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砦、柵(中世日本史)
本城を中心とした場合、支城、砦、柵の規模の順で本城を防御していたと考えても良いのでしょうか。このうち砦と柵に興味があります。 1・砦、柵は小規模なので本城への敵が迫り来るのを時間稼ぎしようとする目的で作られた(程度)と言えますか? 2・砦、柵には最大どれくらいの守備隊を置いていたのでしょうか?(交戦前と仮定して) 3・中世日本史において頑強に敵に抵抗し、防ぎきった砦、柵はありましたか?
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ANo.2のものです。 1 他の役割として国境沿いに配置することによって、隣国の情報収集の最前線として働かせていたりもしたようです。 2 ひとつの戦の例です。たまたま見つけました。 http://www.gld.mmtr.or.jp/~hiroh/rekishi/kinsei/utadu_toride.htm これによると1500人で大規模な砦であったことが伺えるので、常時はこれよりも少なかったのかもしれません。 もうひとつ。 http://ww36.tiki.ne.jp/~taketyan-512/siro3/aichi.html 場合によっては、本陣として活用された砦などもあるようです。 やはり状況に応じて利用されたと考えるべきでしょう。 3 詳しくはみつけられませんでしたが、小牧長久手で使用された二重堀砦跡(秀吉軍)では、多数の死傷者を出したけれど陥落にはいたっていないようです。下記を参照してみてください。兵士の数などもでてるので参考になるかと。。。 http://www.komaki-aic.ed.jp/bunka/kassup.htm
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- hakusyon1
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1 本城が国の中心とするならば、砦や柵は前線と考えられるでしょう。また、主要な城郭と主要な城郭の間などにも存在します。連絡路や補給路の保護的な役割でしょうか。軍事的な役割ですので、軍事的な要所や守りやすいところ、天然の要害のようなところ、峠、山間部、などに多くは存在しました。 2 人数的なことは詳しくはないのですが、とりあえず交戦前ならば戦略によって異なるでしょう。前線で食い止めたいのならかなりの数を配置するでしょうし、おとり的な役割なら少人数でいかに食い止めるかということになるでしょうし。 3 中世日本史の特にどのあたりでしょうか?私自身があまり詳しくないので、特にどのあたりか教えていただければ答えようがあるかもしれません。
お礼
1・城と城の補給路を確保していたのですね。なかなか重要な役割です。たんなる時間稼ぎかと思っていましたので考えを改めます。 3・これはすみません。補足させてください。戦国期と思ってください。(概ね、応仁の乱より関ヶ原までです) 回答ありがとうございました。
城とは、その土地の中心であり、支配者が住む場所を指します。 砦とは、軍事目的の城を指すと考えて良いと思います。 国境近く。国境の山の上。 など、商業の中心地にはなり難い場所でもあります。 また、城下には街は元より開けていましょう。 新たに築城した城(支城)も定義に入るのではないでしょうか? (国内の支配者が済まない城全て) もちろん、居城より小さくなると思います。 敵がどの程度の規模で来るのか? どの程度の大きさと兵力を入城させる必要があるのか? これで築城は決まりますし、大名の資金力も物を言います。 ですので、城と砦の規模での区分は曖昧です。 通常ですと、備えとしては2~3千だと思います。 5千であれば小国大名の本隊並の数です。 また、全軍が入れ、兵糧の蓄えがあり、間道もあり、補給路もあるのが望ましいです。
お礼
兵5千を小国の大名の本隊として2~3千。中々の守備隊兵力をさいているようですね。 補給路としても支城は活躍したのでしょうか。砦、柵への後方支援として支城があったのでしょうか。 回答ありがとうございました。
お礼
2の宇田津砦の1500人は急造の割には守備隊が多いですね。市街地に近い地域に造られた事はめずらしいとのこと。軍道で繋いで補給等を行っていたと見られます。しかし写真が残っているのですね。凄いです。 また守備隊の中に本多平八郎忠勝の名もありました。チカラを入れて守備していた様子が分かり、単なる時間稼ぎではないことが分かります。 また、小牧長久手の合戦は砦と言えども本陣になりうるため1万なにがしの軍勢を留め置く規模だったことが分かります。まあ大戦規模なので地方大名同士ではもっと小規模だったのでしょうが・・・ いろいろ興味深いURL参考に勉強させていただきました。 回答ありがとうございました。砦と言えども侮れないことが分かりました。