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ビルマの歴史とカレン族の迫害について
- ビルマの歴史を学ぶとともに、カレン族の迫害の理由についても知りたい
- ビルマは日本、イギリスの植民地を経て独立したが、具体的な経緯を知りたい
- カレン族がなぜビルマ族に迫害されているのか理解したい
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NO.2です。補足の質問があったので・・・ 未だカレン族と政府軍の戦いは続いています。 しかし、全てのカレン族が戦っている訳ではありません。 ビルマが独立した後、カレン族も含めた少数民族達が連合し「NDF(民族民主戦線もしくは、国民民主戦線もしくは民族民主連合軍など色々な訳され方をする組織)」を結成し、少数民族の権利拡大と独立を求めて政府軍と戦います。 しかし、いかに少数民族が連合したとはいえ、政府軍の力は大きく、だんだんと劣勢になっていきます。 そして、最悪な事にカレン族(カレン民族同盟)の内部で争いが起こります。それまで、カレン民族同盟の指導部はキリスト教徒が主流でした。これに不満を抱き、また劣勢な状況に危機感を抱いた仏教徒のカレン族が、民主カレン仏教徒軍を作り、反乱を起こしたのです。そして政府軍に味方しました。 1994年の事でした。 この結果、NDFは政府軍に致命的な大敗北を喫しました。 そして17もの少数民族のグループが、抵抗を諦め政府軍と休戦合意を締結したのです。 しかし、カレン民族同盟と幾つかの少数民族は諦めず、タイとの国境付近に拠点を移しつつ抵抗を続けました。 ですが、苦しく厳しい戦いに、カレン民族同盟も、2004年に政府と停戦のための紳士協定を結びます。 2006年1月、カレン民族同盟は当初の独立国家の達成から方針を変え、次のような発言をしています。 「カレン族の国家における平等と自主決定権を要求しているのであって、独立や国家の分裂を欲していない。我々の要求は連邦制の中で達成できる」 また「内容に伴うものがあれば、ミャンマー政権との対話もやぶさかではない」とも言っています。 しかし、和平への動きは鈍く、2006年11月から政府軍はカレン族等の敵対する少数民族への攻撃を再び再開しています。 この時、政府軍は、非武装のカレン族の村を攻撃し、村落を破壊し、殺人、拷問、強姦、強制労働を強いていると、ニューヨークに本拠を置き、ミャンマーの難民救援もしている世界最大の人権組織である「ヒューマン・ライツ・ウォッチ」は非難しています。 今年の4月にも政府軍はカレン族に攻撃を仕掛け、カレン民族同盟の拠点を幾つか制圧した模様です。この時、カレン族の男女300人がタイに難民となって避難してきています。 タイにいるミャンマーの少数民族の難民は既に15万人もいるそうで、マレーシアやインド、バングラデシュにいるミャンマーの難民を合わせると70万人に達するという話もあります。 政府軍がカレン族を執拗に攻撃するのは、カレン族のいる土地の鉱物資源が狙いだとか、ガスのパイプラインの建設計画があり、カレン族が邪魔になっている等、幾つかの話もあります。 現在、カレン族の他は、シャン族とカレニ族が政府軍に抵抗しています。 カレン族内でも、仏教徒系のカレン族の中には既に政府に味方している者もおり、また、戦いとは関わらずに暮らしているカレン族の集落もあり、また、カレン民族同盟に参加し戦っているカレン族もいるというのが現在の状況です。
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- DieMeute
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18世紀頃までのビルマでは幾つかの国が興り、また滅びていきました。 1752年、ビルマ族のアラウンパヤーがコンバウン王朝(ビルマ族の王朝)を興しビルマを統一します。 この時、カレン族もその支配下に置かれ、重税や強制労働に苦しめられました。 19世紀になるとインドを支配した英国とコンバウン王朝が領土をめぐって争います。新たな植民地を欲する英国が、3度にわたる戦いの末に、コンバウン王朝を滅ぼしビルマを植民地としました。1886年の事です。 ちなみに最初の戦いは1824年でした。 英国はビルマを支配する時、それまでビルマ族に支配されていたカレン族等の少数民族を優遇する分断統治の政策をりました。 これは他民族同士を反目させ、反英国で団結させないようにする為です。英国はカレン族等を軍や警察、官僚に登用し、ビルマの人口の7割以上を占めるビルマ族を支配するのに使ったのです。 ビルマ族の反英国闘争はカレン族により取り締まられました。ビルマ族の憎しみはカレン族に向けられます。 また、英国がカレン族を優遇した理由の一つは、カレン族がビルマ族等に比べ、キリスト教に改宗する者が多かったからです。 これにはカレン族の神話が関係していたと言われます。 カレン族の神話には次のような話があるそうです。 「神は異なる民族を作られたが、それは皆、兄弟だった。ある時、神は各民族に書を授けられた。しかし、あろうことか、カレン族はその書を亡くしてしまった。カレン族が貧しい暮らしを強いられるのは、そのせいである。しかし、いつの日か、海をこえて白い兄弟が、カレン族に書をもたらしてくれるであろう」 キリスト教の宣教師は、この白い兄弟だと思われたようです。その為、カレン族は、他部族に比べキリスト教に改宗する者が多かったようです。(現在、一説によるとカレン族の2割がキリスト教徒だそうです) この事は仏教徒のビルマ族の反感を買う理由の一つとなりました。英国の手先となり、また改宗したカレン族の人間は憎むべき異民族であり、また異教徒となったのです。 太平洋戦争が始まり、日本軍がビルマに進出してくると、当然、カレン族は英国軍の一員として日本軍と戦います。 一方の日本軍はビルマ族を支援しました。日本軍が勝利しビルマを制圧すると、ビルマ族の親日政権が作られ、1942年8月には日本により独立が認められました。 ただ、インドに敗退していった英国軍と異なり、カレン族の部隊はビルマに踏み止まり、日本軍やビルマ族の部隊と戦いました。そうした戦いの過程において、カレン族等の少数民族は親英的であるとして、酷い弾圧を日本軍とビルマ族から受けました。 1944年末頃から英国軍の反撃が始まり、ビルマを奪回する為の作戦が始まります。 その頃、ビルマ族の親日政権は、日本の都合のよいように利用されるだけの傀儡政権としての役割しか与えらませんでした。これに不信と怒りを募らせた、ビルマ政府の国防相のアウン・サンは指揮下のビルマ軍を率いて、蜂起し日本軍に戦いを挑みます。1945年3月の事でした。 ただ、この頃にはもはや日本軍のビルマでの敗勢と英国の優勢は明らかだったので、勝ち馬に乗り換えたのだと言う人もいます。 そして8月に日本は無条件降伏した訳ですが、その頃には日本軍はビルマから殆ど叩き出されていました。 戦争終了後、ビルマは再び英国の統治下に戻りました。しかし、アウン・サンらを中心にビルマ独立運動が強力に進められます。 この頃、カレン族もカレン族による国家の建設と独立を目指していました。 カレン族の指導者ソウ・バウジーは1946年に英国に行き、独立を求める交渉をしています。 しかし、植民地からの紛争無き撤退と、将来の権益確保の為に、最大勢力のビルマ族重視を考えていた英国政府は、カレン族を支援する事はありませんでした。 1948年1月に紆余曲折を経てビルマは独立を達成しますが、結局、カレン族は独立国家を作る事はできませんでした。 ビルマでは独立直後から共産党等の反政府組織の反乱が相次ぎます。 ここで、カレン族が独立を求めて反乱を計画しているという噂や報道が流れ、ビルマ族民兵によるカレン族居住地への襲撃事件が頻発します。 2月にカレン族は各地でカレン族の独立を求めて、平和的デモを行います。参加者は40万人に上りました。 これに対し政府は指導者達を逮捕する等、カレン族を弾圧します。 12月24日、クリスマスイブに決定的な事件が起こります。 バロー郡にあるカレン族の教会に手榴弾が投げ込まれ、80人のカレン族の人達が殺されました。それだけでなく周辺のカレン族の村も襲われ200人以上のカレン族の人達が虐殺されたのです。 翌年の1月、それまで平和的運動で独立を求めていたカレン族は銃を手に立ち上がりました。独立を宣言し政府に対し戦争を始めたのです。 しかし、ビルマ族の力は大きく、結局、現在に至ってもカレン族は独立を達成できていません。 カレン族とビルマ族の間には、支配したり支配されたりと、憎しみあってきた長い歴史があるのです。 詳細に書くと膨大な量になるので、できるだけ要約して書きました。詳しい事は、やはり文献やネット調べる事をお薦めします。 「もっと知りたいミャンマー」弘文堂 「暮らしがわかるアジア読本 ビルマ」河出書房新社 この2冊などは入りやすくて、分かりやすいと思いますが・・・
補足
詳細に書いていただいて有難うございます・ とても面白かったです。補足なのですが、現在ビルマはこのカレン族とビルマ族の対立は続いているのでしょうか?テレビや新聞であまりビルマのことはやっていないので、わかりづらいですね・
- hirosi3
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1886年にはビルマ王国の併合を布告、以後ビルマはイギリスの統治下におかれる。 1940年ビルマを脱出したアウンサンら「30人志士」は、連合軍の「ビルマルート」攻略のため、日本軍による軍事訓練を受け、42年3月にはビルマ独立義勇軍として日本軍と共にラングーンを占領した。しかし、日本軍不利となると、45年アウンサン将軍率いるビルマ軍が、日本に対して武装蜂起を開始。48年1月4日ビルマは連邦共和国として独立した。 イギリスの植民地統治はフランスと違って間接統治であった。ビルマではキリスト教徒が多いカレン族を使った間接統治であった。このため、ビルマの他の民族はカレン族を憎んだ。 第2次大戦後、イギリス首相クレメント・リチャード・アトリーはカレン族に対し、ビルマを独立させても、カレン族の独立を認めるとの約束をした。このため、カレン民族同盟の指導者ボー・ミヤ将軍はカレン族の国家を夢見たが、イギリスは約束を果たさなかった。 こうして独立したビルマで、カレン族はビルマという国家を形成する多くの民族から爪弾きにされた。独立後のビルマでカレン族は独立運動を続けた。 1958年、与党の分裂。10月28日、国軍による初めての軍事クーデター。軍による政治介入が始まる。1960年まで国軍(ネウィン将軍)が政治を支配。 1974年、新憲法により、革命評議会からネウィン将軍のビルマ社会主義計画党(BSPP)に権力が渡る。国名がビルマ連邦社会主義共和国に変更され、ネウィン氏が大統領と国家評議会議長を兼任。 1989年5月27日、SLORCは、英語の公式国名を「ビルマ連邦(Union of Burma)」から「ミャンマー連邦(Union of Myanmar)」に、首都名をラングーンからヤンゴンに変更。 ビルマの略歴を書いてみたのですが、重要な出来事をイッパイ省略しています。上に書いた言葉をキーワードに検索して下さい。参考になるサイトがイッパイ見つかるはずです。ムダなく、要領よくまとめるには時間がかかります。私の能力ではこの程度で勘弁していただくとして、あとはご自身で検索に時間をかけて理解してください。
お礼
ありがとうございました。とても勉強になりました。 多くの本があると思うので、カレン族やビルマと日本の関係などを勉強しようと思います・