- 締切済み
悪い事
どのカテゴリーに質問しようか迷いましたが、結局ここに質問することにしました。 間違ってたら言ってください。 『悪い事』を子供(小6~中3)に教える際に、道徳的概念と宗教的概念を一切使わずに教える事が出来るかどうかを教えてください。 また、大人に対して言うならどのように言うべきか教えてください。
- みんなの回答 (24)
- 専門家の回答
みんなの回答
- chongaa
- ベストアンサー率14% (1/7)
No.12です。 子供に自分で考え、判断する力を養わせるためには、世の中には色んな価値観や思想、風習があることを理解させる必要があると思います。 そのためには、子供に与える情報を制限するのではなく、できるだけ多種多様な事例や考え方を「押し付ける」のではなく、「示してあげる」ことが大切なのではないでしょうか? >道徳性や道徳的概念の正当性をどうやって証明するのか。 そこが私の質問のポイントであるとも言えます 小6~中3であれば、最低限の道徳的マナーは身についているかと思いますが、なぜ「悪いこと」をしてはいけないかと聞かれれば、 「他人に迷惑がかかるから」とか、「自分がされて嫌なことは他人にもしてはいけない」 とかの答えで良いと思います。 質問者さんの意に反して道徳的な答えではありますが、それ以上の意味になると、個々人の人生観や、哲学に踏み込まねばならず、それこそ時間をかけて自分で考えさせるべきことがらであると思います。
- fishbowl66
- ベストアンサー率29% (36/121)
失礼します、もう一回だけ、書かせてね。 >自分だけ得をする方法があるのにやらないのは納得しづらいです。 自分だけが得をできる方法が有ると仰るわけですが、 これを疑ってみませんか、それが哲学カテの、ローカルルール。 単純なモデルを使って説明します。 無人島に、AとBの二人が流れ着きました。 そこには、水も食糧の果物も、十分有るとします。 ただし、水も食糧も、ひとりだけでは採ることができません。 例えば、果物は高い木の先で、二人が協力しないと取れませんし、 道具もありません、水も同様としましょう。 さて、この場合、AとBの間に体力的な違いがあって、 圧倒的にAに力があり、仕事量としてもAが多いとします。 さて、AはBより、多くの食糧や水を要求できるでしょうか。 仮定としては、AとBの必要エネルギーは同等とし、 倫理面は問いません、両者とも合理的な行動をします。 答えは、両者半々に成ります。 如何でしょう、またいい加減な回答か、疑問は尽きませんね。
お礼
回答ありがとうございます。 >仮定としては、AとBの必要エネルギーは同等 >答えは、両者半々に成ります。 この仮定が現実ではありえませんね。 Aの方が仕事量が多いわけですから必要エネルギーは絶対的にAの方が多くなるはずです。 このモデルは、2人のみの相互援助の世界という前提の元に成り立っています。 実際にはありえない世界です。 今の日本では1人がやらなかったからと言って、社会が崩壊する事はありえません。スペアがいくらでもいます。 社会が崩壊でもしない限り日本はどんな人間でも援助しなければならないという法律があります。 ですので、楽できます。 細かい話は抜きますが、現実に新聞などにも取り上げられたりしている話でもあります。 これが悪い事かは別ですがね。
- chongaa
- ベストアンサー率14% (1/7)
「よい」、「悪い」という言葉自体が一般的には道徳的概念ですから、その定義を変質させない限り、道徳的概念を用いずにその意味を理解させることは不可能でしょう。 「法律」とはその意味を理解できるできないに関わらず人々に「悪い」ことをさせないためのものです。つまり原理的には子供に対する体罰と同じものです。 勿論、「法律」を作成するひと、「体罰」を振るうひとには高い道徳性が期待されます。そうでない場合も多いですが…。
お礼
回答ありがとうございます。 >「よい」、「悪い」という言葉自体が一般的には道徳的概念 それはそうです。 何故この様な質問をしたのかと言うと、 子供に自分の意見や世間の意見を一方的に押し付けず、子供の頃を育てていく事は可能かという事が気になったからです。 どうしても、自分や世間の考えは何かに影響された考えになります。 宗教,風俗,環境,・・・etc それらの影響をなるべく減らす事は可能かどうかという考えの第一歩として質問させていただきました。 >「体罰」を振るうひとには高い道徳性が期待されます 道徳的概念を判断する為には高い道徳性が期待される。 では、その道徳性や道徳的概念の正当性をどうやって証明するのか。 そこが私の質問のポイントであるとも言えます。
- cyototu
- ベストアンサー率28% (393/1368)
#10です。 miniture_minさん、情報有り難うございます。 なるほど警察が関与したクーデターも実際にあったのですね。私はアメリカに住んでいるためにこれだけ新しくて大きな出来事の情報を見逃していました。 でも、このクーデターの場合にもやはり軍隊が動いていますね。この場合、軍が主導権を取ったのか、警察が主導権を取ったのかの問題が残っているような気がします。分かりませんが、タイでは軍隊と警察の違いが曖昧で、アメリカとか日本とは違ってどちらかと言うと警察が軍の一部的な認識を持っている可能性もあるのかな、とも思いました。 今までは考えたこともなかったのですが、もしかしたら中国でも警察と軍隊の間の区別が曖昧になっているのかな、という問いが浮かんで来ました。
お礼
どういたしまして。回答ありがとうございます。 中国の内情はよく知りません。 ただ、何か大きな力を倒すためには武力が必要です。 武力を持つ組織を軍隊というのなら、軍隊が必要だったのは確かでしょう。
- cyototu
- ベストアンサー率28% (393/1368)
#7、8です。はじめの質問からはずれているようですが、いろいろ教わっています。 miniture_minさん、警察がクーデターを起こした例は、不勉強ながら気が付きませんでした。私の思索の参考になりますので、具体的な例をご存知でしたら教えて下さい。 masa2211さん。私は「法律とは道徳を補うためにある」という言葉を私なりに次のように理解しています。専門家達の間ではそうでないと言うなら「ああそうですか、でも納得がいかないな」という感覚です。 長い歴史と文化を持った民族では、その経験に基づいた価値観がそれとなく出来上がっているものです。私は価値観の違いとは文化の違いだと思っております。そして、安定した社会では皆その常識的な(あるいはその文化に属した者の多数派が同意した)価値観に従って行動の善し悪しを判断しています。この常識的な価値観を道徳と言っても良いかも知れません。大抵はそれで問題がないのですが、これだけ複雑な人間にはその常識だけでは片付かない問題がときどき起こります。普段は道徳的判断だけでうまく行っているのですが、このような例外的は問題を解決するために、補助として法律が必要になる。だから「法律とは道徳を補うためにある」と私は理解しています。 私はアメリカに住んでおりますが、私の町にある大学のアジアン・スタディーの日本人学科で、オーストラリア人の民俗学者の方が日本文化について論じたとき、面白いことを言って居りました。日本は世界でも例外的に訴訟の少ない国である。それに関して正反対の二つの説明がある: (1)日本は文化的に未熟な社会で、法の概念をまだ良く理解していない。だから、法に訴えて問題を解決しようとはしないのだ。 (2)日本は文化的に大変成熟した社会であり、皆の常識的判断と法による是非の判断が見事に整合している。従って、長い時間と高いお金を費やして、裁判所で法に従って判断をしてもらっても、結局自分たちの常識的な判断と同じ結果しか得られない。だったら無駄な時間と金を費やすより、示談で解決した方が利口である。 そのオーストラリアの先生は、(2)が的を射た見方だろうと言っておりました。そんな社会では法律は補助的な役割しか演じてないと思いますが、どうでしょうか。 一方アメリカでは、裁判で下される結論が前もって予測できない。実際あった話ですが、股の間にマクドナルドで買った熱いコーヒーを挟んで車を運転していて自分の恥部を火傷したおばさんが、マクドナルドを訴えて数百万ドルせしめることができました。常識とは関係なく、裁判所の法解釈で巨万の利益を得ることができる可能性が残されていたら「一つ裁判に賭けて見るか」ということになって、何でもかんでも裁判に持ち込む訴訟社会になっているのがアメリカと言う国なんだなあと思いました。そんなアメリカでは法と道徳の関係は日本ほど簡単ではなく、その関係ついて、東大の先生方の言うようにいろいろな論理や解釈が生まれて来てしまうのではないでしょうか。
お礼
回答ありがとうございます。 去年、大きく取り上げられたニュースですがタイのクーデターは警察がからんでいたはずです。 http://nna.asia.ne.jp/free/tokuhou/060807_bkk/06/0921a.html
- masa2211
- ベストアンサー率43% (178/411)
>道徳的概念と宗教的概念を一切使わずに「悪いこと」を教えられるか これは、無理と違いますか? 良いこと、悪いことですが、基本的には、 大部分の人が 自分が他人からしてもらいたいこと が良いこと、 自分が他人にしてもらいたくないこと が悪いこと。 ※たとえば、自分が殺されてもいい、と思っている人は自殺志望者ぐらいであり ごくごく少数であるから、殺人は悪。同様に、盗みや暴力も悪。 こう説明するしかなだろうし、この方法がおそらくベストなのだろうけど、これって「黄金律」であり、 ほとんどの宗教で共通した教えの概念です。 ですので、宗教的概念を一切使わずに説明することは無理でしょう。 法律も、原則黄金律のとおりに設定されています。 たとえば、殺人は(一般論として)罪にならない、という法律は今までになかったはず。 (特権階級は例外、かたきうちは例外、というのならあったとしても。) 法律と道徳の関係ですが、最低限守らなければならないのが法律であり、 「あいさつをすべし。」というのまで法律で強制できないから、こういうのは道徳どまりですね。 cyototuさん >昔から「法律とは道徳を補うためにある」とされています。 >「道徳は法律を補うためにある」は、考え違い。 ここは、道徳と法律を考える最重要ポイントでしょう。 でも、cyototuさんの意見は聞いたことないです。 「道徳とは法律を補うためにある」のほうが正しいんではないの? 現実に、学校ではそう教えています。 東京大学のHP。 「倫理と法」の箇所を参照。 (法律の網が届かない場合、倫理(=道徳)で補完して考える、という意味において、道徳とは法律を補うと言っていることにも注意。) http://www.nuclear.jp/~madarame/rinri_note.html なお、私は、東京大学のHPと同様、 「法律とは道徳を補うためにある」とは、 道徳で悪とされたことは無条件に悪で、道徳では悪かどうか不透明な事象は法律で判断する。 「道徳とは法律を補うためにある」とは、 法律で悪とされたことは無条件に悪で、法律では悪かどうか不透明な事象は道徳で判断する。 という意味に捉えています。(この意味が逆なら、主従関係はひっくりかえる。そうなれば、cyototuさんと意見が一致することになる。) >その道路は高校の敷地ではないので、先生は注意をすることが出来ない >これが法律か 私には理解不能です。 「法律が全て」あるいは「自分に関係無ければ無関心」なら、注意できないかも。 (高校生はタバコ禁止、という法律が無いものとして。米国の法律は知らないです。) でも、「道徳は法律を補うためにある」または「法律とは道徳を補うためにある」のどちらでも、 注意できるとしか思えないのですが。(どの道、道徳にひっかかる。) ※念のため。 私は、 ・法律:最低限守るべき事項。 ・道徳:明文化されておらず罰則も無いが、原則守るべき事項 よって、 法律の網で判断できない内容は道徳(=黄金律)で判断すべき という意味で、「法律とは道徳を補うためにある」と言っているのであり、 >>法律に従っていることが道徳に従っている には反対意見です。 かえって、 「法律とは道徳を補うためにある」というと、 ・道徳のほうが守るべき範囲が狭い (道徳だけ守っていてもダメなところがあり、その隙間を覆うために法律がある) という意味になり、すなわち、 ・法律に従っていれば道徳に従っている ということになりかねない、という意見です。 ですので、断じて 「道徳は法律を補うためにある」であり、その逆ではない、ということです。 >法律が「是」とされる時間のスケールは長くても百年ぐらい、道徳が「是」とされるのは数百年 法律のほうが道徳より時間スケールが一般的に短い、という意味なら同意しますが、例外もあるのですよね。 ・殺人や盗みの禁止。 これが過去の法律の条文に無かったことは考えられません。よって、これは道徳ではなく法律です。 (法律とは道徳を補うためにある、という立場に立つと、こう考えざるを得ない。) ハムラビ法典以降、数千年間「是」であり変動していません。 ・インフォームドコンセント(よく知らされた上での同意) ・公共の利益 つい最近(約1980年代くらい)、結論がひっくり返った概念です。 インフォームドコンセント: たとえば、医者が治療するのに、 ○医者が最善と思うことを、患者に詳しく説明せずに治療する。 ○患者に詳しく説明し、治療法を患者に選択させる。(癌の告知なども含む。) と、どちらが正しいか。 (現在は後者が正しいとされるが、以前はそうではなかった。) 公共の利益: 守秘義務との兼ね合いのことであり、たとえば、クライアントの有害物質バラ撒きという事実を つかんだ場合どうするか(公表すれば守秘義務違反となる。) といった問題。 (過去は、守秘義務優先。公共の利益に直結するほど酷い状態にはめったにならなかったため。) 付記:公共の利益を徹底的に追求すると、ファシズム(=お国のためなら何でも我慢)になります! 公共の利益を万能視するのは問題です。
お礼
回答ありがとうございます。 何となく質問からずれてきた気もするんですが・・・ 『法律は道徳を補うためにある』という『言葉』自体には私は賛成です。 ただ、社会的に裁かれるかどうかは別です。 私の質問としては『悪とはどういうものか』が本質なので、 『道徳で悪だと言われている事が社会的には悪だと考えられている』 というように解釈すれば間違ってないと思います。 それが正しいかは別ですが。
- cyototu
- ベストアンサー率28% (393/1368)
#7です。 私は、法律に関しては貴方の特徴付けに対して賛成ですが、道徳に関しては少し違った特徴付けで認識しています。 ・法律は権力(政府)との関連で考えられるため、その権力の寿命に強い相関をもつ。 ・道徳は民族なり国家なり文化との関連で考えられるため、それらの寿命に強い相関をもつ。 このことから素人考えですが、 宗教、道徳ー慣習ー法律 民族ー国家ー政府 の構図が見えて来たような気がしました。 そう考えてみたら、両方とも武器を持ちながら、クーデターはどんな国でも必ず軍隊が起しますが、決して警察が起したことがないのは何故かが判った気になりました。軍隊は国家に属し、警察は政府(権力)に属するからです。従って、寿命の長い国家に属する軍隊は潜在的に百年の計を考える傾向があるが、警察にはそれがないのだと。別な言い方をすると、軍隊を持たない民族が「国家」の概念を認識するのは不可能ではなくても、なかなか難しそうだと思いました。 大分前の新聞の世論調査で「もし日本が外国から侵略されたら、貴方はどうしますか」との質問に「外国に逃げる」と答えた若者の割合が多かった(詳しい数は忘れました)という結果が得られたということを読みましたが、そんなことも道徳と法律の関係や民族と国家と政府の関係を考えると、分析できるような気がしました。
お礼
回答ありがとうございます。 >道徳は民族なり国家なり文化との関連で考えられるため そうですね。 道徳ってのは広い地域での雰囲気みたいな物だと思ってます。 ただ、その雰囲気も強い力によって強制的に誘導する事も可能です。 >クーデターはどんな国でも必ず軍隊が起しますが、決して警察が起したことがない 警察が起こすクーデター・・・確かあったと思いますが? >新聞の世論調査で・・・ そうでしょうね。 『自国を守らず逃げる事=悪い事』という修身は、今の教育現場から撤廃されましたからね。
- cyototu
- ベストアンサー率28% (393/1368)
#1さんへのお礼欄で >大人に説明するには法に抵触することが悪いこと >法律やマナーなど も、道徳的概念だと思うのですが、違うのでしょうか? に付いて、コメントを書かせてもらいます。 法律と道徳を混乱するとおかしなことが起こってしまいます。昔から「法律とは道徳を補うためにある」とされています。 以下で私がアメリカで実際に経験したことを紹介します。アメリカ人はどちらかと言うと「道徳は法律を補うなめにある」と考え違いをしているように私には思えました。 私があるときアメリカのある高校の登校時間にその高校の側を車で通った時のことでした。その車にはたまたま一人の高校生が乗っていまいした。高校の前の道路で何人もの高校生がタバコをすっていました。それを何人もの先生が見ているのですが、注意をしないのです。私は先生方に腹を立てたのですが、同車していた高校生の言うには、その道路は高校の敷地ではないので、先生は注意をすることが出来ないのだそうです。そのとき私は、これが「法律か」と目から鱗が落ちたように感じました。 道徳にはここからここまでというような境界はありません。法律にはそれがあるのです。そのことを理解しないと、法律に従っていることが道徳に従っているのだと思い込むような混乱をしてしまい「貴方が何と言おうが、私は不法なことはしていないので、謝る必要や責任を取る必要がないと」どこかの国営銀行の総裁や、政治家達と同じようなことを言い出して、その裏でベロを出すようなことになります。歴史の浅いアメリカの財界人や政治家ではこんなことは日常茶飯事ですが、歴史の古い日本では、まさかこんなことはないことを祈っています。 法律は道徳とは「重要なところで」違った物だと思っております。たとえば、ある法律が「是」とされる時間のスケールは多分、数十年、長くても百年ぐらいのようですが、ある道徳が「是」とされるのは数百年から千年ぐらいの時間スケールだと思いますが、如何な物でしょうか。
お礼
回答ありがとうございます。 >法律とは道徳を補うためにある 納得です。 >法律が「是」とされる時間のスケールは多分、数十年、長くても百年ぐらいのようですが、ある道徳が「是」とされるのは数百年から千年ぐらいの時間スケールだと思います 納得しかねます。 法律とは広く力の及ぼした範囲内の空間で、それを変容できる力が発生するまで影響し、 道徳とはとても弱い力を維持し続ける事によって恩恵を受ける総量が相対的に重要であると認識される空間において、重要である限り常に影響する。 と、考えています。いかがでしょうか?
- ginga3104
- ベストアンサー率23% (510/2208)
再度。 >『この痛みを与える行為が悪いこと=道徳的概念』だと思うのですが違うのでしょうか?これは絶対的な物なのでしょうか? 私が言いたかったのは、『悪い事』とは、人が生きているこの世界の中での行為を善悪で捉えた場合の一方の極だと言うことです。 その際の善悪の一つの基準として、心身に痛みを与える行為が悪であるとするのは、社会を営んで生命を維持している人と言う動物にとってはほぼ絶対的なものだと思います。(種の保存に反するので) しかし、その絶対的であるはずの種の保存に反する行為を人は実際には行ってしいまいます。何故そうしてしまうのかを観察した場合、大抵が妬みや嫉みまたは保身など、個体としての種の保存を優先してるのです。個人の種の保存は、往々にして全体の公としての種の保存に反する行為となる場合が多いのが事実です。この両者のどちらが優先すべきは論ずるまでも有りません。 つまり、善悪の基準は人全体の種の保存が基準となっており、その補足説明としての道徳・マナー・法律・宗教が成り立っています。これだけの事を子どもに教えるのは、無理です。言語野を整えねばならぬし、自分が人類の一員である事を自覚させねばなリません。つまり、この世の中を教えるのが先決なのです。 大人の場合には、実はもっと困難です。一度形成された個々の世界観はそんなに簡単には変わりません。個々の道徳観や宗教観もしかり。人身売買が悪でない時代の方が長いのです。従って、その都度その都度、法律によってその行為は違法であるとして、世に悪だと知らしめる必要が有るのだと思います。
お礼
回答ありがとうございます。 分かりやすいですね。 ただ、全体としての種の保存よりも個の保存を人間は本質的に望みます。 何かの映画でありましたが、隕石の衝突で世界が滅びると言った時に、ほんの一握りの人だけが地下シェルターで生き延びられると報道され、世界中が暴走したという物です。 つまり、全体としての種の保存とは、個の保存が完全に約束されているという前提の上でしか成り立たないという事です。 別に自分が死ななくても良い状態で、 『世界の他の人の為に私は死ぬ』という人は正常ではないと思います (一部の英雄を貶すような言葉で申し訳ありません) 世界が理解できていない子供にしても、 世界を知った大人にしても、 極端に言えば、全体の為に命を落とす事が『正しく』 極端に言えば、全体の為に命を賭けない事は『悪い事』 である。というのはどうかとおもいます。 洗脳出来たとしても、それだと自分から考えて行動するという考え方が出来ない人間になる気がします。
言い聞かせても聞き分けない子供や 勝ち続け権力に浸りきった人や覇権国家ほど始末に負えないものはないかもしれない。 子供のことを餓鬼というそれと同じかな。 「やってみせて 言って聞かせて やらせて見て ほめてやらねば 人は動かず」 で通じればいいけど 子供ならば大人の力で罰を与えて修正も効くかもしれないですが 強大な権力を持った人や 強大な武力国家に対するときなどはどうすればいいのでしょうね。 このままいけば地球全体の生命の存続が危うくなることをいい、生か死かの二項対立を突きつけて自己抑制する必要性を自己認識させるぐらいしか思い浮かばないです。 これは運命共同体の一蓮托生でいって聞かせるなどという次元ではないですが。
お礼
回答ありがとうございます。 ルールというのは絶対的な力(又は法則)が存在する事が前提でなければ成り立ちません。 地球生命全体の存在といった漠然としたイメージでは子供には逆に分かりにくいでしょう。 確かに、子供を誤魔化すような言葉としては都合が良いでしょう。 が、ある程度の知能を持った人間なら誰も納得しないです。 地球船宇宙号自体が、自分個人より重要であるという信念を持つ人間外には全く役に立たない理論だと思います。
お礼
回答ありがとうございます。 >自分で考えさせるべきことがら でも、それでは解決に至らないです。