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水子思想と無明と覚り
究極的・根源的な生の選択を問う問題になると思います。 堕胎を経験した人が その無明を明らかに見るとは いったい どういう事態になるでしょう? 過去は消せませんが これをものり越えうる覚りは 縁起の究極として どのように思考し実践するのがよいとお考えになるでしょう? 知恵を明かしていただけるものなら おしえてください。 わたくしの考えでは 経験行為(人間のおこなう縁起関係)によっては 無理だと思います。経験行為のかかわることとしては 信じるという心の伸び(志向性)をとおして 明らかになるもののように考えています。 気分のいい問いではなくて申し訳ないですが どうぞよろしくお願い致します。仏教とは別様にも ご見解を投稿いただければ幸いです。 《Q:〈我れ〉はある? ない? どちらですか(仏教)》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html 《Q:河童は水子の落とし子ですか⇒日本人は愛し得るか》= http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3560366.html
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お礼
(つづき) 因果応報も その法則としての(あるいは 信念としての)説としては その信念や法則から 人は 自由であるべきだ / さらにつまり そのときには そこでは 因果に応じて報われるという事態もありうると見ているが この見方を固定観念とはしない。・・・ 問題から逸れたかも知れないのですが おっしゃった《一つの後悔から本当に正しいと思える生き方へ繋ぐことができる》を さらに 見つめていくと このいまのような 不条理を超えた自由(――信仰としていえば 不死の境地・縁起共生の実現 / 永遠の生命・永遠の現在過程――) この問題に行き着くように思いました。 まだ熟しませんが。 (つまり わたしはもともと能天気のミーハーですので おろかになって言うとすれば ブッダあやまてり ではないかという思いがあります。ゴータマ・ブッダは マーガンディヤーを相手にした応対では 別の振る舞い方がありえたのではないか これです。 自由なご批判をたまわりたく よろしくお願い致します。
補足
ganesha_meさん ご回答をありがとうございます。 有り難いという思いが あたまの中で 自然と こうべを垂れさせます。 問題から逃げず まづ事実に直面することから始める などとえらそうなことを言っていましたが 《たった一つの〔ではありながら その唯一つの〕後悔から本当に正しいと思える生き方へ繋ぐことができる》――このことを つけ加え得ずに いたわけでした。 《無明から明知への回転によって 縁起が 悪循環から好循環へ回転する》であるとか 回答者さんからおそわったクリシュナムルティを引いて 《問題を生み出している枠組そのものを変える、本質的な生の変容の方法》を取り上げてみるとか やっていましたが――もっとも それは りんかくであって 輪郭にすぎないことは 自覚してつづっていたわけですが(つまりは 仏作って魂入れずというより そもそも その《魂》が分からないゆえにこそ なお問い求めの旅路にあるわけですが)―― 真理は 単純であって すなおから無明の戸がひらける ということなのかなと存じました。 一点 疑問に思ったことがあります。 《辛いだろうがこの子が見守ってくれていると信じることです》 これについて どこか反撥を感じたことも 実際だということを正直に申し上げなければならないと思いました。 もしわたしが その去っていった子であったとしたなら おれをアイドルにするな! / わたしを偶像の神にしないで! と言い返すと思います。というような感覚です。・・・ きのう図書館に行ったら 『釈迦と女とこの世の苦』(瀬戸内寂聴)が目に止まり 読んでみました。 思ったことは 一つに 実存するゴータマ・ブッダのその存在は 想像をはるかに超えた重みがあったということです。女性も――という言い方からして 差別感を持っていると言われかねませんが―― 出家してブッダのもとに修行の道を歩みたいという事態が ふつうであるように 現われます。 いま一つに――やはり疑問としてになりますが―― 例の鼻を高くした美女マーガンディヤー(=《Q:〈我れ〉はある? ない?》No.43以降)に対して ブッダは なぜ かのじょを突き放すような態度をもって 接したのかです。 寂聴さんの本の《第7章 悪女 聖女を焼き殺す》では こうあります。このマーガンディヤーが ヴァンサ国王の第三夫人となったあと すでにブッダに帰依していた第二夫人のサーマーヴァティーに敵愾心を燃やします。しかも その原因=遠因には かつてブッダに冷たくあしらわれたという過去があずかっていたようです。とうとう最後には サーマーヴァティーの館を全部 火を放って焼き尽くし 中のサーマーヴァティーとその侍女たち全員を焼き殺したと言います。 《このサーマーヴァティーのむごたらしい最期は とてもショック無しでは聞けないし うなづけない。世の中は 必ずしもいい人がいい死に恵まれるとは限らないし 悪業を犯した人間が案外この世で栄えていたりするものだ。そういう人の世の不条理を 私たちはどう受けとめたらいいのか》というのは 寂聴の記す誰もの感慨です。 僧たちも ブッダに問うたところ ブッダの答えはこうだったとやはり寂聴さんが伝えます。 僧たちよ 今度の事件で動揺した心を静めよ。この世でたとえいくら 生きても 放逸でわがまま勝手で 道を需(もと)めない人間は すで に死んでいるのと同じで 生きていても価値がない。それにくらべ い つでも熱心に道を需め 正しいことをしようと願い 慈悲の心の燃えて いる者には 永遠の命がさづけられている。現実に肉体の死はあっても 魂の死はない。マーガンディヤーたちは 生きながら死んだも同然で 何の生命もなかった。サーマーヴァティーは どんな死に方をしても 永遠に生きつづける。彼女たちは死の瞬間に精神を統一し 祈ったから すでに聖者の位を得て死を迎えている。 (瀬戸内寂聴:『釈迦と女とこの世の苦』2002 p.158) さらに寂聴の結語のような思いは こうです。 人間とはそういう残酷なことの出来るものだということを 今の私は 考える。善業の報い 悪業の報いというのも この世という短い時間で はかってはならないのだろう。 (同上 p.159) わたしの思いですが 一つに 因果応報は 目に見えた法則ではないと認識すべきではないか です。ことを 前世・来世の問題に持って行くべきではない です。(つづく)