 そしてそれが日本国民のベースになっているように思えます。 過去はもう一度やり直せませんが、穢れを祓うことにより、再生を促すという思想は、とても大事だと思います。 参考までに、どうしても許せないという人物の場合、無縁の場所で命を奪っていました。 それは穢れを祓う人がやっていました。
お礼
★《ノーです》。 とのことですが 全体を見れば けっきょく 《イエスです》ということのようですね。 なるようになる / なんとかなるというご見解であると承りました。 ★霊感商法の加害者と被害者とに対して 《愚かという言葉は適切じゃないですね》。 と言われても ★《両者とも実に愚か》。 とありました。 ☆《供養という儀式》については いま 水子供養を問題にしています。 ☆《絵馬》は そこに書かれた文章をのみ問題にしています。 これらの伝統の行事によって 清めが成就するという思想を 回答されたのだと理解します。それとして承りました。 ★《参考までに、どうしても許せないという人物の場合、無縁の場所で命を奪っていました。 / それは穢れを祓う人がやっていました》。 この伝統にかんしては 現在では わたしは 認めませんが。
- littlekiss
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こんばんは、brageloneさん。 【QNo.3454478:〈我れ〉はある? ない? どちらですか(仏教)】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html 【QNo.a3560366:河童は水子の落とし子ですか⇒日本人は愛し得るか】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3560366.html ↑ いまざっと眺めただけなので、まだ読み込めていません。 が、 親はなくとも子は育つ? http://www.joy.hi-ho.ne.jp/byakuya/Taro10-503.pdf このあたりと絡めて考えをすすめていってもかまいませんか?
お礼
設問に沿うのであれば 自由にお答えくださってかまいません。 映画『誰も知らない』についての評論は 全部読みましたが 親が子を捨てるという点で 共通の問題だということのようですが。 要するに こちらは 癒す思想を問い求めておりますので よろしくどうぞ。
- shift-2007
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縁起について解説していただきありがとうございました。 不思議と分かるような気がしますね。分かる気がするのも私の中にある仏性のためなのでしょうか。 ジッドゥ・クリシュナムルティは知っていますか。 多分、彼も覚者です。数年前まで生きていましたのでお釈迦様よりリアリティがあると思います。 実践を重視するなら一読してみてはどうでしょうか。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%83%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%8A%E3%83%A0%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3
補足
いやあ 見上げた人がいたもんですね。クリシュナムルティ わたしは知りませんでした。 宗教家としての宗教批判 / 真理は集団に属するものではない / それとしての組織否定 / あるいはさらに 宗教から自由であれにとどまらず 神からも自由であれ ここまで主張したのですね。おしえてくださってありがとうございます。 shift-2007さんは あまりこの方面には 進まないようにお見受けしていましたが 押さえるべきところは押さえておいでなのですね。 そうですか。たしかに (1) 縁起が関係の世界であるということ (2)問題に直面して事実を直視すること (3) 無明の変身を得れば 悪循環が好循環に変わるということなどなど 符合しているところが多かったですね。 あるいは (4)《あるがままの全体的知覚》 これは まさに《自然法爾》(あるいは 法爾自然とも 法爾道理とも)でしょう。(《Q:〈我れ〉はある? ない?》の中によろしかったら参照してください)。 (5)《その〔全体的知覚の〕状態を意図的な努力や訓練、または宗教団体や何かの組織に属することによっては引き起こすことはできない》――この中の《意図的な努力にあらず》は 《念仏は非行非善。わがはからいに非ず》という親鸞です。 (6)《「神を信じる者は神を発見することはできない」》――これは 《精神は神に非ず》と取ります。《信念などの条件づけは邪魔な足かせである》と。 もっとも神直視は 生身のからだでは 叶わないと言われます。つまり もともと《神は発見することはできない》のですが 逆に言って 神直視が実現するときには たしかに 《神を信じる》ことは 消えてなくなっています。信じた対象(=非対象)は そのいま 直視しているのなら もう信じる必要はないわけです。 けれども 信じる心の伸びとしての志向性=意志=愛は 最後まで残るとも言われます。クリシュナムルティは《ひたすら自己の全体を委ねる愛のことを言っている》と解説されています。(愛については 解説が少ない感はあります)。 (7)《時間から離れ、真理を理解するにはどうしたらよいのか。思考の活動が静まり、努力の産物でない静寂があるときに永遠のものが出現するとクリシュナムルティは言う》。 これについては やや《真理の知覚ないし神の直視》という表現のほうに 進み過ぎなようにも感じます。次の文章に馴染んでいるわたしにとってはです。 真理とは何か と問い求めてはならない。というのは そのとき直ち に物体的な似像の雲霧と虚妄の雲が君を遮るからである。 それらは 私が 神は真理にましますと言った その最初の瞬間 君 を照らした清澄の光を曇らしてしまう。真理 と語られるとき 君がい わば電光によって捉えられるその最初の瞬間に 出来るなら留まれ。 しかし君は留まり得ない。そして君は再びあの習慣的な地的な表象の中 へ滑り落ちるであろう。 私はたづねる。君が再び滑り落ちるのは 情欲の黐(とりもち)や異 郷への巡礼の誤謬によって感染された汚辱でないなら いかなる重さに よるのであろうか。 (アウグスティヌス:『三位一体論』 8・2・3) (8)けっきょく 《結論》で述べられた《クリシュナムルティが提示しているのは個々の問題の解決方法ではない。問題を生み出している枠組そのものを変える、本質的な生の変容の方法》という事柄 これが ここでの質問にも直接かかわって 収斂するところであるようです。縁起における無明の転換 好循環への回転にかかわっているように思われます。 好適な資料をありがとうございました。と同時にさらに われわれの旅は続くようでもありますね。
- kigurumi
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No.1です。 >そういう悪用を根絶するためにも 無明からの覚りとしての知恵をおしえてください。 悪用する側が悪く、それに踊らされて金を支払ってしまうのが無明だと思います。 無明という意味は、迷い、愚か、などを意味しますよね。 仏陀だったか忘れましたが、「母親を殺すと言われたらどうしますか」と聞かれ、「殺したければ殺せばいい」と答えた。 「では、あなたを殺すと言われたら、あなたはどうしますか」と今度は聞くと、「殺したければ殺せばそうすればいい。 なんら感じるところはない」みたいなことを答えたようなのです。 では、そう言った人に、突然刃物をつきつけたら、その人は無抵抗に殺されるでしょうか。 想像するしかないですが、とっさの判断で勝手に体が動き、身を守ると思います。 で、自分は何に対しても感心を持たない という人が真実を話しているかどうか確認するには、手っ取り早く、突然その境遇に立たせればいいわけですよね。 口で言うことと実際がそうなら、無抵抗のはずですね。 命があるということすら、幻にすぎないと、本当に考えており、自分は存在などしないと本当に考えているのだとしたら、質問されたと知覚することもなく、ましてや答えることもしないはずですよね。 で、杜子春って物語がありますよね。 全ての執着を捨て、無になろうとした男が、最後に母親を見せられ、とっさに声を出してしまった。 もし、彼が声を出さなければ、彼は殺されていたかもしれませんよね。 冷血人間じゃなかったので、声を出してしまい、冷血人間じゃないので、痛みを感じる人間であり、痛みを感じる人間であることを受容して生きる。 ここに人間らしさ というものがあると思うんですね。 究極の男性思考の持ち主という説の本を読んだことがあります。 何の感情もなく人を殺せ、解体できてしまう。 血が流れていないロボットのように処理をしてしまう。 もし、全ての感情を断ち切ってしまったら、人間じゃあなくなると思いませんか? ロボットでしかない。 私達はロボットではありません。 血が流れていますよね。 血が流れているものが、早くロボットになり痛みも喜びも悲しみも怒りを感じない物体になりたい と思うことは、無理じゃないでしょうか? でも、不可避なことは生きていれば起こります。 それで絶望して死人のようになってしまいそうな人に対して、人間は集団で生きるという特徴があり、その集団が倒れたものを起こしますよね。 他人に関心が無ければ、倒れていても、物が落ちている 程度にしか認識しませんが、心があれば、まだ命はあるかと走っていき、延命をしようとしますよね。 仏陀だったと思いますが、悟りを開いて成仏しようとしたとき、まだ他の人がいると気づき、成仏するのをやめて、他の人の元に戻ったそうです。 執着を捨てきれないし、他の人の事もしっかり考えているわけですよね。 だから 自分だけが成仏すればそれでいいと思わず、戻ってきたわけですよね。 108つの煩悩があることを捨てようとしても駄目ですよね。 じゃあ 自分は108つの煩悩があるから悩むのだと悟ればいいんじゃないかと。 救ってやると霊感商法をする人も、煩悩まみれで金に異常に執着して、騙してでも金を奪おうとする邪気の持ち主ですよね。 そして、そういう摩訶不思議そうなものに魅力を感じて金を出してしまう人も、金で全ては解決できるといういう考えなわけですよね。 両者とも実に愚か。 両者とも金で全てが片付くと思っている自分に気づかない。 無明なわけです。 >たとえばこのような《悔いと悔やみ・疾しさ・口惜しさ・情けなさ》などなどの感情と思いを取り上げて その根底には 仏教で言う《無明》があると捉えたものです。 仏教の無明はそういう意味じゃあないと思います。 自分はそういうことにとらわれる人間であるという自覚をすることが、悟りだとしていると思うんですね。 煩悩を捨て去ることに執着せず、煩悩を持っているのだと自覚すること。 これが悟りじゃないんでしょうか。 子供を亡くしてしまった人は血が通っているので、当然痛みを感じるわけです。 どうしようもないし、やりなおし ききませんよね。 では、どうしようもない事態になり、ひたすら悲しんで一生を終わるべきなのか。 日本はユダヤ教と似ていて穢れと清めの思想があります。 これをすることによって、穢れが消えるとしています。 供養という儀式を行うことで、穢れが消えるとされている思想を持つわけです。 終身刑とかそういうものを日本人は想定していません。 日本は穢れと清めの思想により古代から成り立っています。 この思想が日本の国体です。 西洋の宗教のように、一生懺悔し悔い改めろとか、一生罪人であることを自覚しろと、日本の国体は一切要求していません。 穢れたら清める、清めることで再生する。 この思想があるから、日本は何度でも復活したんです。
お礼
《日本の国体 / 穢れと清めの思想》がある限り 日本はなんとかなる・なるようになるというご回答でしょうか。 経験者について 心配することもないし このような問題を取り上げる必要もないというお考えでしょうか。 絵馬に託された後悔の思いと新生への祈りは そのように《穢れと清め》が果たされていくのだというご指摘でしょうか。 悪徳商法については かける方もかかる方も 愚かである。それだけであるということでしょうか。 《供養という儀式》 おそらくこの社会制度としての儀礼が 足を地につけていないまぼろしの《清め》となっていて 人びとはなお苦しみつづけるのではないでしょうか。つまり これは 広い意味の宗教思想であって その欠陥であって それは 集団において何かをおこなえば何かが成り立った / 解決したと見なすようになっているというものだとわたしには思えます。この慣習が 一番の弊害を及ぼしているようにも考えられます。 人びとは そのとうとい思考というものを 慣習制度としての仏教にゆだねてしまった。つまり もう何も考えない。あるいは その《聖職者》に対して金品のお礼をすることこそが わたしの思考であり 心であると思い違いしてしまったままでいる。 これではまだ不案内のままですが このようにお応えいたしたいと存じます。
- shift-2007
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>徹底的に縁起を明らかにしていく 分析(客観)という手法でははたどり着けないかも・・・ 煩悩は私に備わってはいますが、人にすべからく存在しているところを見ると私を超えた存在のようにも思えます。 私を超えた存在に対して私の分析がどこまで通用するか。。。 縁起という言葉の元々の意味は原因のことですか?
お礼
縁起は 仏教の中心思想だと言います。 因縁と言いかえて 因は 直接原因 縁は間接原因だそうです。この因縁によって 精神的・心理的なものを含めて一切のものが起こるのであり 環界自然を含めて 社会的な行為のすべてが 錯綜して相互依存的かつ相即的に関係しあっているのだと言います。 人間にあって その根本原因と言いますか 始原(第一)の原因が 無明だそうです。この教えて!gooで bonbonnierさんより教わったところによれば 《無明とは自己を中心にして、自己に執着して生きていく生命》 《無明という、私たちの根源にある輪廻という迷いの生存の根拠》 あるいは ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 1. こころの根源には 自己と世界、自己と他者を分別して捉える先天的な働きがあり、 (おそらくここには 言語表現の世界にわれわれは存在しているという条件がからんでいるらしいです。――bragelone註) また 2.現象世界の事物をそれぞれが独立した実体のあるものであると虚妄分別し、私たちはそれにとらわれてしまうため、そこに執着を生みます。 この自己と世界の二元分裂的働きによる自己執着が、迷いの生存の根拠となります。 (《Q:〈我れ〉はある? ない?》ANo.47=bonbonnierさん) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ブッダの知恵によって 無明が――核爆発を起こすのかどうか分かりませんが―― 自己解体してのように そこに 明知が開けるならば 無明からの悪循環するかのような縁起は その明知から始まって 好循環するようになるというのだと思います。 煩悩が《私を超えた存在》であるかどうか よく分かりませんが 《分析》だけでは足りないであろうと わたしも思います。しかも この煩悩と無明の優勢な世の中も 《聖者にとっては、この現象世界がそのまま涅槃の世界です》(bonbonnierさん)とされます。 前回 この具体的なあり方について もう少しお尋ねしておけばよかったと思っているところです。どうなんでしょうかねぇ。あとは 実際の体得の問題になるのでしょうか。
- shift-2007
- ベストアンサー率14% (143/1013)
仏教の知識はないのに回答して恐縮なのですが、 仏性という考え方がたしかありますよね。 人の中に煩悩と仏性がつねにペアで存在するなら 覚りは仏性から生まれているのではないでしょうか。 堕胎を煩悩の仕業と考えるなら、覚りも仏性によるものといえないでしょうか。 何かの本で、自分を罰するのは罪の意識を感じている自分自身である、 的なことを書いてあった覚えがありますが、そうだろうと思います。 回答になっていますか?
お礼
shift-2007さん ご回答をありがとうございます。 わたくしもブッディストではありませんので 越境発言のきらいがあるのですが 広くおしえを乞いたいと思っています。(信仰としての問題と見方も 同時に 持っていますが)。 ★ 自分を罰するのは罪の意識を感じている自分自身である。 ☆ ここから わたしなら こう考えると思います。(一度 設問したあとでは 案外 新しい考えが浮かぶことがあります)。 まづ 問題に直面しなければならない。事実を直視することから始めるべきだ。 《煩悩の仕業としての堕胎》行為をめぐって そのときの社会情況や個人情況がどうであったか そして生活態度・思想などなど自分の考えがどうであって どう働いたか(あるいは 働かなかったか) さらにあるいは 自分の意志のあり方はどうであったか これらの縁起(原因および環境要因)を明らかにしていく。また なにが不足していたか。 《罪の意識を感じて 自分を罰しようとする自分自身》の中で いわば徹底的に縁起を明らかにしていく。その作業の中から 一般的な無明にも自分自身に特有の無明にも行き当たってたどりつくなら その闇の中から 無明に隙間が開いてのように ブッダの知恵は 自分自身に対するものとしても働く慈悲として 現われるようになるのでしょうか。つまり 仏性でしょうか。 いや 分かりません。わたしは 修行をしたことがありませんので 単なる思弁です。 わたしも 同じように 《回答になっていますか?》
- kigurumi
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堕胎というものがどの範疇のことをあなたが指しているのか、よくわからないのですが、、、、 例えば、向井ちあきさん。 彼女は妊娠後、ガンであることが発覚しました。 彼女は自分は死んでもいいから、子供をこの世に送り出したいと切望し、ガンとして堕胎することを拒絶しました。 自分は死んでもいいから、子供をこの世に送り出したかったわけです。 しかし、彼女が死んでしまったら、子供も助からない。 妊娠を中断し、手術を受けなければ、彼女はガンで死ぬ。 それを説明しても、彼女はガンとして首を縦にふりませんでした。 彼女は最終的に中絶しました。 その彼女は無名であると、とてもじゃないけど、私は言えませんし、非難しうるほど、すばらしい人間などでもございません。 <堕胎したものは、無明である。> 一体誰がそのような思考ができ、一体どんな権利があり、堕胎した人を批判できるほど、すばらしい人なのでしょうか。 一人でもいたら、是非そのすばらしい人の名を教えていただきたいです。 ましてや そのような考えを支持し、どのようにすればそのような思考を実践できるかなど考えることは、無名もいいところだと、私は思います。 水子というのは、恐らく日本の神話からきていると思います。 イザナギとイザナミの最初の子供の蛭子からだと思います。 ヨハネ・パウロ二世は、レイプされて犯人の子供を妊娠した人に、産めといいました。 レイプをするほどなので、かなり凶暴な人格の男性だと思います。 子供は母親だけの遺伝子をうけつぎません。 男の遺伝子も受け継ぎます。 凶暴な人をこの世に増やしたいと願ったわけじゃないでしょうが、結果、人の害を与える可能性の高い人をこの世に送り出したわけですよね。 凶暴性を引き継がない可能性にかけた というより、カトリックはどんなことがあろうと避妊も中絶も禁止しているので、宗教上許されないから、中絶を禁じたわけですよね。 パウロ2世に是非その子供の父親となり、養育してほしかったですね。 「俺の子じゃないから俺が育てる筋合いじゃあない」とは言わなかったようです。 水子というのは、今のように医学が発達していない時代、子供が流れてしまったり、幼くして亡くなってしまい、心痛の親に対しての痛みの軽減を願ってできたものではないかと思えます。 ところが、エセ宗教やスピリチュアルの大量販売をする人たちが、この日本の風習を逆手にとり、金儲けに使うようになった。 祟りだとかなんだとか言って、金を払ってなにかやらないと、不幸になると脅迫して金を奪うようになっていった。 人の痛みを利用して、霊だスピリチュアルだと言って、人を脅して金儲けに走ったわけですよね。 傷を負った人のさらにわさびを塗り、痛いだろう 痛いだろう と痛めつけ、ボロボロになったところで、手を差し伸べて金を要求する。 浅ましい鬼畜たちです。 そのような下衆の鳴らす音に踊って子供を失った人たちに、わさびを塗っては駄目です。 いろいろな理由があるし、母親だけを攻めるような行為は正しくないです。 何故なら、子供は両方の子供であるので、母親だけに全ての責任を負わせるなんて、おかしいですよね。 流れてしまったら、男女で痛みを分け合えばいいですし、産めない理由があるのなら、女性ばかりを責めずに、どうしてこの世に送り出せなかったのか、二人でよく考えるべきだし、小さい頃に亡くなってしまったら、家族で痛みを分けあうべきでしょう。 それなのに、堕胎を経験した つまり 女性だけを無名だと責めるのは、おかしいですよね。 男性は子供を産まないので、父親になった気がしないので、自分の子供が流れてしまっても、痛くも痒くもないのでしょうか。 また 女性にうませりゃあいい 奥さんがもう妊娠できなければ、それを原因として捨てて、別の女性に自分の遺伝子を持つ子供を産ませればいい という考えなのでしょうか。 残念ながら、女性は男性の子供を産む道具じゃありません。 堕胎を経験した人 つまり その女性は無名である など 言うべきじゃないと思います。 無名は、それを言った人です。
補足
ご回答をありがとうございます。 ☆ 経験者本人である人びとの述懐を知ると そこには 悔いと口惜しさがあるようです。これを どのようにして癒すか ここに 質問の趣旨があります。 自分たちの勝手で この世に生きられなくなってしまい 本当にごめんなさい。 本当に生むことが出来なくてごめんなさい。 どうか私達二人のことをいつまでも守っていてください。 一生このことは忘れません。 これが 絵馬に書かれた文章です。たとえばこのような《悔いと悔やみ・疾しさ・口惜しさ・情けなさ》などなどの感情と思いを取り上げて その根底には 仏教で言う《無明》があると捉えたものです。その限りで この事例に結びついた無明を どのように扱うか これを問うています。 ☆ 罪深いといった感慨を抱く人もいるかも知れません。ここでは この罪の意識などについては 取り立てて 問題にしていません。情けなさという思いに 少し 第三者から咎めの思いを持って言うとすれば 浅はかさという表現になると考えます。これの克服を みなで考えようという趣旨です。 ☆ さらに趣旨説明の中に 《堕胎を経験した人》と表現したように それは 上の絵馬の文章と同じく 《二人》を想定したものです。性差はいっさい問題にしてはいません。 医学の見地から母体の健康の点で処置がほどこされる場合 これについては 自由に お考えを述べていただけばよろしいかと存じます。 (科学的に処理しうるかどうか / あるいは 処理していいかどうかの問題と 無明の問題とが かかわっているとお考えになるようでしたら それとして 述べてください)。 ★ ヨハネ・パウロ二世は、レイプされて犯人の子供を妊娠した人に、産めといいました。 ☆ この質問では 事後の問題のみを扱いますので その点も よろしく願いたいと思います。触れていただくぶんには かまいませんが。 ★ エセ宗教やスピリチュアルの大量販売をする人たちが、この日本の風習を逆手にとり、金儲けに使うようになった。 ☆ ということだそうですが そういう悪用を根絶するためにも 無明からの覚りとしての知恵をおしえてください。
お礼
(つづき) 因果応報も その法則としての(あるいは 信念としての)説としては その信念や法則から 人は 自由であるべきだ / さらにつまり そのときには そこでは 因果に応じて報われるという事態もありうると見ているが この見方を固定観念とはしない。・・・ 問題から逸れたかも知れないのですが おっしゃった《一つの後悔から本当に正しいと思える生き方へ繋ぐことができる》を さらに 見つめていくと このいまのような 不条理を超えた自由(――信仰としていえば 不死の境地・縁起共生の実現 / 永遠の生命・永遠の現在過程――) この問題に行き着くように思いました。 まだ熟しませんが。 (つまり わたしはもともと能天気のミーハーですので おろかになって言うとすれば ブッダあやまてり ではないかという思いがあります。ゴータマ・ブッダは マーガンディヤーを相手にした応対では 別の振る舞い方がありえたのではないか これです。 自由なご批判をたまわりたく よろしくお願い致します。
補足
ganesha_meさん ご回答をありがとうございます。 有り難いという思いが あたまの中で 自然と こうべを垂れさせます。 問題から逃げず まづ事実に直面することから始める などとえらそうなことを言っていましたが 《たった一つの〔ではありながら その唯一つの〕後悔から本当に正しいと思える生き方へ繋ぐことができる》――このことを つけ加え得ずに いたわけでした。 《無明から明知への回転によって 縁起が 悪循環から好循環へ回転する》であるとか 回答者さんからおそわったクリシュナムルティを引いて 《問題を生み出している枠組そのものを変える、本質的な生の変容の方法》を取り上げてみるとか やっていましたが――もっとも それは りんかくであって 輪郭にすぎないことは 自覚してつづっていたわけですが(つまりは 仏作って魂入れずというより そもそも その《魂》が分からないゆえにこそ なお問い求めの旅路にあるわけですが)―― 真理は 単純であって すなおから無明の戸がひらける ということなのかなと存じました。 一点 疑問に思ったことがあります。 《辛いだろうがこの子が見守ってくれていると信じることです》 これについて どこか反撥を感じたことも 実際だということを正直に申し上げなければならないと思いました。 もしわたしが その去っていった子であったとしたなら おれをアイドルにするな! / わたしを偶像の神にしないで! と言い返すと思います。というような感覚です。・・・ きのう図書館に行ったら 『釈迦と女とこの世の苦』(瀬戸内寂聴)が目に止まり 読んでみました。 思ったことは 一つに 実存するゴータマ・ブッダのその存在は 想像をはるかに超えた重みがあったということです。女性も――という言い方からして 差別感を持っていると言われかねませんが―― 出家してブッダのもとに修行の道を歩みたいという事態が ふつうであるように 現われます。 いま一つに――やはり疑問としてになりますが―― 例の鼻を高くした美女マーガンディヤー(=《Q:〈我れ〉はある? ない?》No.43以降)に対して ブッダは なぜ かのじょを突き放すような態度をもって 接したのかです。 寂聴さんの本の《第7章 悪女 聖女を焼き殺す》では こうあります。このマーガンディヤーが ヴァンサ国王の第三夫人となったあと すでにブッダに帰依していた第二夫人のサーマーヴァティーに敵愾心を燃やします。しかも その原因=遠因には かつてブッダに冷たくあしらわれたという過去があずかっていたようです。とうとう最後には サーマーヴァティーの館を全部 火を放って焼き尽くし 中のサーマーヴァティーとその侍女たち全員を焼き殺したと言います。 《このサーマーヴァティーのむごたらしい最期は とてもショック無しでは聞けないし うなづけない。世の中は 必ずしもいい人がいい死に恵まれるとは限らないし 悪業を犯した人間が案外この世で栄えていたりするものだ。そういう人の世の不条理を 私たちはどう受けとめたらいいのか》というのは 寂聴の記す誰もの感慨です。 僧たちも ブッダに問うたところ ブッダの答えはこうだったとやはり寂聴さんが伝えます。 僧たちよ 今度の事件で動揺した心を静めよ。この世でたとえいくら 生きても 放逸でわがまま勝手で 道を需(もと)めない人間は すで に死んでいるのと同じで 生きていても価値がない。それにくらべ い つでも熱心に道を需め 正しいことをしようと願い 慈悲の心の燃えて いる者には 永遠の命がさづけられている。現実に肉体の死はあっても 魂の死はない。マーガンディヤーたちは 生きながら死んだも同然で 何の生命もなかった。サーマーヴァティーは どんな死に方をしても 永遠に生きつづける。彼女たちは死の瞬間に精神を統一し 祈ったから すでに聖者の位を得て死を迎えている。 (瀬戸内寂聴:『釈迦と女とこの世の苦』2002 p.158) さらに寂聴の結語のような思いは こうです。 人間とはそういう残酷なことの出来るものだということを 今の私は 考える。善業の報い 悪業の報いというのも この世という短い時間で はかってはならないのだろう。 (同上 p.159) わたしの思いですが 一つに 因果応報は 目に見えた法則ではないと認識すべきではないか です。ことを 前世・来世の問題に持って行くべきではない です。(つづく)