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日本人は 死んでいるのでしょうか
人と人との関係 これは なくなったのでしょうか。この無関係というかかわりを死と言ったのですが われわれのあいだでは 死がひろがっているのでしょうか。 たとえば《こんにちは》と挨拶するとき それは 《あなたと わたしとは 無関係である。これからも かかわりを持とうとは思わない。その点くれぐれも よろしく願いたい》と言い交わしているのでしょうか。わたしたちは それほど魂が弱ってしまったのでしょうか。(あるいは 魂の問題ではないと言うべきでしょうか)。 いやいや 部分的な悪い事例を見ているだけだと言うべきでしょうか。あるいは もっと別の見方があるのでしょうか。 どうかよろしくご教授ください。 〔焦点ないしきっかけは 上のように あいさつ言葉や会話内容です。その表現の奥に秘められた意図・こころです。かかわりを持つという感覚(その意味でのたましい)が弱っているのかなといったことです。〕
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こんばんは、brageloneさん。 数日来よりこちらのご質問を閲覧していました。何か書き送ろうかと思い思いしておりましたが、続くお話にトンチンカンナ話を口を挟んではご迷惑にもなろうかと書かずに閲覧をして眺めておりました。それならどうして口を挟む?と、訝らないでくださいね。先日、ANo.21の方の回答文に『死んでいるとか日本人は~とか一括りに言われても戸惑います…』←この一文を目にして、おおっ?!と、おおっ?と、何を思ったかと言えば、ここまで長く続くお話の中でまだ何方もこのことにはお触れにならずにお話がなされていた。ある意味、この一文を目にしたときわたしもこの点に関してはここを閲覧しつつ呟いていた言葉でもありました。ですから、ANo.21さんが発されたこの一文に思わず一票!きいちゃいけないのかな?こんなこと書いちゃいけないのかな?と、思いもしましたが回答のお礼に《死んでいる/生きてる/たましいうんぬん》と書き添えられてありましたから、あっ?!いろんな切り口から入っていってもかまわないのかなと思いトンチンカンナお返事になりましょうがしばしお許しを。 最初にこのタイトルを目にして思ったこと。『日本人は、死んでいるのでしょうか?』これまたスゴいタイトルだな。死んで居る日本人って?お盆の頃ならご先祖さんがあの世からこの世(家)へ帰ってくる。すると、霊~祖先信仰のお話かともおもいもしましたが、姪子さんを例えにあげたお話もあり、うーんなんだろう?人の意識の動きは不思議といま現在おかれている身のまわりにより近くの事象や事柄に結びつけて考えてしまいがちです。ほら、もうじきお彼岸ですしね。あー、だめ、だめ、ついついヒュードロドロと幽霊のお話を想像しちゃう。 はい、気持ち切り替えて。 改めまして『日本人は、死んでいるのでしょうか?』 義を見てせざるは勇なきなり ↑ 正直、こうはできにくくなりつつあるのはゆがめません。なぜ?そのひとつに些細な事柄においても訴訟訴訟のオンパレード。たとえば、道に人が倒れていたとします。そこを通りがかり倒れている人を発見。声をかけます「どうされました?大丈夫ですか?」「うぅ…」と言葉にならない声、頭から少し血が…ここは坂の頂上、夜更けともなりさほど交通量は少ない。とはいえど車の通り道、あたりには人通りはなく道上には横たわる人と通りがかりのわたしだけ。ポケットから携帯電話を取り出し110番通報。「そこの住所は…」と聞かれあたりをみまわし電信柱に貼られた所書きを目で追い読み上げる。警察の人が現場に到着するまで、道に横たわる人と二人きり。電話を切り終え、道に倒れた人に目をやれば、いつの間にやら上半身だけ身を起こしふらつきながら投げ出した足をさすっている。額から流れる少量の血。「ちょっと、飲みすぎてころんだんや」「すまんな、ほっとってくれてかまわんよ」いう口からろれつが次第にもつれていく。「起きたらあきません、体横にして待ってて下さい」「大丈夫や、どないもないって」そんなこんなやりとりを少しの合間していると警察の人が早々と到着。そこから先は、警察の人に「よろしくお願いします」と委ねその場を後にした。見過ごして通り過ぎればよかったのか?いやいや、放置すれば下から上がってくる車に引かれることだってありえる、ましてや見通しのきかない坂の上、車を運転する者に不幸がおそいかかるやも。しかし、酔って自損でころんだ者の介抱に警察官と救急車がかりだされその間に他でもっと重篤な患者への対応が間にあわなかったら…。警察に一報をいれたときと警察官が到着するまでの間に道に倒れていた人の状態がかわっている。よかれと通報したことがよいとはいいがたくなる。なにせ本人は「大丈夫や、どないもない」と、言っていた。警察に出動要請をしたのは通行人。通行人のお節介といわれかねない場合もある。「大丈夫や、どないもない」と、言う言葉を「大丈夫とどないもないと」判断できる材料を通行人は持ち合わせていない。医者ではないから。こうして人はなにかしら他人に迷惑をかけながら生きている。一見無関係のようでいて、その実関係している。死んではいない生きている。
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- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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≪達観をなさり過ぎです。泰然自若となさってい過ぎです。境涯を示され過ぎです。≫ 物・事の行き着く、当然の末路を語りました。問題を解決しようとすれば、事の本質を自分で考え、それにしたがって結論をつけ、そういう状態になれていない状況を打ち捨てていくことになりましょう。達観とか、泰然自若とかの言葉は恐縮です。こうしかないということです。 ≪言葉の伝え合いでございます。≫ 私もおしゃべりで、口が多すぎます。きちんと言葉を選び構成するべきですが、高い到達の師家の偈の如きは望めません。ことば多く内容が伝わらないことは、いけませんね。 ≪顔を合わせ≫ というようなことは、こういう書き込みなのだから、無駄を取り、中心を、道にそって表現しているつもりでした。対面してのことなら、無駄も、呼吸もみながらはなしあえましょう。当然この多弁老人も、余計にも言葉を尽くしてはいます。でも省略が多いのでしょう。反省します。 人の本性は素晴しいので、必ず内部からわかっていくものです。 ことばや外的訓練は弊害があって、効果というものなどありません。 《恬然と輝いているだけでいいではないですか~~~》―― 信じている事ではないですか。人についても。自分についても。 誰かに変わって欲しければ、変わって欲しい人が変わるべきです。 《とげを抜くこと》と《その患部が癒えていくこと》 そう思われているなら、そうしていかれることなのでしょう。 私はそういう見方も仕方もとっていません。 ≪やはり《恬然としていて ただ姿を示す》仕方と 《言葉で説明する》仕方とがあると思います≫ わたしは伯父上様としての対処の態度、仕方、そして物事の進行の次元でお話してきております。 ≪若い人びとの生活の一齣ひとこまに分け入って 言葉を用いて 自分に向かっても 説明する――こういう作業だと理解します。≫ そういう仕方よろしければ、そうしていかれることであろうと存じます。私は要するに、生活としての自分も、姪御様も所詮は宇宙の金魚鉢の中に入っているだけ、と思っていたほうがいいのではないかと申しあげております。ドラマの演技でしかないと。 自分をそういうところから離していたほうが、妥当だし、物事の妥当な進行が期されると存じております。 お話がまことにすれ違っていますね。
お礼
補足欄への補足になります。(20070918記)。 交通整理は 味気ないですね。 九十九頭のほうよりも 一頭の羊が気になると言えば あまりにも気障になるでしょうか。 こう述べても しっくりしない部分を残すという感覚がありますが こちらが降りていったり 向こうへ動いて行ったりするということもあると言うべきでしょうか。 あるいは もっと簡単な説明は わたし自身が迷っているということでしょうか。棘は抜けているとは思っていますが。 krya1998さんには 大将として構えていてもらうことになるでしょうか。これは お願いなどするものではありません。使命であるなら そうなるでしょう。
補足
ご回答をありがとうございます。 きちんと整理してお答えいただきました。これまでがそうでなかったのではなく 焦点を結んだと思ったら どこか違っていたというような風でした。 分かっていることから 確認させてください。 (1)姪の事件はあくまで例示です。こだわることはありえません。同時に その結論を明解に述べていただいたことは ありがたく 何の問題もございません。 (2)強いてその話で尾をひくこととして取り上げているとすれば それは 姪がすでに自分の生活態度を形作っていると仮定した場合 これをどう捉えるかでした。でも この仮定の議論も 取り上げるにしても 一般化していますし 事件とは別に 考えるということになります。ですから 事件とはまったく別です。 (3)たぶんわたしの質問の性格が krya1998さんからは 人格の問題に もろにかかわるような見方を引き出してしまうのではないかと思いました。 そこで 今回 《お話がまことにすれ違っていますね。》との言葉を頂戴しなければならなかった原因は何かですが 一つには 《とげを抜くこと》と《その患部が癒えていくこと》との区別に異議をとなえられたことだと思います。 棘を抜いたあとも 患部が膿んできたりして すぐには全治しないわけですから この区別があるとわたしは考えますが krya1998さんは 全体としてひっくるめて 究極の結論をもって捉えるし対処なさるとのことでしょうか。 でも 棘を抜くことは やはり言わば一瞬であり 癒えるのは その後の時間過程だというふうに思うからには 対処の仕方も いくらかは変わってくるように思うのですが。ご自分ではそうなさらないが それもありうるというふうに コメントをいただいたことになるでしょうか。 あとは 確認するのも 曖昧にはなりますが こうでした。つまり もし《あなたと わたしとは 無関係である。これからも かかわりを持とうとは思わない。その点くれぐれも よろしく願いたい》という考えのもとに人びとが《こんにちは》を言い交わしているとしたら これについて 今ではわたしが 何か新しい社会(人間関係)のあり方への兆しであるかも知れないと思い出しているという妄想です。 ですから あとで けっきょく何でもありませんでしたと ご報告するようなまぼろしの問題だと思います。どうでしょう これで交通整理はできたでしょうか。 (あとは 見守っていただくということになりますでしょうか)。
- fishbowl66
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こんにたは、brageloneさん 「凡我一如」の言葉をだしては、釈迦に説法ですが、 中村元さんの「論理の構造」(この本は難しくてさっぱりですが)に、私たちには解らない、「窮めて微細なもの」があるとして「一つの事象に対して宇宙全体が原因になっている(神が原因となっているのではない)という思想は非常に重要であると思う」と述べられています。 人と人の関係は、世界が広がるにつれ、当然のこととして希薄に成りますが、なくなるわけではありません。それに対して「挨拶」は関係のある種の集積に対する「行為」にまで量的に集約された結果です。つまり世界が広く浅く関係することによって「挨拶行為」に至らない関係が広がっていると、理解することが出来ます。 人と人の関係が希薄に成ることが、良いことか悪いことかは、にわかに判断できませんが、過去においては、人と人の関係は、世界の狭さに比例して、色濃く個人を支配してきました、それは、歴史的にも氏族社会・封建社会や大家族制といった、非個人的な集団の中での個人の役割が決められてしまっていた、と考えられます。 結局、「何かを得れば、何かを失う」この事が、どこまで真実なのか、それさえも解りませんから、なお、難しい問題があります。 「いまなにをしているの」 この問いかけは、電話・手紙・対話・相手・相手との関係によって、相手が、今、知らないことを聞いています。例えば電話で「いまあなたと電話しているのよ」と答えられたら、稀に親しい間のジョークと取れますが、普通は引いてしまいます。ところが、相手が知らないと、私が信じていることは、私の想像であって、間違っているかもしれません。逆に、相手も、自分のことを相手が、私が、相手を・・・ 結局、話してみて、その反応で、そのつど変わっていく・・・ 少々脱線したようで、 一つの考えとしては「挨拶」にこだわると、別のものを見失うかも、人前で話すことが好きな人もいれば、人の前では話せない人もいます。 濃い関係はすぐ隣に不自由が潜んでいるのではないでしょうか? 的外れで、長くなりましたが、これにて失礼します。
お礼
fishbowl66さん ご回答をありがとうございます。わざわざ すみません。 このところ読んだ本には インドでのブッディスムは イスラーム侵入とその寺院破壊などを伴なった支配もあるが けっきょく 民衆の中には入っていかなかったことだとありました。ですが それも けっきょく 日常習慣の中に馴染まなかった――冠婚葬祭とは無縁だった――からだと言います。 だとすると ブッディスムは 人も組織も無くなったが 哲学・修行の精神としては滅んだわけではないということになります。むしろ 日本で永らえている仏教は 見方によっては その方が もはやブッディスムの中味のなくなった形態だと言わなければならないかも知れないことになります。 何が言いたいかと言いますと おっしゃるように《一つの考えとしては「挨拶」にこだわると、別のものを見失うかも》という見方です。たとえ人と人の関係において《死んだかたち》をとっていても そのほうが生きているということかも知れない。その可能性もなきにしもあらず。・・・ ただし たとい軽い会釈なりとも 最小限の挨拶のかたちは必要だとわたしは考えますが。 それと もうひとつ思ったことは こうです。 《一つの事象に対して宇宙全体が原因になっている(神が原因となっているのではない)という思想》 これは《重要である》かと思いますが――というよりも それが 実際だと思いますが―― 問題は 一人の人間 その意志の形式(イデア)にあります。とわたしは考えます。 そうでなければ 全体の総和は 意味をなさないと考えます。そのことと 総和あるいは全体が個々の要素の総計とは違うという議論は 別だという見方です。 ちゃらんぽらんで滅茶苦茶だが 全体としての舵取りは K某の首相ぶりについて 妥当だと考えるという意見と かれの個々の意志行為のあり方について無効だという疑いがあるという意見とは 両立するというのでなければ 話は始まらないという意味です。
補足
下のお礼欄で インドのブッディスムについて触れたところは その《衰退・消滅》の話でした。 第二段落が あいまいになってしまいました。失礼いたしました。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
たくさんの方がご参加されて、お読みになるのが一と仕事ですね。 ≪問題を つまり回答を 纏め過ぎでいられます。ごもっともとお返しして それだけになってしまいがちです。おっしゃるとおりなのです。≫ 申しわけありませんでした。やはり対面してお話しするのとちがいますので、自分の中で、my世界でまとめすぎました。こういうのは相手がしにくい。人の文章はたいへんですね。 ≪単なる世代間の行き違いに過ぎないというご見解でしょうか。心配するに及ばないし 心配するような問題ではないであろうと。≫ 私達誰もが、どんなに大事なことでも、あまり自分側だけでやきもきしないで、距離をもてるといいですね。なかなかできないから、いろんなことが起こっているのだと存じます。 ≪挨拶をしない人に出会うということは≫ ありますね。でもしっかりと挨拶することは人間として基本ですよね。私も挨拶にはすごく拘(こだわ)るのです。年齢もありましょう。 ≪この現象を 単なる偶然と見るか あるいは 社会的な傾向を持ったものと見るかになると≫ 偶然ではないですね。そしてその方とこのわたくしとの関係が何かあるから、そういう原因のため。ということも考えられないですよね。案外昔もそんな人って、各階層にあったようですよ。いわゆるもの知らずとか、失礼なひとっていうのは。だからはそういうことを自分の気持ちへの影響素因にはしないようにしております。 ≪あとは 推測です。いかんせん 推理です。~~~ ――単なる直観であったとしても――思想にもとづいて行動しているかも知れないと。≫ (判らなくなるの、ここで区切らせていただき)思想っていうことばがわかりませんが、何かの気持ちや考えがあるかも知れませんし、何の意識もなく、省略しているのかもしれません。 ≪積極的にそのような思想・生活態度を形作っているのかも分かりません。買いかぶりであったなら それが分かったということでよいというお話です。(そういえば 買いかぶりではないかと おっしゃっていますね。その点 すみません)。≫ そのように行動したいから、なさっているに過ぎないと、私は存じます。 ≪モラトリアム人間ということが言われました。~~~~出たように記憶しています。そういう主題になると思います。≫ やはり、年を経ていない若者であるということですよね。 人にはいろんな性格や想いがありますから、何でもわかろうと、把握しようとしても無理ですよ。貴兄が恬然と輝いているだけでいいではないですか。ご心配したり、心や気にかけたりするのはいいけど、宇宙や金魚鉢で泳いでいる、ランダムな動きを眺めていてもいいではないでしょうか。
補足
krya1998さん ご回答をありがとうございます。 なれなれしくし過ぎるとは思いますが あえて そういうふうに表現させていただきます。 krya1998さんは 達観をなさり過ぎです。泰然自若となさってい過ぎです。境涯を示され過ぎです。 何も悪くはないどころが すべからくかく有りたきものかな なのですが ここでは 言葉の伝え合いでございます。 顔を合わせての場でありせば というだけではなく おそらく まだ現代の日本人に対しても 覇者ではなく王化の徳というべきほどの感化という伝達があると信じますが ここでは 言葉を尽くすことが みんなにとって仕事であるように思います。 《恬然と輝いているだけでいいではないですか》――反論することがいいことなのか分かりませんが 《仏の顔も三度まで》とも言います。《輝いている》ことが悪いのではなく それだけでは 分からない人・まだ感化され得ないでいる人もいるということではないでしょうか。 たしかに この場合には 《だが やはりなお恬然としてい続けよう》となるか それとも 《言葉を用いて話をしてみよう》となるかだと思います。ここでは あくまで 後者として考えております。という意味でございます。 《思想》は 《何かの気持ちや考え》のことですが いま あと こういうことを考えました。 それは 自己到来ですとか自己還帰というとき その自己の回復に際して もし傷を受けていたのなら その治癒には 《とげを抜くこと》と《その患部が癒えていくこと》とがあると思われることです。前者は わたしたちも 人の境涯に接することで その可能性が見えて来ますし その希望を呼び起こされます。《これが とげとなって 刺さっていたのだ!》と分かります。 と同時に 後者の《その後の治癒の過程》も大事なように思います。そして それは 初めの希望のもとに新しい明るい道を歩んで来ていても 時には まだまだ脇道に迷いこんだりして 道を見失うことさえあるかも知れません。――この場合にも やはり《恬然としていて ただ姿を示す》仕方と 《言葉で説明する》仕方とがあると思いますが 前者だけだとは krya1998さんもおっしゃっていないと思うのです。それゆえ このようにここで文章を ものしておられるのですから。 まとめますと 若い人びとの生活の一齣ひとこまに分け入って 言葉を用いて 自分に向かっても 説明する――こういう作業だと理解します。作業などという言葉をわざと使うという いつも ひとこと多いわたしですが。いかがでしょうか。
>人と人との関係がなくなってしまったのか、無関係というかか わりを死…あるいは…それほど魂が弱ってしまったのでしょうか マザーテレサの「愛の対極は無関心」という言葉もありますね。 私は愛の対義語を愛と似て異なる「依存」だと思ってるんです。 依存とは意志により接近しても不満が募り、意志により離別、回 避しても不安になるという、どちらに執着しても葛藤してしまう。 無関心にはこのような理不尽な葛藤も起こらないからです。 幼い恋愛誰でも当然のこととして不満で不安な依存になります。 相手と自分の気持ちの確認作業を繰り返すことで「育まれた愛」が 「許し」に昇華されれば依存の影も薄くなると思います。 >《こんにちは》と挨拶するとき それは 《あなたと わたし とは 無関係である。これからも かかわりを持とうとは思わ ない。その点くれぐれも よろしく願いたい》と言い交わして いるのでしょうか。 挨拶を(交わす)済ますとホッとします。目と目を合わせて言葉 にして挨拶する習慣がないお国柄もあります。いきなり人の家に 入り「もう食事した?」とか「今日の髪型素敵ね♪」といきなり 主題?を切り出されるのですが、安心した関係が築かれていてこ そなのでしょう。その代わり情報が少ない初対面の人には微笑む だけの挨拶もあって、挨拶は「あなたを許している、私が許され たいほどに」笑顔だけでも、言葉を使ってでも想いを伝え次に逢 う時までの約束を交わしているのだとも考えます。 無関心は手段として許す前から結果が許しということもあるので はないかと。というか、人間の行動に理由すらなく、ただ欲する か否かによってで、理由が必要とされるのは悪いことをするのに 自分の体裁を良く見せるや正当化させるために理由を持ち出す他 にはないものであったり。良いことをしてた後で理由や価値を探 すとしたら本来八倒の善意(見返りを望んだ)ことで、利己心に なってしまう。 >日本人は 死んでいるのでしょうか 日本人は数千人の弥生人と縄文人の混血が近親相姦を繰り返した に近いとか、人災より天災に警戒して暮らして来たとか、平均寿 命が長いとか、表現が曖昧とか…日本人のデーターを詳細に集め 分析してもそのデーターが日本人になることもないのですし、デ ーターに置きかえる事自体が生きてる実在の日本人から遠のいて しまう。 イメージで記憶された「関わりあい」はデーターを訂正したり更 新する以上のことにならなくて、日本人の実体も概念に過ぎないかも。 日系人も日本人離れした日本人も、古風な日本人らしい外国籍の 人も、遺伝子レベルと天文レベルぐらいの極端な観点では、太陽 系第三惑星に住む霊長類人科?自己複製や代謝をしながら宇宙人 として生きてます。 他の惑星に知的な宇宙人の観測者がいて日本人の定義(絶対の原 理や公式、規約)をつけてくれると宇宙人とも違うとなれます。 何となくはわかれますかね?私はよくわからないで書いてしまい ました(爆)すみません;
補足
miko-desiさん ご回答をありがとうございます。 こういう議論をわたしはしたことがあります。もしよかったら参考にしてください。(と えらそうになってごめんなさいですが)。 縄文人の《ヨリ(寄り・依り・憑り)》なる潜在的な歴史知性が 弥生人の《イリ(世界への入り)》なる歴史知性に開花したあと この人間精神と自然本性の開花・自立というべき《イリ知性》を どういうわけか 超えて 《ヨセ(寄せ)》なるスーパー歴史知性を《開発》した人びとがいました。 ヨセなる言わば雲の上をアマガケル歴史知性は いかなるものの下にも立つまいという《精神》に固まった人たちの編み出した《たましい》です。これも 人間の意志の自由な選択でした。(無効だと考えますが)。 イリ知性は 一般に農耕という人間の生産行為を始めた結果芽生えた精神のあり方です。――つまり 生産には時間が過程し この時間の生起を覚えた人びとは ゆくゆくは ヒトの生と死という時間の線分を自覚します。この時空間にイリするという普通の知性です。これが 縄文人のヨリ知性から発展したと考えます。おそらく かれらは 直観の内にでも このイリ歴史知性を 人間の基本精神として宣言したと思われます。 ところが この単純なる知性に不満を持つ人びとがいました。昔からのヨリ知性のままの人びとも残っていたでしょうが みんながこの新しいイリ知性で自立してしまうと 自分の立ち場がないと恐れたのでしょうか 不満を持つ人たちは まづ このイリ知性を掟としました。あるいは 神のお告げであると触れ周り その触れ周り役であることを 自分たちの権能であり権威だと 固く《信じ》 みんなにも受け入れさせようとします。これでこそ 栄光の歴史知性なのだと言いふらします。要するに いかなるものの下にも立つまいという《たましい》の為せるわざです。 イリの上をゆくヨセなるスーパー歴史知性を唱える人びとは それはそれは勉強をし努力をし 知性にふさわしい人間的な人間になろうと努めました。ますます人間的となり いよいよその上はもういないというほどの人間的となったところで かれらは 地に落ちてしまいます。一たん倒れました。だれも ほんとうに完全な歴史知性として人間的な人間は よく見ればいないと気づいたからです。むなしくなりました。・・・ あとは この動きをめぐる慣性の法則のごとくに推移したものと思われます。このヨセ歴史知性を唱える人びと――アマテラス族とよびますが―― かれらは ついにこの社会に第二階を築き そこをみづからの住居と定めて そこから 人びとを寄せようと計ります。この統治に命をかけることになります。 この二階建て社会は それ以降 変わっていないようです。別の見方では アマテラス族を 第二階へ祀り上げるということを スサノヲ市民たちが 自分たちの意志で イリ知性にもとづき おこなったとも言えるかも知れません。スサノヲの後裔のオホクニヌシ市民らが ヨセ知性なるアマテラス族に《くに譲り》をしたという物語です。 われわれは この二階建て構造に けっこう 《やられて》来た歴史があります。・・・ あとは ご賢察に。
- taco8ch
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そうじゃなくて、 「こんにちは」そのものが、 そもそも相手から目をそらしている挨拶なのですわ。 「今日(こんにち)」が、お日柄がよいのか、雨降りなのかなんて、 相手には関係なく、本来はどうだっていいことなんですわ。 日本語には英語のHow are you? にあたる挨拶ありませんしね。 それが「日本語の挨拶」なのですわ。
お礼
ご回答をありがとうございます。 おっしゃるような事情なのかも知れません。とも思いました。 次のNo.13の方におゆるしを得てはいないのですが その方のご回答の中から 引用させていただこうと思いました。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・・・目と目を合わせて言葉にして挨拶する習慣がないお国柄もあります。いきなり人の家に入り「もう食事した?」とか「今日の髪型素敵ね♪」といきなり主題?を切り出されるのですが、安心した関係が築かれていてこそなのでしょう。 その代わり情報が少ない初対面の人には微笑むだけの挨拶もあって、挨拶は「あなたを許している、私が許されたいほどに」〔と〕 笑顔だけでも、言葉を使ってでも想いを伝え次に逢う時までの約束を交わしているのだとも考えます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ソ連と言っていた唯物論の時代でも ロシアでは 《そのような世に有ることのむつかしい善きことをしてくださったあなたには 神のめぐみが増し加わりますように祈っております》(スパシーバ)との意味内容で 《ありがとう》と表現していました。と思ったりして。・・・
- cyototu
- ベストアンサー率28% (393/1368)
#5です。 >もし《DNAには敵わない》のでしたら ちょっとやそっと《「自分を大切にしなさい」と言って子供を育てるようになってしま》っても ゆくゆくは 放っておいても またそのDNA法則に従った人間とその社会生活に戻るという見通しになりますでしょうか。 私事を述べて申し訳ないのですが、私には一つの自慢があります。「人生万事塞翁が馬」の経験は何方もなさっていらっしゃるでしょうが、私はその標準偏差値が相当高いところに居ると自負しております。その経験(と多分私の性格)のお陰で、私は脳天気なぐらい楽観人間になってしまいました。その私の独断と偏見によると「幸運にも人間にはDNAがあるから何とかなるよ」という結論が出て来るのです。
お礼
わかりました。ありがとうございました。 わたしの哲学を超えています。と申し上げるほかありません。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
お言葉に恐れ入ります。山本常朝はこのことには関係がないのではないかと、この愚者は机上の勉強をしております。 所詮人間同士みな、違うものですから、自分の思いからだけで、人の言動を期待したり、予測したりしていてはほとんどの場合当たらないのではないかと愚考しております。 こちらやこちらの言動が相手などれほどのものかという評価も、不謹慎かもしれませんんが、仮に一万円に値するだろうと思っているのはこちらの勝手で、実は百円にもならない。そのくらいに思っていた方が妥当なのだ。というのが人間の自分認識ではありませんでしょうか。 でも、人間はみな一つです。違うと思っているのは、間違いです。 人間は手探りで、間違いの中を生きているのがお互いではないですか。これが太古からの、人間の悲喜の原因ではないでしょうか。
補足
ご回答をありがとうございます。 krya1998さん もはや 今回も わたしは 捨て身でまいります。 krya1998さんは 問題を つまり回答を 纏め過ぎでいられます。ごもっともとお返しして それだけになってしまいがちです。おっしゃるとおりなのです。 それとも 単なる世代間の行き違いに過ぎないというご見解でしょうか。心配するに及ばないし 心配するような問題ではないであろうと。 たとえば 挨拶をしない人に出会うということは お有りにならなかったでしょうか。もしお有りでしたら この現象を 単なる偶然と見るか あるいは 社会的な傾向を持ったものと見るかになると わたくしは 思うのですが そのあたりは いかがお考えになるでしょう。そのような質問でございます。 あとは 推測です。いかんせん 推理です。――もしそういう人がいて ご自身の考えを ここで述べていただけたなら いちばん いいのでしょうが そういう人は いないのかも知れません。ですが 一定の社会的傾向があるようでしたら とりあえず 推論です。ヴァーチャル世界の登場がからんでいるかも知れませんし なんら関係ないのかも分かりません。少しく推理を拡げてみても よいのではないかと思うのですが。 (哲学としては たとえ推理が当たらなくとも その思弁の過程にも 価値はあると思うのですが)。 さらに こう考えました。つまり わたしは いま 姪の事件をめぐって そのかのじょの取った行動を 間違いだと見ないという立ち場にあるということです。この立ち場からこそ この質問を抱いたという事情です。一定の――単なる直観であったとしても――思想にもとづいて行動しているかも知れないと。 というより 初めは 負の思想 つまり 何ものかからの逃避において その思想を採っているのだろうと思ったわけです。ですが 可能性としては そういう人びとは 積極的にそのような思想・生活態度を形作っているのかも分かりません。買いかぶりであったなら それが分かったということでよいというお話です。(そういえば 買いかぶりではないかと おっしゃっていますね。その点 すみません)。 さらにもうひとこと。その昔 モラトリアム人間ということが言われました。決断をようしない 先へ先へと延ばそうとする傾向のことでした。ですが これも 自己回復の過程における一つの――予期せぬ――出来事であり 一定程度の傾向であったという見方も あとで 出たように記憶しています。そういう主題になると思います。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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ご年配の方々から見ると、若い人はやはり、しょうがないことがたくさんあるものですね。私達もそうやって、今や世間では多少高齢の中に入りました。 私達から見てのお若い方というのは、みなさん姪御さんのようなお振る舞いではないでしょうか?それを許容しなければならないのが年配の方ではないでしょうか。 年配者の側の貴兄さまが、自己を壊すと、やがていつか少し展開の糸口があるのではないでしょうか。 或はお祖父様の大切なご蔵書のお願いも、姪御さんの側のそういう糸口なのかも知れませんね。 幸田あやさんは“文”さんでしたっけ。幸田あやさんのお父上、幸田露伴が我が母校の校歌を作詞なさっていますが、読むだけでしたら、わざわざ貴兄様に、お祖父様のご蔵書のお願いをする必要のない、著者です。図書館だけではなく、いろいろ読むためのことはできる方です。 どうかこれを一つの機会として、気楽な話ができるようになってくださることを祈ります。 『おじいさまのお形見にはしないでおくれ』と添えのおことばなども一応、発語しておかれても、いいかもしれません。 なお、≪かのじょのことを ごみだとは思っておりません。≫ではありますが、どんな目下の方であっても“ごみ”とおもうことはなさらないでください。 いえ、たとえどんな方であれ、他人を“ごみ”などとは思わないで下さい。 人は人生、生活をしていくと、ちょうど汗や、呼吸のように、排泄のものが出ざるをえないように、自分の言動でどうしても排泄物のような“ごみ”が避けられないものだ、ということを申しあげました。 私の述懐ですが、そうでない、立派なかたや、賢明な方もおられるのでしょう。 姪御さんが、貴兄様に失礼な言動、振る舞いをされたとのこと、姪御さんがどんなご心理なのか、様々に考えられますが、或はやはり、いたらなさであれば、姪御さんにとっては、いつか『あぁおの仕方は自分の人生生活のゴミだなぁ。』と、姪御さんご自身が思うものだ、ということもありましょう、という意味で申しあげました。 決して年配で、経験と識見の豊かな伯父上様の貴兄様が、若い人の振る舞いをゴミと思いなされ、などとは申し上げてはおりません。 そんなことは決して思わないで下さい。 娘や姪、甥など、若い人の仕方に、私もいろいろ立腹する高齢の身になり、貴兄様のお話を少しは理解できるのですが、ご参考にならないことばの羅列となりました。どうか、お許し下さい。 自分達と同じに考えよ、というのは所詮無理です。相当の距離があります。しょうがないのです。貴兄様の方から、こちらから壊れてください。やわらかく、やさしくなって上げてください。 単純や阿呆でいいではないですか。大事なことはそんなものです。
お礼
krya1998さん ご回答をありがとうございます。 krya1998さんのお心は もう十分わかっているつもりです。その上で申し上げたつもりでもあります。 すなわち 話を早くしようと思えば 若い人は若い人で ああ この時代を行き抜くには 死ぬことと見つけたりと言って そういう方針を取っているのかも知れません。という意味でございます。そういう問題の解きほぐしを ご教授願えればと思って質問しました。 とは言え この今の 死ぬことと見つけたりというのは 何を隠そう このkrya1998さんとの対話の中で その途中で 思い浮かんだことがらではあります。 若い人なりに その直観を生かして考え 生きているのかも分かりません。そのあたりについて 是非とも知りたいという欲求が芽生えました。 さらにご回答を待ちたいと思うようになりました。そして あるいは 太古の昔からの世代間の行き違いに過ぎない問題なのかも知れません。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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≪事例が片寄っていますでしょうか。≫ いろいろなことをお感じになられ、お考えになられておられるのですね。どこも何も片寄ったことはなく、同じ事実ではなくても、仰せのことは誰しも日常に経験していると存じます。 姪御さんに限らず、完成して生まれてきて、理想的に生きては生けないのが私達、人間ですね。 だから、私も恥ずかしくも古希。生活では行為や関わりでたくさんのごみや、廃棄しなければならないものがとても尽きることがありません。当然、青年時代から今日、そのごみに対面すると、どうしたらいいものかと、苦悩します。只管そのごみが自他の迷惑にならないようにしていくことを努力しております。 姪御さんに限らず、人のごみは生活する以上、仕方ないと存じます。 お示しなされたことは、私の理解しかできませんが、人のことも、自分のことも、自己の感情や事情ではこだわり続けるのを制御しておいたほうがいいかなと、愚考します。 わすれている気持ちにご自分をおいて、姪御さんが置いている距離を見ながら、その距離を無理にいじらないで、伯父上様として、恬然と光り、照り輝いていれば宜しいのではないでしょうか。無視されるなら、されたままで、輝いていればいいと存じます。 話しかけられたり、関係が生ずれば、何事もないように受けていればいいと存じます。 姪御さんも、きっと煙たいのかもしれませんね。 私もたくさんの、いろんな性格の親を持つ、たくさんの姪や甥、孫などがおりますが、向こう次第の付き合いにしております。 自分の価値観や考えの通りでなくても、どんな考えをこちらに持っていても、好きなようにさせております。一様に笑って、心を遣って付き合っています。そうするしかありませんから。それからの後は、知りません。その本人の問題ですとしています。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ですが 《向こう次第の付き合いにし》たあとの問題でございます。 一言も口をきかずに わが家を去ったわけですから――しょっちゅう顔を合わせるほどの家のあいだの距離でもなく 行き来もないわけですから――《価値観》も何もなく また《好きなようにさせ》るも何もなく 忘れていたわけです。 そうしたところ 《亡くなったわが父(かのじょの祖父)の蔵書に 幸田あやの本があったと思うが 貸してくれないか》と電話してきたのです。 なにか 先回の宿泊のときのことに触れるかと思っていたのですが そして わたしからは何も言うつもりもなかったのですが 果たして 何も触れなかったという事情です。 価値自由において見て この場合は 死んでいると捉えるのが いちばん普通ではないかと思った次第です。死んだかたちで生きていこうとしているのかなというものです。なぜ 死んだかたちなのかは わかりません。尋ねてもいませんし 尋ねるつもりもありません。 これを 一般化して どうとらえるか そういう質問内容になっています。本人の問題であることを 哲学として・つまり一般化して 捉えることができるか出来ないかです。よろしくどうぞお願いします。 なお かのじょのことを ごみだとは思っておりません。その親(わが妹)については また別なのですが 思想は自由です。自由ゆえ ほんとうは 互いに批判していく(互いに磨き合っていく)ことも 自由だとは思いますが それを吹っかけようとは思いません。 もし事例が 片寄っているのでなければ 一般論としてご質問していますので 一般論として受け取っていただきますようお願いします。(事例は身内のものを出せば 弊害はないと思いました)。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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近隣、親子、家庭、友人の関係がなくても、頼らなくても生きていかれるように、制度や設備、その他の条件が整ってきている事は否めませんね。 そして情報も付き合いをしなくてもちゃんと接することができる。 生きているだけなら、どんなに人を無視していても生きてはいられる。そういう生活でいいなら。 外面や、付き合いはしていても、本心がどうか、ということを問題にしなくても、されないで、生きていられる。 こういう状況は確かに、現代に限らず相当昔から、古今東西に現存していました。 現代は現代の姿をとって、こういう状況の現象が出てきているのですね。 だから、ちょいと昔の日本人の違った姿を、今の意識で編集しながら思い出すと、ご質問のような気持ちに私も、誰しもなるものですね。 膾炙している『日の下に新しきことなし』で、古くて新しい悩みですね。 そして昔も今も、義憤したり、慷慨したりすることもありました。 そして昔も今も、そういうことばかりではないので、社会も歴史も、何処の国や民族も継続してきました。 ちゃんと、魂で生きていかれるように、生きていくように心してお付き合いもしていきたいですね。みんなで。
お礼
ご回答をありがとうございます。 部分的な事例を 針小棒大に捉えてもいけない――ごもっともだと思います。 たぶん わたしがこだわったのは 本心を隠さない事例に接したからです。 わたしの姪が わたしの母であるかのじょの祖母を訪ねて わが家に来たとき わたしの在宅を予期していなかったらしく 鳩が豆鉄砲を食ったように きょとんとしています。その以前にも かのじょとわたしは ほとんど会ったことがなかったのですが いらっしゃいから始まって わたしが挨拶をしても きょとんとし続けています。ゆっくりしていくとよいと声をかけて 離れたのですが 二・三日 泊まっていったその間 ひとことも口をきかなかったわけです。・・・ 外面も本心も ないのです。しかも どうしたのかといぶかったのです。身内の恥かも知れませんが とは言っても かのじょは 今は 外交官です。 というわけで 《義憤〔も〕慷慨》もなく 不思議であり ふつうに捉えるとすれば わたしから見れば 死んでいるのではないかという素朴な感慨です。 といった情況です。 死んだ振りでもないようです。その後 一度 わたしは かのじょと電話をとおして話をしたことがあります。ふつうに そして 過去に何ごともなかったように 話をしました。今は亡き母の言うには 《ほんと今の子は挨拶をしないっ》です。ほかに分析することもないようでした。・・・ 事例が片寄っていますでしょうか。
お礼
littlekissさん はじめまして。今後とも よろしくお願い致します。 まづは ご回答をありがとうございます。 ・《うわべに こだわる無かれ》。(ANo.15=fishbowl66さん) ・《打てば響く》。(ANo.23=noema_1970さん) ・《達観》。(一連のご回答=krya1998さん) ・その何ごとにも逃げない姿勢。(=miko-desiさん) ・早々とご回答を書きこんでくださった方々。 これらのことがらを ご回答をうかがって 思い出しました。 そして もう一つ ある程度よく引用される《善きサマリア人》(ルカ10:25以下)のくだりを思い出しました。追いはぎに遭い道端で傷ついて倒れている人を だれが どうしたか / だれが かれに対して隣人となったかの話です。 そうして もはや 独り言にてお応えさせていただきたいのですが このサマリア人が運んで来た半死半生の人を迎えた旅籠屋に アウレリウス・アウグスティヌスは 自分がいるのだと言っています。(そのこと自体は めぐり合わせの問題だと思います)。 そのかれが けっこうキザに祈っています。 おお あなたよ 私にあなたを問い求める力をお与え下さい。 あなたは私があなたを見出すことが出来るように創造されました。 私があなたをいよいよ深く豊かに見出すようにという希望をお与えくださいました。 あなたの御前にこそ わが力 そして わが弱さがあるのです。 わが力を守りたまえ。わが弱さを癒やしたまえ。 あなたの御前にこそ わが知とわが無知はあります。 あなたが私のために拓きたまうたところで入り行くわたしを受け納れたまえ。 あなたが私のために入口を閉ざしたまうたところで 叩くこの私に戸ぼそを開けたまえ。 ・・・ (アウグスティヌス:三位一体論 vol.15 ch.28 中沢宣夫訳) きざでしょう!!??
補足
20070921記の補足です。お礼欄では 善きサマリア人ぶりを讃えることに全力疾走でした。 さて 《死んでいる》という人騒がせな表現については 質問文にも説明していますから 大丈夫だと思いますが 《日本人は》という表現の仕方については 説明をほとんど直接にはして来ませんでした。この点につき 補足いたします。 まさに これが 《死んでいる》という表現をわたしに選ばせた問題点だと考えるのですが それは こうです。 人は 人に対して内政(内省)干渉をしてはいけないし する必要もないし ほんとうのところでは 為し得ないものだと考えられます。(外形的な生活において 経済的に誘導したり 政治的に余儀なくさせたりすることまでだと思われますから)。 ところが この形態としての内政干渉をしているところを見たという場合 人はどうするか これを議論の焦点とすることができます。 しかも 事は込み入っていて 問題は 《負の内政干渉》の場合にあると思われます。どういうことかと言いますと――これも すでに寄せられたご回答に接して確認できたことですが―― 問答(つまりいわゆるコミュニケーション)を為すとき 《打てば響く》が まづ理想です。ですから 問題は 打っても響かない場合になるのではないでしょうか。 別様の響き方で答える・つまり問いをはぐらかす等々 いくつか類型があるかも分かりません。《きょう》の問いを《あさって》の(あるいは 《おととい》の)こととして捉えて答えているなどなどです。 これは 問いを拒絶しており 回りまわって 問いを抹殺する行為です。その意味で 負の内政干渉になると思うのです。 さて もしこの推論が妥当であるならば 人は この〔負の〕内政干渉を目撃した場合 どうするかになります。《義を見てせざるは勇なきなり》になるか 《君子危うきに近寄らず》かです。 わたしの考えでは 《君子》を採る人は 内政干渉する人と――消極的に言うべきでしょうか それでも――同じ穴の狢であると思われるのです。よって 《死んでいる》のは 一般的に《日本人は》ということに どうしてもなるようなのです。 はたして この議論についても 自由なご見解をたまわりたく ご教授ねがえれば さいわいです。 *《君子》を採る人は 何が《危うき》であるか・そしてその危うきを冒すことの不必要を示しておくなら 免責されると思います。