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外国の心中ものについて教えてください
外国の文学にいわゆる心中ものはあるのでしょうか? 『ロメオとジュリエット』は勘違いの結果、心中のようになってしまったわけで、あれは純粋に心中ものといえないと思うし、『トリスタンとイゾルデ』もこれも心中とは言えないと思うしで、ずっと何年も考えているのですが、ないなぁと思っているのです。 外国の友人に説明するのになんだか、困ってしまうんです。 心中ってなに?って。 いつでもいいので、教えてください。
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補足します。 心中だてという言葉が残っているように、江戸時代半ばまでは心中とは男女が死ぬ事ではなく、愛の証を何らかの方法で相手に示す行為を指したようです。例えば刺青で相手の名前を書く、髪を切る(他の男性へ女性としての魅了がなくなるように)或いはあなたに私の愛を捧げますというような誓いの手紙を送ることもあったようです(誓紙)江戸時代中期になって歌舞伎や浄瑠璃のテーマとして心中(死)が取り上げられ人気を博したため(心中が珍しいことと自分は出来ないが心情は理解できることからか)、それ以降は心中(死)が主流になったようです。死をもって愛を貫くという考え方は日本人の死生観(死後の世界もある)の表れなので、キリスト教徒への説明は、同時に死ぬかどうかが目的ではなく、相手の死を嘆き(或いは同情し)一方があとから自殺しても一種の心中であると説明し、ロミオとジュリエット、オテロなどを例にあげてはどうでしょうか。
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- nemaki5656
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こんにちは! 昔読んだ本なので記憶違いだったらすいません。 確かA・デュマの「モンテ・クリスト伯」の最後の方で エドモン・ダンテスに昔の罪を暴かれる検事総長(?)の奥さんが幼い子供を道連れに毒薬で自殺した、という場面があったと思います。 これって親子心中ですよね。
お礼
ご回答、ご指摘ありがとうございます。 ボクも『モンテ・クリスト伯』を読んだのはもうかなり前のことになってしまうので、ちょっと記憶が曖昧ですが、確かにおっしゃるとおり、親子心中になりますね。西洋人の発想としては、子どもを犠牲にしてしまうというのはちょっと珍しいですよね。さすが、デュマという感じが、今更ながらしています。 でも、いわゆる日本人の大好きな心中ものとは、質が違うような気がします。もし、何か、いわゆる日本の心中ものと同じようなものを思いつかれたら、教えてください。お願いします。
補足
ご回答いただき、ありがとうございます。 だんだんと解決の糸口が見えてきそうです。
- salome88
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こんにちは。 陰謀説など諸説あって真実は心中ではないのかもしれませんが 1889年、オーストリアの皇太子ルドルフが女性と共に自殺した事件を 身分違いの恋に悩んだ末の心中、という解釈で 「うたかたの恋」という映画が作られています。
お礼
回答ありがとうございます。確かにあれは、心中ですね。 映画にも、宝塚にもなってました。 よく、この話題は、文学部の教授連とも話をするのですが、なぜ、今まであがらなかったのでしょうか。いまは、そっちのほうでちょっと悩みだしてます。ボクみたいに単純に忘れているだけなのでしょうか・・・。 ご指摘、大変、嬉しいです。
心中は一般に恋人同士の情死として捉えられますが、同じ環境にあるものの二人以上が義理や人情、同情から心中する場合もあります。もともと江戸時代のような封建制度と身分制度の中で生まれたものなので、海外には少ないと思われます。しかし、ゼロではない筈です。西欧で少ないのはキリスト教が自殺を認めないので相手に心中を迫らず、一人で死んでいくこと、また仮に心中があっても世間に対しては心中と発表しなかったと思われます。従ってあなたの言われ外国文学がキリスト教世界を指すのであれば少ないでしょう。タイ、インドなどを研究すれば心中ものの文学があるような気がします。 日本では一家心中、親子心中、後追い心中、同情による心中(若い女性に多い)などもあります。
お礼
早速ご回答いただきありがとうございます。 ボクの頭のなかに合ったのは西洋文学でした。キリスト教系の世界以外にはちょっと目を向けていませんでした。ご指摘ありがとうございます。ただ、心中というメンタリティをヨーロッパ、アメリカ系の人に説明する際にちょっといつも困ってしまっていたんです。(個人的な意見はともかくとして)『失楽園』がそれでも、連中に受け入れられたりしても、やはり彼らには説明する際にはどうしても困ってしまうんです。
お礼
再度、ご回答いただきありがとうございます。 おっしゃるとおり、完全に死生観の現れ以外の何ものでもないですよね。ただ、彼らにしてみると、純粋に愛するものを失ってしまった絶望という風にしか考えられないようでした。『ロメオとジュリエット』の場合はあれは、絶望から死を選んだのであるという風に反論を受けてしまいました。それの例として、現代版である『ウェストサイド物語』ではマリアは絶望を抱えながらいきるという選択をしたのではないかと言われてしまいました。 でも、心中ものの流れということにおいては無知だったので、その辺からもう一度良く考えてみます。ほんとうにありがとうございます。