- ベストアンサー
砦、柵(中世日本史)
本城を中心とした場合、支城、砦、柵の規模の順で本城を防御していたと考えても良いのでしょうか。このうち砦と柵に興味があります。 1・砦、柵は小規模なので本城への敵が迫り来るのを時間稼ぎしようとする目的で作られた(程度)と言えますか? 2・砦、柵には最大どれくらいの守備隊を置いていたのでしょうか?(交戦前と仮定して) 3・中世日本史において頑強に敵に抵抗し、防ぎきった砦、柵はありましたか?
- みんなの回答 (3)
- 専門家の回答
本城を中心とした場合、支城、砦、柵の規模の順で本城を防御していたと考えても良いのでしょうか。このうち砦と柵に興味があります。 1・砦、柵は小規模なので本城への敵が迫り来るのを時間稼ぎしようとする目的で作られた(程度)と言えますか? 2・砦、柵には最大どれくらいの守備隊を置いていたのでしょうか?(交戦前と仮定して) 3・中世日本史において頑強に敵に抵抗し、防ぎきった砦、柵はありましたか?
お礼
2の宇田津砦の1500人は急造の割には守備隊が多いですね。市街地に近い地域に造られた事はめずらしいとのこと。軍道で繋いで補給等を行っていたと見られます。しかし写真が残っているのですね。凄いです。 また守備隊の中に本多平八郎忠勝の名もありました。チカラを入れて守備していた様子が分かり、単なる時間稼ぎではないことが分かります。 また、小牧長久手の合戦は砦と言えども本陣になりうるため1万なにがしの軍勢を留め置く規模だったことが分かります。まあ大戦規模なので地方大名同士ではもっと小規模だったのでしょうが・・・ いろいろ興味深いURL参考に勉強させていただきました。 回答ありがとうございました。砦と言えども侮れないことが分かりました。