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他人の言葉の理解について
自分自身について言葉たとえば「犬」という音がどういう感じを表しているか分かっているときというのは、「犬」という音を聞いて、その音によって表された感じの刺激に似た刺激をもう一度脳内で発生したとき、「犬」という音を聞いて、それがどういう感じだか分かっていると言えるのだと思いますが、他の人が、「犬」という意味を昔知ったからと言って、「犬」という音をその人が聞かないときでも、今の時点のその人に対して「犬という言葉を理解している」と言えるのはなぜなのでしょうか? ご教授お願いします。
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記憶の種類は http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%98%E6%86%B6 と分かれており、今回の犬は、長期記憶の中の意味記憶、に分類できると思うんですね。 短期記憶は、例えば電話番号を電話帳で見て電話をかける。 エピソード記憶を使わなければ、普通の人は数十秒で番号を忘れる。 メモリをクリアするわけです。 犬の概念を覚えているのは、長期記憶。 大脳にパーツに分かれて蓄積され、リンクされて保管されている。 犬と言われたとき、それぞれのパーツがリンクによりひっぱりだされ、海馬にどーんと呼び出され、設計図が再構築され、犬のイメージができあがる。 だから、犬のイメージは沢山のパーツの集合体なんですね。 ただし、記憶した通りに、再現されない。 エピソードがからんでくると、そのリンクが太いので、「犬」=「怖い」というのが先行した犬というイメージが構築されたりする。 それでつきつめて犬の話をすると、イメージの詳細が違ってくる。 犬によって毛の色は違うし、形も違う。 だけど、犬を2本足で描かないし、にゃーにゃと鳴くって人もいないから、どうやら共通の犬というクオリアを、ぞれぞれの脳の中に持っていると思えるんですね。 これは生まれたばかりでは持っておらず、経験を通して獲得していくものだと思います。 犬も詳細になれば違ってきます。 犬の特徴の一つ、飼い主に従順である。 この特徴を使って「彼は社長の犬だ」など比ゆ的表現をしたりします。 話の流れで動物の犬のことを言っているのか、別のことなのかわかるわけです。 で、逆に共通のクオリアを呼び出せない人がいます。 ウエルニッケ失語症の人。 貯蔵されたパーツまでの回路が細い、または断絶しているので呼び出せない。 犬と言える。でも犬の概念が構築できない。 中には、テブクロを渡すと頭の上に乗せる人がいる。 おしい・・・・。 確かに体に着けるものだが、頭じゃない。 想像ですが、テブクロというものを分解すると、手、つつむ、冬、あったかい、毛糸、、などなどで、それぞれの脳の分野にばらけて蓄積され、リンクで結ばれていると思うんですね。 テブクロという音を聞いたとき、手へのリンクが断絶しており、毛糸にはアクセスして、毛糸がボウシにもリンクを張っており、ボウシが頭にリンクを張っていたら。 頭にテブクロを乗せることになるわけです。 ウエルニッケ失語症は脳のある部分が壊れた場合に起こる。 世の中ウエルニッケ失語症の人ばかりなら、今の社会はまた違った社会になっていたと思います。 というか、それが標準の社会で、障害が無いとなる。 まずそのような人たちが大半なら、信号機は無いでしょう。 (信号機の赤は万国共通で、これは人種に関係なく、人間の共通の特徴を生かして赤にしてある。) 我々はコミュニケーションにおいて、お互いに共通する概念を使っている。 アメリカ人に「いぬ」と言っても伝わらないし、「わんわん」と言ってもキョトンとされる。 アメリカ人があの犬を「ドッグ」といっていると脳の中に貯蔵しており、犬ードッグのリンクが呼び出されたら、相手に理解してもらえる。 日本人もアメリカ人も呼び名は違うが、共通の犬のクオリアを持っているから。 ただし、「犬のような」は日本人とアメリカ人では若干違う。 そうなると、会話にズレが起こる。 共通じゃない部分に触れるから。 でもまあ 最低のあの家庭でペットとして飼われてもいる犬という部分では会話が成り立つ。 というわけで、障害により概念を再構築するのが難しい人でなければ、「私の犬に対する概念は、、、それを犬としてこれから話します」などいちいち言う必要が無いわけです。 相手の頭の中にあるであろう犬のクオリアを利用して、会話が成り立ち、私たちはそれを利用して会話できると経験上知っている。 で、経験上、人によっては自分の常識とすることが常識じゃなかったりするって知ることもある。 経験から、詳しい説明を必要とするケースと、お互い共通のクオリアを持っており、それを使って説明をショートカットできるケースもある、って知るわけです。 って考えます。
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- fladnug
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正確にお答えできれば、と思うので、問題意識を明確にしていただけないでしょうか。 >たとえばなんですが、文章を読んでいて「自分」とかと音を聞いたとき という補足にあるように、読んでいるときに、聞く、ということを述べられていますが、この読むと聞くとの不統一には特に意味はあるのでしょうか。文を読んでいて"x"という言葉を目にしたとき、ということと変わらないと考えていいのでしょうか。 あと、ここで、読むなり聞くなりする言葉が、「自分」という言葉(あるいは「私」とか「自己」とかいうものでもありうるでしょう)であることに、問題の中心があるのでしょうか。それとも、どんな言葉であっても構わないけれども、自分が唯独りで言葉を理解することがあるのか否か、ということに問題意識があるのでしょうか。
補足
そのとおりです。自分の問題意識と相違はありません。
- littlekiss
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●ご回答ありがとうございました。 ありがとうと、君に言われるとなんだかせつない… Flavor Of Life より~ ●確か、自分としては、結果がなくても他人が理解していると言えるときがある気がするが、それがどうしてなのかということだったような気がします。 ↑ まるで遠い日の記憶を失しなったかのようなお言葉… 記憶って、都度新しく上書きされていきますものね。長く記憶に留め置いていたくともなかなかそうはさせてはくれない。次から次へと日々新たなコトやモノが記憶として追加され蓄積される。その後、押し出されるように消去されてゆく記憶もある。記憶のカケラがまだ何処かに僅かばかり残っているのかどうかはわからないけれど、ヒトは時折こんな言葉を口にする。確か…、きっと…、おそらく…、多分…と、何とも頼りなげなヒトの記憶。人は頼りなげなヒトの記憶を手がかりに記憶のカケラを探す。 http://www.asahi-net.or.jp/~wg6m-mykw/Library_Puccini_Bohem.htm ラ.ボエーム あさきゆめみし Beautiful World ☆姿形が変わろうともカギが合う、扉が開く☆ 新)Kiss & Cry 旧)三百六十五歩のマーチ http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3199598.html 『心の社会』タイトル ー題29章思考の領域ー p485【29.5統一性の問題】 Marvin Minsky 著 安西 祐一郎 訳 産業図書 発行所 おまけ http://thinkcopyright.org/index.html
お礼
確かに記憶っていうのは曖昧で、もしかしたら誰かに植え付けられたのかもしれませんね。 そう思うと社会の秩序がめちゃくちゃになるので控えますがね。 いろいろな参考文献ありがとうございました。
- littlekiss
- ベストアンサー率14% (98/698)
こんばんは、spitzer3さん。 うーん、質問の前提が間違ってるとか質問がナンセンスだとか何やら手厳しいご意見があがっていますが… わたしゃ、そうは思わないなぁ~ だって、音がまずあってその音ではなしにって話でしょ?その他に言葉(意思)の伝達手段はなにがあるかな?と、身振り、手振り、表情…etc。ジェスチャークイズではないけれど、両耳の上に手のひら立ててハイ、ポーズ。さて、これなあに? 視覚による伝わり ピッチャーとキャッチャー言葉なくともサインに首を振ったり、頷いたりと配球を要求したり応じたり。 こんなたとえじゃダメかなぁ?
お礼
>だって、音がまずあってその音ではなしにって話でしょ? 確か、自分としては、結果がなくても他人が理解していると言えるときがある気がするが、それがどうしてなのかということだったような気がします。 >ジェスチャークイズではないけれど、両耳の上に手のひら立ててハイ、ポーズ。さて、これなあに? 耳を求めているドラえもんでしょ。 ご回答ありがとうございました。
- ringouri
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”今の時点のその人に対して「犬という言葉を理解している」と言える”という前提が無条件には成り立ちませんから、質問は無意味です。 No.1さんも指摘しておられるように、現状はその人の「言葉」に対するいろいろな反応を見ない限り、何もわかりません。 何の前提もなく、その人の記憶が全消去あるいは部分消去されていないという保証や確証はありえません。また認識が時間とともに変化している可能性が現実には大きいです。 以上のように、質問自体がナンセンスでしょう。
お礼
確かに結果によって理解しているという確信が得られると思います。 また、結果を予想して理解していると信じることもありなのはないかと思いました。 ご回答ありがとうございます。
- fladnug
- ベストアンサー率44% (4/9)
唐突に失礼ですが、前提からして間違っていると思うところがあります。 例えば、AさんとBさんとのそれぞれの脳内で「犬を連れてきなさい」という言葉を聞いて同じ刺激が生じたとしても、Aさんが犬を連れてきたのに対しBさんが猫を連れてきたとしたら、Bさんは「犬を連れてきなさい」という言葉の意味を理解していないことになります。それゆえ、脳内で何が起こっているかは、言葉の理解の有無の判定において本質的な役割を果たすことはありません。言葉の理解の有無を判定するのに本質的な役割を果たすのは、その言葉を聞いて、あるいは、読んで、どのように振る舞うか、その行動にあります。 また、大脳生理学の方法論からしても、自分は「犬」という言葉を理解している、と思っている人をサンプルにして、脳神経系と言語との関係を研究するのではなく、ハタから見て「犬」という言葉をちゃんと理解していると前以て判定されている人をサンプルにして、脳神経系と言語との関係を研究するのであり、言語を理解しているか否かという科学以前の段階での判定が神経生理学の研究に先立っているのです。 したがって、自分であれ、他人であれ、言語を正しく理解しているか否かは、その言語に関する振る舞いが正しく生じているかによってのみ判定されます。
お礼
>したがって、自分であれ、他人であれ、言語を正しく理解しているか否かは、その言語に関する振る舞いが正しく生じているかによってのみ判定されます。 たとえばなんですが、文章を読んでいて「自分」とかと音を聞いたとき、「自分」とい音に対する何らかの反応がないときでも、「自分」という言葉が分かっていると言えるような気がするんです。 なので、無意識を想定して、説明することもありなのではないかと思うのですが。 ご回答ありがとうございました。
お礼
脳の記憶のメカニズムについてのご説明ありがうございました。 kigurumiさんの説明によって、この問題は脳のメカニズムについての問題なので、トピ違いであるというのが分かりました。 ご回答ありがとうございます。