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細川藩の54万石は?
熊本の細川藩は54万石と言われています。この収入で何人の藩士(侍)が暮らしていたのでしょうか? 熊本県で最低何人の公務員がいるのか調べていますので教えてください。
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#4です。追加&訂正です。 下記戸数に追加で、陪臣(藩士の家来)が3815戸、細川家の二つの分家大名(肥後新田藩、宇土藩)の家来が717戸あったそうです。これらの数字をどう考えるかは私の知識を超えますが、禄をもらっていたのは陪臣を除く総計に近い数字だと思います。 次に石高ですが、 寛永10年時点で、熊本藩の実高(≒実際の生産高)は約740,600石。 このうち約332,100石が蔵入地高(藩の分)。 残りの約408,500石が給地高(藩士の分)。 免(税率)は五ツ三分なので、実際の収入は上記の53%。 つまり藩の収入は約176,000石、藩士支給分は約216,500石。 藩士は各家の禄で、家族のみならず、家来、使用人を養います。家来・使用人は石高に応じた人数を雇用する必要がありました。 あと考慮すべき点としては、 ・財政難の時代には収入が100%支給されるわけではない事。知行100石なら53石の収入のはずですが、享保年間には15石の支給だったそうです。 ・藩士は藩の役職に就くと家禄とは別の給料をもらう場合があります。当主の嫡子が役職について給料をもらうこともあったと思います。 ・藩の収入は恐らく上記以外にもあるはずです。 以上かなり複雑になってしまいましたが、大雑把に考えるのならば、「藩士約二万人(4,281+15,118)が22万石の収入で生活」でしょうか。 家族・使用人などを含むと約九万人(16,050+71,733)だと思います。
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- sammi-2837
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下記論文によれば、明治三年時点の熊本藩では 士族:4,281戸・男女計16,050人。 卒族:15,118戸・男女計71,733人。 熊本藩は一般に五十四万石といわれますが、内高は確か七十数万石。税率は失念しましたが、仮に五公五民として、実収は四十万石弱。このうち藩士への支給分が確か三十万石ほどだったと思いました。(残りは藩主の分) 『国史大辞典』で得た情報ですが、数値の記憶が曖昧なのでご自分で調べなおして下さい。 卒族には郷士みたいなのも含まれているのかもしれませんが、詳しくはわかりません。他の回答者にお任せます。
お礼
ありがとうございました。郷里の熊本の事をほとんど知らないで何か恥ずかしいです。
- tanuki4u
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軍役と武士が何人いたかとは、極端な話関係ない。 鹿児島県は明治時代 100万人以下の人口で、士族が20%いたと言うことです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%BD%E9%81%93%E5%BA%9C%E7%9C%8C%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E4%B8%80%E8%A6%A7#1888.E5.B9.B4.EF.BC.88.E6.98.8E.E6.B2.BB21.E5.B9.B4.EF.BC.89 つまり 江戸時代の武士階級出身者が20万人。 5人家族として4万人の武士がいたことになります。 72万石ですから、軍役としては、1万5千人程度。 過剰な武士がいました。 熊本に在住であれば 熊本市史 http://www.city.kumamoto.kumamoto.jp/history/shokai/tsushi/kinse/1/2.html ここに 細川家の家臣団の数字が ずばりありそうです。
お礼
こんな本があるとは思いもよりませんでした。 ありがとうございました。
- tanuki4u
- ベストアンサー率33% (2764/8360)
54万石というのは、徳川家に対して、54万石分の軍役を働きなさいという意味です。 参考 http://s-mizoe.hp.infoseek.co.jp/m198.html 上記はゆるめられた時代なので、10万石で2千人。54万石で1万800人の兵隊=武士を徳川家への軍役として出兵させろということになります。 秀吉時代の朝鮮の役では、本役ですと100石につき5名。この計算だと54万石で2万五千人となります。 元和の軍役の時は、だいたい100石で4名計算です。
お礼
ありがとうございました。
- tanuki4u
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約二万人となります。
お礼
ありがとうございました。
お礼
ありがとうございました。人口比にするとおよそ5%と考えて良いでしょうね。