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正八位勲六等海軍少尉?

よろしくお願い致します。  祖父の七回忌で墓参りをしたところ、墓石の右側に祖父の名と一緒に タイトルの文字が刻まれていることに気付きました。  祖父は明治の末頃に生まれ、海軍に志願したようです。(本人は口減 らしで海軍に入ったと酔って話してましたが。)また、喧嘩早かったら しく、「上司と喧嘩して、半任官(?)になるのが2年遅れた。」と豪語し ておりました。  少尉というと仕官ですよね?祖父は志願ですので一番下の位から始まっ たものだと思います。士官まで上がったということは、それなりに優秀 だったということなのでしょうか?海軍では、主に中国で河川の警備業務 を行っていたようです。(最後には陸軍に編入されたらしい。)  「祖父」という立場では非常に優秀な方だったと思います。以上、よろ しくお願い致します。  

質問者が選んだベストアンサー

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  • buchi-dog
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回答No.4

お祖父さんは明治の末のお生まれということで、1910年生まれと仮定しますと終戦時に35歳ですね。 海軍の下士官兵は志願兵と志願兵出身者が主力でした。20歳で徴兵検査で甲種合格、かつ現役兵として入隊する人は大抵陸軍に回りました。 お祖父さんは「口減らしで海軍に入った」と言われる以上、志願兵として海軍に入られたのでしょう。海軍には17歳から志願できましたので、そのくらいの年齢で志願されたものと思います。すると1928年ごろ、昭和の初めに海軍に入ったことになります。 それから(約)17年を経て、「正八位勲六等海軍少尉」として昭和20年の敗戦を迎えたわけです。 海軍の下士官兵は、 1. 航空機搭乗員 (甲種予科練、乙種予科練などと言われる) 2. 師範学校卒業者 (師徴と呼ばれる) 3. 特別年少兵 などは、他の下士官兵よりかなり早く昇進することが出来ました。 (1)に属する例として、零戦の撃墜王で知られる坂井三郎氏 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E4%BA%95%E4%B8%89%E9%83%8E は、大正5年(1916年)生まれでお祖父さんよりだいぶ若く、海軍に志願したのは1933年、17歳の時です。終戦までは12年ですが、海軍少尉に昇進しています。お祖父さんより明らかに少ない年数で昇進したわけです。 なお、下士官兵から昇進した人は「特務士官」と言う地位につき、兵学校・機関学校を卒業して海軍士官となった将校、海軍経理学校や海軍の外の大学・専門学校を卒業して、主計科士官、軍医科士官、技術科士官(または**科少尉候補生)として海軍に入った「正規の士官」(本チャンといわれました)とは別の扱いを受けました。 特務士官 の簡単な説明 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%8B%99%E5%A3%AB%E5%AE%98#.E7.89.B9.E5.8B.99.E5.A3.AB.E5.AE.98 階級名も「海軍少尉」ではなく「海軍特務少尉」などと呼ばれていましたが、昭和17年以降は「特務」の語が取れて「海軍少尉」と呼ばれるようになりました。ですので、お祖父さんの海軍での最終的な地位は「正八位勲六等海軍少尉」で完全に正しいです。 さて、ご質問が「士官まで上がったということは、それなりに優秀 だったということなのでしょうか?」ということですが、「相当に優秀であったろう」と間違いなく言えるでしょう。 戦前は今のように誰でも高校に行くのが普通、大学に行くのも半ば普通という世の中ではありません。義務教育である尋常小学校を終えたら直ちに働く人が過半数、高等小学校(2年制)に行ってから働く人が2割くらいです。お祖父さんは、こちらの階層(国民の8割~9割)に属していたわけです。 社会の上層部に行くには、原則として中学校に入学する必要がありました。これが約1割です。この段階で「社会の下積みの9割」と「社会の上層の1割」がほぼ自動的に決定したわけです。 ※ 非常に困難な道ですが、中学校に進学できない境遇から、苦労に苦労を重ねて海軍兵学校に入り、正規の海軍士官となり、海軍少将にまで昇進した人もいます。 高木惣吉 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9C%A8%E6%83%A3%E5%90%89 さて、中学校に入って社会の上層を目指すことは経済的に無理だが、少しでも良い生活をしたいと考える少年にとって、陸軍か海軍に志願して下士官→准士官(海軍は兵曹長、陸軍は准尉)→将校(陸軍)、特務士官(海軍) に昇進することは、ほとんど唯一の「出世の手段」でした。お祖父さんもそれを頭の隅に置いて海軍を志願され、そして見事に海軍少尉まで昇進されたわけです。 四等水兵として海軍に志願した人が、戦死せずに生きていれば全員が特務士官になれた訳では勿論ありません。並の水兵は下士官に採用されずに兵役年限が終われば海軍を追い出されます。ソコソコ有能な水兵は下士官への志願を上司に勧誘され、下士官になった(判任官となります)の階段をゆっくり上って行きます。 お祖父さんは30代半ばで海軍少尉に任官しているのですから、「航空機搭乗員」「師範学校卒業者」「特別年少兵」のいずれでもない人としては、「選り抜きの下士官兵」として海軍少尉への階段を上ったものと思われます。 そして、「海軍では、主に中国で河川の警備業務を行っていた」ということで「運も良かった」のです。 海軍でも多くの将兵が軍鑑や飛行機と運命を共にし、あるいは孤島の陸戦隊として玉砕、あるいは餓死して行きました。あまり知られていないのですが、レイテ沖海戦以降のフィリピン周辺の戦いで 「レイテ沖海戦などで乗艦が沈没したが運良く救助された」 「乗艦が損傷してフィリピン周辺で待機中に米軍の空襲で沈み、救助された」 海軍将兵は、その多くがフィリピンで「陸戦隊」を編成させられ、ろくな武器も持たずに米軍と戦って死んで行きました。例えば、レイテ沖海戦で沈んだ戦艦武蔵の生き残りの下士官兵は、結構な数が武蔵沈没時に救助されたものの、最終的には多くがフィリピンで「陸戦隊」となり、ほとんどが死んでしまいました(士官は、内地に転任できた人が多かったようです)。仮にお祖父さんがレイテ沖海戦に参加して内地に戻れなかった艦に乗っていたとしたら、海で死なずに救助されたとしても、准士官か特務士官ですから内地転勤の目はなく、フィリピンの陸上で死んでいた可能性が高いですね。 一方、海軍では中国に若干の兵力(河用砲艦)があり、お祖父さんが言い残されたように「河川の警備業務」に当たっていました。これは、結果論としてですが「海軍で最も安全な配置」でした。戦争当時、お祖父さんはもしかすると「戦艦や巡洋艦にでも乗って太平洋で戦いたい」とお思いだったかもしれませんが、結果としては中国で砲艦に乗っていたおかげで命拾いし、無事に故郷に復員して2000年まで天寿をまっとうできた、ということになるでしょう。 説明が長くなりましたが、質問者様の言われる「『祖父』という立場では非常に優秀な方だったと思います」は、客観的に見ても正しくその通りだったでしょう。そして何より「運の強い方」だったと思われます。海軍が消滅した戦後も、比較的順調な人生を歩まれたのではないでしょうか? 例:地方公務員になって定年まで勤め上げた、など。

toki_doki
質問者

お礼

 非常に詳しい解説ありがとうございます。 またお礼が非常に遅くなり大変申し訳ございません。  あの後色々と調べてみたのですが、日中戦争の頃は長江の警備を行っていたようで、その後ほぼ内地勤務が続き、最終的には特別陸戦隊に配属になっ て終戦を迎えたようです。  戦後の職業については解りかねますが、役所や農協に知り合いが多かった ようですので、そっち方面の仕事をしていたのかもしれません。

その他の回答 (7)

  • buchi-dog
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回答No.8

No4です。 旧海軍についての基本的な知識を身につけるのに一番お勧めの方法は、阿川弘之著「軍鑑長門の生涯」を通読することです。 上巻 http://www.amazon.co.jp/%E8%BB%8D%E8%89%A6%E9%95%B7%E9%96%80%E3%81%AE%E7%94%9F%E6%B6%AF-%E4%B8%8A%E5%B7%BB-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E9%98%BF%E5%B7%9D-%E5%BC%98%E4%B9%8B/dp/4101110077 現在は絶版ですが、図書館で見つかるでしょうし、新潮文庫で長く出ていましたのでネットで古本を買うのも簡単です。 この本は、学徒出身の海軍士官でもあった阿川氏が、膨大な数の旧海軍関係者にインタビューし、非常に良く調べて対象から昭和の海軍を「戦艦長門」をキーワードにして叙述したものです。昭和40年代に書かれたものですが、当時インタビューに応じた人たちは90%以上故人となっているでしょう。事実誤認などは皆無の素晴らしい資料です。 この本には、随所に「下士官から叩き上げた兵曹長、特務士官」が登場します。その描写を見れば、どういう下士官兵が兵曹長(准士官になれ、特務士官になれたのかが分かって来るでしょう。 東大の文学部を出て戦時下の海軍士官(海軍大尉)となり、戦後は高名な作家となって現在に至る阿川氏の目から見て、准士官や特務士官には「途方もなく優秀な人」が多かったようです。

toki_doki
質問者

お礼

 本の紹介ありがとうございます。 手に入れて一読してみたいと思います。ありがとうございました。

noname#49020
noname#49020
回答No.7

 NO.2,3です。  質問者さんは、お祖父さんの海軍時代のイメージを追求されているようですので、引き続きその線で想像をまじえてお話させてもらいます。  お祖父さんが昭和17年11月の「海軍武官官階及海軍兵職階」の改正で「特務」という字句がなくなってから、少尉に任官されたものか、それ以前に特務少尉になっていて、その改正により特務がとれたものかは存じませんが、墓誌に刻まれている「正八位勲六等海軍少尉」は、正しいものです。  しかし、昭和17年の改正で「特務」が取れたといっても、実際には指揮権などで学校出の士官とかなりの差があって、終戦までは特務士官制度は事実上存続しており、必要に応じて「特務士官たる少尉、中尉・・・」などと呼ばれ区別されていました。  一般市民でも17年以降も『あの方は少尉でも、たたき上げの特務少尉だよ。』という言い方をしていました。だからといって特務士官を軽蔑して言っているのではありません。むしろその逆でしょうな。  お祖父さんが中国で乗っていたフネは↓こんなヤツではないでしょうか。 http://www.horae.dti.ne.jp/~fuwe1a/newpage412.html  最後は陸軍に・・・と質問文にありましたので、そんな気がします。

toki_doki
質問者

お礼

 再度の投稿ありがとうございます。 同じような船の写真を見たような記憶があります。  

  • buchi-dog
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回答No.6

No4です。 お祖父さんが勤務しておられたのは、外洋から揚子江を遡行して上海~南京~武漢あたりを警備していた「河川砲艦」です。 この部隊の所属将兵は、満洲にいた軍や民間人のように、シベリアに拉致されたりソ連軍と現地人の無制限の略奪暴行強姦虐殺に晒されることなく、「昭和21年になる前に」内地へ復員できた筈です。 お祖父さんは、海軍の将兵として、内地の陸上ににずっといて、空襲で死んだりせずに生き残った人の次に運が良かったとお考え下さい。

toki_doki
質問者

お礼

 再度のご投稿ありがとうございます。 最終的に内地にいたのか、海外で終戦を迎えたのかは解りませんが、 相当運は良かったようです。  ありがとうございました。

  • koon1600
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回答No.5

私の曽祖父にとても近い経歴を歩んでいますね。もっとも、曽祖父は本土の地を踏まずに戦死していますが(私の曽祖父の一人も海軍少尉でした。ただ、太平洋戦争中はおもに陸戦隊として活動し、ニューギニアで戦死したので、大尉ですが)。 非常に詳しい説明はすでにされていますので、ちょっと補足がてら。 まず、特務仕官というのは、いわばたたき上げの仕官です。ただ、中身としては仕官でありながら仕官ではなく、もし兵学校出身の仕官がいた場合、特務少尉は普通の少尉の下に置かれます(つまり、形式上は同一であっても同一ではない)。この差は、額面上は1942年に廃止(つまり特務仕官と仕官は額面上は同列化)されますが、中身は残っていました。 なお、たたき上げの仕官は、どんなにがんばっても尉官どまりが普通で、例外中の例外として、功績の高かった人は予備役編入直前(定年みたいなものです。非常時に呼び出される可能性はありますが)に少佐の位を、記念的に贈られることはありました。もしくは戦死した場合、少佐になることがありました。 また、優秀かどうかといえば、たしかにあまりに不器用な人では難しいでしょう。 ただ、どちらかというと特務仕官というのは「その道のエキスパート」なのですね。今で言うところの、工場の職人とか、そういった形です。才能というよりはむしろその経験から来た、作業上のノウハウを活用したり、下っ端の管理などを行うことを求められる地位です。 その点では、航空科や水雷科、砲術科など、科が違っていても将来は艦長か艦隊指令などの指令職になる、士官学校出とは大きく違いますね。 ですので、優秀かどうかというと判断は付きかねます。ただ、少なくとも下ではないですね。結局は能力というより、実力よりも勤続年数と勤務経験ですから。 なお、日本は戦中になってから徐々に下士官の待遇が改善されていきましたが、ドイツなんかはかなり違っており、実力があれば30歳で将軍になるという世界ですし、パイロットの待遇も、エースは大尉(もちろん特務などではない、正真正銘の大尉)になったり、勲章をどんどん出すというスタンスでした。日本はパイロットについては真逆で、とにかく画一化を目指しました(エースパイロットの撃墜数さえも、個人主義を煽るからと数えなくしました。ただ、戦争の後期には士気高揚の目的で数えるようにしていますが) 質問者さんのおじいさんが付いていた職というのは、ある意味非常に幸運(ただ、華々しさはまったくなく、どちらかといえば閑職ではあるのですが)な位置ではあると思います。 中国は、たしかに満州はソ連の侵攻で戦後はかなり悲惨な状態に陥りましたが、いわゆる中国本土はどちらかといえば安定しており(特に、河川なんかは最も安定している地帯でした。むしろ陸上のほうがゲリラがひどい状態だったので)、その点で非常に幸運だったといえます(フィリピンやニューギニアに次々と転戦したうちの曽祖父よりは、かなり幸運だったと思います)。

toki_doki
質問者

お礼

 祖父も最終的には陸戦隊配属だったようです。 ご意見ありがとうございました。またお礼が遅くなり大変申し訳 ございませんでした。

noname#49020
noname#49020
回答No.3

NO.2です。 >海軍では、主に中国で河川の警備業務 を行っていたようです。(最後には陸軍に編入されたらしい。) ・・・このことについて、どういうことなのか想像してみました。  中国の揚子江(長江)や洞庭湖に、河川用砲艦よりもさらにちっちゃい「砲艇」などがあって、警備業務をしていました。  これらは正規の軍艦籍を持っていませんので、詳細はよくわかりませんが、大陸での戦線の拡大につれて、陸軍の部隊に運用されたことがあったようです。  お祖父さんはこのような「砲艇」艦隊?の指揮官であったんじゃないでしょうか。

toki_doki
質問者

お礼

大変遅くなり申し訳ございません。  ご意見ありがとうございました。どうも、「陸軍」ではなく、「陸戦隊」 の勘違いだったようです。  ありがとうございました。

noname#49020
noname#49020
回答No.2

 お祖父さんは正真正銘の士官です。  海軍兵学校や商船学校などの卒業生ではないと思われますので、兵からたたき上げて出世されたんだろうと思います。普通は中々少尉まで上がれません(うまくいって兵曹長止まり)。  ですから大変優秀な人だったんだろうと思います。ただし、学校出のエリートではありませんので、少尉といっても「特務少尉」というものだろうと思います。別に偽物の少尉ではありませんが、学校での本物の少尉よりチョッと下に見られていました。  でも特務少尉でも偉いですよ、大したもんです。こういうたたき上げの特務士官の方が学校出のエリートより仕事をよく知っていて、部下から信頼されていました。 海軍の階級と「判任官」についても、下を参考に。 http://www.b-b.ne.jp/yokaren/seido-1.htm

toki_doki
質問者

お礼

 お礼が大変遅くなってしまい申し訳ございません。 たたき上げと学校出で、同じ士官でも扱いが異なったのですね。 ありがとうございました。

  • 6dou_rinne
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回答No.1

何を質問したいのかがよくわかりませんが、おじいさんは最初は三等兵として海軍にはいり、兵曹(判任官)を経て最後には士官(少尉)にまでなられたようですね。 正八位や勲六等は長く海軍に勤め兵曹長や少尉になればまず間違いなく与えられますが。

toki_doki
質問者

補足

 早速のご返答ありがとうございます。 半任官ではなく、判任官だったのですね、失礼しました。  質問の趣旨は、少尉になるって、どのくらいのことだった のかな?ということです。誰でもなれたのか、それなりに 頑張っていたからなれたのか、等々です。  よろしくお願い致します。

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