- ベストアンサー
もし、右利きと左利きが半々なら
人々の意識には、なにか「スタンダード」という感覚が植わっていると思われます。そのひとつの例として、右利きの問題があるように思います。スタンダードだからナイフとフォークはこう置くとか、自動券売機の作りはどうとか、世の中の流れにかなり影響しています。 もし、左利きが半分いたらどうだろうか? 製品の「スタンダード」というものがなくなり、券売機もなにも「半々」のつくりになる。 で、一番大きな問題と思うのが、人々の意識です。「スタンダード」というものはこの問題に関してはない。右で握手するかどうか、聞かないとわからないとか、風俗習慣に影響が出て、より煩雑で気遣いをする社会になると思いますが、大事なのは、「あいつは俺と違う」ということが日常的に起こる、もしくは、「俺もあいつもスタンダードじゃない」 という感覚です。より相対思考に近づけるのではないかと思います。利点があるように思うんですけども、どうなんでしょうか。
- みんなの回答 (13)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
ほとんど、歴史に依存しているように思えるのは私だけだろうか。 例えば日本語を横書きにするときは現在左から右へ書いているが、元々は右から左へ書いていた。縦書きにするときも右から左である。 現在の左から右へは文字の構造からの必然(左上から右下へ向けて書く)、あるいは英語の影響といわれているが、それ以前の、右から左というのは、もし右利きのためにこう決まったとしたら、随分おかしな話になる。なにしろ、自分の書いた文字の上に手をかざして文字を書くことになるのだから、その下が見えない上、墨などが手に付いたりする。実際、表彰状などを書く場合は、左から右へ書く。つまり え あ ら ん 表 い た 彰 は 状 という表彰状を書く際には、「えらい」「あんたは」と書いて「表彰状」と書く。 ナイフとフォークも同じ事だ。なぜ右手がナイフで左手がフォークなのか。口に持っていくのはフォークなのだから、逆でも良かったのではないか。 尤も、左利きの人の不便さというものは実際にあり、例えばカメラなんかはシャッターが右側についていて左利きの人には大変不便だそうで、ある企業が左利き用というカメラを発売したところ、あっという間に売り切れたそうです。 > もし、左利きが半分いたらどうだろうか? おそらくはエスカレーターと同じ状態になると思います。東京は左側が停止、大阪は右側が停止、という具合に、全体を見れば半々になるかも知れませんが、個々の場所・地域に限って話を考えると、一定のルールが作られるものと考えられます。地方ごとのスタンダードが生まれる、というわけです。 これは、日本の道路では左側通行だがアメリカでは右側通行、というのと同じでしょう。そして、右側・左側通行のどちらかが選択された結果、それに適した自動車(日本では右ハンドル)が開発される、ということでしょう。 > 大事なのは、「あいつは俺と違う」ということが日常的に起こる、もしくは、「俺もあいつもスタンダードじゃない」という感覚 人間が鋳物のように全く同じであれば別でしょうが、利き腕が同じであっても我々は、また別の点を取り出してきては「あいつと俺は違う」と思うでしょう。肉体的に違いがなければ、性格、育ち、立場、なんでも構いません。そういう意味で、利き手が半々になっても、さして違いは生じないと思われます。 勿論、自分=スタンダードと考える人は少なくなく、「あなたの常識は世界の非常識」という諺?もあるくらいです。これを是正すること(これを相対思考と呼ぶかは別として)には、大きな利点があると思いますよ。
その他の回答 (12)
- code1134
- ベストアンサー率20% (703/3370)
少々哲学から外れますけど、先ず左右別の仕様になっている道具類の価格は右利き用が値上がりし、"左利き用は左利きの人数=右利きのそれ"になるのですから、量産が見込め、多少は値下がりすると推測して構わぬでしょう。多分 で、右利き=左利き同数状況を考えるに、(2007年12/22)現時点でもHPによっては日本語、英語etcと言う様に、文字の大きさも大中小と切替え機能を盛込んだ実例が多数派でないにせよ、見受けられます。 況や同数と言う状況なら、デザイン界で呼ぶ所の(利き手とは無関係に使いこなせる)ユニバーサルデザインを充分考慮して、道具類の生産がなされるのが主流になる、否ならざるを得ないと思うのです。 そして、(NO6さんが挙げられておられる)信号機の場合でも、視力障害者は残念ながら無縁ですけど、「"色別"障害者なら赤色と星印(★)、黄色を三角(△)、青色を現行通り乃至◇(菱形)と言う具合に組み合わせれば片付く」のであって、左利き=右利き同数状況なら、左利きから見れば、現行より増えるのですから、左利きの立場からの新たな発想も期待出来得る、筈だと言う気がします。 少なく共、左利きの私としては矯正との言回しが左右同数の状況では死語になっているとの願望を交えたカキコみを閉じます。 又、さして、哲学的考察に踏み込まないお粗末な内容にて失礼致しました。
お礼
経済的には、多少の停滞と発展があるのでしょう。HPの字体についてなぜあげられたかはちょっとわからないのですが、とにかく、マジョリティの都合で押し切られていることへの反省は促されるでしょう。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
左右が見えなくなりましたね。 ある狂言師は、袴を着けるとき、必ず左足から。 舞台に出る時も左足から。 そうなっておる、という躾だそうです。 私達の精進の場合(ヒンドゥの行)も、左足から。 数年前少しお邪魔した太極拳でもそう。 理由はわからないというご回答でした。 神経が左右交錯するのも理由がわからない。 決めたスタンダードかどうか判らない。 お稽古や精進、伝統では、最初の指導に理由や何もなくても、つまり偶々そうやった、ということを墨守して、伝える事もありえますね。 勤行や読経で払子というのか、毛のはたきなども、いう人によると、インドのジャングル近くで、昆虫がうるさいので追っ払う動作であったとか。 密教の護摩でも警蹕めいたものをいれるが、それもどうもその類という話もある。 スタンダードや決まりというのも、意味や根拠があるのかどうか、検討することもあるのでしょうね。
お礼
左右のしきたりというのは、多分に伝統宗教の、不合理な発祥からでしょうね。そういうものをも再考するきっかけになるんじゃないかと考えます。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
brageloneさん、私は優等とされているスタンダードに劣等感を抱かされてきておりましたので、こういう見識で明確に位置づけて戴けるとありがたい。 それにしても、世間がスタンダードといっている事に安易につく事も、それに異なる方式を安易にいくことも、楽なようで楽でないことを自身の実験的人生で知りました。 そしてどちらだというのを問題外にして、やっていくのだが、これはどちらになっているにしろ強靭な自分を必要とされている。 ANo.10のご回答を拝読しながらの日本人としての反省と想いがあります。以下、、、。 和して同せず、面従腹背をこして並べられれば、洵に意味また深長です。神権天皇制が否定されたのに、国体が護持されたとかは別にして、大多数の日本人は更に空ろになっても、生活の事で精一杯でしたか、このことにはケロリと過ぎていったようにも印象があります。 戦時中には体制(大政)翼賛のインテリであって、数日後には新しい日本の道を説いている人が居ました。 スタンダードも帚木の如く、あってなく、なくてあるがやはりない。 層をなして、大陸から、そして海のあなたから、強大な武力と文明が訪れ、深層を構成してきた日本人の基層としては、どこの被支配者にも共通している、防御でしょうか。 人が傘を差すなら、俺も傘をさそうよう、ちりりやちりり。 犬が西向けば尾は東、兄貴より儂より年がうえ。 という歌をよく聴きましたが、多分狂言からでしょうが、これが一面の心性を表示するかもしれませんね。
お礼
スタンダードの流れというものが、群れ意識とかしきたりへの無意味な系統とかそういうものも大きいはず。それに一太刀加えるためにも、左右の対象性があったらいいのではないだろうかという気がします。
《スタンダード》の内容が 明確になっていないように思います。 フランス人は 人と同じだと言われるのを嫌うそうです。行動でもそうであることが多いと言います。 日本人は 《和して同ぜず》だそうで 人と同じではないけれど まづ和すことが大事だと考えているのでしょうか。あるいは 時に 面従腹背とも言いますから 和すのは そういう振りをしているだけだとも見られるそうです。戦時中の日本人は 天皇が現人神だと言われて そう信じるという振りをしていたのだという調査があるようです。 もう一度元に戻って 《和して同ぜず》のごとく振る舞っているとすれば 《スタンダード》は それほど 問題になっていないとも思われます。つまり 日本人は 何から何まで《右へならえ》であるというような悪評を得ていますが その内実は それほどでもなく 違っていて 十分な割り合いのへそ曲がりも 天邪鬼も いるようでもあります。 (ほかのみなさんの回答を読むと 立派ないいへそ曲がりも多く見受けられるようです)。 思想として妥当であるかどうかというスタンダード これは 問題です。《相対思考》が 必須のことがらです。 箸で食べるか フォークか あるいは 手(指)でかについては それぞれの社会にスタンダードがあるでしょうが 自由でいいでしょう。この内容のスタンダード問題は 相対性思考の以前であるように思います。 あるいは もしこの類型で スタンダードが問題になっているとすれば そのときには 仮りに《右利きと左利きとが半々》になったとしても それはそれで 新たな悪いスタンダードを拵えてくるというものかも知れません。放っとくしかないかも知れません。 つまり もう少し 質問内容を特定してくださるとよいと思うのですが。(ただし スタンダードが問題となる思想・言論のことについては 《相対思考》が大事だと すでに 答えは出されていますが)。誤解がありましたら おゆるしください。
お礼
スタンダードという言い方はあまりよくないですね。 多数派の安定化というか、妄信化というか、相対思考の欠如というか。 それを正すのに左右利きの同数かはいいのではないかと。 人が偏りだすとか、派閥化するとか、それは抑えようがないと思いますが、もし、一番日常的である左右非対称製品とか、人の動き、スポーツ文化などが、左右の別なく対照的である(左回りの野球とかが球場によって半数あるとか、左右対称のキーボードとか、いろいろ)ことが実際にあることは、なにか一番人の心に訴え続けるのではないか、相対思考に近づく一番いい道なのではと思うしだいです。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
≪スタンダードを非難して、自己の持つ特性を肯定し、平等を目指すのは、現代人がナルシストと言われる所以である≫ 自分なりでしかいられない、結果としての一種の変人奇人というひ弱な自分を、何度も誡めていかざるを得ない根因を上記のセンテンスから知ることを得ました。 個性のための個性も、ナルシストとしての特性肯定も、まことに鼻持ちならないものだし、ひ弱な根無し草ですね。 そうでない、きちんとした常識のある、自分性を持して生き抜いていった、強靭な方を存じ上げているので、このお話は自分には耳の痛いものでした。 現代は、一定程度のスタンダード逸脱が許されるのですものね。
お礼
まったく納得します。 そのお話をより深く理解するために、左右利きの同数かは、違った角度から利くような気がします。
- adaypajimy
- ベストアンサー率20% (201/964)
スタンダードを非難して、自己の持つ特性を肯定し、平等を目指すのは、現代人がナルシストと言われる所以である。自己を肯定したいあまり、ほんのわずかな差をもってして、スタンダードを非難したがっているだけなのではという見方もできるかも。スタンダードが無いというのは秩序がまったくないということであり、みんなが身勝手なことを主張し始める時代でもあります。 例えば、男女問題が相対的な思考を生み出したか?といえば確かにそうかもしれませんが、問題が煩雑になっているだけで人間が他者との関係をとり保ちやすい賢者になれたかといえばまた別な問題で、男女問題は地平線になりつつも永遠の人間のテーマなのだと思います。 とはいえ、剣術を習う際は右手で刀を振るうように習うので不便に感じたり、文字(日本語)を左手で書く人は大変そうに見えます。現在の文化が大きく変化した様式になっていたと想像することは楽しいですね。何か劇的な事があったのかも。
お礼
スタンダードというものが、果たして妥当なことであるのか、あるいは「流行」のように意味のないものであるのか、その判断が難しいところです。で、かなり後者よりになっているものも多いんじゃないかと。それを強制するのに、左右利きの同数というのが利くのではと。 男女問題は、やはり難しいですね。違った人間ですから、理解できる人は限られます。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
≪マイナーを自負する人もいれば、劣等感を持つ人もいる。≫ 私は母にも、恩師にも小さい頃から、変わり者、偏屈、変人といわれてきましたが、『理屈に適っているのになぁ』とか『だからなんだというんだ』と思ってきました。 二十歳のとき、同じ年齢の同僚の女性(キャリア)が『おばさん(用務員)に変人といわれた』と立腹していた。 議論ができなくなると、『人は偏屈野郎』といって中断し、一刀両断したつもりになっている、ことが多い。哀れな人だ。 ひとはみな個性的な面もあり、孤独なところもあるものだから、だれそれが少数だ、変わり者だというのもおかしなことだ。 自分も、他人も個性性があり、一般性が、共通性があるのを知っていることが必要だし、そのそれぞれにどう生きていき、他人のそれにどう対応し、大事に或は、異なる扱いをするかが人間の訓練だ。 特徴や個性をどう認め、扱うか。 仰せのおサルさんは困る。自分も自省。草と風。これは教えでした。 どういう根、どんなところ、どの深さ、どのようにですね。 風。ほとんどの人の人生はみな影響、社会の観念の中で、受け取り、考え、行動せざるをえないので、風に翻弄されているといっていいのでしょうが。これができれば超然の聖者ですね。
お礼
大衆的には、人の事情はわからないから、深い思考ができない、専門的なことはわからないという、結局自分本位の思考法の寄り集まりという感じになってしまいますよね。お母さんのお話の件も、そういう類だと思います。おそらく、左右利きが半数いたら、一番日常的な問題だから、なんか意識変化が期待できると思うんですね。
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
人間は共通了解によりコミュニケーションを図っています。 何故右利きの人が圧倒的に多いのかというと、脳の作りだと思えます。 例えば信号機の赤は全世界共通です。 どうしてかというと、赤は波長が長く遠くまで届くという性質を持っており、人間が赤という色を捕らえる能力をもっており、赤という色に刺激を受けるという性質を持っており、これは人種に関わらず共通だからです。 でも中には色盲の人もいます。 そうなるとスピードの出る移動の乗り物の資格を取ることはできません。 危険だから免許を発行しないんです。 色盲の人がこの世に半数いたら、信号機の方式は別な方式になっていたと思います。 >大事なのは、「あいつは俺と違う」ということが日常的に起こる、もしくは、「俺もあいつもスタンダードじゃない」 という感覚です。 マイナーだという感覚ですか? マイナーを自負する人もいれば、劣等感を持つ人もいる。 人間は共通認識を使ってコミュニケーションをとっており、例えば、、、 ある人は「どうして痴漢が悪いことかわからない。だって女性は痴漢されると喜ぶじゃないか。だから俺は痴漢してやってあげている」と主張した人がいたんですね。 明らかにマイナーな人です。 その人に「人は殺されると喜ぶからだから殺してやっている」って人がもしいたら、あなたはこの人が異常だと思いませんか?」と聞くと、「喜ぶことをやってるのだから いいことだ」って答えて、こりゃ あかんわ・・・って思いました。 感覚がマイナーというより異常なのですが、本人からすると正常なんですね。 ある病気は自分が思考したことが、自分じゃなく相手が思考したと捕らえてしまう。 自分が痴漢して喜ぶ快感を、自分じゃなく痴漢されている女性の感覚だと、誤認識してしまっている。 脳の異常です。 これは脳の構造の欠陥ですので、言葉で説得しても無理です。 自分の感覚だと病気により自覚できない状態に陥っているから。 もし、このような人ばっかりが世の中の半数を占めていたら、社会はどうなっていたでしょう。 ならなかった。 ということは、そういう脳じゃない人が圧倒的多数で社会を構成しているわけです。 痴漢をされると女性が喜ぶという人を理解する というのは無駄というより、、、、、脳の構造が一体どうなって、どの物質がどういったどういった状態の時になると、そうなるかを医学で研究し、犯罪を防ぐため治療法法を開発するのが、取るべき手段であり、相手の価値観を大事にするというのは、無駄な行為だと思うんですね。 人は柔軟性があり、メジャーに添って行動することで、安全を確保する。 一般の人と違っても、自分は一般の人と違う、一般の人はこう考える という自覚を持っていれば、「普通はそうなるわなぁ」という感じることができ、自分の個性をどこで出すか選択して実行できるわけです。 すると争いが起こらない というか、 争いになるとわかっていても、覚悟しているので、まだいいわけです。 余裕が持て、よそうとおり異なる意見 というか メジャーの意見が出てきても、事前に準備しているので、「本当にそうか 世間は当たり前として考えることを放棄しているが、ちゃんと考えれば、おかしいことじゃないか」と問うことができる。 よく外国に行った人が「○○という国じゃあ」と言って日本の文化・価値観を批判します。 優越感を持って帰ってきたようになり、文明人として野蛮人を見下すかのような態度で、関心しません。 文化の違いをちっとも理解していないで、別の文化に洗脳されたサル。 外国では劣等感を持って、日本だと優越感を持ったかのようになっただけ。 自分というものを持っていない根の無い者。 で、根をちゃんと大地にはっている人は風が吹いたなびくが、根っこが抜けて飛んでいったりしない。 余裕で風に吹かれるだけ。 風に逆らって「俺はたなびかんぞー」ってやる行為はエネルギーの無駄な消費。 根っこがしっかり張っていれば、右に吹かれたら上だけ右にたなびき、左に吹かれたら左に上だけたなびく柳のようなもの。 だけど、思想がちゃんと大地に張っていたら、流転する世の中にあっても、根っこごとぬけて彷徨うことは無いと思います。
お礼
おっしゃること大変納得します。 メジャーは理がありマイナーは基地外かもしれない。しかし、それを認識してマイナー攻撃をやるかどうか、あるいは慣習から意味もなく優遇されるものもある。 この場合の問題は、もし、日常的に一番触れるであろう製品とか、建造物、スポーツなどが、左右対称性を持ったらどう意識変化があるだろうかということです。
補足
赤信号とか、そういうのは合理的に説明され、マジョリティーを確立しています。しかし、なにか「流行」みたいな意味のない動きは、実は右利きが大部分な社会というのも、もしかしたら加味してないだろうかという想像です。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
ANo.4補足: 個人や社会の生活や、そして物品がかわるだけではなく、意識も文化もずいぶん変わるでしょうね。 法律の考え方も変わるでしょうね。 普遍、不変という宗教も相当に変わるのでしょうね。 そういう面については、各専門の分野からのご回答が欲しいですね。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
利き腕ばかりでなく、スタンダードがあるがために、私も多くの試練と勉強をしてこなければなりませんでした。 回答者の皆様の仰せられているように、マジョリティはスタンダードをなくすこともできないでしょうし、なくすことよりも、いろんなスタンダードがあるし、ありうるのだと、スタンダードの中の人も外の人も認識している必要がありますよね。 そして互いにスタンダード外の人は試練と勉強で自分を鍛錬することと、スタンダード内の方はそういう人がいるし、ご苦労があるのだと知っているべきですよね。 異文化とかいうのもそういう面もあるのかしらね。 一にした多なる神の創造は一様なのに、洵に多様を以って見せてくれるものですね。
お礼
これを知るべきだ!と啓蒙したところで、大衆の意識など変化しないでしょうから、左右対称で人によりバリエーションがあるという日常的体験を続けるということで、ifの話としてどうだろうと思いました。
- 1
- 2
お礼
歴史的背景もありますよね。それは必ずしも、右左利きの問題でなく、宗教的であったり、何か別の理由からかもしれないというのはあります。表彰状もいわれてみるとそうですよね。 私はたとえば、反対周りの野球などが並存するのではないかと思います。その類推で、ずいぶんと左右のバリエーションが一般的になる。それがかなり可視的なものが多いので、人々の潜在意識になにか訴えかけるのではないかと期待するのです。もちろんこれは宗教的慣習などとは別の実用的発展方法です。 おっしゃるように、別の意味でスタンダード思考は健在でしょうが、しかし、目に見える製品のほとんどに左右対称バージョンが登場するということ、何かそこに違いを生み出すパワーがあるのではないかと。