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水子思想と無明と覚り

 究極的・根源的な生の選択を問う問題になると思います。  堕胎を経験した人が その無明を明らかに見るとは いったい どういう事態になるでしょう?  過去は消せませんが これをものり越えうる覚りは 縁起の究極として どのように思考し実践するのがよいとお考えになるでしょう?  知恵を明かしていただけるものなら おしえてください。  わたくしの考えでは 経験行為(人間のおこなう縁起関係)によっては 無理だと思います。経験行為のかかわることとしては 信じるという心の伸び(志向性)をとおして 明らかになるもののように考えています。  気分のいい問いではなくて申し訳ないですが どうぞよろしくお願い致します。仏教とは別様にも ご見解を投稿いただければ幸いです。 《Q:〈我れ〉はある? ない? どちらですか(仏教)》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html 《Q:河童は水子の落とし子ですか⇒日本人は愛し得るか》= http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3560366.html 

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回答No.10

いつも考えさせられる問いを授けて戴き感謝しております。 私は素直に後悔するということだと思います。 お腹を痛めて産んだ子ですから、時に自分が産まれてきたことを思い出したり、 周りの幼子を観て、同じ年頃だった我が子を想像し、 如何に罪作りなことをしてしまったと思う親として人としての痛みです。 二度と戻らない我が子を、心の中に受け止めて、 辛いだろうがこの子が見守ってくれていると信じることです。 その人にとってこの子は励みにもなり、自分を戒める役割にもなります。 たった一つの後悔から本当に正しいと思える生き方へ繋ぐことができる、 ひとつの人間としての心の在り方だと思います。

noname#80116
質問者

お礼

(つづき) 因果応報も その法則としての(あるいは 信念としての)説としては その信念や法則から 人は 自由であるべきだ / さらにつまり そのときには そこでは 因果に応じて報われるという事態もありうると見ているが この見方を固定観念とはしない。・・・  問題から逸れたかも知れないのですが おっしゃった《一つの後悔から本当に正しいと思える生き方へ繋ぐことができる》を さらに 見つめていくと このいまのような 不条理を超えた自由(――信仰としていえば 不死の境地・縁起共生の実現 / 永遠の生命・永遠の現在過程――) この問題に行き着くように思いました。  まだ熟しませんが。  (つまり わたしはもともと能天気のミーハーですので おろかになって言うとすれば ブッダあやまてり ではないかという思いがあります。ゴータマ・ブッダは マーガンディヤーを相手にした応対では 別の振る舞い方がありえたのではないか これです。  自由なご批判をたまわりたく よろしくお願い致します。

noname#80116
質問者

補足

 ganesha_meさん ご回答をありがとうございます。  有り難いという思いが あたまの中で 自然と こうべを垂れさせます。  問題から逃げず まづ事実に直面することから始める などとえらそうなことを言っていましたが 《たった一つの〔ではありながら その唯一つの〕後悔から本当に正しいと思える生き方へ繋ぐことができる》――このことを つけ加え得ずに いたわけでした。  《無明から明知への回転によって 縁起が 悪循環から好循環へ回転する》であるとか 回答者さんからおそわったクリシュナムルティを引いて 《問題を生み出している枠組そのものを変える、本質的な生の変容の方法》を取り上げてみるとか やっていましたが――もっとも それは りんかくであって 輪郭にすぎないことは 自覚してつづっていたわけですが(つまりは 仏作って魂入れずというより そもそも その《魂》が分からないゆえにこそ なお問い求めの旅路にあるわけですが)―― 真理は 単純であって すなおから無明の戸がひらける ということなのかなと存じました。  一点 疑問に思ったことがあります。  《辛いだろうがこの子が見守ってくれていると信じることです》 これについて どこか反撥を感じたことも 実際だということを正直に申し上げなければならないと思いました。  もしわたしが その去っていった子であったとしたなら おれをアイドルにするな! / わたしを偶像の神にしないで! と言い返すと思います。というような感覚です。・・・  きのう図書館に行ったら 『釈迦と女とこの世の苦』(瀬戸内寂聴)が目に止まり 読んでみました。  思ったことは 一つに 実存するゴータマ・ブッダのその存在は 想像をはるかに超えた重みがあったということです。女性も――という言い方からして 差別感を持っていると言われかねませんが―― 出家してブッダのもとに修行の道を歩みたいという事態が ふつうであるように 現われます。  いま一つに――やはり疑問としてになりますが―― 例の鼻を高くした美女マーガンディヤー(=《Q:〈我れ〉はある? ない?》No.43以降)に対して ブッダは なぜ かのじょを突き放すような態度をもって 接したのかです。  寂聴さんの本の《第7章 悪女 聖女を焼き殺す》では こうあります。このマーガンディヤーが ヴァンサ国王の第三夫人となったあと すでにブッダに帰依していた第二夫人のサーマーヴァティーに敵愾心を燃やします。しかも その原因=遠因には かつてブッダに冷たくあしらわれたという過去があずかっていたようです。とうとう最後には サーマーヴァティーの館を全部 火を放って焼き尽くし 中のサーマーヴァティーとその侍女たち全員を焼き殺したと言います。  《このサーマーヴァティーのむごたらしい最期は とてもショック無しでは聞けないし うなづけない。世の中は 必ずしもいい人がいい死に恵まれるとは限らないし 悪業を犯した人間が案外この世で栄えていたりするものだ。そういう人の世の不条理を 私たちはどう受けとめたらいいのか》というのは 寂聴の記す誰もの感慨です。  僧たちも ブッダに問うたところ ブッダの答えはこうだったとやはり寂聴さんが伝えます。    僧たちよ 今度の事件で動揺した心を静めよ。この世でたとえいくら   生きても 放逸でわがまま勝手で 道を需(もと)めない人間は すで   に死んでいるのと同じで 生きていても価値がない。それにくらべ い   つでも熱心に道を需め 正しいことをしようと願い 慈悲の心の燃えて   いる者には 永遠の命がさづけられている。現実に肉体の死はあっても   魂の死はない。マーガンディヤーたちは 生きながら死んだも同然で   何の生命もなかった。サーマーヴァティーは どんな死に方をしても   永遠に生きつづける。彼女たちは死の瞬間に精神を統一し 祈ったから   すでに聖者の位を得て死を迎えている。    (瀬戸内寂聴:『釈迦と女とこの世の苦』2002 p.158)  さらに寂聴の結語のような思いは こうです。    人間とはそういう残酷なことの出来るものだということを 今の私は   考える。善業の報い 悪業の報いというのも この世という短い時間で    はかってはならないのだろう。     (同上 p.159)  わたしの思いですが 一つに 因果応報は 目に見えた法則ではないと認識すべきではないか です。ことを 前世・来世の問題に持って行くべきではない です。(つづく)

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noname#52670
noname#52670
回答No.19

なるほど。 福音書の引用個所を探す手間をあなたにかけさせますが たしか洗礼者ヨハネは水によりますが イエスは火と聖霊でしたね。 パウロに言わせれば人は律法によって死んでいるのでしたね。 せっかくなので私の好きな聖書の言葉を引用させてもらいます。 コヘレトの言葉です。4章から5章にかけて 「神殿に通う足を慎むがよい。  悪いことをしても自覚しないような愚か者は  供え物をするよりも、聞き従うほうがよい。  神は天にいまし、あなたは地上にいる。」 このインターネットの時代、人が集う集会場は未だに 現実の地上なのでしょうかねぇ…。

noname#80116
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  yukiyama20さんとわたしとの違いは yukiyama20さんが なにごとも さらっと 言ったり 捉えていたりするのに対して わたしが けっこう いじくりまわすといったところでしょうか。  コヘレトですとか わたしがあまり読み慣れていないところなども 関係してくるかも知れません。  水の洗礼は 受けないとなると わたしは 自分の信仰のみちびき手であるアウグスティヌスの言葉には反するかたちになったりするのですが 仕方ありません。イエスも 自身は もちろんヨハネによって授洗していますし パウロも 例のダマスコ街道の途中の回心のあと ちゃんと 水の洗礼を受けているのですが いま現在の考えとしましては 致し方ないと思っております。  割礼が必要なくなったように 洗礼もそうなるかどうか・・・まだまだ分かりませんね。

noname#52670
noname#52670
回答No.18

>信仰が人間のほうからそれを獲得するのではなく 向こうから与えられるという細かいことを言ったので 《原理主義》といったことばが出たのですか あ、いやそれとは関係ないです。 言葉不足で関係が見えなくなって議論が唐突になってしまったくらいです。 >向こうから与えられるという これは確かだと思います。 それで、私もこれと同じ見解なのですが、 その上で、 ANo.15の見解をもう一度見てもらえればいいのですが 私は、我と自由意志を同一視しました。 インドのウパニシャッドの思想に梵我一如と言うのがあります。 私は一応この梵我一如を前提にしました。欠けていたのはこの部分です。 >この我は、意識が作り上げた「私の所有物」でしょうか 自分の文章をもう一度掲載しますが 信仰は神に由来すると思います。だから私のものではないはずです。 で、原理主義どうのと教会を持ち出したのは 単純にです。水の洗礼の問題をどうしますか? 洗礼の権威は一応、教会にあります。 洗礼を受けない以上、キリスト教徒、キリスト者 とはいえないでしょう。これをどう解決します?

noname#80116
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  わたし自身のバプテスマは 聖霊によるものと心得ています。そして たとえば パウロの      口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中か   ら復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。     (ローマ書10:9) によっています。水の洗礼については 以前 すでに《Q:水による洗礼は必要不可欠なことですか:http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3013375.html 》 でも考えてきております。(長いですが)。  (教会に属するサクラメントであることにまちがいないとは思います)。  また わたしがよく引合いに出すエレミヤ書31:31以降の文章も 参照されるべきだと考えます。《主を知れと言って 教えることはしなくなる》という新しい契約のことです。  もっと言えば ローマ教会は ペテロから受け継いできた聖霊の系譜を 台無しにしてしまったのではないかと考えております。人を殺し過ぎです。解体して 出なおすべきだともです。

回答No.17

こんばんは、brageloneさん。 タッタッタッタ≡≡≡ヘ( ^-^)ノ   間にあった?  1/4に補足要求入れ、お返事いただきかれこれ一週間。(^人^)ごめん。 考えれば考えるほど迷う迷う。『おつかいありさん』バリに、こっつんこ、あいたた、と。というのも、ANo.6へいただいたお礼文に「癒す思想を問い求めております」と、言葉が置かれあったので…ううーん、『癒す思想』ってなんだ???と、そうこう小首かしげながら画面とにらめっこしてるとANo.9の方へお礼文に「子のほうではなく 親のほうの問題をとりあげております。」と。そこからです、『楢山節考』が頭からはなれない。 「おつかいありさん」 関根栄一作詞・團伊玖磨作曲 http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/00_songs.html 楢山節考 http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD17308/story.html 『誰も知らない』との共通項の“置き去り”ここに関心が向いたよ。 こと楢山節考では、置き去るのは子が親を山に置き去るのだけれど…どうも腑に落ちない。“七十歳を迎えた冬には皆、楢山へ行くのが貧しい村の未来を守る為の掟”どうして、こんな掟を皆が守っていたんだろう?昔のこと、家長制度も健在していたことだろうに、親に孝行するのは子のつとめと訓えも強固な時代であったことだろうに…。やっぱり、腑に落ちない。その昔、家の中では親は、ある意味、神。母である女性の地位は低いといえども子にとっては親。父、母ともに尊き人。食い扶持減らしのためだけに年老いた親を山に置き去りにする慣習が出来上がったのだろうか?あれやこれやと思い巡らすと、ふと、今の時代の痴呆、徘徊…認知症が気にとまった。いまでいうところの認知症って名はここ最近になって呼び名が付いてはいるけれど、遠き昔の人の身にも同じ様な症状は起きていたことだろう。そう考えてみると、敬い尊んできた親が老いていくほどにその様子が変貌し誰とも知らぬ者へと化していく(狂乱・乱心)となれば威厳がなくなることだろう。いまほど病への理解もない時代、気味悪がれ恐れられもしたことだろう。すると親を長に築いてきた家は家庭崩壊を起こしかねない。「神は死んだ」ではないけれど、残された者たちの動揺ははかりしれない、信じるものを失うことは。人目を気にし隠す、孫や近隣の人の目から。山へ置き去りにすることで親は神となり神格化され永遠の存在とこの世に生きづくと心にいいきかせたのか。病への理解もない時代、介護保険もない時代、その地以外に生きる場所はないと思わざる得ない時代、そこに住み暮らす者達の間で、掟は生まれるべくして生まれた生きていくための術だったのかもしれない。“ 置き去り ”言葉の響きだけで何故だか胸がキュンとなる。置かれる方も去る方も、どちらも心を掴んではなさない。せつないよ。 「カチューシャ物語」 http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD12946/story.html 「お座敷小唄 」作詞 不詳・作曲 陸奥 明 http://www.biwa.ne.jp/~kebuta/MIDI/MIDI-htm/Ozashiki_Kouta.htm 「 方丈記 」鴨長明 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E4%B8%88%E8%A8%98 ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。  たましきの都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き、卑しき、人のすまひは、世々経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。あるいは去年焼けて今年作れり。あるいは大家滅びて小家となる。住む人もこれに同じ。所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。朝に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水のあわにぞ似たりける。知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。また知らず、仮の宿り、たがためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その、あるじとすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。あるいは露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。あるいは花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども夕べを待つことなし。

noname#80116
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  食い扶持減らしといわば〔痴呆を含めた広い意味での〕尊厳死としての置き捨て これについては ひとつの物語を 得ることができました。No.15の補足欄に掲げております。もうこれで大丈夫だと言いきれるものではありませんが 少しわかった気になっています。  水子については No.10のご回答を――それは 素直に悔いるという内容です―― いま いだいています。  気の沈む主題でもうしわけないです。

noname#52670
noname#52670
回答No.16

まぁ、みもふたも無いことを言えば ガチガチのキリスト教原理主義者からすれば 仏教徒はゲヘナ行きでしょうよ。 キリスト教信仰を望むのなら教会へ行ったほうが早いと思いますよ。

noname#80116
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  信仰が人間のほうからそれを獲得するのではなく 向こうから与えられるという細かいことを言ったので 《原理主義》といったことばが出たのですか。  うぅーむ。そうだとすれば たしかにわたしの基準が 世間からは かけ離れているかも知れませんね。ただし そのような基準のあり方とは 信仰が与えられるかどうかは これまた 何の関係もないと来ております。《ガチガチ》とは関係ないと来ています。  もしそこが面白いとなれば 《みもふたも無いこと》とは まだ ならないようです。よ。

noname#52670
noname#52670
回答No.15

まずは質問し直したほうがいいですよ。 私は仏教徒でもないのでなんですが 完全に経験論になると言葉にできませんから。 言葉にするということは論理。演繹法がやってきます。 回心や信仰を経験といってしまうところに 私は疑問を持っています。 というのも、この我は、意識が作り上げた「私の所有物」でしょうか。 もしかしたら我(わざわざ仏教用語使う必要も無いので以下、意志) は私の所有物などではなく。私の意識はただ生じたものでしかなく。 信仰と言うのは意志自らが神を求めることではないか。と思っています。 現時点は。思索が進めばどうなるか知りませんが。 少なくとも認識のうちに罪は無いでしょう。だから今回の 悟りという認識の問題に関しては私は問題無しとして 話を進めたままです。

noname#80116
質問者

補足

 ご回答をありがとうございます。  わかっていることは  (1) 信仰の立ち場というのは 《信じる》および《考える・悟る》である。 (2) ブッディスムは どうなのか。《信心》とも言うが どうか。 (3) 〔修行には触れません。つまりは 修行や瞑想の成果をも言葉によって《考える・悟る》として表現したものを取り上げるかたちをとる。〕 (4) この《悟り》のほかに ブッダの知恵は 《信じる》を含まないもののようである。 (5) その悟りとして 無明を破る知恵の現実過程は 果たして どうであるか。 (6) ところが 《事実を明らかに見る あるいは 悔いる・こころを省みる》など そういった経験行為としてしか その知恵の現実過程は 表現し得ないかも知れない。  ここで行き詰ったわけです。  以前 水子と同じような事例として 《東北地方の冷害に悩み食い扶持を減らす間引き》を取り上げたとき 次のような癒やしの過程を 物語として描いたことがあります。    間引いた結果 去っていた子の代わりに こけし(子消し?)作りに   気を紛らわせていた親たちは そのわたしなる意識に 悪魔を感じてい   たでしょう。これは どこまで行っても 地獄だと観念し 観念しても   どうしようもなかったはづです。    一世代二世代と時が過ぎてゆくにつれて 今は亡き子供たちのことを   つづけて思い出しているとき いつのことか ふと 子供の声を聞いた   かも知れません。それは 《わかったよ》と言っていた。耳を疑ったが   声は 《そのこころは わかったよ》と。    これを機に 親たちは 座敷わらしの伝説をも 持つようになったの   かも知れません。縁起の順・逆の回転があったと言っていいのかも分か   りません。何をどうしたから そうなったというのではないでしょうね。   修行など これっぽっちもしていないかも分かりません。ですが 《なお   あやまつけれど そのわたしも この世に生きていると言えるかも知れ   ない》と思うようになったかも分かりません。    水子についても このような虚構を思い描こうとしていたのです。  もう少し考えを寝かしておいて そのあとで 考え直します。 ☆ 少々細かいことを。 ★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 信仰と言うのは意志自らが神を求めることではないか。と思っています。 現時点は。思索が進めばどうなるか知りませんが。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 信仰が与えられるまでは そして与えられてからも 見失ったというような時などには このような情況だと思いますが 信仰が与えられるその瞬間は 向こうから来るというかたちになると思います。  向こうから来るものを受け留めるのは それも《意志自らが求める》こちらからの経験行為であるのですが。  漁の網を捨てて ただちに イエスの呼びかけに応じてついていったペテロらのその決心の瞬間は 自分の意志を超えていると思います。それだけですが。ちょっと 細かすぎましたか。でも ブッディスムがこのような事例について触れて明らかにするならば 信心のあり方や信仰であるかどうかがはっきりすると思われます。 * 間引きにかんして こけし人形と座敷わらしの伝説が関係すると思われます。水子にかんして 川に流したとすれば 河童の伝説が――起源の問題とは 別様にと言いうるならば―― 関係すると思われます。(可能性が皆無であれば ただちに この推理は 捨てます)。 

noname#52670
noname#52670
回答No.14

No.12です。 >わたくしの考えでは 経験行為(人間のおこなう縁起関係)によっては 無理だと思います。 >経験行為のかかわることとしては 信じるという心の伸び(志向性)をとおして 明らかになるもののように考えています。 ざっと経験から信仰への転換といったところでしょうか。 堕胎を経験した人→その一つの可能性として遊女を取り上げるのは 適切ですよね?しかも当時の遊女ですから。 テーリーガーターにアッダカーシー尼が 三種の明知を現にさとりました。 ブッダの教えをなしとげました とありますし、 というよりも、人殺しが回心してブッダの弟子になって 悟った人もいますし。アングリマーラとか。 あと、子供との関係は、なにせブッダが子供捨てて出家しているから 大丈夫でしょう。 血縁破棄→大丈夫 殺生経験→大丈夫 バラモン教徒なら、もう駄目だから、信じろとなるでしょうけど。 だから >堕胎を経験した人が その無明を明らかに見るとは いったい どういう事態になるでしょう? 悟るでしょう。 >過去は消せませんが これをものり越えうる覚りは 縁起の究極として どのように思考し実践するのがよいとお考えになるでしょう? 普通に出家して普通に修行して、悟ればいいでしょう。 仏教で水子の経験がどうのと問題視するのは 中国経由で先祖以来の血縁関係というものに 束縛される考え方に染まっているからではないでしょうか。 まぁ、不安を煽って水子供養で儲けるフザケタ輩も多いもので。

noname#80116
質問者

補足

yukiyama20さん ご回答をありがとうございます。 ★ 悟るでしょう。 ★ 普通に出家して普通に修行して、悟ればいいでしょう。 ☆ 要するに ブッディスムは 経験科学であるという実際でしょうか。  じつは このことは ずっと 明らかにしたいという課題でありました。社会という単位体についての社会科学という要素は 少ないようですが 自然科学をも含めるかたちで 哲学・倫理学の問題を中心とする経験思想であるのではないかと。  浄土門の阿弥陀仏に対する帰依にしても――といいますか 広く一般に ブッダが 法身として 絶対者であるということにしても―― 《絶対》に対する信仰ではないように 実際のブッディストの話しを聞いていると 感じることがあったわけです。  まだ わかりませんが yukiyama20さんは ブッディスムが 経験合理性にもとづく科学であり 個人的な思想であるというお立ち場ですね。あやまつならば 事実をきちんと明らかにして 悔いる そうして 人格全体として 目覚める・覚る これが ブッダの知恵であると。  水子思想やその供養などは この目覚めとは異質であると。かのモッガーラナでしたか その亡き母の状態を 神通力で知って 地獄にいるというので ブッダに相談して 供養の仕方をおしえてもらったうんぬんというのは――つまり 盂蘭盆会の話しは―― 中国における作り話であろう。このように 前世や来世などというような経験知識を超えた領域にかかわる物語は 単に 尾ひれがついただけであると。    わたしは キリスト者なのですが――水による洗礼を受けていないただの自称のそれですが―― キリストのキの字も言わないで この立ち場のブッディスムのように 経験思想として すべてを説明したり論じたりすることができるようになる将来を夢見ています。  ただ わたし個人としては 信じたという歴史をも伴なっていますので そしてそのことが 現在の考えを作って来ていますので その立ち場からは いまの《目覚める・悟る》も 《信じる》を伴なっている(つまり 信じるが 考え方の上で 先行する)とは思っています。  ですから 《信じる》は ほとんど 目に見えない・言葉で表わすことのむつかしいことですので 《無明を事実として明らかに見る》という行為としては 同じ内容を共有しているとは思っています。  すなわちいまは やはり 《ブッダは 絶対ですか》の議論に戻ったように考えています。  事情があったとは言え殺人鬼と化したアングリマーラも 悔いて目覚めて悟るというかたちに まとめて言っていいわけでしょうから。つまり 新しいユダヤ教キリスト派に対する迫害者サウロが このキリスト信仰の伝道者パウロになり変わるのは 経験行為の過程としては 《悔いる・目覚める・悟る》として 同じでしょうし しかも それらに――時間的なあとさきではなく 考え方として――先行する《信じる》が 欠かせないとすれば 対照的な違いがあるように思われます。  いかがでしょうか。さらに設問をし直そうかとも考えております。

noname#51508
noname#51508
回答No.13

自分の回答は、まだ自分でもはっきりとしていない部分もあるので、 単なる意見として読んで頂けたらと思います。 >堕胎を経験した人が その無明を明らかに見るとは いったい どういう事態になるでしょう? 無明を明らかにするには、自分の内面に矛盾や対立があることを理解する必要があると思います。 例えば本人が幸せになりたいと心底願っていたとしても、それに対して矛盾や対立が本人の中にあったなら、普通の人間関係でも障害になり得るし、その中に堕胎という問題も含まれると思います。 だから、ご質問については、終わったことはもうしかたがないとして、それが結果としてそう起こったことは、自分自身の中にそうした方向づけとしての原因があったことを理解する必要があると思います。 と、基本的にはそう思います。 そして以下は自分が無明そのものをどう見るかという内容です。 自分は他者の存在の尊重については、本当の意味では他者の存在の領域そのものを侵す、おとしいれるということは出来ないような気がしています。 そうしたことから、自分が経験することの原因(選択権)は常に自分にあるのではないかと思ってしまうのですが、その意味で自分の無明を明らかにすることは大切だと思え、そして今の時点で自分が考える、無明を明らかに見るとは、「印象としての客観」、別の言い方では「何か自分以外からそれが起因しているとする印象それ自体」が、本当はそれは「自分が見る(引っ掛かる)」ことによって生じていることを理解することだと思います。

noname#80116
質問者

お礼

ご回答をありがとうございます。 前半は わかりやすいと思います。 無明を原因として起こる縁起関係とはいえ 人の精神もしくは心の中に ものごとを見えなくしている要因があるのかも知れない。つまり 《内面における矛盾や対立》が 無明をつくっているという場合があるのかも知れない。 あるいは 無明は何ものにも先行するとするならば それに従って言い直せば こうである。つまり いまの《内面において矛盾し対立し葛藤することがら》が むしろ無明を見えなくしていて 自分が 無明を克服しようとする心さえ 起こらないようにしているのかも知れないと。 (ちょっと ずれたかも知れません)。 後半は むつかしいです。 ★《無明そのものをどう見るか》 ☆唯識の思想のようにも うかがえます。わが心が 世界の全体であって 原因と結果は すべて その心の世界に起こるのだし 受け取っているのだと。  むしろ この因果関係が 部分的にしろ 他者あるいは環境の側にあって――ここまでは 事実として そうであるのだけれども―― だからと言うので いわゆる責任 これも その他者の側にあると決めつけるのは どうも 違うようである。つまり 他者からの動きや働きかけが 事実としてあったのだが その動きを起こしたのは むしろ 自分のほうであるのではないか。動きを起こしたと言うと 魔術師みたいになるので 言いかえると その他者の動きとの関係で その動きに乗って行ったのは もしくは 要するに 引っ掛かったのは 自分のほうだと。 ここに 無明の事例があると。 もしそうだとしますと じつは これについては 《Q: 自由意志について=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3286135.html 》において bonnnou03さんの一連のご回答によって わたしは知りました。よろしかったら ご参照ください。そしてさらに ご回答をも よろしかったら お寄せください。 この無明の事例については わたしは おおよそ 同意しております。そして さらに具体的な事例を挙げるとなると 相当むつかしい事態に出くわすというようにも 感じています。たとえば レイプを受けた女性は それを自分から じつは 招いたという解釈になりますので。 などなど まだまだ 奥が深いようです。

noname#52670
noname#52670
回答No.12

あなたのように仏教思想を持っている人に逆に聞いてみたいです。 無我が正しいと言うのなら罪を犯したところで 誰が苦しむのですか? あなたの質問文の場合 水子も堕胎した女も存在したんですか? >過去は消せませんが 因果を超えるわけでしょ。過去も関係なくなるでしょう。 どうでしょう。 

noname#80116
質問者

補足

 ご回答をありがとうございます。  少し無理をして 勇み足のごとく 《具体的な ほんとうに具体的な ブッダの知恵・その息吹きのわかるほどの実際》を問うてみました。  攻守ところを変えてですが ★ 無我が正しいと言うのなら罪を犯したところで / 誰が苦しむのですか? ☆ これは そもそも《無我》説とは何ぞやから説き起こさなくてはならないように思います。さいわい 《Q:〈我れ〉はある? ない?》において教えてもらっていますので なんとかまとめることは出来ると思いますが でも たとえば こう答えることも出来るのではないでしょうか。  《四方サンガ》といって 僧侶のサンガ(僧伽藍)ではなく それよりも広く けっきょく社会じたいが われわれ〔と言ってみますが〕ブッダの弟子が道を求めて生きる場ですので その社会の取り決め(法律)に違反することは すぐさま 間違いであるとなると思います。  この情況において 《罪を犯した》なら 少なくともわたしは 一人でも 《苦し》みます。 ★ 水子も堕胎した女も存在したんですか? ☆ 上の社会一般の情況において考えるなら 存在したと言っていいと思います。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >過去は消せませんが 因果を超えるわけでしょ。過去も関係なくなるでしょう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 因果応報の説(またこれを 自己の信念としていたときのその信念)《を超える》わけですが 《因果を超える》かどうかは にわかには 分かりません。これからの尋究になります。 ★ 過去も関係なくなるでしょう。 ☆ どうなんでしょう。過去が 現在の悩みや 生きていく上での足かせになるという事態は これが 無明の循環ですから これを 転換するというのなら 転換したという限りで その好循環においては 《過去は関係なくなる》と思いますが むつかしい問題だと思います。  一つには おのおのの主観における現実の動態としてしか 問う価値がありませんので 一人ひとりに尋ねてみるしかないというように条件づけられています。  一つには それでも 自分にあてはめてみて 出来る限りの想像において考えるに どうなるのでしょう? どうですかねぇ 縁起の好循環というなら むしろ最大の光を浴びて こうお応えしましょうか。つまり 過去も その時かかわった人びとがいたとして その人びとすべてに 幸運をもたらしていることが出来るとすれば その意味で=いい意味で 〔過去も〕なおその現在に関係していると言うべきであるかも知れません。そこまでの・底抜けのしあわせを――もし信仰として捉えるならば―― 恵まれるとは思っています。ブッディストも 同じようだと思うのですが。  どうでしょう。互いに精進してまいりましょう。

回答No.11

#10です。 因果から解き放たれたと思っても、 また次の因果に絡め取られてしまう。 それが人の姿だと思うので、かき消すことはできません。 前世・来世については分かりませんが、無くても困るところではないでしょう。 ただ、倫理として命には3つあると私は聞かされたことがあります。 ひとつは個の命、人類としての種の命、さらには生命そのもの。 そこにおいて命は鎖のように紡がれて行くと考えています。 因果ではなく因縁生起とするのはこの連鎖だと思います。 質問に照らされれば、 どんな悪人でも、今まで一度も親を思わなかったことのない人はいない。 その一言に尽きると思います。 どんな日本人も一度たりと仏に感動を覚えなかった人はいない。 そういうところに私は心惹かれるところです。 中絶はよくないことです。後悔して然るべきです。 その時、心は葛藤すると思います。 けれども人はそうして背負って生きて行くしかないのです。 苦しむでしょうが、それでも自分の産んだ子です。 一瞬でも産みたいと思ってお腹の中で育んだ子なのであれば、 その子をよく思ってやらなければ、 結局、この親自体に苦しみが返ってくるだけです。 どんな人も死んだらそこまでです。骸は何も語りません。 どう解釈するのはその人自身の問題ですが、 いつまでも苦しんで沈んでいたのなら、 その子の死自体が報われません。 他人と人一人分かち合うことが難しいのに、 自らと分かち合わないで生きていては苦しいでしょう。 どんな悪い人も苦しい生き方をするひとも、 それなりに幸せに生きて欲しいと願うところです。 瀬戸内さんの人間らしいはっきりした感情は、 分かりやすくて、とても聴いていて気持ちのいいものです。 ここでは心に宿る魂の在り方について書かれていると思いました。 (※ここでの「魂」は気持ちを凝縮した生き方として表現しております。) 私も勉強中の人間ですので、広く学んで行きたいと考えております。 スッタニパータ835についての記述について、 両親が娘を溺愛する心は分かるのですが、 結局、彼らは溺愛する余りに本当の娘の将来を見失ってしまっています。 たとえ自分が慕う相手だとしても、娘がそれを心から望んでいるのか、 それはこの時の対面の姿勢で現れていたのではないでしょうか。 生涯の幸せとは別に立派な人のところに嫁ぐことではありません。 一緒に居てよかったと思える人と共に歩むのが幸せでしょう。 人間であれば、誰しも大小便が詰め込まれています。 人として苦のない生き方にいざなうならば、 マーガンディヤーの高慢な心を一度折ってやるしかなかった。 その先はどうなろうと本人次第です。 反省し改めて生きようと思えばできたことですし、 復讐という業火に焚きつけられて人を殺したり、 お釈迦さまに石を投げつけようと、 心のどこかではそれが間違っていると分かっててやっていることです。 けれども、そんな生き方は周りの人から謗りや嘲りを受けます。 ただ、彼女は自分が苦しいから人のせいにして責めたてているだけです。 高度な理論を語っていても、 実のところ犬畜生と何ら変わることのない私たちです。 そこに気づいても尚前に生きようとすることの大切さを、 お釈迦さまは説かれたと私は思います。 しかし一期一会で出会う人達に、人それぞれに合った良薬を、 施して差し上げる生き方は難しいとも感じます。 益して限りある命を持つわたし達ですから、 それを大切なことを紙に残したり口で伝えたりして、 どうにか今のこの教えがあるのだと思います。

noname#80116
質問者

お礼

《マーガンディヤーという絶世の美女がいた》という物語を  http://www.melma.com/backnumber_31267_1625651/ より引用しておきます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  彼女の両親はこの娘を溺愛し、縁談はことごとく断るといういわゆる箱入り娘状態であった。  ところが、マーガンディヤーの父親が、たまたま釈迦に会い、その説法を聴聞すると父親は釈迦にほれ込んで、この男になら娘を嫁にやってもよいと思う。父親は釈迦に還俗して、婿入りすることをしきりにすすめる。  ある日、釈迦はマーガンディヤーの両親の家を訪問し、両親と娘の3人にむかって説法をはじめた。娘のマーガンディヤーには直接せずに、両親に説法をするのである。内容は次のようであった。    「われは〔昔、悟りを開く直前〕、渇愛と嫌悪と愛欲〔といった3人   の魔女〕を見ても、彼女らと交わりたいという欲望さえ起きなかった。   大小便の詰め込まれたこの女が、そもそも何になるというのだ。われは   この女の足にさえ触れようとは思わぬ」      (『スッタニパータ835』)  「大小便の詰め込まれた女」とは、ほかならぬマーガンディヤーのことである。  釈迦の真意は、娘を溺愛し、盲愛し、執着しすぎている両親をその苦から救うことにあった。いずれ死別はくる。両親が先か、万が一娘が先か、それはわからぬが。であるならば、娘に執着せずに手離しなさいとうのが釈迦の深い諭しである。この説法で両親は真意を悟り、出家を決意する。  しかし、救われないのは娘のマーガンディヤーである。目の前で「大小便の詰め込まれた女」と言われれば、傷つき「許せない」と思ったであろうことは容易に想像がつく。そして彼女は当然、釈迦を憎んだ。  その後、マーガンディヤーはコーサンビー国(* コーサンビーはヴァンサ国の都)の王と結婚し、王妃となる。釈迦がコーサンビ-国に布教に来たとき、彼女は屈辱的な過去を思い出すのである。そこで、釈迦に復讐するために、人々を扇動し、王妃の命令によって托鉢に歩く釈迦に石を投げさせ、罵詈讒謗を浴びせたのである。  このように誤解ゆえの迫害は、釈迦にもあったのである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

noname#80116
質問者

補足

 つづいてのご回答をありがとうございます。  この質問は きつかったなぁと 思うようになりました。  わかっていることは おそらく こうだと思います。  ・水子供養は おこなってもよいが 問題は 一人ひとりのこころにおけ   る悔い改め(回心と言ったりします)であろう。  ・言いかえると 制度・習慣また集団の決まりにしたがって 悔い改める   ことから自由になって ひとりの人として 事実をしっかり捉え 思い   をめぐらし知恵を尽くして考えていく。    ・・・・・・・・  ところで ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  どんな悪人でも、今まで一度も親を思わなかったことのない人はいない。  その一言に尽きると思います。  どんな日本人も一度たりと仏に感動を覚えなかった人はいない。  そういうところに私は心惹かれるところです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ブッダの魅力については もう触れませんが 最初の一文に注目しました。ちょうどいま 《Q:人を殺してもレイプしてもいいと思う=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3654330.html》が出されていて その中に    世の中には親からも誰からも愛されない人間がいます。 というところに わたしは痛く動かされてしまいました。自分がこれに近かったからですが 何の手掛りもなければ 誰からも働きかけもないというとき そのときには ウッパラヴァンナーのように もう行くあてもなく何ののぞみもなく 家を出て さ迷い歩くと思います。  すなわち ウッパラヴァンナーは 出産の時期をとおして夫が自分の母親と通じていたとわかり それでも産んだその娘をしばらく育てたあと 夫の家を去ります。さいわい裕福な人に助けられ 求婚を受け しばらくすると こんどの夫が その当時はふつうであったのだが 第二夫人を娶った。問題は その第二夫人が はじめの夫とのあいだのわが娘だったと分かったときのことでした。(瀬戸内寂聴『釈迦と女とこの世の苦』)  どんな悪人でも、今まで一度も親を思わなかったことのない人はいない。 そのとおりであるし 例外があると言おうとするのでもないのですが それでも・そうであるにもかかわらず 抽象的なことばを使いますが 不条理なことが起きます。  ですから この不条理・無理あるいは理不尽なこと これに どう対処していけばよいかが 依然として 課題であるように思います。  ブッダは マーガンディヤーの件では この不条理な出来事を 防がなかった。もっと言えば 起きてもよいと思ったのかも知れない。そこのところも 水子の問題に 案外 かかわっているようにも思われます。  (因果応報から自由な知恵のあり方 これに からんでいると思います)。  (もし ブッダあやまてりとなっても その思想が 減殺されると言おうとするものではありません。そうではなく こういうと もう傲慢の極地になりますが それこそ あやまつならば わたしは生きている です。はぐらかしたり 中途半端な弁明をしたりするのは 論外ですから)。  (もし この件を継いでおくなら 《マーガンディヤーの高慢な心を一度折ってやるしかなかった》というときには その《鼻をへし折る》手段が問題です。 やはり まづは《女よ かわいそうに お前が苦しんでいることは 一目見ただけで私にはわかっている》と 絶望のウッパラヴァンナーに声をかけたように いの一番には マーガンディヤーを 存在として受け留めてやること これは 出来なかったか。わかっていたとすれば なぜ しなかったか。だと思うのです。――ちょっと しつこいこだわりでしたね)。  (いや しつこいついでと言っては いけませんが 《ひとつは個の命、人類としての種の命、さらには生命そのもの。 / そこにおいて命は鎖のように紡がれて行くと考えています》と知られるとき マーガンディヤー個人の命が やはり いま どうなっているのかになると思われるのですが いかがでしょうか)。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.9

参考に 無明「真実を知らない」だから行「堕胎という行為」があるということですね。故にすべてが「無明」に始まる間違いということですね。起きてしまった間違いは間違いとして、その後をどう修正するかということでしょうか。でも生命の誕生に対する正しい知識がないと、つまり無明である限り正しい修正はできないということですね。 これは転生輪廻のシステムを知らないと答えられないものですね。それが無明ということですね。 このシステムは多少複雑なので、簡単にいうと受胎から3-6週間のあいだにおなかの幼児に人霊(子供の霊)がやどりますね。これ以前の堕胎は人間ではないので気に病むことはありません。これ以後の堕胎は人間ですから殺人と同じですね。堕胎で子供の肉体は死にますが霊は死にませんから、子供の霊(水子霊でもよし)として、大変な困惑状態に陥ってますね。あの世にはこのような霊を導き、教育する霊がいますので長い目でみれば心配は要りませんが、短期的には、子供の霊の困惑を解いてあげるのはやはり母親であるべき女性が「愛ねん」を送ってあげるのが一番いい方法ですね。三途の川原で石を積んでいる子が自分の子供というのは古い話だけどそういうこともあるでしょうね。 子供の霊は、あの世で教育され何年か後には大人の霊になって再度生まれ変わりのシステムに組み込まれます。同じ人物には生まれないと思いますがどうせ生まれてくるのであればいろんな理由もあるのでしょうが気持ちよく世に送り出してあげたいものですね。やむおえない理由で堕胎してしまった場合は、愛ねんを送ってあげるといいですね。また約束して生まれてきたのですから、それを反故にした事ぐらいはわびないとね。

noname#80116
質問者

お礼

ご回答をありがとうございました。 子のほうではなく 親のほうの問題をとりあげております。よろしくどうぞ。 ★ 《無明である限り正しい修正はできないということですね》 ☆ 《修正》は そのあやまった行為については できないというより しようとも するまいとも 思わないでしょう。生き返るのなら 別ですけれど。  無明から明知への転換 これを どのように 親が 実現すればいいか ここに焦点をあてております。   ★ 《転生輪廻のシステムを知らないと答えられないものですね。それが無明ということですね》 ☆ もし《知る》ことをなせば ブッダの知恵が得られるというのなら その努力をする人が多くいると思います。  けれども 《転生輪廻》というのでしたら おそらく 前世や死後の世界について 見てきたような話になるのでしょうね。  わたしは そのたぐいのことは いっさい 受けつけません。哲学からの逸脱だと考えます。あしからず どうぞご了承ください。

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