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性教育の倫理性
教育現場は子供の自立を支援する場でもありますよね。 しかし、小学校から性教育が必要な意味がわかりません。 恋愛や育児教育の経験がないうちは生物の範囲に留めるの がいいと思ってます。 「性」での問題は自分と相手の心の生かし方から起きます。 つまり倫理の問題。社会の役に立てない未熟な内に不幸を 生ませたくないです。不幸となるかは前もって他人が決め られませんが、どうして性教育が恋愛や育児の経験も自分 で出来る努力=哲学さえない無垢な頃から教えるのでしょう?
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教育というのは、子供を野生児から社会人へと変えていく場であると考えます。「自立」というのは、社会の中でやっていけるようにという意味での自立です。しかし、野生児で生きる自立もあるとは思います。 性は倫理の問題というよりも、すなわち野生性の問題です。 社会に適合するためには、この野生性をうまくコントロールする必要があるのです。 つまり、社会にとっては野生児であることは悪と見なされているのです。 となれば、思春期が訪れる前に釘を差しておきたいのは当然。 性衝動がわき起こってからでは、どんな教育をしたってもはや歯止めがきかなくなってしまっている。 だから小学校の段階で性教育ということなのでしょう。 とまあ説明はつくものの、賛同はできませんね。 性という本能は、教育の手が入れられる領域ではないからです。 間違った性知識の氾濫を食い止めるのは、小学校でもまだ早いと思いますしね。 そもそも、情報をどうとらえるかという思考が育ってからでないと。 そういう意味でmiko-desiさんに同意します。
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- arayata333
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ごめんなさい。 すぐ続けて書くことは、規則的常識からは好ましくないことでしょうが、 そちらの提起された「性教育と倫理性」という問題はけして簡単な問題ではないし、多くの考察すべき内を含んでいると思います。 舌足らずのままであることが、へたすれば人の心を傷つけてしまうというような筆とならぬよう、こんな人間ながらも精一杯の努力はしたいと思いました。 それに あなたの文についてまでつい言及しましたが、ネット場ではあなたの人生がすこししか解らないのですから、文を取り上げるのは片手落ちのこととも思い、その筆も、言葉足らずの過ちをできるだけ少なくしたいと思うものでもあるんです。 まず、文についてですが、実は私自身10年ほど前ですが、自分がなんと20年も追求してきた文を批判され、すっかりショックでそれから3年間も文が書けなくなり、しかもそれ以前の20年間いったい何を追及していたのかも、思い出せなくなってしまったことがあるんです。(よっぽど弱い人間でもあるんですね。) でも 後から知ったのですが、その人は 簡単な文も書けない人だったんですよ。 あとのまつりで、 わたしはもう一度最初から文の練習を始めることになったんです。 文章を書きたい気持ちは残ってましたからね。 人それぞれ、文章の裏には長い長い人生もあります。 あなたにはそのことの理解力があり、であればあなたの文にもそれがあるということです。 そこにわたしも 詩心やエスプリや「セリフ」の素養の何がしかを感じたのだと思います。そしてだから、あなたにはやっぱり もっと文が上手くなって欲しいとおもってしまったんです。 それはさておき この問題に対するほかの方々のご意見もそれぞれ考察にあたいする内容を含んでいたりします。 ですので、ほんとうはもっと多くのかたにもっともっと論議を深めていただきたい気持ちとなる問題だと思います。 buranngeronさんでしたか そのようなお名前のかたの提示された問題も、今のような情報化社会だからこそ 逆に長い歴史の中での自然な成熟という事への考察を促されるものですし、 これはいっぺんにわたしのようなそのことでも未来の子供達のことについて関心を持たないではいられない人間にはとても書ききれるものではありません。 ここでは、共産主義やフェミニストが家族と切り離す形の性教育の場を考えているということについて、これも簡単に書けるようなことではないでしょうが、すこし触れておきます。 わたしは、子供の頃、あるイジメで体をこわし家族を離れて虚弱児施設で過ごしたことがあります。 家族外の友だち達や、おおらかで明るい先生方の 家族外の愛情に接した体験があるんです。 そこで得たものは、たしかに大きなものがあります。 それと、共産主義者とかイスラエルのギブツとかの幼児のうちから親と切り離しての共同生活の意味合いの内には、 家族の中の所有欲を問題としている時もあるんです。 心理学では家族病理としても扱われるその問題は、アメリカのような善悪いろいろな面が出やすい国には そのために元気な青年が衰弱死してしまった臨床例もあるほどの、これもまたけして小さな問題とは言えないことのうちの一つなんです。 でも、特に母親のほんもののスキンシップは、健康な心からのスキンシップは 子供の自律を疎外するどころか、その逆に自律に必要な大きな力ともなるものなんです。 親離れ、子離れの問題、 かわいいかわいいで、子供の人格を疎外する問題、それらすべての自律の問題をもっともベストに解決する最大の力がこのただしいスキンシップにあるんです。 (ほんとうは父親のスキンシップもけっこう重要なのですが、ここでは略します。) その上で 社会による強制とかではなくて、もっと自然に子供達が大自然の中で共同生活もできるような仕組みがあるといいですね。私自身にもじつは いろいろその方向での考えとかビジョンとかはありますが、 大勢の方々とそのようなほんとに楽しい子供達の未来を話し合えたらなと心から思います。 性は避けるよりも 見つめる能力を養うことでより自分から安全で健全な性生活を楽しめるようにもなる、と言っても、 この基本の問題がまず、現状の社会では個々ばらばらで、個人差があります。 快楽にしても、たしかにそれを見つめられる力が育てはおぼれるのではなくて 生き生きと自分達のものとすることができますが、それであらたに快楽も成長すれば、ふたたび、それおぼれてしまうほどの引力があったりします。 そうした体験や 想像力の世界がほんとうに豊かになって始めて、成熟した落ち着いたセックスの世界が見えてくるのですから、 まだ未熟な体の人達にそのことを それぞれに合わせて教えてゆくのは、まさに自分自身がまずそのほんと豊かさを知るまでに成長している必要があったりします。 変態のことにしても、その成長の過程に変態の形があってもおかしくは無いということであって 本質ではないので それだけに食いつかないように(笑)してください。 コウノトリのお話は、今ではかえって子供達の心の奥を気づけてしまう嘘ともなりかねません。いや 事実そうでしょう。 では、どうしたらいいのか? 性は本当なら もっも奥深い倫理とすら結びついていますが、その道を解りやすく語れるようになることが、 わたしは、一番の子供達への性教育だと思います。 「心の性教育」と呼びたいです。 アランの語る 総合的な文化の世界、心の教育の世界こそ もっと発展させて それを子供達に語れるようになることです。 心と心の触れあいなくして、ポリネシアンセックスも、アムールセックスも、ヨガの女性からのリード方式、とかとか、あるいは膣の感覚の知識とか、挿入の出し入れのスピードとかこつとかとか、 なにがその本物がわかるのでしょう。 たぶん知識だけでは ほとんど意味無いに等しいと思います。(けれど、未熟なからだが これをそのまま実践しても これもまた多くを学べないし、まず、心の触れあいから、それで肌で感じあえる男女の心の交流がまず必要なんです。) すみません、ほんとうは、ここでも もっと詳しく話したくなってしまいます。でもとても無理です。 <どうして性教育が育児の経験も自分で出来る努力=哲学さへない無垢な頃から教えるのでしょう?> うーむ へんな文章ですが(笑)、 たぶん、同じことを言っていると思います。
お礼
arayata333さんお言葉を沢山ありがとうございます。謝らないで下さいね。ありがたく読んでいます。心配性なのだから、というよりarayata333さんは才能を見出す才能をおもちだと思いました(自分のことも良く言っていただいたり、指摘のされかたも信頼してくれているからこそのように)。 表現者としても個性が光りますが、よりプロデューサーとか先生にも向くのではないでしょうか♪ 私はしがないパート主婦ですが「ポエマー」なんです。 旅行で海外に行くとそう名乗ってます(笑)。英語も国語も成績は最悪だったのにも関わらず初めから上手く書けないのは承知で詩を投稿したところ、とても上手な詩を書く憧れのような人(学生さんでした)が「自然に涙が」と一言だけくれたんですよ。どんな感想より嬉しかったです。 それが子供のことを詩にしたものでした。 「子供はみんないい子だよ」 どんな私とでも疑いもなく着いて着て 抱きしめてくれる もうそれだけでいい そのままのあなたを 変える必要が見当たらないよ 子供はみんないい子だよ 忘れかけてた笑い方や泣き方 愛し方を教えてくれる というものですが、孤独を愛しどうってことなく生きててそんな時に生まれた子で、孤独以外にも苦悩もあって自由もあるって知らなかったんです。それぐらい私は常識とかからズレてたんです。 比較するものもなく当たり前のように、苦悩が当たり前のように、そして仲直りだって許しだって自然にしてくれた。 いつか、すぐに自然に帰ってしまいそうな、軽くて小さい、柔らかくて温かい命に教わったからこそ少しは自然な気持ちが取り戻せたのだと思います。 そんな娘も今では「ウザイ」「ダサイ」とか「別に」「でもそんなの関係ねぇ」とか…。 教育もそうですが友達とかメディアの影響は親より多く、大きくなってますね(苦笑)流行風潮は社会性でもありますが、「具体的な会話しろ!」って言いたくなります!え?親が親だから?(汗) といいながら、一身上の都合(ボーとしてて)により少し時間を置いてお礼の続きをさせてください。
補足
子供は私の背丈と同じぐらいになり、そろそろ私から子離れしてあげないとと思います。 締め切りが遅くなってすみませんでした。
- arayata333
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ANo10のarayata333です。 miko-desiさんは、感性もあり、人間的幅(キャパシティイ)もあるのに、しかもアランを学び 文章にエスプリがあるのに、それを気取っているというわけでもなく、素直に一生懸命書いておられるのに、文章が通じにくいのはやっぱり惜しいです。 人それぞれの得意不得意があるんだから、感じさせるののがあればいいというふうにも言えますが、アランのエスプリ(才気あふれる機知)の学習者であり、教育に興味をもたれてるかたならば、 詩的(ステキ)な文のみにとどまらず、きちっとした文章を心がけるのも必要かと思います。(もったいないです。 詩心もそうすれば もっと多くの人に感じてもらえると思いますし、何よりもあなた自体の中であらたに創造されたエスプリも 一部の人にしか通じないという狭い範囲を抜け出せると思います。) アランについてですが、どうして無学なわたしがそれを知ってるかは紙数の都合でカットしますが、高校生の時のたまたま読んだ彼の「幸福論」の記憶によるものと考えておいてください。 アランの文についてですが、エスプリに富んだ文はたしかに、説得力を感じさせるものであるかわりに、具体的に思索を進めてゆくと例外とかがたくさん出てきてしまうものですので(たとえば、格言を突き詰めて考えるといろいろそのへんのよすがが考えられます。)、それで哲学者でもあるアランは、部分による誤解を避けたかったのでしょう。もちろん、全部を読んで比較検討できれば、まさに総合的な学問でもある哲学の深みはさらに深く生き生きとして理解されてくるのでしょう。 アランという教育者であり哲学者は、さまざまの文化を幅広く検討している方でもあるのでよけいそのように言える面があるすぐれた方だと思います。 でも、、けっきょくエスプリのきいた文章は、それぞれのキャパで出来るだけ多くの事例を反論も含めて考察できるならば、それはそれでその人の身になるというふうにも考えられます。 どういう理由でアランを選んで学習されているのかは解りませんが、難しくてもたしかに人生の総合的な教育者としてすばらしい方には違いありません。 大変でも 大汗をかいてでも 頑張ってください。 それにしてもあなたの文は、普通の文なら通じるのに せっかくエスプリの聞いたためになる文になるといきなり文章が通じにくくなるのは惜しいです。 あなたの文の表現が難しくなるのは やっぱりアランのような人の翻訳がよほどの知恵がないと難しく それで日本語訳がかえって難しい表現となっているためその影響をうけているのではないかという推測も起こります。 かといって フランス語を学んで言文を読むというのも大変そうですね。 「一方的抗議は時間の無駄である」という言葉も、たしかにハっときがつかせてくれる説得力をもっていますが、そうでない例もたくさんあります。それにつづく「本当に教える手段はただ一つ、実行することだ」とうのが直訳だとすれば、 これには二つの意味合いが考えられます。 自分自身が模範を示してその生き様からそれをだまって見せてあげること という意味と 生徒自身で実行しなければ、そこに工夫とか進歩もなく、けっきょく難問は切り開けないという意味合いが 総合的に考えられるということです。 実地教示とか実地教育の意味合いもあるでしょうが、その言葉からそれのみを連想するとしたら、アランのエスプリの深さを取り逃してしまうだろうし、そう思わせる訳は、おそらく直訳であってもなにかが足りないのだと思います。 アランの場合 教育者でありながら、ビジネスの世界の哲学も展開している方ですから、なおさら そのへんの実行ということへの強調に深みを感じさせられるところです。 「実行することだ」 と、 これを実地教育としてのみ受け取って学校の先生が性教育の魂だと思ってしまったら 大変なことになってしまいますね(笑)。 miko-desiさんて、最初男だと思ってました。 だから変わった詩人(児童詩人)とかを連想していましたが、 詩というより、「せりふ」はたくさん書いてみるといいと思いますし、そのためにはシナリオとかの勉強をするといいかもしれません。 そうそう女性であれば、変態に食いついても噛み付いても変じゃないですね(笑)。 人の長所を見抜くのは、その人にもそのなにがしかの長所があるからだという言葉がありますが、一般に低く見られてる人に偏見ではなく 長所を見れるのは あなたこそ「飾らない強さを持っていて健康」な女性の一人なのでしょう。アリストテレスやニーチェが変態を知ってたのかどうかは知りませんが、あなたはその知識者かもしれません。 大事なことは 心を深く通わせるセックスは、ほとんど無限にすばらしい世界だということです。 それなのに、それを感じて恥らいを知る成熟期も無視してその逆の何も感じないどころかレイプ同様の表現を破廉恥に表現してるにすぎないおおくのポルノの世界、これが問題なんです。 ロウソクだろうが、ムチだとうが、縄だろうが、もしそこに深く感じるものがあれば、通じ合えるほど感じるものがあれば、それはむしろ健康です。 そして、それも性の奥のすばらしさをしる道筋の一つになりえます。(相手がそれを感じてない時に強要でもすればレイプと同じ傷を与えかねない世界ですけどね。) 文明社会での疎外感これもほんとうに問題のひとつですね。 もっともっと 多くの人が心を通わせあい 信頼しあえる本当の平和な社会がくるといいですね。 アランもそれをこそ、希求された哲学者だったでしょう。
補足
arayata333さんお世話になりっぱなしです。 お返事が遅れ申し訳ありません。 私は言葉もそうですが、感情とか性についてもコンプレックスがいくつもあります。 いい大人にはなりましたがとても不器用です。それだからこそ普通の人が疑問にもしない事柄についても深く考えることは、私が変態という理由にすべきではなく、最もな理由に出来るんじゃないかなぁと思うようになりました。私が異常とか異端なのではなく、正常な健康な証なのですよ。きっと。 何も感じなく、疑わないで考えなくなるほうが人間として異常ですよね? それでちょいシャレで学ばせて貰ったことをここに記します。 人間の本質について、野生動物と人間の違いについて、教育について、個性資質について考えなければならない情況にありまして、私の転機なのですが、出会えたことは必然性のあることのように確信してます。私の方こそarayata333さんは天使です。一部引用させていただきます。 『その深き絶望の淵にこそその深き希望ありという感じでその心の世界は そこ その底にこそ 存在しています。そういう人のみ、その最大級の欠点を、苦労して苦労して工夫を重ね克服していったときには 最大のその欠点の克服法を編み出したりできるからです。今 あなたが、最大級の音痴であるならば、それをもし克服したのならば、世界中のどんな音痴をも治せる道を発見できる可能性がそこにあるということにもなります。(発見というのは、ほんとうは正確な言い方ではないですね。 ほかの人が同じようにして先にその方法を発見することはありますからね。 でも確実に 身にしみてそのコツをあなた自身がみにつけているでしょう。)同じように最大級の不器用者にも それはそれで その大きな使命があったしもします。そして、それは どん底に働く脳の中でこそ、その可能性の扉が開かれたりするのです。』 私は文章も性についても生活全般に不器用なのは、忌み嫌う不遇なのではなく、どんな不器用な人も最大限に生かせ社会に還元貢献できる、誰もが克復する方法を身を持って解明するかもしれない。文明人の偉い人には出来ない徳かもしれない。そんな希望を貰いました。 arayata333さん。ありがとうございます。ありがとうございます。頑張ります。
- arayata333
- ベストアンサー率30% (35/113)
大人がまず、性の成熟者としてもっとその面、 成長すべきです。 生殖の神秘や生活面での切実かつ誠実な家族への心とかもより深く感じられるようになることも その内の1つでしょうけど、 性の快楽にしても、ほんとうに成熟すればそのほうが制御も出来るということを多くの大人が大人自身で知らないことが問題です。(コンドームの使い方、生理日、何々式の何々、そんなものをコソコソと教えても逆効果なだけです。下手に隠すよりも、ほんとの道筋を教えてあげられるようになるべきです。 そのほうが、若い方々も精子の流れを理解できるようになりますし、自分で注意できるようにもなるはずです。) 私自身未熟な人間でしたが、 でも、うまくわたしは、肌感覚の奥に、また仁術の心の面の世界にて、最後は人にそれを語れるぐらいには成熟できたなと思い、今哲学ジャンルのあるブログを始めたのですが、まずその中で性の問題も現在進行中で扱っています。 今でいうソープランドにはよく行きましたが、(いやらしい感覚があってのことではないのですが、紙数が足りないので弁解は略します(笑))そこのベテランの女性の方が言うには、95パーセントのお客さんが変態だとのこと。 そして変態とは、相手との友の心をすっかり忘れた世界だとのこと、アナルだろうが、SMだろうが、それ自体が変態とは呼んでいません。 わたしは何が無くとも友だちとして彼女らに接してましたから「心待ちにしているお客さん」の5%の方のお客さんだったとのことです。 学校教育では たぶん心も含めた性教育(倫理といっても上からの道徳ではかえって若い心の反発を生みます。心と人生との哲学が 解かりやすく順を追って説明できなければ倫理の教育とはならないと思います。)は、無理だと思います。 学校や塾の先生がたは基礎教育と受験教育のプロたちではあるでしょうが、それだけでは性のほんとの教育は無理だと思います。 いつかアンサリストになって、その私のブロウでの努力をmiko-desiさんにもご紹介したくなります。 一番大事なのは教育の魂を持っているということです。 子供達を信頼し、尊敬し 愛しているということです。 言葉が学校の先生よりも上手く使えなくても、そのほうが子供達にはいつか伝わります。 大人の私達さへ成熟できていればです。 また たとえ未熟でも、子供達にとって必要なのは まず必要なのは、あなたのような子供達への関心です。 教育の世界への深い関心です。 あなたにはそれがあります。 おたがいそれぞれの道通して、いつかネットでの「心の性教育」のための同志となれたらいいですね。 出会いの心、人間と人間としての出会いの心、凡人でもその心の自覚の奥に、性と心の生き生きした血液循環の世界があります。 気脈の世界もそうです。 わたしという凡人は もし戦争の渦にでも巻き込まれれば たぶん人を殺してしまうような神経にもなってゆくでしょう。 でも、だからこそ、だからこそ、この平和に、男と女が深く愛し合える魂の出会いをどこまでも大切にできることを祈るものでもあるんです。 未来の子供達のためにも。
お礼
arayata333さんありがとうございます。お礼が遅れ申し訳ありません。 哲学カテの中で未熟さ鈍臭さを誇ってます!こうやって何か感じて頂ける人にも出会えて有意義でもあれるんですよね。感謝します。 以前本のタイトルで質問を出した「教育者アラン」を読んだところなのですが、アランのプロポ(寄稿していたエセー?)は文章が曖昧で、論旨の飛躍が随所にあり文飾には無頓着、引用される文も原文と違っているのはしょっちゅうで、以前発表した文章を切り継されていただけのものだったりしたそうです。翻訳家泣かせだったそう。 アランに共感出来るものの、表現は難しいですね、知識や知能が足りない表現者者ばかりか、不幸にも(?)知能が高く生まれても誤解されたり、アランは一部を切りとって全称判断されるのは困ると、全部読んで欲しいと云ってたそうです。大変だ~~(大汗) そして「一方的講義は時間の無駄である」という聞くだけに終わった講義は大した物が残らないというのは驚くに値しない。「本当に教える手段はただ一つ、実行することだ」とありましたp95。これが教育の魂だとすると >ほんとの道筋を教えてあげられるようになるべきです。 学校の先生はそこまで面倒みきる自信が?どんな権限で個人的な問題を含む話を聞いて満足したいものがあるの?無駄なんだし公序良俗のモットーから止めれば?です。 性教育の優れた指導者は、有資格者よりも身近な異性や、変態ばかり知る(笑)お姉さん方でしょうね。私の認識ではプロ意識というのは素人が口を挟むことを拒まないことで、話を聞こうとする実力ある先生こそ尊敬したいものです。そうそう、変態を狂気とするなら、狂気は疎外感から発展した形容のようです。 >ベテランの女性の方が言うには、95パーセントのお客さんが変態だとのこと 人助けをしても性奴隷と呼ばれる彼女達、精神まではそうでなくとも、逆に飾らない強さを持っていて健康なのかもしれない。変態を必要以上に知ってしまいそれを精神は阻害する?ということは、特異を嫌い協調性に悩む鬱症になる人こそ実は変態となるでしょう。変態は病的、異常と断定できませんね。アリストレスやニーテェやがそうであるように、知識者と呼ばれるかも。変態に食い付いてしまう私も変か?(笑)
- ganesha_me
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一言で云えば世の中に男と女がいるからです。 それが外見として現れる年齢が 小学校高学年の思春期だからです。 だからお互いの違いを受け容れる準備を やはりする必要はあるでしょう。 >「性」での問題は自分と相手の心の生かし方から起きます。 それは倫理だけの問題ではないと思います。 男が女を理屈っぽいと思う 女が男を野蛮だと思うのとように、 普段の友達としてのコミュニケーションにも、 やはり、ありがちな生物的な問題があると感じます。 「性」を論ずるならば、精神以外にも肉体にも起因すると考えます。 ううむ、私の経験からですが、 やはり若い時期に男女ともに人間として よい恋愛経験をするためにも、 最低限の性に対する防御や、 お互いを知る必要はあるのではないでしょうか? 親としては面倒が増えるのは避けたいところですが、 そこはお子様の成長を願い前向きになられるべきだと思います。
お礼
ganesha_meさんありがとうございます。お礼が遅れ申し訳ありません。 「恋愛も結婚も育児も学校で習わないからしなくていいんだ」そんな奴いたらドン引きです!!…失礼しました。 教育者も保護者も未熟な子供のことでは心配尽きないものですが、個性の尊重とか、性の商品価値とか、ビジネスとしてお金の流れまでまで学校が教えて品性宜しい子が増える保証も出せないし、動物的でない人間らしい恋愛は自尊心を持つことや基本的な倫理もセットで教えるならいいと思ってます。 恋愛や子育ては個人や家庭での問題とするなら目的と手段の目的が学校教育に抜けているんじゃないかな?と思いまして。前向きに考えるとこうなりません? 事後の責任とか面倒なことは学校側は無視でしょう。子供の成長の為になら倫理から教えるべきじゃないかと思うのですが。 知識で防御というのはわかります。私は相手が善意で交際を求めているかどうか確かめるのに「子供が欲しい」という合意が成立してからやれと助言するのですが、子供の内にそんな希望を早々持たないでしょう。お小遣い目的や出会ってすぐやるカップルにも尚更無理な問いでもある。
- Roman0
- ベストアンサー率18% (118/628)
「今学校で行われている~の大半」というフレーズの意味が分かっていないように見受けられる人がいます。これを読んで、どうしたら「それらの努力を全て」と読解できるのか、理解に苦しみますが。 もっとも、こういう、All と Exist の区別を好き勝手に弄んで、相手の言ってもいないことを言ったかのように捻じ曲げて、相手の言っていない部分について批判するというパターンは、サヨクやフェミニストのよくやる技法ですから、その種の人なのかもしれません。 結局、問題の多い現状を批判すること自体を封じようとしているわけですから、動機において共犯者ですしね。 > どうして性教育が恋愛や育児の経験も自分で出来る > 努力=哲学さえない無垢な頃から教えるのでしょう? 繰り返しになりますが、家庭という共同体を崩壊させるのは、共産主義の基本概念です。従って、この「どうして」という問いに対しては、それが答えです。 そして、その現状を、極々一部がまっとうかもしれないと全体の批判を封じようとする姿勢もまた、共産主義を目指すものの姿勢だと言えます。 また、子供を子供扱いするのは当たり前の話です。どこが不当なのかを示すことなくイメージのみで「不当な」と言い放ち、子供への歪んだ性教育を正当化しようとするのもまた、同種のグループがよく使うレトリックであり、同種の姿勢ですね。
お礼
Roman0さん再びありがとうございます。 今日本の体制は新自由主義(国営企業の民営化、労働法制に至るまでの規制緩和、社会保障制度の見直し、金融ビッグバンなど)になっているのですよね。私はどういう主義を支持するか決めかねています、というか模索中です。というかわかりません(汗)選挙では白紙票で出したり、右翼と左翼の良いトコどりみたいな政策(私に都合がいい)があれば必ず支持するのですが。都合が悪いのだけ取り上げられたら一票が無駄だったとガッカリしますし。選挙票に支持した理由、党や候補者へのメッセージを書きこめたらいいのに。「to be or not to be」だけで政策が決まるなんてのがおかしい。 反共主義というのもありますね。 反共主義 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E5%85%B1%E4%B8%BB%E7%BE%A9 今知りました(!)お陰で勉強になってます。 「成熟した資本主義」は共産主義と似通って変化していくようでもあり、現時点で一見成熟したように見える資本主義も社会的矛盾を多く抱えていたり、本当に何が一番なのかと模索中です。 >子供を子供扱いするのは当たり前の話です 私は誰とでも対等な関係を望む方ですが、同感で子供と大人の社会は差別するのが当たり前と思います。子供に表現の自由を与える前に公共や生活の秩序を守ることを教えるべきだし、移住地の自由や職業選択の自由等は子供から望まないです。勉強は個人差があっても学ぶ機会の均等を望みますし。 貴重な義務教育期間(6歳から12歳までをゴールデンチャイルドといいます。子供の脳と身体機能の黄金期です)に暗記だけではもったいない。思考する能力を与え視野を狭めないために、視野が固定されやすい性については手本となる大人達から変わって欲しいと思いますね。
- ringouri
- ベストアンサー率37% (76/201)
小学校からの性教育を特定団体の陰謀とか、恋愛や育児の経験も無いのだから時期尚早だとか決めつけた形でQ&Aする方が余程倫理性がないように感じます。「性教育」の理解の仕方も異常に狭く偏っていませんか? 恋愛や育児の経験前だから「教育」なのであって、事が起こってから教育するのでは後手にまわりますよ。 発達段階に応じた性教育は必要だと思います。 小学低学年、高学年、中学、高校、と段階に応じた性教育をきちんと実践しないと、歪んだ無責任な(あるいは犯罪的な)性情報から青少年を守ることは出来ないでしょう。 性教育には男女の性行為に関することだけでなく、医学的知識や人間性の尊重、倫理教育などかなり広範囲のことが含まれるのではないですか。 現状は理想とはかけ離れているかも知れませんが、それらの努力を全て政治的なものとみなし攻撃するような態度はいかがかと思います。 また、小学生を不当に「子供扱い」するような記述も必ずしも事実を反映したものではないような気がします。
お礼
ringouriさんありがとうございます。 私が求めるのは性教育の撤回ではなく改善すべき問題はあるかないか?ということ。現状を詳しくは知らないので質問なのです。 フランスでは小学校から信仰ではなく、哲学を学ばせていて(それより家庭ごとでは信仰の教えは早いでしょうね)素直な生徒は誉められないそうです。先生の支援者として生徒が助言するのです。大人を納得させるだけの意見を言える子供が良い生徒として見られます。 >性教育には男女の性行為に関することだけでなく、医学的知識や人間性の尊重、倫理教育などかなり広範囲のことが含まれるのではないですか。 そういうことなんですね。未来を担う有志達の率直な意見が聞ける場としても役立てるならいいですよね。性を職業とする人、退屈を紛らわす為の人、最後の切り札とする人、男性を好きになった人が女性であれば女性として愛せる喜びも沸いてきたり、逆にゲイな方を好きになって性を不幸に思えてしまったり。母子家庭や父子家庭も日本に多いし、お父さんが女でお母さんが男という家庭も増えるかも?お父さんもお母さんも同性とか色んな立場を理解出来るのか、そういう人をどう見るのか?とか。お父さんが犬というのは倫理でも医学でも解けないはずですが(笑)
性教育について なんら(つまり 子どもの頃も 社会的な問題になって来てからも 特段なにも)考えて来なかった者の考えは こうです。 エルサレムの娘たちよ わたしは かもしかと野の雌じかをさして あなたがたに誓い お願いする。 ――愛のおのづから起こるときまでは ことさらに呼び起こすことも さますこともしないように。 (雅歌 2:7) この詩編を知ったのは 三十歳ごろです。つまり その以前から このように 直観として 思っていたと知りました。 ただ 社会全体として見て どうなのか それは やはり考えて来ていないのですが・・・ 対症療法をするくらいなら 性教育も必要なのかも知れませんし あっても だから どうなのだろうと思いもしますし・・・ すみません ほんとうに考えていない者の考えでした。
お礼
brageloneさんお礼が遅れ申し訳ありません。そしてありがとうございます。 手短に話して頂いて助かりました(批判的な意味はありませんよ) 愛のおのづから起こるときまでは ことさらに呼び起こすことも さますこともしないように。 「青い珊瑚礁」のように(男の子と女の子が無人島に流され二人きりで成長してゆく話)自然に委ねても結構人間は逞しいし、儚いものだし。 原始時代ぐらいシンプルな社会なら可能でも、今の子供は時間的にも親の肉体拘束からくる犠牲も投資も大で育てるのですから、現実は恋愛=成熟した証、自立能力。とは認められるものではないですからね。
No.3です。 >運動会のグランドで家族と一緒にお弁当というのがなくなりました。 親達は家に帰るか手弁当を自分らだけで食べる。会話もできない。 家庭の事情やらで家族が来れないこともあるからだろう。 現在の小学校事情は全くと言っていいほど知らないけど自分が小学校のころ(何十年も前)から、もうこういう状態だったですよ。だから >親子仲が悪い私でも初潮のことは親に聞きました。そうなるのが自然と思います。 親子仲が良い悪い関係なく、親に聞けない事情のある子とか、いろいろいるんじゃないですか。離婚なんかもますます増えてるわけだし。 >身内でも相談するのが恥ずかしいことが他人同士恥ずかしくないはずがない。子供から「嫌らしい」と声を出せないでしょうし。恥ずかしくても我慢して受けている子もいるかもしれない。 こういう方面の問題は身内に聞く方がかえって恥ずかしいけどね自分は。むしろ他人の方が気楽。 自分のときは女子は女子だけで女性教師が説明役、男子は男子だけで男性教師が説明やってました。別に「嫌らしい」とかいう感想は持たなかったけどな。他の連中もそうだったと思う。誰も文句も言わなかったし、むしろ厳粛な気持ちだったり、男子のなかには女子に対して男には男の世界があんのよ!ってな感じで急に男同士の連帯感むき出しにするやつもいたけど。 >お医者さんや本屋さんも一般人だったなら自分の裸や身内の裸を見ず知らずの人に見せるのは恥ずかしいはずです。 だったら受診や大衆浴場は?教師だって「恥ずかしい」だけのことを必要もないのに、わざわざやってるんだろうか。 それよりも児童たちに「嫌らしい」とか「恥ずかしい」とか思わせるような授業のしかたをしてるんなら、そのこと自体の方が問題でしょう。 性というものに対して、いらぬネガティブな先入観を植え付けてることになる。そのあたりどういうやりかたをしてるのか、ご質問者が実態を知ってて問題ありと思われるんなら、こういうとこで「異議あり」と言ってるよりも自分の子どもさんを通わせてる学校に親として意見表明する方が大事なんじゃ? >「大人は偽善者、卑怯だ、陰湿だ」が多いと、いう私の思いこみからの発言でした。本当の大人は少なくても、暖かくて明るい人、子供の味方と信じていたいです。 自分が小学生のころ、ある日を境に急に大人たちが知らない人に道とか尋ねられても口だけで説明するのはいいけど、ついてって案内しちゃだめだと言いだしたときは子供同士顔見合わせてショックだった。それまでは知らない人に親切にするほうがいいに決まってるって教えられてたから。 性教育に大人側のモラルなどの問題が根深く絡んでいるのであれば、そっちのほうが重大でしょう。ある種エイズ問題なんかと共通したジレンマがあるんですね。でも解決するのはもっと困難が大きい。それに対して、子の親であるあなたは「信じていたい」と願うだけですか?
お礼
noema_1970さんお礼が相当遅くなってしまい申し訳ありません。ツッコミ回答ありがとうございます。 恥ずかしさは相対性があって、プールで水着はは恥ずかしくないけど、お葬式に水着は合わないし、個人の中にそんな想像力があっただけでは罪じゃない、実行すれば怪しまれるぞ!。知ってて勇気がありやるなら確信犯だぞ!です。 >こういう方面の問題は身内に聞く方がかえって恥ずかしいけどね自分は。むしろ他人の方が気楽。 そういうこともあると思いました。身内に相談するのが自然としたのは個人的に外面だけは良くしていたい「見栄」があったからかもです。 >解決するのはもっと困難が大きい。それに対して、子の親であるあなたは「信じていたい」と願うだけですか? 子供の環境を良くしたくても、自分(親)が変わらなければならない問題は後回しではいけませんよね。自分から子供との接し方の改善も考えねばなりませんね。なので訂正します。自分が変われること信じていたいです。
補足
noema_1970さんの補足欄をお借りしてお詫びします。 ANo.4のtyr134さんへのお礼が抜けていました。ありがとうございます。 リスクを教えたことで逆に変に安心しては困りますよね。謎めいてて慎重になるならいいけど、これだけ開いてる大人が多くっちゃ説得力なし(笑)。日本は元々貞操を重んじたり恥の文化があったので低年齢で望まれない妊娠は少なかったのに規制が厳しくなればなるほど闇のプロは増えるや儲かるというのもあります。いたちごっこですね。 生物学的にというか遺伝子学ですが、小学一年から始まる性教育に無理でしょう(爆)感情(気持ち良さ?)論を抜いた説明となってしまいました。利己的遺伝子や動物行動学を少しかじったもので失礼しました。私は感情と知識との戦い(?)にナカナカ和解が訪れず、主たる支配者は一番正直な身体かもしれません。
- tyr134
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なんだか、子供に対する「性」の話題って腫れ物を触るみたいな感じで、大人がビクビクしていますね。 それは、学校でも家庭でも同じ。 性教育の狙いは、「性のリスク」を教えることだと思っています。 恋愛にしろ性交渉にしろ、リスクを伴いますよね。 肉体関係がなければ、精神的なリスクのみですみますけど、肉体関係をもってしまうと、リスクは格段に高まります。 妊娠と性病がその中心になりますけど。 最近は、性教育よりもメディアなんかで「セックス=気持ちいい>リスク」というイメージというかメッセージが送られていると思います。 価値観なんかも多様化して、「結婚前のセックスなんて当たり前・フリーセックス・女性だって性欲があるetc...」など、一昔前だとタブー視されてきた事がタブーで無くなってきた。 もちろん、良い面もあるけど悪い面も吹き出している。 昔は「倫理の問題」だったかもしれないけど、「倫理」は価値観ですから、上記のような社会に受け入れられつつある価値観(その価値観が正しい・正しくないも結局個人の価値観=主観)はなかなか教育では否定しにくいもの。(全体主義国家でメディア統制とかできれば可能でしょうけど) 性教育というのは、「セックス=リスク>気持ちいい」という思考にすることではないでしょうか? つまり、本当にそのパートナーとリスクを冒しても関係を持ちたいかを立ち止まって考えるための材料を提供すること。 避妊や性病予防の方法は、実際にパートナーを見つけてからでも遅くない。 逆に、安易に避妊や性病予防法があるからというメッセージは怖い。(完璧な避妊なんて、手術くらいしかないんじゃないか?) 性教育の時期が早いのではとのご質問ですが、私個人は全然そんなこと無いと思っています。 性教育が行われるのは、たしか高学年頃だったと記憶していますが、丁度その時期に思春期に入る。 言い換えれば、体が子供から大人へと変化する。 大人なのだから子供を作ることだって出来る。 しかし、精神的・社会的にはまだまだ子供、保護者がなくては生きていけない。 精神的にも社会的にも「大人=保護者を必要としなくなる」までは性のリスクが大人以上にあるということ。(特に妊娠は) でも、リスクの知識がなければ、危険を避けることはできませんよね? つまり、小学生への性教育は、体が大人になる時期に合わせて、そのリスクを教えるということだと私は理解しています。 ただ、問題は教育者(学校関係者だけでなく、親や周りの大人・社会)がその事に気付いている人がすくないのではという事と、メディアなどによって多様な価値観が溢れ、なかには「セックスは気持ちいい」とか「20代で性経験がないのは恥ずかしい」とか、リスクを無視した価値観が氾濫していることだと思います。 必要以上に怖がらせる必要はありませんが、「セックス=リスク>気持ちいい」という思考を持つようにしなくてはと思います。 その上で、上記のようなメディアの情報と一定の距離を置く術を身につけさせること。 性や恋愛に無垢だからこそ、そのリスクを教えるべきではないでしょうか? (ただ、いつまで無垢でいられるかは個人差があるでしょうけど)
お礼
>本当にそのパートナーとリスクを冒しても関係を持ちたいかを立ち止まって考えるための材料を提供すること。 リスクの知識がなければ、危険を避けることはできません >逆に安易に避妊や性病予防法があるからというメッセージは怖い。 「Hしたい」と命じているのは本能というより「DNAトラップ」。遺伝子は盲目的に命じるだけで、子孫という肉体を残らせる目的を知らせない、責任も取らない。 盲目的だというのは人間は他人であるところの相手を昇華させるため、自分がより立派な人間になろうとするのではなくて、不完全である自分の欠落を補う相手を利用して完全性(達成感)を叶えようと恋をしたりやっちゃいたくなるものだという。目的自体は子孫繁栄の大目的であるけれど、人間の懐妊率が高くなると増え過ぎてしまうので、そうなるとDNAは発情期や恋愛期間も短くして失恋の痛手を無くすように命令するはず。 失恋すると悲しくなるのはDNAが生まれなかった子を(生まれてないから死んでもないが)惜しむぐらいの気持ちに似せて恋愛期間を長くするよう命じているせいでもある。恋愛期間が長いということはそれだけ懐妊率が高まり子育ての効率も良くなる。ということを示している。 つまり恋愛感情と性欲は無目的、無責任な支援者でしかない。社会において、そして個人の生き甲斐としても、目的や責任から逃れての完全性(達成感)に自由はなく、命じられて働くだけの奴隷=不自由とみなすのだから。 恋愛や性欲から自由になるには自分の価値観に叶う相手かどうか、リスクはないのが望ましいがそれも覚悟の上で、更に!捨てられても自然消滅でも自分を失わない、相手に後悔させないぐらいの自信が持てている上でなければならない。それが「愛だ!」と小学生に教えた後に、卵子と精子だの生理だ出産だと教えるならDNAトラップを煽る世間の情報操作や商業目的の宣伝も無知も減るに違いない。…と私の頭から口は申すのです。ありがとうございます(疲)
補足
お礼前ですが、tyr134さんの補足欄お借りします。問題は学校より私の口と身体と心と頭が一致してない。ということかもと、内面の相談も別の機会にしなければ!?反応が遅れがちですが、気長にお待ち頂けるようお願いします。
>両親の下半身の事情を説明 するためにやってるんでしょうかね、いまどきの小学校の性教育って知りませんけど。 あくまで「生物学的」という基本で説明してるんじゃないですか?少くとも自分のときはそうだったですが。 女子の初潮年齢がますます早まってるって言うし小学生がエンコーやっちゃうような時代ですから。児童は「無垢」だとしても悪いおじさんなんかがたぶらかすこともあるし(それこそ「野性性のコントロール」問題だね倫理教育が必要なのはコッチでしょう、でも手遅れだね)妊娠能力だけはあったりするから。 >説明の仕方うんぬんより先生は恥ずかしくないの? 医者に裸見て恥ずかしくない?って聞くようなもんかも? >コンビニや一般の本屋でも目立つ場所に性描写のある本を堂々と置いて商売している店主は、ちゃんとした教育も受けてない倫理感も低いのだろう だからコドモに性教育しないといけなくなるんじゃ?「店主」にするわけいかないんだったらね。
お礼
noema_1970さんありがとうございます。 性を知ることは「社会、経済、生活」の中で役立ってますね。 市場経済を活性化役立つ性教育まで学校が推進したらそれこそ問 題ですが(主に暴力団の収入源です)現実は身体を大切にするこ とを教える生物学的方針が、自分の身体が換金出来ることに価値 (喜び?)をおいた子供がいてしまう。 発展途上国で人身売買が貧困の救済になっているというのも現実。 しかし、経済大国、福祉国家である日本人のポルノが世界中に溢れ てます。現地のそれよりよく売れるようです(もちろん複製や偽造 多い)。それを見た大和撫子の私(これは言い過ぎですが)はどう 言い訳すれば!その場をどう振舞えばよろしいか!?日本人はお金 に不自由なくても好き物が多いって思われて仕方ないものでしょう か(泣笑) そもそも人間は性欲の強い動物で、結婚なんて契約がある以前から 必要以上にやっちゃいます。好きもの日本人でも(爆)人間なのは 認めます。大人を見てもモラルの価値感は様々で。性は威嚇になり うるかも?武器として役に立つより守るためにあって欲しい。男は 自分から男を捨てられても、女は育む性も包括していて自分から女 を捨てることが出来ないという自覚も持って欲しいのです。 大人になるな!男と女になれ!?失礼しました。
補足
お礼の補足をさせてください。 ANo2の方のお礼を考え中に頂いた回答と重なり「野生性」に拘った変なお礼でした;。 性教育に肯定的な意見かと思ったのですが、一般の大人のモラルが低いのだから将来ある子供の内に自衛として低俗な授業をするしかなくなったのだとしたら悲劇なのか、喜劇なのか。 >「生物学的」という基本で説明してるんじゃないですか? 私は四年生の頃に女子だけで映画を観たのを記憶していますが、今のように(学校よって違いがあっても)イラスト入りの副読本を配り先生が事細かに説明するというものではなかったです。親子仲が悪い私でも初潮のことは親に聞きました。そうなるのが自然と思います。 子供の体格が良くなっても精神的な部分は以前の子供よりも弱くなってるかもしれない。身内でも相談するのが恥ずかしいことが他人同士恥ずかしくないはずがない。子供から「嫌らしい」と声を出せないでしょうし。恥ずかしくても我慢して受けている子もいるかもしれない。 >>説明の仕方うんぬんより先生は恥ずかしくないの? >医者に裸見て恥ずかしくない?って聞くようなもんかも? お医者さんや本屋さんも一般人だったなら自分の裸や身内の裸を見ず知らずの人に見せるのは恥ずかしいはずです。 >「大人になるな男と女になれ」は不味い発言だったかも。 「大人は偽善者、卑怯だ、陰湿だ」が多いと、いう私の思いこみからの発言でした。本当の大人は少なくても、暖かくて明るい人、子供の味方と信じていたいです。
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お礼
nabayoshさんありがとうございます。そしてお礼が遅れ申し訳あ りません。 >社会に適合するためには、この野生性をうまくコントロールす る必要がある >社会にとっては野生児であることは悪と見なされているのです。 確かに子供は野性的です。倫理は人間が作った家で、家のルール に従うなら守られる。家を出れば日照りや風にさらされ、ぬかる みにはまってしまう。子供はまだそんな自然の中で遊んで危険な のも知らぬよう。危険だというのは私が野生を飼い慣らそうとし たからで、離れてしまうと泣くことになるから怖い。 とサンデクテュベリ風に。 >性という本能は、教育の手が入れられる領域ではないからです。 思春期になると家も窮屈で不器用な翼も何であるのか気付く時が やってくる。その羽根に釘を打ち飛べなくすると外はもっと危険 になっちゃいます。性は自分で飛ぶ為の翼なのかな。 どんな情報でも見極める目と、君を守れる腕力があるならいいけ れど。「なんだもうわかってると思ったらそんなことも知らなか ったのかい?」(まだ子供だな) 「そんなこと言われなくても知ってるしぃ学校で習うしぃ。うる さい!」(親のいいなりになんかなるもんか) 背丈も越され抱えられなくなった子供と最後の親の威厳を示す時、 神秘のベールを見せる時(?)そんな場面が変りそう。 運動会のグランドで家族と一緒にお弁当というのがなくなりました。 親達は家に帰るか手弁当を自分らだけで食べる。会話もできない。 家庭の事情やらで家族が来れないこともあるからだろう。そこで 私は提案したい。子供が教室で給食を食べるなら、暇な親にも子 供と一緒に給食を食べさせるというのはどうでしょうかと(←無理!)