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古代人の卜占
卜占ということばを出しましたが、およそ、鬼神やアストラル意識、そして至高の神に、その意志などを伺う行為のことであります。 現代、このサイトでも、たくさんの占いなどの事項が載ります。 その目的や動機、きっかけ、や状況、そして次元は様々と存じます。でも信仰や畏敬に結びつくのは多くないと存じます。 中国における王侯などの亀甲、古代ギリシャでも、いろんな卜占、その他の式・行為は現代の方々の卜占などの行為の目的や次元がずいぶん違うと存じます。 1. 古代では限られた方の、しかも重い卜占的行為と現代の方々の生活の便宜などの卜占行為とは、どういうところが相違しているでしょうか? 次に、古代の方々は確かに純朴な方々でありましたでしょうが、でも僅かのことしか伝わってきておりません。 そしていろいろ伝えてくれる媒介としてのことば、受け取れる内容も本当かどうか判りません。 一方人類も長いか、短いか、その文明の歩みを歩んできております。 そういうことであるかも知れませんが、昔の仕方のずいぶん残酷さや、粗野な仕方に顰蹙するようになりました。 そういうことからして、古代の方々の尊崇は確かでしょうが、現代の方の尊崇の仕方でその理解をしてしまっては、当を得ない科も知れません。 2. そういうことで、昔の方の信仰や尊崇を理解する上で、私達はどんな注意が必要なのでしょう? 伺いたいことの説明の便宜から、二項目に分けてはおりますが、勿論耕作しても結構ですし、この二項目に限る必要もありませんので、どうかよろしくお願いします。 何でも、示唆ともなることでもお教え下さい。
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こんにちは。 参考になるかわかりませんが、お話を伺って室町六代将軍足利義教のことが頭に浮かびました。 彼は本来将軍になる立場にはなかったので仏門に入っておりましたが、甥である五代将軍義量の夭折によって候補者の一人となり、更には「くじ」によって将軍に選ばれて還俗したと言われています。 今の感覚で言ったら時の最高権力者を「くじ」によって選ぶなどということはもっての外の暴挙であるように思えなくもありませんが、あの時代の人々にとっては現代で言えば「民意を問う」などと言って選挙などを行うのとまったく同じ・・いやそれ以上に尊重すべき結果であったのでしょう。 「卜占」などによって「神意を問う」という行為は科学が未発達であった時代においては、まったく現代における科学と同じように「世界のありよう知る為のすべ」であった訳ですから、ここのところを現代における飽くまで副次的なものに過ぎない占いの類と一緒に考えてはその時代の人々の姿を的確に捉えることなど叶う筈もありません。 この辺のところは昨今見直されてきてもいますが、日本の歴史研究において最も欠けている視点であるように言われることも多いです。 それは何よりも近現代に「宗教」というものが不自然に置いてきぼりにされてしまったことが大きいように思います。 維新の前後に列強を見て周った人々は西洋人の「科学」力に驚かされると共に、その精神的支柱として如何に「信仰」というものが重要視され、それらが人々の中で違和感なく共存している様を目の当たりにしました。 そこで「我が国にもそのような国家宗教を」ということで所謂「国家神道」を作り上げた訳ですが、如何せん人々の素朴な信仰の対象であった神道をお上の力で無理矢理再編したものであり、何分にも急ぎ足でつくられたものであった為、結果的に人々の心を芯から捉えることは叶いませんでしたし、敗戦によってそれが真っ向から否定されたことで素朴な信仰であった筈の神道そのものが色眼鏡で見られてしまうような事態さえ招いてしまったのです。 勿論それ以前に江戸時代に敷かれた「檀家制度」によっても人々と宗教との関係は歪められてしまっていたと思いますが、それにしても「科学」のほうばかりに目が向き、そうでないものはすべて「まがいもの」であるかのように捉える極端なものの考え方が蔓延することによって、過去に起こった歴史上の事柄についてまでもそのような「ものさし」によってのみはかるといった態度になってしまったことは、大きな弊害であったと言えるのではないでしょうか。 現代に生きる人々が何を信じようと信じまいとそれは自由です。 しかしそういう態度を「歴史」を見る際に持ち込んでしまっては見えるものも見えなくなってしまうだろうと思います。 現代においても信じられないような大きなことを最終的には占いによって決めるような方も中にはおられるのかもしれませんが、やはり所詮は「個人」の範囲までが限界でしょう。 やはりそう考えますとその重みの違いには歴然としたものがあるのではないでしょうか。 何かわかり難い文章になってしまっていたらすみません。
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- poccuru5
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現代日本における占いとは現世利益が目的で、そこに信仰だとか厳かな心のありようだとかは入る余地がないように思えます。たとえば古代ギリシアの卜占、神託を例にすると、一見、現代日本と変わりないように見えます。 古代ギリシアでは占いが非常に頻繁に行われ、占いのバリエーションも多く、くじから、デルポイのような権威ある神託まで様々です。占う内容も大小多岐にわたります。 しかし考古学的発見によって判ることは、生活に密着した質問がほとんどです。こうした質問は比較的有名な神託所でも行われていたようです。つまり現世利益的です。 困ったことは、現世利益的な発想はデルポイのように地中海域の歴史を左右した権威ある信託所でもあったらしいことです。つまり信託文の内容が不正に政治目的に質問者に有利なように利用されることが多かったようなのです。むろん託宣を下す側による神託文の改ざんは重罪でした。しかしデルポイですら信託の内容が周辺国の影響から無縁ではなかったのです。 これだけを見れば、古代のギリシア人に信仰心などなかったことになります。ところが事実は全く逆です。 信託の内容を左右したがるという事は、それだけ、人々の中にそれを信じる心が深く根付いている証拠なのです。たとえば古代ローマでは軍事行動を起こすさい必ず鳥占いによって戦勝を占いました。それはなぜかというと、それをしないと民衆が納得しないからです。ですから、それが仮にあらかじめ用意された都合の良いものであったとしても必ず行われました。 では託宣を改ざんするような政治家たちに託宣をもたらす神に対する信仰心はないのでしょうか。 これも全くNOです。彼らは、この行動が神の意に沿っていることを人々に示したいのです。 そして彼らの信仰心は、公然と行われた卜占が、全く不吉な結果であったときにとりわけ発揮されたのです。つまり不可避の運命に対する恐怖です。 現世利益という観点からでは、おそらく古代人も現代人も大差ないでしょう。ですから問題なのは、1つの占いの結果が、大なり小なり『公然と』人々の心のありようを左右することではないでしょうか。 このようなことは現代日本ではありえません。それに現代日本人の信仰心は占いよりは、祈願することにこそ現れるように感じます。 これは、不可避の運命を示す、という神の形態の違いでもあるでしょう。だから和気清麻呂のような託宣のやり直しも可能なのかも知れません。
お礼
有難う御座いました。 やはり鳥が使われてもいたのですね。 日本でも八咫烏とか、チベットなどでは鳥葬とか、幸運の青い鳥とか、不死鳥とか、魂を運ぶとか。大空を飛ぶせいか、鳥はなにかと異界などの交流に考えれてていますね。 燕の関係で王になる子どもを生んだ古代中国の女性とか。 舌切、鶴の恩返し、などなど。そんな発想がたくさんあるものですね。 何事にも儀式、開始の突端。そして正当化や合理化は必要ですから、巫覡の需要はそこらにもあったのでしょうね。 信仰心というのを、一定の考えで定義し、措定しては、事をせまくすると存じますので、そういうことを含めて信仰というくるめることが必要でしょうね。古代中国王侯の亀甲占いの授業の際の思いでしたが、それしも、本当に尊崇と畏怖が純粋かどうかは、まことに紙一重よりも、寧ろ並立・並存なのでしょうね。これが人間というものでしょうね。 有難う御座いました。
補足
有難う御座いました ≪たとえば古代ギリシアの卜占、~~~一見、現代日本と変わりないように~~≫ 西欧文明の発祥と、歴史の教科書のギリシヤでは、現世利益や政治、そしてその延長の戦事に占いが執り行われた面があったというのは、よし・あしは別に、興味のあることですが、古来、どこの国でもそういう境目は不分明なのでしょうね。 つまり現実の生活や政治のために使われるとか、改竄されるとかは必然でしょうね。これが人間の生活なのでしょうね。 卑弥呼のシャーマニズムとて、どこまで本当に神意に忠実であったか。必要のための行事なのでしょうね。 現代の日常的、大衆的占いとは場面が異なるということはあるでしょうが。 そういうことも一定の神や不可視の尊崇が基盤にあってのことなので、それは現代の物質科学時代とことなった信仰が裏打ちしていたのでしょうね。 現代はそういうことも大きく変化しているのではないかということが、私の質問の動機のひとつでした。 有難う御座いました。
お礼
多少の間、どなたからもお教えがなく、どうしたものかなと考えておりましたが、貴重なご見識と知見・識見を頂き洵に有難う御座いました。 足利将軍をくじで、・・ということが神意の伺いの一つであったということ一つとっても、今の私達のくじに対する観念とがずいぶん落差のあるものなのですね。 聖性というものの観念が、もう私達には追想できなくなってしまっているようですね。 ありがとうございました。
補足
区主催の年長者さん向け、教養講座で、古代中国の事情を勉強して、卜占のことでの、現代の方々のいろんな占いとの対し方が違うのではないかと、想いがいきました。 でも後から、卜占に限らずずいぶん生活と観念、意識から尊崇や畏怖という気持ちがすりきれてきているなぁと思いました。 ルネッサンス人文主義の素晴しさは、あしき面でもあって、何でも人間中心、個人というより、エゴ的生活し方が中心になってしまって、復古的ですが精神性が不毛になったのかな、と思いました。 それでは人間というものに偏りができてしまうのではないかなと。 同時に近代は、ちゃんと聖性を扱うように改善や改革ができてきているのですが。 国家神道の動きの契機もわかり、もっと、それ以前の神道とわたしたちとの関係がわかりたいなと、思っております。 檀家制度は弊害が目立ちますが、その影ではきちんと求道に勤しむ精進の方もおられたのでしょうね。 熟読玩味して、よく勉強してみます。有難う御座いました。