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理論と感情は別ものなのか?
- 感情も全て論理的に説明できるし、本来そうあるべきというか、物理法則に従っているのだから、必ず論理的に説明できると思うのです。
- 個人的には、「感情に頑張れと言ってはいけない」と思いますが、多くの人は「新しい道を見つける」ことが正しいと考えます。
- 理論と感情の関係について、皆様の意見をお聞きしたいです。
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「論理的に説明できる」とは何か、その意味を考えてみましょう。 先ず、貴方自身(物理的にも心理的にも)とは客観的な存在で、自分を離れた外側から見たとき既ににそこに与えられているものなのでしょうか。それとも、自分の意識を貴方の外側に出して眺めて得られた情報が貴方のあり方に影響し、したがって最早眺める以前の貴方ではない新しい貴方が出来、その新しい貴方が改めて貴方を眺め直すことによって、さらにまた新しい貴方が出来、と言う具合にぐるぐると繰り返しながら貴方が変化する、すなわち、貴方自身とは、物理的にも心理的にもそこに「ある」という存在ではなくて、そのような変化を続ける「なる」という何かなのでしょうか。このようにぐるぐる回りながら、どれが原因で何れが結果かと単純な因果律で理解することの出来ない現象は、物理学では「非線形現象」と呼ばれております。 因果律は結構複雑な「律」です。この律は決して過去が未来の原因になっていると言うような、単純な形ではとらえらることはできません。例えば、貴方は、今ある行為をするかしないかを決めるために、それをした場合に起こりうる未来を予測しますね。そして、確率的に起こりうる未来の事象に基づいて、今の行為の修正をするはずです。その場合、未来に起こることが今のあり方を決めているという意味で、未来が過去の原因になているということもできます。そして、この場合にも、今やるべきことと未来に起こるであろうこととの間を論理がぐるぐる回りながら、したがって強い非線形現象を伴いながら、「時間」が、貴方の「存在」ではなくて、貴方の「変化」の中を流れて行きます。 近代物理学で長足の進歩を遂げた「カオスの理論」によると、決定論的な物理学の基本法則に従っているにもかかわらず、殆ど全ての力学系では初期条件をどんなに正確に選んでも、上に述べた非線形現象によって、それから無限小離れた初期条件の運動とは全然違った軌道を描くことが分かるようになりました。 そのような世界では、曖昧さのない決定論的な論理的命題の列を通じて得られる結論の無限近傍に、それとは全然違った結論に導く無限に多くの論理命題の列が存在し得ることが可能です。我々の住むこの複雑な世界では、それが可能などころか多分その場合の方が圧倒的に多いはずです。 我々の世界がもしそのように出来ているとしたら、「論理的に説明できる」という命題そのものの意味が何を意味するのか、考え直す必要があります。このような世界では「ある」ではなくて「なる」、すなわち、客観的に存在しているものを理解するための「決定論的な論理的説明」、ではなくて、事象の変化の時系列として確率論的に存在し得るものを如何に理解するかという「確率論的な論理的説明」が要求されます。 決定論的な世界では、旧態の因果律によって現在の初期条件が全未来を決定していることになります。それに対して、非線形効果の結果現れる確率論的な世界では、現在に与えられているのは「可能性」だけであり、まだ未来は与えられていません。そのような世界でのみ、各個人はこれから来る未来の構築に参加出来るのです。そしてこの非線形効果を通じて、「自殺」や「他に生き甲斐を見付ける」ことが、我々の未来の構築にどう関わり合うのかという問い掛けとして、この「自殺」や「他に生き甲斐を見付ける」という命題を論じるべきだと思います。
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- Yusura
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タイトルを拝見して、以前「感情と論理」について見聞きしたことが頭に浮かび、 ご質問を拝見しましたらつっこみたい箇所多数でしたので、まずそちらから。 :私は哲学に疎い人間ですので、哲学畑の文脈に沿ったご回答はできませんし、 仰るツァラトゥストラはかく語りきの質問も拝見せずに失礼とは思いますけれど。 まず。 タイトルと本文の関連性がかなり薄いような気がします(笑) とりあえずわかったのは、質問者さんは何か考えて積み上げてみたつもりなんだけれど、 客観的にはそれは「論理の形をとろうとしている感情」にしか見えないということです…。 つまり、非常に個人的な感情のみで物事を捉えていて、 それが事実であるかどうか、つまり広い世界でも通用する論理かどうかの検分が なされない、できないところが失敗の原因かなと思います。 次に。 >間違いなく皆さん、その後の展開として「自殺」を思い浮かべたかと思います。 いや、思い浮かびませんでした。予想だにしなかった驚愕の展開… とまではいいいませんが、読んであっけにとられましたよ。 そもそも、「史上最高のピアニストになれるかもしれない少年」は、 「史上最高にピアノ演奏が嫌いな、親の名誉欲の犠牲になっているだけの少年」かもしれないじゃないですか… まぁそれはさておき。 ある目標を自分の生きがいとして定めた人間でも、その生きがいを失って死ぬ人間ばかりではありません。 ピアノの演奏で何かを表現している少年が両腕を失ったら、次は両足で弾くことを目的にするかもしれません。 そしてそういう人は複数実在します。 現実問題として、生きがいを失ったからといって、「死ぬのが怖い」とか 死に至るほどの苦痛に対する恐怖という、原始的な感情まで失うわけではないでしょうし。 それから。 両腕を失った少年のその後に対して、「正解」という単語を使ったことに、 ひどく違和感を覚えました。(この言い方だと自殺が「不正解」となりますが…? 自殺が薦められないことは確かとして、そのように数式のように割り切った表現はひどく冷たく聞こえます) 正論だとかなんだとか、そういう問題なのでしょうか? (ここが論理と感情というタイトルにつながるのですか?) 次に。 >皆さんもご想像つくかと思いますが、私も間違いなく次の瞬間、彼は自殺すると思います。 いやいや、まったくご想像にもつきませんでした。 「次の瞬間」自殺するというのも新展開です。 >個人的にこれは、彼に「死ね」と言っているに等しいような気がするのです。 個人的にそういう気がするのは自由ですが、私はなぜ「生きろ」といって 死ねというに等しいのかわかりません。 生きがいを失った人間は生ける屍であるという比喩かもしれませんが、 比喩で人は死にません。 cat_vさん、実際の死と、いわゆる「精神の死」を混同されていませんか…? というわけで、質問者さんの世界観や人間観がだいぶ、 私自身の「世間とは一般的な人間とはこうだ」と違うということはわかりました。 ちなみに、現実の社会において、「生きがいを失って自殺する人」というのは、実は、 「生きがいを失ったと知らされた瞬間に自殺する」というものでもないようです。 私自身の感情としても、実感はそうです。 で、質問文の「論理」とは、「自殺が不正解であるのが正論」ということを意味していると感じました。 感情というのは、「生きがいを失った人間は自殺したいのにちがいない」というあたりですね? どうでしょうか? 当たっているとするとコレ、論理と感情という問題じゃないのが問題ですが。 タイトルの「論理と感情は別」というのも、そもそも別の事象に別々の名前を与えたのですから、 最初から別だと思うのですが。 感情というのは、その進化論的な発生のすじみち、大脳の中で感情がわく生理学的なメカニズム、 個人が感情を見せる状況に対して心理学的な説明、 そういうものは論理的な説明ができるものだと思うのです。 ただ、質問者さんは、これらの「感情についてこのような説明が可能である」を、 「感情は物理法則に従い、同じ状況ならば常に同じ感情が発生する」に いつのまにかすり替えて誤解してしまったことが、今回のご質問から (私以外の回答者も感じるだろう)ズレにつながっているのかなと思いました。 違いますか? 普通の人は、ほっぺたを叩かれたら怒ります。 でも、SMプレイ中の女王さまにステキな台詞とともにひっぱたたかれたマゾヒストなら逆に喜ぶかもしれません。 同一の設計による作りが備わっていても、人の感情がどのように動くかというのは、 細かくまでは予測はできません。 論理というのは、感情に対しては常に後付けで説明をつけるだけのもののような気がします。 最後のつっこみです。 質問が余談の中にしか見当たりません(笑) 余談について。 個人的には、思考につまって死ぬというのはわかるようなわからないような…凡人ですので(笑) ただ、彼らは思索につまずき、自らの限界に絶望して死を選んでというよりは、 考えて考えているうちに何がなんだかわからなくなって、自分では説明がついているつもりなんだけど、 世界が自分の頭の中でしかなくなって、錯乱していくのではないでしょうか。 そして哲学というのは、そういう方向にばかり頭の作りが向いている人が向かうのかな~と。 哲学者というと厭世的なイメージがありますが、それもこういう理由からではと勝手に思っています。 思索にも論理を持ち込むあまり、世俗の社会を見失うような。 そういう意味ではヒトラーの最後と似ています。 彼は自分の考え=世界の考えと思って、実際に回りを巻き込んで自分の理想を実現しようとし、 でも失敗して追い詰められ、現実世界からの逃避で自殺する経緯はよくご存知と思いますが、 それ以前の自分=世界と思い込んだ時点で、ヒトラーは人間としては精神的な死を迎えたのだと思います。
補足
まぁ、私も学術書(というより解説書)片手に、訳本読んで必死に解釈してる段階なので、論理の構築は甘いかな~とは思います。 私の聞きたい事が全く伝わってなかったようで…。 正直、これ以上分かりやすく解説するのは、私の乏しい知識では無理ですので、とりあえずYusuraさんとは考え方が違うのだなと言う事は分かりました。 確かに色んなケースはあります。 当人でさえ、同じ条件を指定しても、確立によって違う結果が導き出される(ただし、殆どは同じ結果になりますが)場合があります。 しかし、個人的に私が知りたいのは、「今、目の前で絶望し、死を迎えようとしている人物をどうするのか?」、です。 論理の構築が甘いのは痛いところですが、正直、言葉のあやはさほど重要だとは思えないのですが(むしろ、曲解されてしまわれてるようで) 。 ところで、疑問符を多用する事で、相手を理解する振りをして、やたら自分の理論を押し付けてくるように思えるのですが、ひょっとしてNo,1と同じ方ですか? 何やらやたらと憤慨されてるような印象を受けますが?
- koko_u_
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>皆さんもご想像つくかと思いますが、私も間違いなく次の瞬間、 >彼は自殺すると思います。 まったく予想外の展開です。 そのような短絡的な思考の持ち主はそうそういないと思います。 >私は「感情も全て論理的に説明できるし、(中略)思うのですが 単純すぎます。物理法則を持ち出すなら、多少なりとも物理を学んだ方が良いでしょう。
お礼
>まったく予想外の展開です 現実は小説より奇なり、といいますからね。 >そのような短絡的な思考の持ち主はそうそういないと思います ん?よくよく考えたらピアニストというケースはやや特殊だったかしらん?; 一般人にも通ずるものがあると思ったんですけれど…。 >単純すぎます やはりそうですか。 きっとこの世は、私には理解できない摂理で動いているのですね。 晴天の霹靂でした。 ありがとう御座います。
お礼
大変、深いご説明ありがとう御座いますm(_ _)m >「カオスの理論」 不確定性理論などもそうですが、同じ条件下であっても確立によって違う結果を辿る、とうのはある意味当たり前ではありますが、面白い事だなと個人的に捕らえております。 「実際には想定した事と全く違う結果を辿る」、というのは意外と起こりえる話ではありますが、しかしながら、現在の状況から仰るとおり人間は未来を予測する事で現在を行動する所があります。 これは、危険や傷害を回避する事で実に有効な手立てだと思いますが、時にこれが現在の我々に牙を向きます(ニーチェ的には「意思の復讐」というやつでしょうか)。 しかし、例え未来に対する予測であっても、同時にこれは現在における現実でもあるわけです。 むろん、未来・現在の定義にもよるかと思いますが、しかし、人間の心情的にこれを捉える(理解する)のは非常に難しいと思うのです。 >「ある」ではなくて「なる」 >客観的に存在しているものを理解するための「決定論的な論理的説明」、ではなくて、事象の変化の時系列として確率論的に存在し得るものを如何に理解するかという「確率論的な論理的説明」が要求 言葉もありません。 どうやら私の捕らえ方が甘かったようで…。 >そしてこの非線形効果を通じて、「自殺」や「他に生き甲斐を見付ける」ことが、我々の未来の構築にどう関わり合うのかという問い掛けとして、この「自殺」や「他に生き甲斐を見付ける」という命題を論じるべきだと思います。 つまるところ、重要なのは未来とどう関わるか…。 思えば、ニーチェが「現在(先祖)の罪が次の子供達によって洗われるだろう」と言ったのは、こういうことだったのかなと、ふと思いました。 大変参考になりました。 ありがとう御座いますm(_ _)m