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不無非未の使い分けについて
- 不無非未などの使い分けについて悩んでいます。中学の頃から不常識と非常識の違いについても理解できていませんでした。最近はヒンドゥの思想に触れて不行為と無行為の違いについても考えています。漢字を使ってこれらを表現する方法もわかりません。
- 不無非未などの使い分けや、非常識と不常識、不行為と無行為の違いについてよく質問されるようです。私もその中で悩んでいます。中学の時から非常識と不常識の違いがわからなかったし、最近はヒンドゥの思想の勉強で不行為と無行為の違いにも興味を持っています。でも、漢字を使って表現するとどうなるのかがわかりません。
- 不無非未などの使い分けや、非常識と不常識、不行為と無行為の問題について考えています。他の人たちも同じ質問をしているようですが、私はまだ納得のいく回答に出会っていません。中学の頃から非常識と不常識の違いについても理解できなかったし、最近はヒンドゥの思想で不行為と無行為の違いを考えています。漢字を使って表現するとどうなるのかが気になっています。
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No..1です。 いわゆる本来の漢文読み下しにおける不定詞の句形としての質問(1)不無非未など の使い分け ではなく、ここでは日本語化した、とりわけ<熟語>に対する「語彙的な手段による否定」を作る接辞として、小学館「国語大辞典」の当該箇所を引用した上で、接頭辞としての変化を考えてみたいと思います。 ふ【不】(接頭)体言につけて、それを打ち消し、否定する意を表わす語。 (1)「…でない」の意を添える。 「不確か」「不適当」「不健康」「不自由」など。 (2)「…がない」「よくない」「十分にしない」の意を添える。 「不人情」「不出来」「不手際」「不勉強」など。 ひ【非】(接頭)名詞または形容動詞に付いて、それに該当しない、それ以外である意を添える。 「非参議」「非社会性」「非社交的」「非現実的」など。 む【無】(接頭)漢語の名詞の上に付けて、そのものが存在しないこと、その状態がないことを表わす。 「無免許」「無資格」「無公害」「無修正」「無抵抗」「無理解」など。 >(2)非常識と不常識 非常識:常識の「枠組みには入らない」意味で、常識「外れ」。 この常識とは元来、コモンセンスの訳語として、例えば福沢諭吉などは「常情」と訳しており、つまりは単なる常識として訳されるようなものではなく、根本的に人間としてのユマニスムスに関わるタームであると思い見るならば、単に「否定する」、あるいは「そむく」意味での不常識という言い方には違和を覚えます。 もちろん、「非合理(道理に外れる)/不合理(道理に反する)」「非人情(人情に外れる)/不人情(人情に背く)」の例のように、どちらにも使われる場合もありましょう。 >(3)不行為と無行為 行為が意味する、その目的性や価値性に関わる場合は、「非行行為」「無効行為」「不当行為」「不正行為」「怠慢行為」「実行行為」などの言い方ができるかもしれませんが、そうではなくて、ただ漠然と行為に否定の接頭辞をつけるとなると、それはもともとの漢文の句形に戻ることになりそうな気がします。「非─」なら行為にあらず、「無─」なら行為にならず、「勿─」では行為をするな、とでも…。
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- gekkamuka
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No.2&3です。 文化庁編「言葉に関する問答集 総集編」の「漢語、漢字に関する問題」の注欄には、「夏目漱石の「草枕」に出てくる「非人情」は人情を超越してそれに煩わされないことといったような意味で、「不人情」と区別して用いられた特別な例である」と記されています。 「行為」については、やはり「常識」同様、明治期の外来語置き換え漢字熟語なのではないでしょうか。 ちなみに角川書店「外来語の語源」によれば、アクションの訳語として現われています。 アクション【英action】行為(おこない)、動作(はたらき)、行状(みもち)(明治6年「附音挿図 英和字彙」)、行為(明治16年「増補訂正 英和字彙」)、活動(昭和6年「和訳字彙(ウェブスター原書)」) ご指摘のように、その行為という新語の名詞に「…する」をつけて動詞化されてもいるでしょう。 和語としての、もともと「おこなひ」という意味では、「一定の方式や型にのっとってなされる動作、行為」であり、それは「仏の前での勤行」でありまた「神事を勤めること」だった。(小学館「古語大辞典」) 余談ですが、この行為を意味するドイツ語に関連して、「タート(Tat/行為)」という主体的な行為と、「ザッヘ(Sache/物体)」という客体的な事物とが融和すると、それは「タートザッヘTatsache」という「事実」となってくるのだといったようなことを三木清が触ていたことや、ヴィトゲンシュタインの論考では、タートザッヘは世界の総体であるといった命題があった思いがよみがえります。 こういったことはもはやこの国語でなく別の、例えば哲学のカテの方が望ましいのではないでしょうか。
お礼
何度も、ご懇切にして、大いなる次元から、 微に入り細に亘り、深浅なるご教示に、 尽きせぬ感謝を申しあげます。
補足
「草枕」の「非人情」に関する、ご解説とご紹介の出典については、血涙などという言葉で表現した、小人の理解に齟齬がないと存じました。 「行為」が明治期の【英action】行為たる≪おこない≫、動作たる≪はたらき≫、行状たる≪みもち≫、そして活動という語の翻訳(置き換え)の漢字熟語というお話は、気持ちに受け止めての対応が可能とならせてくれます。 したがって、actionの動詞形のactは和語では“する”をつけて“行為する”となるわけですね。これがこの大事な言葉の正体であったわけですね。支那語も、その他の言語もこの列島の生活と文化の中に、思想の中に根を下ろすについては、列島の文化と生活、そして思想にずいぶんと影響と困惑を(混乱かもしれない)もたらせてきているのでしょうね。これが文化の性格なのですね。人同士も、影響される場合などは多分に経験することですね。 和語では、勤行ー作務、おつとめ(これも行為、又訳してサーヴィスなどをあてている)とか神事祭儀ー祭祀ということばが行為の言葉としてあったのですね。 これらは動詞の機能持ちえると存じますが。それにしても、価値性の伴わない、一般的なactionに相当するようなものは、生活とか、食べるとか、息するとかの個個のことばになっていたのでしょうね。そういえば人生という私達の言葉はどうもlifeだけでのようですね。 三木さんの、主体的行為、客体事物、そして(眼前の)事実という組み立て説明で、グスタフ・フォン・ラートブルッフの、一般抽象的法の当為と、事実に適用しての具体的妥当性の要素としての『事物の本性』という理論を想起(もう45年前の読書)し、言語や思考形式として既にあるものだったのかと、感慨が深いものです。 どうも日本の伝統には、こういう抽象化が薄弱な気がします。 ヴィトゲンシュタインの世界の総体論考でも、主観と的要素の客体的要素との関わりというプロセスが意識されているようで、ヒンドゥの宇宙創造神話のプロセス中の一段階にも、一なる主観の構成的関わりがあるので、興味を喚ぶものです。 ありがとう御座いました。 文化庁編「言葉に関する・・」はシリーズでいろんなものがでているのは知っておりましたが、このようにお話していただけると、重要性と意味が受け取れるものでした。 ありがとう御座いました。 専門は国語でも、宗教でも、哲学でもなく、労働問題ですので、どこのカテでも、自分が理解できればいいのです。国語は一生懸命考えれば、少しは理解できるものですので、お世話をおかけしました。
- gekkamuka
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高校の参考図書「新訂国語総覧」の「漢文の重要句形」の内、「否定形の基本形の否定詞だけ」と、角川「漢和中辞典」を参考に考えてみました。 不食(くらわず) 食わない…用言の上におき、動詞・形容詞・形容動詞・準用言の状態・性質・意思などを軽めに否定。 弗食((あえて)くらわず) 食おうとしない…用言の上におき、動詞・形容詞・形容動詞・準用言の状態・性質・意思などを重めに否定。 未食(いまだくらわず) まだ食わない…副詞と助動詞を兼ね、再読で未定を表わす。 非食(しょくにあらず) 匪食(しょくにあらず) 食べ物ではない…体言(準体言)の上におき、存在のありかた・理由などを否定。 無食(しょくなし) 莫食(しょくなし) 食べ物がない…体言(準体言)の上におき、存在そのものを否定。 勿食(しょくする(こと)なかれ) 食べてはいけない…無食の命令形で、強い禁止の意を表わす。 毋食(しょくするなかれ/しょくすることなし) たべないように…無食の命令形で、弱い禁止を表わす。なしと読めば無に同じ。
お礼
ありがとう御座います。勉強になります。
補足
ありがとう御座います。勉強になります。こうやってやはり広範な知識とことばとその使用についてのセンスなのでしょうね。ことばが、一つの原理や論理体系の中で生まれ、成長してきているものではないから、博学と勉強が大事という事になりますね、どうしても。
お礼
段落もなく、行変えもない、文章作成に懇切にご教導くださりこころより感謝申しあげます。 こういうお教えを願っておりましたもので、よく熟読玩味し、咀嚼したいと存じます。 まことにありがとう御座いました。
補足
○体言と名詞については、区別がつきにくいところが私にあり、再度この点を勉強、確認しながら勉強させていただきます。 ○≪意を表す≫と≪意を添える≫のご表現のお気持ちを汲み取れるようにします。 ○ふ【不】(接頭) このご説明はとてもありがたい。不人情と非人情のことを書くつもりを間違いましたが、漱石の文章の理解もできてきます。 ヒンドゥの聖典を勉強中の質問でして、≪不行為≫なのですが、これは、≪行為ではない≫とか≪行為がないとか、十分ではない≫というより、≪行為せず≫という動詞に付加した否定とも考えられますが、聖典は≪行為≫を体言の意味で使用しての≪無行為≫との概念違いを取り上げているのです。だから≪行為であることなし≫という意味になるかなと、ご説明から判断してみたいと存じます。 ○ひ【非】(接頭)のご説明で、漱石作品の≪非人情≫は人情という血涙の関わること以外のもの、という理解に辿っていくと、脈絡が通るような気が致します。 ○む【無】(接頭)このご説明で、55年前、新制中学の半ば、「人生における完全なる行為の難しさ・行為しない人生という最大の過ち」などをあげつらっていた時のことが懐かしく思い出され、今読んでいる聖典の≪無行為、不行為≫の区別がつくような気がしてまいります。この場合の≪不行為≫は、自分という現象が行為していると思っているなかれ(行為には呼吸も、生命的なる働きも当然に入っていますが)、自分という現象は決して行為をしてやしない。という聖典のお話なのです。 ○あくまでも、自分の読書の中での事柄で、まことにお手数をかけありがとう御座いました。今日これで、感謝を籠めて締め切らせていただこうと存じましたが、数日更にお待ちして、コメントなり戴けたらと柔弱に甘えております。つまり理解したという、上のリポートに誤解がないか、不十分かのコメントなど。