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キリスト教で言う自殺禁止の(傍系的)理由
教義的に自殺の禁止いわれていますが、もしかすると、傍系的に違った目的が無いでしょうか?それは結局必ずしもキリスト教で立脚していない現代社会についても「自殺の寛容」という事は少なくとも無い、という理由に通じている気がします。 それは、「社会秩序維持」ということです。 つまり、もし自殺に寛容な社会というものがありますと、幇助も奨励される事になるわけで、方々で自殺にかこつけたあるいは捏造した殺人事件が多発する事になると思います。保険金目当てであったり、もちろん消すべき人間を消すという政治的怨恨的通常殺人事件その他、介護の疲れでの殺人(こちらはかなり援助すべきという意見も北欧などであるようです)、もろもろのものが生起します。それらによって、偽りの遺言書やら遺書を捏造して自殺に見せかけ、本当は殺人者の利益を得るという行為になる、そういうことが横行するでしょう。 だから、キリスト教の支配があったヨーロッパなど、自殺の禁止と呪文的に、もちろん教義的にということなんですが、人民が唱えさせられたのは、もしかすると、こういう自殺の禁止による社会秩序維持を知らず知らずに行ったのではないか。そんな気もするのですがどうなのでしょうか?
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No.4です。 >自殺の不寛容についてのかくされたわなというか深慮というか、無意識的為政者の心得のようなものが隠顕されたことはないでしょうかね。 調べてきました。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%AE%BA 他に方もおっしゃったとおり、あの(笑)アウグスティヌスが原因ですね。 『キリスト教で自殺に対する否定的道徳評価が始まったのは、聖書に基づくものではなく4世紀の聖アウグスティヌスの時代とされる。当時は殉教者が多数にのぼり、信者の死を止めるために何らかの手を打たねばならなくなっていた。また10人に1人死ぬ者を定めるという「デシメーション」と呼ばれる習慣のあったことをアウグスティヌスは問題にした。693年にはトレド会議において自殺者を破門するという宣言がなされ、のちに聖トマス・アクィナスが自殺を生と死を司る神の権限を侵す罪であると述べるに至って、すでに広まっていた罪の観念はほぼ動かし難いものになった』 殉教は自動的にキリストに似た神格化をもたらし、栄冠とされ、イエスを真似ることを求めて、非常に多くのキリスト教徒がわざと方を犯し、死刑を求め、騒ぎ立てたので、キリスト教徒は当局に厄介をかけないですむ自殺用の縄とか弾劾はないかと尋ねたほどたったそうです。 初期のキリスト教のいくつかは、天国の列福者に加えられるには殉教が必要だと教えた。 聖書外典の福音書には、イエスの言葉を引用し、「まことにあなたたちに告げる。死を恐れるものは誰1人救われることはない。死の王国には自らを死にいたらせる者のものだからである」とあるそうです。 テルトゥリアヌスは「自分の血を交換に与えることで、神の完全な許しが得られるように」と殉教に憧れたそうです。 これに対してグノーシス派は殉教をあざ笑い、これは神を人間の血に飢えた人食いにすると言った。 そして殉教の弁護者はお互いの間に殉教の重荷を負わせすぎるといった。 とまあ、キリスト教が殉教することがいいことだと教えて、信者が殺されようとして、ローマ帝国で大暴れして、それで迫害されたってことに話がなったらしいです。 キリスト教が迫害された理由として、彼らが社会不穏を起こしていたからと聞いたことがありますが、これも1つの反社会行動だったわけですね。 で、これだと、社会に不穏分子として受け入れてもらえないので、方向変換したのではないか と。 信者 上の考えが変わるたびに右往左往ですね。 デシメーション。10人の1人の死ってなんでしょうね。 deathmationだとFFしかヒットしないし。 謎の習慣だ。
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- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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知ったかぶりに聞こえますが、今朝の勤行で不可聞の言葉のおしえから、謹んで投稿します。 自己(そして万人・万物)の存在は神の領域ですからね。 それにQNo.4201409で回答もありましょう。 地上的、そして派生的効果としては仰せの、「社会秩序維持」もあることを勉強させていただきました。
- kigurumi
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お礼
ありがとうございます。勉強になります。
- kigurumi
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>こういう自殺の禁止による社会秩序維持を知らず知らずに行ったのではないか。そんな気もするのですがどうなのでしょうか? うーん。 まず キリスト教が自殺を悪だとする理由は、ユダだと思えるんですね。 ユダは自殺したことに 一応なっていますから。 ですが、この表現は別なものを意味するんじゃないか と私は思っており、悪人ユダが自殺したから、自殺した人は悪人であることを証明したことになる 的に考えられたのではないか と。 社会秩序というより、まず キリスト教の幹部は、信者からの寄付金で生活費を稼ぎ出していることに注目しなければなりません。 だから、働き蟻が減ると収入が減る。 奴隷を生かさぬよう 殺さぬよう 飼育するのが、頭のいい支配者ってことじゃないか と。 グノーシス派の創世記では、低俗な神が人間を自分の農場で働かせていた。 そしてアダムとイヴは知恵を持ったことで、自分達は奴隷は低俗な神を本当の神だと思って、コキ使われていることを知ってしまった。 それで、騙していた低俗の神から逃げた ってなっています。 あ、とにかく支配者は、奴隷に自殺してもらっては、食べ物が減って腹へるから困る。 だから 自殺しちゃいけない と教えたのが本当の理由だったのではないか と。 日本の神道の場合、死をケガレと捉えるんですね。 だから 死者が出た家の人は、一定期間聖所に近づいてはならなかった。 喪中ってありますでしょ? ですが、生きているうち穢れてしまう場合もある。 その時、そのケガレを死を与えてケガレを取り払う役割をする人がいた。 人を殺すことはケガレですから、武士は直接やらず、外注にその役割をやらせた。 他に自害することも、ケガレを祓うとも考えたわけです。 悪いことをしながら穢れたまま生きるより、どうしてもケガレがとれず悪行をして苦しんでしまうのなら、自害することで、それを止めることができる と考えたのではないか と。 誘惑に負けずに自害することで、誘惑に勝ち 勝った瞬間 ケガレは消えると考えたのかも。 なんか ユダの福音書のイエスみたいな考えですね。 日本において、自殺した人が法律で裁かれるということは無い。 自殺は悪いことだと定めていないんですね。 ですが、自殺者が増えると、社会不穏が起こる。 連鎖で自殺する人が増えれば、さらに社会不穏が起こり、GNPが落ちる。 国力が弱まるわけで、国としてはそれは避けない。 でも法律で「自殺したものは末代まで刑務所に入れるぞ」と脅すわけにはいかない。 不穏の原因を取り除くことで、自殺者を減らし、GNPを回復しようとするわけです。 自殺者が社会秩序を乱している とさらに死者に鞭打って、何か意味あります? 追い込んだのは誰でしょう? 社会じゃないでしょうか? その主犯格が自殺した人にさらに鞭打つ。 それじゃあ 社会は狂人の集まりになっちゃいますよね。 日本はキリスト教文化とは違う。 キリスト教のように死者に鞭打つなんてしない。 責任転嫁してさらに死者からむしりとろうとするハイエナとは違うんですね。 日本人は人の心を持つ人間です。 ユダが罪の意識を感じて自殺した? 違うでしょ。 殺したんでしょ。 キリスト教がユダを裏切り者にしてしまい、あげくに罪の意識に耐えかねて自殺したと勝手に物語を作ったわけです。 http://nationalgeographic.jp/nng/topics/n20060407_2.shtml こんなものあったら、勢力拡大 奴隷大量獲得に支障きたしますから、異端として排除して、奴隷たちに見られないようにした。 隠蔽から2千年。 悪いことはできないですね。
お礼
大体お話的には納得できるのですが、自殺の不寛容についてのかくされたわなというか深慮というか、無意識的為政者の心得のようなものが隠顕されたことはないでしょうかね。
- v7nV1dZjx
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「傍系的」ってなんですか? 文章の中で矛盾しているようですが。
お礼
ありがとうございます!感謝します。
- outerlimit
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命は神の領分で 人間が勝手に如何こうするものではない 自殺は神への反逆である
お礼
ちゃんと答えなさい。
- chie65536
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「死ぬことなく、生きながらえて ——現代キリスト教自殺論の試み」日本いのちの電話連盟常務理事 斎藤友紀雄 より抜粋。 ------- ユダヤ教や原始キリスト教においては、自殺禁止は聖書に必ずしも明記されていないが、キリスト教における自殺論を神学的にはじめて確立したのはアウグスティヌス(Augustinus)である。彼は、自殺は悔い改めの可能性を閉ざし、またモーセの第六戒「殺すなかれ」を犯す罪であるとした。アウグスティヌスに続く中世の神学者トマス(Thomas, A.)も自殺は自然の本性に反し、神の主権を侵害するものだとした。またトマスの影響を受けた同時代のダンテが『神曲』の地獄篇で、樹木となって哀しんでいる自殺者の群を描いたことはよく知られている。したがってキリスト教世界では古くから、自殺行為は宗教的にも道徳的にも罪であるとされて、厳しく断罪されてきた。たとえば近世では自殺者は神への反逆者とされ、一五九八年、スコットランドのエディンバラで入水した女性は、町のなかを逆さまに引きずり回され、その後絞首台にかけられた。また同じ時代フランスのパリで、若い男性の裸の死体が、勢いづいた白馬に牽かれ町を引き回されるということがあった。木の橇にうつぶせに横たえられ、両足はロープで絡められ、腕は後ろに回されていた。その死体には群集が群がり、ある女性はその恐ろしい光景にたじろぎ、子どもは恐怖のあまり口を開けたまま見つめていたと伝えられている。教会は、葬儀はもちろん墓地への埋葬も拒否した。しかし一八世紀の啓蒙期・革命の時代になると、自殺を断罪する教義や法律も形骸化し、残酷な刑罰の執行も姿を消していった。もっとも英国では一九六一年まで自殺は刑法上の犯罪でもあり、未遂者が拘留されたというが、信じがたいことである。 ------- と言う訳で「神にそむく行為」として断罪されただけで、他意は無いようです。
お礼
そうですか。教義的には純粋なものだったのでしょうかね。それを後々まで純粋に保てたのかどうかなんです。
お礼
殉教の強制なんてあったんですね。それに対する妥協や懐柔などでいろいろと都合のいい理屈をつくっていったということも確かにあるのだと思いました。ありがとうございます。